翌週、話があると言うマホの神妙な様子に、予感があったのか、リヴァイは使われていない応接室へとマホを促した。
その時のマホの感情は、正に考えることを放棄している状態に近かった。タローから転勤の話を聞いた時からずっと、余計な事は考えずにこれで良いのだと、繰り返していた。
けれど、リヴァイに話すその瞬間、キィーンと耳鳴りがするような、カラカラに喉が乾くような、ツーンと鼻の奥が詰まるような、ヒュンと足が竦むような、ギュゥと胸が締め付けられるような、ブルブルと全身が震えるような、そんな感覚が一気に襲ってきて、それはまるで、今から言おうとする事を身体中が全力で拒否しているかのようだった。

それでも、これが正しいのだと、マホは繰り返していた。


「……そうか」

マホの報告に、リヴァイは驚くことも不満気にすることもなく、短くそう答えただけだった。

「身勝手な話で本当にすみません。せっかく、企画を通してもらえたのに……」
「まぁ……会社側からしたら残念な話だが、お前の人生だからな。それがお前の望む幸せなら引き止める理由はねぇよ」


もしかしたら、引き止められるかもなんてのは杞憂で、返ってきた言葉は正にリヴァイらしいものだとマホは思った。それと同時に、(もし引き止めてもらえてたら……)と、都合の良い感情を抱いていた事に気付く。

本当は、どうしたいんだろう……

これまでずっと、引っ張ってくれる“誰か”に頼ってきたマホにとって、自己の意思と向き合うことは、これ以上なく難しいものだった。

「上には俺から報告しておく。……まぁ来年の3月までならまだあるからな。それまではお前の仕事を……」
「リヴァイ部長、あの……」

珍しくマホが話しを遮る形で口を挟んだことに、リヴァイは少し怪訝そうに眉を潜めたが、邪険にすることはなくそのまま彼女の言葉の続きを待った。
マホは、弱々しい瞳でリヴァイを見上げ、不安気に問う。

「もし、リヴァイ部長が私の婚約者の立場だったとしたら、同じことをしますか……?」

たった今退職の意志を伝えた上司に対して、なぜそんな質問をしてしまっているのかマホ自身もよく分からなかった。
そんな事を聞いても何もならないのに、それでも聞いてみたいと、思ってしまったのだ。
シィ……ンとした沈黙の間、ややあってからリヴァイは凪いだ空気にソッと音を乗せるように、静かに口を開いた。

「……そんな事聞いてどうする」

見透かしてくるような瞳と抑揚の無い口調に、背筋にツゥと冷や汗が走った。

「そうですね……すみません。仕事に戻ります」

引き攣った笑いを返し、ペコリと頭を下げて応接室を後にしようと進めた足が、止まる。
いや、正確には、後ろから左肩を掴まれて、止められたのだ。
掴むというよりは乗せた程度の弱い力なのに、床に足が吸い付いたかのように動けなくて、首だけを動かして振り返れば、マホの視線の先にいたリヴァイは明後日の方向を向いていて、肩に置いた手はそのままに躊躇いがちに言葉を放つ。

「お前はどうしたい」

たったそれだけの言葉を望んでいたのか、胸がドクンッと強く高鳴った。

「……っ」

何か言葉を発しようとしたが、それはリヴァイの言葉によって遮られる。

「と、俺なら聞くと思う。だがこれは、お前の仕事を見てるからだろうな。婚約者は働いているお前の姿は知らない。だから仕事を辞めて赴任先に付いて来いと言ったんだろう。お前にとってそれが最良だと判断したんだ」
「……そう、ですよね」

あまりタローに仕事の話はしていない。
自身の企画が通った話はしたものの、それがどれだけ嬉しいことか、意欲的に取り組みたいと思っているかはきっと伝わっていない。まず、出張の件でタローが不機嫌になってしまったのだ。
タローは良くも悪くも、男と女は違うという考えだ。
バリバリと働いて男勝りなキャリアウーマンよりも、男を立てる家庭的な女性の方が好みで、だからこそ、自己主張の苦手なマホを好きになってくれたのだ。
タローにとっては、自身の転勤にマホが付いてくるのは当然であって、マホが仕事を辞めることへの未練などあるはずがないと思っているのだろう。
そして痛感する。そう思わせてしまっているのは自分自身の言動のせいなのだと。

「ネーム。俺がとやかく言うことじゃないが、思うことがあるならちゃんと相手に伝えろ。出張の時もそうだが、俺相手にウジウジしても解決しねぇだろ」
「はい。すみません」
「お前はどうも見てて危なっかしいからな」
「そ、そうなんですか?」

それは昔マリーにも言われた事があった。だがまさか上司にまで言われるとは思いもせずにポカンとしていたマホに、フイとリヴァイは視線を向けた。
その時初めて、穏やかに笑う上司の顏をマホはしっかりと目にしたのだった。

