リヴァイが出て行った扉を不安気に見つめるマホの様子に、静まり返った部屋の中に小さな溜息を1つ零して観念した様にペトラが口を開く。

「ごめんね。マホ。エレンを庇おうとする貴女の気持ち、私も理解出来る。でも、ここでのルールは兵長だから。兵長の仰る事に私達班員は従うの」

それはペトラなりのフォローだったのだろう。
けれどもマホにとっては、ボロボロに砕けた心に更に追い打ちをかける残酷な言葉で、愛想笑いを返す事すら出来なかった。

「マホさん、すいません。悪いのは俺なのに……」

ペトラの隣で、すっかり意気消沈したエレンが覇気の無い声でそう告げた。

「あ……私こそ、余計な事言って、ごめんなさい」

エレンに負けないほどのしょぼくれた声でそう返したマホを見て、ペトラはうん、と頷くと、

「マホ、まだオデコは痛むでしょ?もう少し休んでおいた方が良いと思う。私達は出て行くから、ゆっくりしてて。あ、帰る時は一応声掛けてね。」

気遣ってくれているのだろうか、そう言ってまだ部屋に留まりたそうにしているエレンに立つように促した。


「ちょ、ちょっとペトラさんっ……」

いましがた自分達が出て来た扉を振り返りながらエレンは、スタスタと廊下を進むペトラに慌てた様子で声を掛けた。
その声を聞いているのかいないのか、ツカツカと一定したブーツの音を鳴らして歩き続けるペトラに続けざまにエレンは言う。

「マホさんを1人にさせるの、可哀想じゃないですか?」

ピクリ、と耳を立てる小動物の様に背筋をピン、と伸ばして、ペトラはチラリとエレンの方を横目で見た。

「どうしてそう思うの?」
「……その、昨日も来たといっても、マホさんには慣れてる場所じゃないはずだし、心許無いと思うんです。しかも兵長にあんな風に言われた後で……」
「マホは優秀な兵士よ。そんな事で心が折れたりはしないだろうけど……」
「……けど?」

マホの事が心配で堪らないといった雰囲気を醸し出している後輩にフフッと笑って、ペトラは内緒話でもするかの様に小声で言った。

「もし、それでマホが落ち込んでいるなら、私達が付いてるよりも、もっと適任がいるでしょ?」



ペトラとエレンが出て行ってからどれぐらい経ったのだろうか。いい加減ベッドに寝転んでいるのも退屈で、マホはモゾモゾと起き上がった。
額の痛みなど、もう殆ど感じない。
出来るなら早くこの古城を出て本部に帰りたい。
だが、そうなると去り際にペトラが言った
“帰るときは一応声掛けて”
を実行しなければいけなくなる。
そうなれば誰に声を掛けるべきか、間違いなく、この古城内の最高責任者で彼等の長、リヴァイ兵士長しかいない。
マホがなかなかこの部屋を出れない理由はそれだった。
あんな風に言われた後で、どんな顔をしてリヴァイのに声を掛ければ良いのか、きっとどんな顔をしててもどれも不自然になるだろう。

“だからお前は甘いんだ。”

何故そんな事を言われたのかは分からなくとも、リヴァイの機嫌を損ねた事は間違いないのだ。

「甘い……か」

他の誰でもない、リヴァイの口から出た言葉だからか、ズシリと重く覆い被さってくる。
それは、ずっとずっと胸の中に蔓延っている“リヴァイ班に入れなかった”というコンプレックスと混ざり合って、重く、深く、マホの胸を傷ませる。
こんな心境でリヴァイと顔を合わすぐらいなら、コッソリと此処を抜け出して逃げ帰ってしまいたいとマホは思った。
例えばそれで、もうリヴァイと話す事はおろか、近付く事すら出来なくなったとしても、誰も困らない。
ただマホ1人が悲しくなるだけで、調査兵団内に何も影響なんてでない。

だからもう、このまま帰ってしまおう……ベッドから降りようとしたその時、そんな勝手は許さない、とでもいうように扉がコンコン、とノックされた。
ドクンッと嫌な緊張が身体に走り、それを感じてか部屋の空気もピシリ、と凍り付いた。
ベッドの上で、片足を降ろしかけた状態で固まっているマホの耳に、再びコンコン、とノック音が響いた。

寝たふりでやり過ごそうか。狡い考えがようやく頭を巡って来て、しかしそれを実行しようとする前にガチャリとドアノブが廻った。
思考が追い付かないうちに、開いた扉から颯爽と入ってきたその人物をマホは身動ぎ1つ出来ず真っ直ぐ見つめていた。

