窓から差し込む光が段々と傾き出しているのを見て、マホは「んん……」と溜息とも呻きとも取れるくぐもった声を上げてスタッとベッドから降りた。
ハンジに渡す書類をリヴァイから受け取るまでは帰れないとは思っていたが、夜道を馬で走る事になるのはなるべく避けたい。

「まだ時間かかるのかな……」

静かな部屋でポツリとそう告げて、ソワソワと落ち着き無い様子でマホは、ヒッソリとした部屋を後にした。
廊下に出れば石造りの長い通路。気を失って運ばれた為に、自分が今この広い古城のどの位置にいるのかもよく分からない。部屋の窓からの景色を見た限り、二階部分に居る事だけは分かっていて、取り敢えず下に降りるべく階段を探して歩き出した。
分からないままの探索は苦労するかと思ったが、少し進めばすぐに階段口は見つかり、ホッと胸を撫で下ろしながらマホは、タンタンと軽やかな足取りで階段を小走りに駆け降りた。

「あ、マホさん!具合は大丈夫ですか!?」

最後の一段を降り終えた時、待っていたかの様にすぐ近くの扉が開き、口元を三角巾で覆った姿で大きな目をキョロキョロキョロと揺らしたエレンがヒョコリと顔を出した。

「あ……大丈夫、うん」

そもそもリヴァイからの書類を待っていたわけであって、額の具合はもう何とも無い。
それでもエレンの中では、依然として“自分の不注意で怪我をさせた”という負い目が拭えないのだろう。
取って付けた様なマホの返事を不思議そうにするでもなく、ただただ心配の色を浮かべている。

「ほんとに、大丈夫だから」

言って、マホからすれば精一杯の笑顔を見せればようやくエレンの目元は少しだけ和らいだ。
そういえば……とエレンが出てきた扉にチラリと目を遣ってからマホは聞く。

「エレンは何か用事があったんじゃないの?」

用も無く廊下に出てきたりはしないだろう。
案の定、エレンは「ああ!」と思い出した様に大きく頷いた。

「兵長に書庫の掃除が終わったと報告しに行くところだったんです」

どうやらエレンが出てきた扉の奥は書物庫らしい。

「私も兵長に用事があるんだけど、エレン、良かったら兵長の執務室まで一緒に連れて行ってくれる?」

そう尋ねれば、エレンは三角巾をツィと顎の下にずらし、白い歯を見せて嬉しそうに笑った。


「一緒にって言ってもすぐそこですけどね」と、歩き出して数歩もしないうちに、エレンはチョイと立てた人差し指を前方に向けて突き出した。
二人が進む細長い廊下の先、一つの扉が数センチの隙間を開けてユラユラと誘うように揺れている。
あの扉がそうなのか、とマホが確認するより早く、エレンが不思議そうに小首を傾げて呟いた。

「あれ、扉が開いてる。もしかしてペトラさんがお茶を持ってってるのかも」

言いながらスタスタと歩を進めるエレンに倣って、マホの足も彼と並び扉を目指して行く。
ユラユラと揺れている扉の隙間から僅かに見えた人影に、ドクン、とマホの胸が騒ぐ。
それは一瞬だけ視界に入った光景で、だけどクッキリと脳裏に焼き付き、それを拒絶する様に全身がビリビリと痺れた。
何か考えるより早く、反射的にマホはクルリと踵を返したった今歩いてきた細長い廊下を、走って戻っていた。
背中から飛んでくる「マホさん!?」という驚いた声にも、振り返る事は出来なかった。



リヴァイに肩を掴まれ、テーブルに上体を押し付けられた状況にペトラは一瞬躊躇した顔をしたものの、珍しく動揺した様子の上司の表情に、彼を安心させる様に微笑んだ。落ち着いた、静かな口調で彼女は言う。

「余計な事なんて、言いませんよ。でも兵長、本当にマホの事−……」

直後、扉の向こうからパタパタと走り去る足音と、「マホさん!?」という聞き覚えのある声にハッとしてペトラは顏を扉の方へと向けた。
僅かに開いている扉がユラユラと不吉に揺らめいている。
特に勘が鋭いというわけでもないが、一般的な女子の思考を働かせればすぐにペトラには今の状況が理解出来たのだろう。
もう力はさほど込められていないものの、依然肩を掴んできているままの上司をチラリと見遣れば、彼は何が起こったのか分からないといった表情で揺れる扉を見ていた。

「兵長、あの……」

小さく身動ぎしてテーブルに押し付けられていた形の上体を戻して、ペトラは僅かに眉を下げてリヴァイに声をかけた。
扉に向けていた視線をペトラの方へと戻し、やはりよく分からないといった顏でリヴァイはボソリと呟いた。

