「恋人と喧嘩でもしてるのか」

出張の夜、宿泊するホテルに併設された料理屋で遅めの夕食を共に取っていた時にリヴァイが唐突に口にした言葉に、マホは先程からしきりに気にしていたスマートフォンの画面から視線を外した。食事中は画面操作をしていなかったとはいえ、着席してから、料理が来るまで、何度も画面を開いてしまっていた。

「すみません。失礼な態度を……」
「仕事中に弄り回してたわけでもねぇしそれは構わないが。気がかりがあるなら辛気臭ぇ面してないでさっさと解決しろ」
「気がかり……」

仕事に没頭してる時はそれに集中出来る。けれどオフタイムになるとどうにも色んな事が頭にチラつくのだ。
タローとのやり取りも、2日前にマホが送ったメッセージを最後に途切れている。
出張に出る前に何かメッセージを送ろうとは思った。けれど、何を送れば良いのかが分からず、結局連絡を取らないままに今日を迎えたのだ。、どんな言葉を送っても、タローはきっと自分の気が済むまでは許さないだろう。そして逆に、気が済めばそんな出来事など無かったかのように普通に連絡が来るはずだ。タローとはそういう男なのだ。
そんな事はずっと前から分かっていたし、特に不満を感じてもいなかった。
それなのに結婚がちらつくと、タローという存在が途端に不安定になってしまうのは何故なのだろうか。
そういえば……と、マホは向かいで丁寧に魚の身を解しているリヴァイを見つめた。

「リヴァイ部長は、どうして結婚されないんですか?」

素朴な疑問を口にしたまでだったが、リヴァイは心外だと言わんばかりに眉を寄せた。

「結婚をしないわけじゃない。そういう機会が無いだけだ」

その言葉に、マホは意外そうに目を見開いた。

「え、でもリヴァイ部長、モテますよね……?」
「モテた覚えもねぇが……。仮に女に不自由していなくても、結婚を考えられる相手じゃねぇとその先はねぇだろ」

リヴァイの言うことはもっともだ、とは思うものの、実際に理解するにはどうにも難しかった。
タローと出会い、交際し、プロポーズされる時まで、“結婚を考えられる相手”かどうかと、深く考えたことなど無かった。
結婚を意識しだす年齢になり、その時に付き合っている相手と結婚する、これが一般的な流だろうと思っていたし、事実マホはそうだった。

「その……リヴァイ部長の思う、“結婚を考えられる相手”って、どういう人なんですか?」

パタ……と箸を置いて、リヴァイはジッとマホの顏を見つめた。

「これは俺の持論だが……」

鋭い視線が、胸の中の不安をザクザクと抉ってくるようで、ゴクン、とマホは生唾を飲み込んだ。

「自分が“幸せに出来る”と思える相手だな」

抉られた不安が、ドロドロと溢れだしている気がしていた。


食事を終えて部屋に戻っても、鼓膜に貼り付いたリヴァイの言葉が何度も耳奥でエコーして、チクチクと胸に刺さるのだ。
自分にとって結婚とは何か。タローにとぅて結婚とは何か。
それを考えてみても、リヴァイのいう“幸せに出来ると思える相手”という言葉が浮かんで来なかった。
じゃぁ何故結婚をするのかと考えてみれば、そのタイミングだったからとしか答えが出てこないのだ。きっとそれはタローも同じだろう。

このままだと色々と考えてしまってキリがない、とマホはたった今戻ったばかりのホテルの部屋をソッと出た。
出来れば今は仕事に集中して、タローの事、結婚の事、と色々考えてしまう事は避けたいと、救いを求めるように訪れたのは、ホテルの地下に併設されたバーだった。
お酒には強くないし習慣的に呑む事はしない。
ただ、こういう気分の時は酒の力を借りて眠りたいと思うのだ。


「……あ、れ?リヴァイ部長?」
「何だお前、部屋に戻ったんじゃねぇのか」

バーに入るなり、カウンターに座って酒を嗜んでいる上司の姿を見つけ、ついさっき夕食を共にしたばかりというのと、バーで鉢合わせという状況が気恥ずかしく、まだ酒を呑んでいないのにマホの頬はバッと赤みを射していた。

