別れ
「命を助けていただいた御恩は忘れません。今までありがとうございました。」
そういって畳に手をつき深々と頭を下げると主は、小さく舌打ちした。
苛立っているのが肌で伝わってくる。ぴりっとした空気が流れ主は今にも当たり散らしそうなくらいだった。
でも、そんな主と同じくらい私だって怒っているのだ。忍だから顔に出していないだけで怒りで気が狂いそうなくらいだ。
主の冷淡さを初めてあの時つきつけられた。城の従者などのうわさ話で知っていたけれどそれでも裏切られたような気さえしてしまったのだ。
「それと、リナ様がよろしく伝えてほしいと。いわれていました。」
これからリナ様の下へと向かう。リナ様は主とは顔をあわせずらいのか私についでに挨拶をしてくれとお頼みになった。命じるわけではなく、私をまるで対等な人のように。そんなほんのちょっとのことにも私は感動してしまうくらいリナ様は今まで出会った人の中ですばらしい人だと思った。
そういうわけで、主に挨拶にきたのだ。結局、これからは主ではなくなるのだけど。
「・・・いくのか。」
主は何かを抑えるように言った。私にはそれが、苛立ちや寂しさに思えた。
「はい。」
ほんの少しだけ罪悪感にも似た胸の苦しみが私を襲う。
まるでいかないでくれといっているような、そんな顔だ。ほんの少しの表情の変化だが、そういっている気がした。
そんな考えを私は慌てて打ち消した。
そうじゃないのだ。それは私がそう思いたいだけである。
私はこれまでの主を見ようとしているだけだ。主が他人には興味も慈悲もない人だと思いたくないだけなのだ。
昨日のリナ様の涙と、主の底冷えするほど冷淡な声を思い出す。罪悪感によって鎮められていた怒りが再び込み上がってきた。
狭い世界で生きてきた私は、人を殺めることはあっても人と触れ合うことはなかった。そんな私に人という生き物が、自分も含めどんなものであるかなどわかるはずもない。
人というのは、誰しも表と裏がある。このことを今の私が知っていたならきっと、主の冷淡な言動に腹をたてることも裏切られたと思うこともなかっただろう。
「昨日の無礼、誠に失礼いたしました。どうかお許しください。」
押し殺した感情が、怒りでかすかに震えているのを感じながら頭をたたみにつくまで下げる。
そういえば別れの言葉を口にするのは初めてだったということに、その時気がついた。
「・・・どうか、お元気であらせられますように。・・・それでは。」
初めての別れの言葉は、口に出すことが簡単で案外あっけないものだった。そんな簡単な言葉だったけれどほんの少しだけ寂しさを覚える。
それを胸に私は主、もとい神田様の元を去った。
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