「放っときゃ変なとこに行ってそうだからな。だから、ちゃんと幸せになれよ、お前、ネームよ」

スッと肩から離れた手を、名残惜しく感じていた。


「あら、ダメよそんなの。それじゃ結婚の意味がないでしょ」

あれから1カ月、自分自身の中の葛藤をタローに伝えようとするものの、ますます忙しいらしいタローとは全く会えず、ドレスの試着も結局はタローの母と2人で行く事になった。
またしてもマホが何も言わないままに、タローの母の見立てでドレスの候補が決められていくだけの試着だった。
その帰りに立ち寄ったカフェにて、タローの母の大きな声にキュッ、とマホはカップを持った手に力を入れた。
タローの転勤には付いていかず今の仕事を続けようか悩んでいるという事、それをポツリと言ってみれば、タローの母は大きく首を横に振ったのだ。

「確かに最近は夫婦共働きの家庭は多いわ。その分夫婦の形も色々あると思う。でもねマホさん、タローの収入だけでも贅沢しなければ充分生活出来るはずよ?それなのに仕事を続けてタローは単身赴任させるっていうの?子供がいるならともかく新婚でそれは、身勝手じゃないかしら?タローは貴女との将来も考えて決断したのに、貴女はそんなタローを支えて家庭に入ろうとは思えないの?」

迷いが、思いが、言いたかった言葉が、胸奥でプスプスと燻って、焦げ付いていく。

浮かんで、沈んで、消えて。

「結婚するんだからちゃんとタローを支えてあげてね」

これで良いんだと、また、流されてしまうのだ。

「はい」

危ない方へ向かっているかどうかなんて、結局は分からないのだから……。


タローの母親を駅まで見送って、1人になった途端にフゥと草臥れた溜息が洩れる。
休日の夕暮れ時、飲食店が連なる駅前通りは幸せそうなカップル達の笑顔がそこかしこに溢れている。
マホだって、結婚を控えた幸せな女子であるはずなのに、周りの笑顔がひどく眩しくてそこは今の自分に与えられている場所じゃないのだと、見せしめられている気がした。
それでもこのまま進んでしまうのだろうか、何も言えず何も出来ず、用意されたレールの上にただ乗っかるだけなのだろうか。
途端に足取りが重くなり、傍の街灯の柱にコンと頭を預ける。額に伝わるヒンヤリとした無機質な冷たさが逆に心地良かった。

「なんか……疲れたなぁ」

ボソッと呟いて瞳を閉じる。
このまま夢の世界にでも行ってしまいたい、と考えれば、お約束のように頭に浮かんでくるのは、出張の日に見た不埒な夢だった。

もし、あれが現実だったら……

「おい、何やってる」

雑踏を掻い潜って聞こえてきた声に、夢と現実がぐにゃぐにゃと混ざり合う。

「おい、ネーム。寝てるのかお前……?」

ガシッと肩に乗った手は、力強くて温かくて、マホの心を惑わせる。
浮かんで、沈んで、消えたはずの感情が、また……

「なんでリヴァイ部長がいるんですか?」
「そりゃぁこっちのセリフだ。お前の家はこの辺じゃねぇだろ」
「今日はドレスの試着に来てて、今、彼のおかあさんを駅に見送ってきたんです。本当は私も電車で帰るんですけど、ちょっと1人になりたかったんで……」

街灯の柱に預けていた頭を上げたマホが、こちらを振り向いたので、リヴァイはちょっと安心したように彼女の肩に置いた手を離した。

「なんだ。結局お前の婚約者は来れなかったのか」
「はい。仕事が入ったそうで、転勤の話をした以降会ってないんですよね。ずっと仕事が忙しいみたいで……」
「休日も取れずに朝から晩まで一ヶ月働きずくめか。そりゃ随分過酷な環境だな」

どことなくリヴァイの口調には棘があるように感じられた。それは、マホ自身が同じ気持ちだったからかもしれない。

「そうですよね。結婚式の打ち合わせにもずっと来れないような……」

自嘲気味にそう言ったマホの視線が、飲食店街の一箇所で止まる。時が止まったかのように固まる彼女に不思議そうにしてその視線を辿ってみれば、一軒の居酒屋の入り口の前、カジュアルな服装の男と、その男に腕を絡めて寄り添い笑い合う女の姿があった。

「た……タロー君」
「あ?」

マホが小さく溢した名は、何度か聞いた事のある彼女の婚約者の名で、それは今しがたリヴァイも見ていた男女に向けて呟かれていた。
マホとリヴァイがいる場所から男女までの距離は数メートルだが、周囲を歩く人波と雑踏で、マホの消え入りそうな声はすぐ側にいるリヴァイには届いたもののすぐに掻き消された。
当然、男女に届くはずは無かった。
彼等の方を見つめたままのマホに今は声を掛けるべきではないと判断して、リヴァイはポケットからスマートフォンを取り出すと忙しなく画面を操作していた。
しばらくして男女の姿が居酒屋の中へと消えて行くと、それを合図のようにマホか口を開く。

「あ、仕事の関係者と一緒だったのかな」

余計な勘繰りはしたくないと思っていたリヴァイだったが、流石にその発言には突っ込めずにはいられなかった。

「お前の婚約者の仕事は、ラフな格好で女と笑って腕を組んで繁華街を練り歩く事なのか」
「そ……うですよね。そっか、そうだったんだ。ずっと、仕事だって言って……」

マホは、泣くでも怒るでもなく、淡々とした口振りで、その現実を受け止めようとしているらしかった。
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