「寝付ける気がしなくて……すみません、隣……いいですか?」

この状況で離れて座るというのも不自然と思いそう確認すれば、リヴァイは声は出さずに僅かに首だけを縦に振った。
「すみません」と言いながらリヴァイの隣へと腰を下ろすと、カシスソーダを注文した。

「マリッジブルーにでもなってるのか」

2人の間に流れる沈黙が煩わしかったのか、先に口を開いたのはリヴァイの方だった。
トン……と目の前に置かれたカシスソーダに早速と口を付けてから、マホは恐る恐るとその単語を口にする。

「……マリッジ、ブルー……」

何だかその言葉は、カクテルの名前のようにふわふわと可愛らしい響きで、マホ自身にはとても不釣り合いな気がしていた。

「婚約をしたという話を聞いて以降、どうもお前は元気が無い気がしたが……俺の勘違いならその方が良いが」
「どう、なんでしょう。私にもよく分からないんです。ただ、どうも色々と引っ掛ることがあって……」

リヴァイの方から聞いてきてくれたからか、バーという場所の所為か、夕食時よりも込み入った話をしても許される気がして、マホはチビチビとグラスの中身を減らしながら、引っ掛っている色々をリヴァイに話していた。


「……―それで、『俺より仕事優先なんだ』って、おかしくありません?結婚式の打ち合わせだって仕事があるからって来ないのに、私はたった1度でも仕事を優先にしたら文句言われるんですよ?それに、『結婚してからも仕事仕事で家事が疎かになるとかはやめてくれ』って、つまり家事は全部私っていうのは問答無用で決定してるって事ですよね?」

二杯目のカシスオレンジが半分に減った頃、マホは全身を真っ赤に染めて、普段では考えられないほど饒舌に不満の丈をぶちまけていた。
お酒の力も勿論だが、リヴァイがずっと隣で黙って聞いてくれているのも大きいのだろう。それにすっかり甘えてどんどんと不満が口を割って出てくるのだ。
リヴァイはそれまで無言だったが、ヒートアップするマホをたしなめようとしたのか、冷静な口調で彼女に問う。

「直接、相手には言ってないのか」
「言っても聞き入れてなんて貰えないです、きっと。これは私の性格で、相手に決めてもらう方が良いって思ってたから、彼はそんな私だからプロポーズしてくれたんです」
「ならお前はこれから先、結婚してからも言いたい事を我慢して暮らしていくのか」
「それは……」
「それでもその相手と一緒になる事が幸せだと思うならそれで良いが。後悔だけはするなよ」

タローは優しかった。
出逢った時も、交際を始めた時も、交際をしてからも、優しい人だとマホは思っていた。
自己主張が苦手なマホの事をよく理解してくれて、いつもリードしてくれる人だった。
だから、プロポーズも喜んで受け入れた。後悔なんてするはずがないと、そう思っていたはずだった。

「……はい」

頼りない声が、空になったグラスの底へと堕ちていった。



「結婚してからも、言いたい事を我慢して暮らしていくのか」

リヴァイの言葉にユラユラと視界が揺れる。

「お前は、俺が幸せに出来ると思える相手だ」

リヴァイの声が心地よく耳に流れ込む。

「後悔だけはするなよ」

リヴァイの手が自分に向かって伸びてくる。その手を必死で取ろうと伸ばすのに、足がドンドンと地面に埋もれて掴めなかった。



パチッと、目を開ければ視界には見慣れない天井が映っている。
時計を見れば、起床予定の時刻よりまだ30分早かった。
昨晩、2杯目のカクテルを呑み終えたところで、リヴァイから「明日に響く。部屋に戻って寝ろ」と言われて、ほんの少し呑み足りない感覚を抱きながらも部屋へと戻った。
呑み足りなかった所為か、リヴァイに色々聞いてもらった所為か、自分が見た夢の内容を思い出してボッと頬を赤らめる。