「何だ。起きてたのか」

数刻前の出来事などまるで無かったかの様な淡々とした口振りが、安心と虚しさを連れて来て、キュゥとマホは唇を引き結んだ。
スタスタと簡単に距離を詰めてくるその姿に、新たな緊張で胸が圧される。
雨夜空の様なダークグレーの瞳に間近で睨み付けられれば、更なる不安がグイグイと押し寄せてくる。

「さっきの事でお前が落ち込んでいると、ペトラに聞いた」

パチン、と不安の種の1つが弾けた様な感覚が走り、マホは僅かに瞳を細めた。

ペトラが、言ったから……

それが、彼が再びやって来た理由なのだ。

皮肉な事に、そう理解すると妙に心が落ち着いた。

「……兵長。あの、私は大丈夫です。もう本部に帰ろうと思ってたところで……だからお気遣いなく−……」

一歩足を踏み外したら落ちてしまう狭い崖の上を歩いているかの様なヒヤヒヤした感覚に、チィンと指先が冷たくなっていく。
そんなマホをリヴァイの鋭い瞳が睨め付ける。

「別にお前を責めたつもりは無かった」
「……いいんです。私、自分でも兵士として甘いんだって、分かってますから……」
「だから、そういう意味じゃねぇよ」

(ちゃんと聞け、馬鹿が)と小さな声で吐き捨てられた言葉に、彼らしからぬ余裕の無さが感じられてマホはシパシパと瞳を瞬かせた。
リヴァイはフン、と鼻を鳴らしてマホから視線を逸らすと、先程ペトラが座っていた椅子にドカッと腰を降ろした。

「お前が自分の事をどう評価しているかは知らねぇが、俺はお前の事を優秀な兵士だと思っている」

喜ぶな、期待するな、とマホの中の卑屈な心が騒ぐ。
優秀な兵士と……そう思われていたならどんなに良いかと、今まで幾度となく夢見ていた。
けれど実際、リヴァイ班には選ばれなかったのだ。
“落ち込んでいる”という言葉を聞いての哀れみならば、惨めなだけだ……と、俯くマホに、リヴァイは更に言葉を続けた。

「特別作戦班の選出にも、お前の名前が挙がらなかったわけじゃない」

まるで心を読んだかの様な台詞に、ブンブンとマホは俯いたまま頭を振った。

「そんなの嘘……です」
「嘘じゃねぇよ。お前だって壁外での自分の成績は分かってるだろ?エルヴィンやハンジもお前の事は高く評価してる。だから特別作戦班のメンバーにと挙げられていたが、俺が却下した」
「……そうですか」

既に結果が出てるのだから分かっていた事だが、ズキン、と女々しく胸が傷んだ。

「お前の事を俺が“甘い”と言った理由が分かるか?」
「……分かりません」

どうやらリヴァイは、マホが兵士として如何に駄目なのかを教えてくれるつもりらしいが、彼女からしてみれば無様に傷付いた心に塩を塗り付けられるような気分だ。
だからといって耳を塞ぐ真似も出来ず、震えた拳でシーツの端をキュッと掴んだ。

「エレンは俺達の希望ではあるが、不完全だ。巨人化の実験で、アイツが自我を無くした時、俺達に牙を向いた時、躊躇無く斬れる自信はあるか?」
「え……」

それはマホが想像していた言葉とはかけ離れていて、質問の情景すら頭に浮かばずマホはポカンと拍子抜けた顔で小さく口を開いていた。

「兵士としては優秀だ。それは俺も評価している。だがお前はきっと、エレンに刃を向けれない。これは俺の勘だ。」

エレンに刃を……と言われてもその情景がピンと来ない。
巨人と対峙したら、闘うのは必至。
ならば巨人化したエレンが攻撃してきた時は……?
だが頭に浮かぶのは、まだ幼い顔立ちの少年の姿で、それに刃を向ける事など想像すら出来ない。
それでも、頭ごなしに“無理”だと烙印を捺されるのはどうも腑に落ちなかった。