「今そこに、エレンと……マホが居たか?」
「みたい……です。私が兵長に意見するのはおこがましいかもしれませんが、すぐにマホの所に行った方が良いと思います」

ピク、と訝しげにリヴァイの眉が歪んだ。

「……どういう意味だ。そりゃぁ−……」

これがオルオとかなら、間違いなくペトラは隠す事もなく呆れた溜息を吐いていただろう。だが、相手は上司であって、尊敬している兵士長だ。
ペトラはハの字眉を携えたまま、言葉を選びながら慎重に口を開く。

「マホは……何か誤解している気がします」
「誤解?」
「先程、兵長が私に詰め寄っていた場面だけを見たとしたら……」
「おい、言ってる意味がよく分からねぇぞ」

遠回しな説明じゃ到底理解はしてくれなさそうな上司を前に、ペトラの口調は少しだけ強くなった。

「例えばですが、エレンがマホに詰め寄ってる現場を見たら、兵長は冷静でいられますか?」



逃げ回れるほどこの古城内の構造を知っているはずもなく、マホが走って逃げ込んだのは、少し前まで自分が休んでいた部屋だった。
バタンと閉めた扉に背を預け、ズルズルとその場にしゃがみこむと、間髪いれずといった感じで外からドンドンと扉が叩かれ、背中を揺らす。

「マホさん?どうしたんですか!?大丈夫ですか!?」

焦りを織り交ぜたエレンの声色が、胸奥を傷ませる。
一瞬、それも少しだけ開いていた扉の隙間から見えただけの先程の光景が、やけに色濃く脳裏にこびりついていた。
エレンの目にもそれは映っていたのかは分からないが、確認する程の勇気は無い。
例えばエレンの口から「あの2人は恋人同士です」なんて聞いてしまえば、幾ら純情そうな彼にだって分かってしまうぐらい悲愴な顔をしてしまう事だろう。

憧れ、尊敬……表面上はそんな言葉で取り繕える感情の根は深い。
初めて姿を見た時、確かにその思いはここまで根深くは無かった。
けれど、目で追うようになり、彼に近付ける様にともがけばもがくほど、自分でも驚くぐらいにどんどんと思いは深く強くなっていった。

「……かっこ悪いな」

蚊の鳴く様な声で零れた言葉は、マホの周りの空気を僅かに震わせただけだった。


もう一度、扉を叩こうとしてエレンは迷う様にその手を止めた。
リヴァイの部屋の前に来た瞬間に、顔色を変えて踵を返し戻って行ったマホを慌てて追いかけてきたのものの、何があったのかも分からない状況でしつこくマホに呼びかけ続けるのはどうなんだろうか……と、悩んでいるらしい。
マホが現在籠っている部屋は、鍵がかかる部屋ではないし、扉を開けようと思えばすぐにでも開けられるだろう。だが、それを無理矢理開ける勇気などエレンには無かった。
けれど心配じゃないはずもなく、こうしてしつこく何度も扉を叩いてはいるものの、段々とその瞳には諦めの色が滲んでいた。
次で最後、と決めたように小さく頷いて、再び扉を叩こうとした時、パシッとその手を後ろから掴まれて、エレンはビクッとその体格には似合わず肩を大きく震わせた。
掴んできた手に、圧倒的な力の差と、けれども何処かしら余裕の無さを感じ取って、ビクついたままに振り返れば、いつも以上に眉間の皺の深い上司の鋭い瞳と目が合い、ますますエレンはビクッと怖気づく。

「エレン。俺が与えた仕事をサボッて何してやがる」
「しょ、書庫の掃除は終わりました。それよりマホさんが……」
「エレン」

不機嫌の滲む声色で言葉を遮られ、エレンは不安気に眉を下げて口をキュ、と閉じる。
ス……とリヴァイは掴んでいたエレンの手を離し、向こうへ行け、とでも言った感じで彼の肩をグイと押しのけて扉の前へと立った。

「書庫が終わったなら、資料室の掃除だ。分かったら早く行け」
「は……い」

力の無い返事をしながら、エレンは名残惜しそうに先程自分が叩いていた扉をチラリと見遣った。
そのエレンの視線に気付きながらも、リヴァイは敢えて素知らぬ振りでその扉をドンドン、と叩いた。



ドンドン、と先程とは打って変わった様な乱暴なノック音に、マホは慌てて扉の前から逃げる様に離れた。
何やらさっきから扉の向こうが騒がしい気がしていたが、おそらくエレン以外の誰かが今は扉を叩いているのだろう事が安易に想像が出来る。
そして、そんなマホの予想を裏切らないとでも言う様に、扉の向こうから低い声が届いてきた。