「何考えてんだろ、私……」

いくら夢とはいえ、婚約者がいる立場で他の男性―それも上司だ―との夢を見るなんて、不埒にもほどがある。
サイドボードに置かれていたペットボトルの水を一気に呑みほして、気持ちを落ち着かせるように何度も深呼吸を繰り返していた。



「お……はようございます」
「ああ」

あの後、もう一度寝るという気にはとてもならず、シャワーを浴びて少しだけスッキリとした気分になっていた。
だが、リヴァイと顏を合わせると、どうしても夢の情景が甦り、どうにもギクシャクとした態度を取ってしまうのだった。
当然そんな態度を取っていれば、勘の鋭いリヴァイが不審に思うようになるのは時間の問題で……


「お前、昨晩の事を気にしているのか」
「はっはい!?」

タクシーでの移動中に、そう問うてくるリヴァイに、ビクっとマホは全身を強張らせる。慌てた返事は声が上擦り、ますますリヴァイは不審気に眉を寄せた。

「バーでベラベラと話してた事だ」
「あ……それは本当に、すみませんでした」

今思い返せば、上司を相手に随分と不満を漏らしていた。それも仕事とは関係のない恋愛話だ。改めて考えれば、失礼であり情けない言動だったとは思うものの、今のマホにとってはその事よりも、自分が見てしまった不埒な夢の方がダメージとしては大きかった。
勿論リヴァイがその夢の事など知るはずもないのだが……。

「もし気にしてるなら余計なことだ。変な態度を取られると仕事もやり辛い。いつも通りにしろ」
「……ありがとうございます」

ぶっきらぼうで厳しいはずの上司の言葉が、木漏れ日のように暖かく優しく感じられた。
それを実感すれば、胸が締め付けられるように痛む。その痛みを誤魔化すようにスマートフォンを取り出すと、何度も開いては閉じていたメッセージ画面に、新規メッセージを入力した。

[今日、出張から帰ります。せっかくのデートの時間を作れなくてごめんなさい。今とても、タローくんに会いたいです]

これで良いのだと、後悔はしないのだと、そう、信じたくて送った言葉に、胸がザワザワと騒いでいた。


何となく予想はしていたが、あの後タローからの返信がすぐに来る事はなく、出張から戻った翌日になってようやく、マホのスマートフォンにタローからの着信が入った。
少し緊張して応答したものの、電話の向こうのタローの声はいつも通りの彼で、一悶着があった事が嘘のような態度だった。
タローの用件は、今夜に会えるかというもので、出張明けで休みを貰っていたマホに断る理由など無かった。
1カ月近く会っていなかった所為か、はたまた妙な夢を見てしまったからか、寧ろ早く会いたいと、ウズウズした気持ちで待ち合わせの場所へと向かうのだった。


「え……?」

一瞬、タローの言っている意味が分からなかった。
タローはというと、全く悪びれた様子もなく、箸で摘んだ唐揚げを口に運びながらもう一度、ハッキリとこう告げた。

「だから、来年度から海外転勤を打診されてるんだ。出世にも繋がる話だし、断る理由も無い。勿論マホとの結婚を先延ばしにするつもりもないよ。ちゃんと君も一緒に連れて行く。そうなるとマホには仕事を辞めてもらう事になるけど、俺の稼ぎだけでもちゃんと生活は出来るようにするから、安心してほしい」

“来年度から本格的に始動する。その時はお前にプロジェクトリーダーを任せたいと思っている。問題無いか”
“その相手と一緒になる事が幸せだと思うならそれで良いが。後悔だけはするなよ”

ペラペラと話しているタローの未来プランは耳からすり抜けて、リヴァイの言葉が耳の奥で響いていた。
こういう時、どうする事が正解なのかと考えてみても、上手く考えがまとまらない。
けれどもしも、これがプロポーズされた直後に言われていたなら、迷いもなく受け入れたのだろう。
そう、それが正しいのだと、必死で言い聞かせる。

きっとタローは、マホの事を
“幸せに出来ると思える相手”
と認識してくれているのだ。

だから、彼に付いていえば、間違いないのだと……
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