「……何故、そう思われるのですか……?」

思わずマホが口に出した意見に、リヴァイは言い難そうにしながらも、渋々と口を割った。

「以前、巨人に身体の一部を食われ瀕死になった兵士を、周りの制止の声も聞かずに、助けようとした事があっただろ。」
「…………っ」

それは、あまり思い出したくは無い過去だった。
何度目かの壁外調査の時、自分の班が巨人に狙われた。その闘いで、同じ班の1人の兵士が犠牲になった。
片腕と片脚を巨人に喰われ虫の息だった兵士を、「離脱する」と命じる班長の声を無視して、マホは助けようとした。
結果、更に巨人が集まってきて応戦する事となった班長は負傷、マホが助けようとした兵士もそこで息絶えた。

「……あの兵士はどのみち助からなかった。新たな被害を防ぐ為に最小限の犠牲で済まそうとした班長の決断を、お前は呑めなかった。仲間を思っての事だったのだろうが、そこがお前の甘さだ」

言われてみれば最もだった。
あの時すぐに離脱していれば、新たな戦闘は避けれた。班長を負傷させる事も無かっただろう。
それが“甘さ”だと言われたら、返す言葉が無い。
蒸し返された形になった不甲斐無い自分の過去に、グジグジと胸が傷む。

「だが、お前はあの時あの状況で2体の巨人を倒してる。その実力は確かだ。」

認められたくて、強くなりたくて、それでも人間性までは変えられない。
そう納得してしまえば、逆に清々しい。
俯けていた顏を上げて、マホは今日初めて、ちゃんと真っ直ぐ、リヴァイの方を見つめた。

「……有難うございます」
「……礼を言われる事はしてねぇが」
「いえ……私、心の何処かでいつも、『リヴァイ班に入れなかった』という事を悔やんでいました。自分でも努力をしていたと自負していたから余計に、頑張っても認められないんだと、悲観的になってたんです。だから、兵長の口から『優秀』という言葉を貰えただけで、嬉しいんです」
「単純なヤツだな。そもそも『リヴァイ班』に入れなかったと悔やむ意味も分からねぇが」
「……兵長は私の、憧れなので……」
「ほぅ……」

僅かに口角を上げたリヴァイを見て、マホはたった今の自分の発言が恥ずかしいものであった事に気付き、ボッと頬を赤らめた。

「あ、いや、あの、憧れってその……変な意味とかじゃなくて……」

懸命に取り繕うも頬はどんどん上気して、しどろもどろな口調は明らかに冷静さを欠いている。笑いを堪えている様子のリヴァイの表情を見てもそれは明らかだ。

「変な意味じゃねぇなら残念だな」
「えっ……!?」

からかっているのか何なのか、不敵に笑うリヴァイからは読み取れない。
熱くなった頬を冷ますべく、両手の平でピトリと頬を包んで俯くマホの頭に、ポンと優しい手が乗った。
このイレギュラーな状況に、早速と高鳴りだした鼓動が煩い。
何とかこの状況から逃れようと口にした声は、弱々しく震えていた。

「兵長……あの、私、もう少しだけ此処で休んでていいですか」
「……ああ。お前に持って帰ってもらいたい書類もある。それもまだ完成してないからな。もう少し休んでおけ」

ス……と頭から離れた手に、ホッとマホは安堵の息を漏らした。



コンコン、と扉を叩く音を聞いてリヴァイは書類にペンを走らせていた手を止める。

「入れ」

短くそう返せば、カチャッと控え目な音を立てて扉が開いた。

「失礼します。兵長、お茶持って来ました」

彼の班の紅一点が見せるその態度は、如何にも忠実な部下らしくもあり、だが隠し切れない好奇心が言葉の端々に込もっていて、リヴァイは(これだから女は……)と軽く溜息を吐いて彼女からカップを受け取った。
一口、リヴァイが中身を啜ったのを確認してからペトラは僅かに口元を綻ばせた。

「マホと、仲直り出来ました?」
「……喧嘩する仲じゃねぇよ」

卑屈に口元を歪めて言うリヴァイに肩を竦めて、ペトラはそれでも何処かわくわくした様子で微笑んだ。

「でも……兵長がさっきマホに向かって『甘い』だなんて仰られたのは、半分は―……」

ピシリと眉間に皺を寄せたリヴァイは、タン、とテーブルにカップを打ち付ける様に置いて、ペトラの肩をグイッと掴んだ。
咄嗟の行動は思った以上に力が込もり、ペトラの体はテーブルに半分押し付けられて、傍にあったランプの灯がユラユラと不安気に揺れた。

「おい、ペトラ。お前、マホに余計な事は―……」
/
[ 18/28 ]
[mokuji]
[しおりを挟む]