そうだ、嫌いなはずだった。お前が好きにさせたんだ


物心ついた頃から、口ずさんでいた歌がある。
それが、誰の何て曲かも知らないのに、気が付けば口ずさむようになっていた。
随分と大人になった今でも変わらずに……。


「〜〜〜♪〜〜♪」

静かな部屋で、私の歌う声だけが響いていた。
社会人になってもう数年、1人暮らしにもとっくに慣れたけど、テレビも消してシィ……ンとした部屋で沈黙が続くと、何だかウズウズしてあの歌を口ずさんでしまうのは、もう日課の様なものかもしれない。
歳を重ねるにつれて増えてくるスキンケア用品とそれに費やす時間。その時間だけ口ずさむ時間も増えた。
ドレッサーの前で肌の手入れをしながら歌っていたその時、ピンポーン……と私から発せられる声以外の音が部屋に響いて、鏡に映った私の体がビクっと軽く跳ねた。
チラリと時計を見遣れば、もう夜の11時半だ。
こんな時間の訪問者なんて不審極まりない。
ソロソロ……と、足音を立てない様してモニターホンの前まで来て、カメラに映る人を確認した私は、ヒィッと小さく悲鳴を上げた。
カメラの中に映り込んでいたのは見知らぬ人で、とんでもなく眉間に皺を刻み込んで鋭い目付きでカメラを睨んでいるらしい。
こんな明らかな悪人面を見せられて応答できるわけがない。
居留守を決め込もうとしたら、またピンポーンと呼び鈴が鳴った。
モニターホンの前にいた所為で、その音がキィィンと鼓膜を刺激する。
カメラの中には、やはり人相の悪い男性が映っている。

どうしよう。このまま居留守を決め込んでもいいけれど、しつこく呼び鈴を鳴らされるのも困る。
いっそ警察を呼ぶべきだろうか……。
携帯電話を片手もって、ジッとカメラの中の人を見つめてみた。

眉間に携えた皺、如何にも文句有り気な三白眼の目、への字に歪んでいる口元からどんな辛辣な言葉が飛び出すのだろうかと想像するだけで怖い。
深夜帯でおまけに1人暮らしというオプションも追加されて、私の中の恐怖心は一気に倍増する。
けれど、何でだろうか。
それだけ怖いと思っておきながら、カメラの中の人を心底悪人とは思えない私がいた。
というか、本当に何か悪い事をしようとしてる人なら、最初っからこんな不審者丸出しでは無いだろうし、もしかしたら本当に何か用事があるのかもしれない。
といっても、日付が変わる少し前という時間帯に訪問してくるのは少々問題があるだろうが……。
鍵もチェーンもかけてるし、もし本当に危ない人ならすぐに警察を呼べばいい……3度目の呼び鈴が鳴った時、覚悟を決めた様に私はモニターホンの応答ボタンを押した。

「は……はい」

スピーカーから聞こえてくるザァザァという風の音が、いやに緊迫した気分を与えてくる。
カメラの中の怖い人は、やっぱり怖い顔のまま、歪めていた口元を開いた。

『……隣の部屋の住人だが』
「へっ!?」

正に急展開だ。
早まって警察を呼ばなくて良かった、と、自分の判断力を褒めたくなった。
私の部屋は角部屋なので、隣の部屋は1つしかない。引っ越してきた時からずっと空き部屋だったけど、そういえば先月に誰かが引っ越してきてた。
不在だったけど、引越しの挨拶品が郵便受けに入ってて、最近じゃそういうのはしない人が増えてるけど律儀な人もいるんだなぁと、小さく感銘を受けたものだ。
今まで一度もバッタリ出くわした事もなければ、隣の人はいつ部屋にいるのかも分からないぐらいに物音1つ立てないので私の中では、物凄く紳士な人か清楚な女性が住んでるのかと思っていた。
意外もさることながら、何故この時間に訪問してきただろうか……そんな疑問が頭を掠めた時、その男性がさっきよりも鋭い目でカメラを睨んできて、スピーカーからは低い声が響いてきた。

『毎晩の様に歌うのを止めてくれるか。あの歌の所為で寝付きが悪い。用はそれだけだ』
「……はっ…」

私が呆気に取られてる間に、隣人はさっさとカメラの前から姿を消して、少しして隣の部屋の玄関のドアがバタンと閉まる音が微かに聞こえた。その音でようやく我に返った私は、ヘナヘナとその場に座り込んだ。