「おい……」

予感はあった。それでもその声に、気配に、マホの心臓は情けない程にビクつき、上擦った声が口から漏れた。

「っ……へい、ちょ」

広いとはいえない客室の中、それでも何処か身を隠せる場所は無いかとキョロキョロとしているマホを尻目に、全く躊躇する様子も無くガチャッと軽い音を立てて扉が開いた。
シン……とした静寂が立ち込める室内、来訪者のカツカツという足音だけがマホの鼓膜を響かせる。
鋭い瞳で真っ直ぐに睨め付けられて、その瞳を逸らす事もその場から動く事も出来ず、僅かに唇を震わせながらマホは立ち尽くしていた。
距離を詰めるリヴァイが、ついに手を伸ばせば届く位置まで来た時、震えていたマホの唇が大きく動いた。

「あ、あの、私、人に言ったりしませんから!!」

叩き付ける様な口調と、主語の無い言葉にリヴァイは不審気に眉を潜めた。
マホ自身、何故そんな事を口走ったのかよく分からない。強いて言えば、リヴァイの口からその事実を聞きたくなかったからなのかもしれない。
スゥ……と、息を吸って、マホはツキリと傷む胸を無視しながら言葉を続けた。

「その……兵長と、ぺトラが恋仲だって事を……」

改めて口にすると、やっぱりキツい……

目頭と頬にジィンと熱が篭るのを感じながらも、マホは何とか平常心を保とうと深呼吸をしてみてから、辺りに妙な空気が立ち込めている事に気付いた。
その“妙な空気”の発生源を辿る様に、恐る恐るリヴァイの顔を伺い見てみれば、彼の眉間に寄っていた皺は消えていて、いつもの鋭さは何処へ置いてきたのか、キョトンとした瞳がマホを見つめていた。

「……何言ってんだお前―…」

ややあって、リヴァイの口から紡がれた言葉に真意が分からず、マホはパシパシと瞳を瞬かせる。
はぁ……と呆れた溜息を1つ落として、リヴァイは続けた。

「何で俺とペトラが恋仲なんだよ」
「え……でも、さっき……」

脳裏に色濃く焼き付いている、先程の光景―…ペトラに詰め寄っていたリヴァイの姿は、見間違いなどではないはずだ、と不可解に眉を寄せたマホに、フルフルとリヴァイは軽く首を振った。

「……お前がどういう勘違いを起こしたのかはよく分からねぇが。ペトラは俺の部下だ。恋仲なわけねぇだろ」

ハッキリと告げられた否定の言葉に、ほんの少しの安堵とそれでも消えぬ懐疑がユラユラとマホの胸奥に渦巻いていた。

「その、さっき部屋でペトラに迫っていたのは―…」

マホがそう口にした途端、リヴァイの瞳は不自然に泳ぎ出し、如何にも余裕を失くした人のそれの様に、ガシガシと首の後ろを掻き出した。

「あれは……アイツが余計な事を―…」
「……余計な事?」

途端に挙動不審になったリヴァイの姿に、マホは彼の言葉にオウム返ししながら小首を傾げて見せた。
そんなマホの仕草をチラリと横目で見て、チッとリヴァイは悔しげな舌打ちを漏らすと、グイッと彼女の肩を強く掴んでそのまますぐ後ろのベッドへと力任せに押し倒した。

「ひゃっ……」

予想だにしていなかったリヴァイの行動に、されるがままになりながらも小さく悲鳴を漏らして、マホは脅えた表情で、彼を見遣った。
鋭くギラついた瞳は、怒っている様にも悲しんでいる様にも見えて、そして至近距離で見つめてくるその瞳は何よりも色気に溢れていて、ゴクリ、とマホは息を呑んだ。
リヴァイの薄く色っぽい唇が、僅かに動く。

「……お前の、所為だ」

その声すらも色香を纏っていて、何も反応出来ないままに目を見張っていたマホの視界をリヴァイの影が覆う。

「……っっ!?」

一瞬、本当に一瞬だけど触れた唇に、ビクっとマホの体が大きく揺れた。
目を瞑る余裕も、その感触を味わう余裕も無いままに、あっけなく唇は離れていった。
それでも変わらずリヴァイはマホの体の上に覆い被さったままで、至近距離に顏を近付けたまま、悔しげに眉を寄せている。

「特別作戦班の候補に挙がっていたお前を却下したもう1つの理由―…」
「え……?」
「俺がこうなるからだ」
「……兵長?」
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