「き……聞こえてたんだ……」

隣人の生活音が全くといっていい程しないので、この部屋の壁はかなり防音に優れてると思っていたのだけど、軽く口ずさんでた歌が聞こえてるなんてどんな罰ゲームだろうか。
カメラに映っていた隣人の顏が脳裏に浮かぶ。
恐そうな人なんて思ったけれど、迷惑をかけていたのは私の方なのだ。
そう思うと激しい羞恥心に襲われて、真っ赤な頬のまま私はしばらくそこから動けなかった。


翌日の夜8時。
私は、菓子折を手に隣の部屋の前に立っていた。
昨日あれから色々反省と羞恥とでなかなか寝付けなかったけれど、とりあえずちゃんと謝罪をするべきだという結論に至った上でのこの状況だ。
手ぶらで謝罪も何だし、菓子折を買ったのだけれど、この呼び鈴を鳴らすという行為がいやに緊張する。
何時に帰ってるのか分からないけれど、謝罪をするのに余りに遅い時間は失礼だろうと考えた末に結論だした時間帯だ。
スー……と深呼吸をして、ゴクン、と生唾を飲み込んで、震える指で呼び鈴を押した。

ピンポーン……と、間の抜けた音がして、いよいよ私の心臓はピークに高鳴りだした。

10秒……20秒……30秒…………1分……。

インターホンが応答する気配は無い。

まだ帰ってないのだろうか。手に持った菓子折の袋が寂しそうにカサリと音を立てた。

何時までも突っ立っていてもしょうがない。もう一度だけ呼び鈴を鳴らして応答がなかったらまた明日にでも出直そう。
そう思って再び呼び鈴のボタンに指を近付けた時、タン……と静かな物音が後ろから聞こえた。それは、聞き逃してしまうくらいの本当に微かなものだったのだけど、

「……誰だ?」

と追って聞こえてきた声が、ドン、と私の胸を叩いた。
ガバッと凄い勢いで振り返った私の数歩先、スーツ姿の隣人が不審気に眉を寄せて私を見ていた。
カメラ越しとは少し雰囲気が違うけれど、眉間の皺も鋭い目付きもやはりその人そのものだ。

「あ、あ、あの……」

慌てふためく私に、隣人は尚も不審そうにして音も立てずス……と私の目の前まで移動してきた。

「誰だ、と聞いている。俺に何か用か?」

どこかサディスティックを感じる低い声が、脳をガンガンと刺激してくるし、至近距離で見る顏は恐ろしさを倍増させてくれるしで、もうほんと、今すぐ逃げ出したい気分だったが、そんな事が出来るはずもなく、私は、バッと両手で菓子折を差し出して、体を二つ折りにする勢いで頭を下げた。
いや、というか、こうした方が顏も見なくて済むし、飛んでしまいそうだった言葉も何とか口を割って出て来てくれた。

「わ、私、あの、隣の部屋のものです!さ、昨晩のお詫びを申し上げたいと思って……その、あの、本当に大変なご迷惑を……おかけして……申し訳ありませんでした……」

言った。言ったはいいが、頭を下げた状態から顏を上げれない。
だって今、隣人がどんな顔をしてるのか分からないし、見るのが怖い。
シィ……ンと数秒の間が、一向に受け取ってもらえない菓子折が、私の不安を煽る。
おそらく時間にしたら1分も経ってなかったのだろう。
ようやく頭上から声が降ってきた。

「おい、頭を上げろ」

嫌だ。上げたくない。だが、それを拒否する権利なんて私には無い。
目を伏せて渋々と顏を上げて、もう一度「すみませんでした」と謝罪をしながら、菓子折を手渡そうとしたけれど、その前に隣人がまた口を開いた。

「別に夜遅くに歌うのを止めてくれりゃ良いだけだ。変な気遣いは必要ない」
「で、ですが……」
「悪いが俺は菓子は食わねぇ。そんなもん貰っても腐らすだけだ。アンタが自分で食え」

その口調が、何となく柔らかく聞こえて、釣られる様に伏せていた目を上げれば、相変わらず恐い……けれど少しだけ穏やかな表情の隣人の顏があって、不覚にもドキッとしてしまった。

「昨日は、寝不足で少し苛々していた。遅い時間に悪かった」
「い、いいえ!!あの、私こそあんな時間に歌ったりして……」
「分かってくれたならいい。じゃぁ……」

もうこの話は終わり、といった感じで隣人は私の隣をスルリと抜けて、鍵を開けて吸い込まれる様に部屋の中へと消えて行った。
バタン、と扉の閉まる音を聞きながら私は、(ああ、お菓子じゃなくて、貰っても絶対に困らない様な、地域指定のゴミ袋とかの方が良かったのかな……)なんて、妙に冷静な事を思ってしまったのは、あの怖い隣人の、意外に優しそうな瞳の奥を見てしまったからかもしれない。


それから3日後、夜も10時を過ぎた頃、風呂上りの頭を乾かしていたところに、ドライヤーの音に混じる不協和音の様に、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
前回のトラウマか、ギクッと背筋が凍り付く。
乾き切っていないままの頭で、イソイソとモニターを確認すれば、眉間に皺を携えた隣人の顏が映っていた。
あれからずっと、歌も歌ってないし、なるべく物音を立てない様に注意もしている。
それなのにまた訪問をしてきたのは、どういう事だろうか。
もしかして、このドライヤーの音でさえ煩いのだろうか。それだともうあの隣人が神経質すぎるという話になってくる。
前回みたいにインターホン越しに対応しようかとも思ったが、隣人だという事も分かっているし、謝罪の時に直接に見た隣人の顏はモニター越しよしも少し優しかった。
顏が見えない事が、余計に彼の不審心を煽ったのかもしれない。
そう思って、直接玄関に移動して、チェーンを外しガチャッと扉を開けた。
まだ乾き切ってない髪に、外気が触れて少し冷たい。
隣人は、直接応答されるとは思わなかったのか、吃驚した様子で2.3歩後ずさった。
やはり眉間に皺を寄せているけれど、怒っているというよりは何処か困っている様な顔をしていて、私の中の恐怖心も多少和らいだ。

「あ、あの……こんばんは」
「……ああ」
「すみません、私また何か、煩かったですか?」
「いや……」

言って、隣人はフイ、と顏を逸らした。その顏はやはり困っている様に見える。

「あの……何か、ありました?」

チラと目だけで私を見て、すぐに逸らし、ひどく言い難そうに隣人は言う。

「……あの歌」
「は、い?」
「もう歌わねぇのか」
「は……い?あの、ご迷惑だったんじゃ……」

すると、隣人はキッと眉間の皺を深くさせて、忌々しげに口を歪めた。

「そうだ、嫌いなはずだった。お前が好きにさせたんだ」
「えっ!?」
「引っ越してきてから、殆ど毎日の様にあの歌を聴かされてたからだ。聴こえてこなくなると、もっと寝付きが悪くなった。だから……」
「えっと……?」
「やっぱり歌っていい。アンタの声は何処か落ち着く」

そんな事を急に言われて、「はい!じゃぁ歌います!」なんて応えれるはずもない。
けれど、それから毎晩、「歌え」の合図なのか壁を叩かれる様になり、やっぱり隣人さんは変に神経質だ、と思いながら私は再び歌を口ずさむ様になるのだった。
そんな私と隣人さんの部屋を仕切る壁は、いずれ無くなるのだけれど、それはまだ当分先のお話……。

******実はこんな設定******

「いつも部屋に居るみたいだが、仕事は何してるんだ?」
「あ、私、半年前からニート生活で……」
「あ?ニート……だと?」
「そ、それまではちゃんと働いてたんですよ!?ちょっと、ドロップアウトしたくなりまして……しばらく休職しようかなと」
「……なら、今は毎日暇なのか」
「そ、そうですね。ネットとゲームと漫画と…………」
「引き篭もりニートってやつか」
「あの、言葉にされると刺さるんで、止めて下さい」
「なら、頼みたい事がある」
「はい?ゴミ出しとかですか?」
「いや、俺の分の晩飯も作ってくれ。金は渡す」
「…………あの、毎日インスタントなんですが」
「どうせ暇なんだろうが。飯作る時間なんてたっぷりあるだろう。花嫁修業だと思ってやれ」

*******************そんな感じで仲良くなってく関係だと思います(笑)************

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[mokuji]
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