休憩室に連れられてかれこれもう1時間以上……。変わらない速度で動き続けるハンジの口元を、マホはどんよりとした顔で見つめていた。
エレンの巨人化実験の写真撮影も当に終わったし、早く昨日の夫婦に写真を届けに行きたいのに、ハンジの話はまだ終わりそうにない。
“一緒にいてやる”だなんて、頼もしい事を言ってくれていたリヴァイはエルヴィンに呼ばれて姿を消してから戻って来ない。ハンジが淹れてくれた紅茶はもうすっかり冷めている。
いつ戻ってきてくれるだろうか……と、ハンジの話を聞き流しながら、チラチラと扉の方を気にしていたら、そんなマホの気持ちを汲んだみたいに、ガチャッと扉が開いた。
だが、その扉から入って来た人物は、マホの求めていた恋人では無かった。

「分隊長!ちょっと良いですか?」

切羽詰った様子で―いや、そもそも常に切羽詰った様子でいるところしかマホは見た事が無いが―休憩室に入ってきたモブリットは、一度マホに向かって申し訳無さそうな会釈をして、すぐにハンジの方を向いた。

「何?今丁度面白い話で盛り上がってたのに……」

如何にも面倒そうにそう言ってのけるハンジに、(面白いと思ってるのも、盛り上がってるのも貴女だけですよ)と、マホは心の中で突っ込みながら、リヴァイで無かったのは少し残念だが、モブリットが来てくれた事に心底ホッとしていた。

「と、とにかく一度来て下さい!!」

説明をする事も惜しいのか、そう言ってモブリットはハンジの腕を掴み椅子から立ち上がらせようと引っ張っている。

「そんな引っ張らなくても分かったって。行けば良いんだろ?マホ、ゴメンね。ちょっと待っててね?」

立ち上がって、モブリットに引き摺られる様に歩きながら顏だけはこちらに向けてそう言ってくるハンジに、引き攣った笑いを返す事でマホは精一杯だった。
パタン、と休憩室の扉が閉まる音を聞いて、フゥ……と脱力した様な息がマホの口から漏れ出た。
グルリ、と首を一周廻してから、椅子の下に置いていた仕事用の大きな鞄をヨイショと持ち上げたマホは、中から紺色のツヤりとした絹の布に包まれた四角形の物を取り出した。それを、机の上に音も無く乗せると、丁寧に布を開けた。
繊細な模様の入った額縁に収められた、モノクロ写真の男女が幸せそうな笑顔でマホを見つめている。
マホの脳裏には、昨日この目で実際に見た男女の姿が色付きで鮮明に蘇ってくる。
この世の全てから祝福されているかの様な2人、純白のフワフワフリフリとしたドレスに包まれる花嫁、花弁の雪に彩られる空間。甘い、優しい、幸せな香りが、そこにいる誰もを笑顔にさせる、あの夢の様な一時。
写真に残さなくとも、一生忘れられない幸せな想い出だろう。だけど、写真に残しておけば、それを見る度2人は自然に笑みを零すのだろう。
例えばリヴァイに、「結婚式をしたい」なんて言ったらどうなるだろうか。
眉間に皺を寄せたリヴァイの顔が瞬時に浮かび、ブンブンと頭を降る。

リヴァイが結婚式なんてしたがる筈が無いじゃない!そもそも、プロポーズすらされてないし……。

改めて見直した現実にズドンとマホは肩を落とした。
今でも充分に幸せだというのに、花嫁衣装に夢を見てしまうのは乙女心というやつなのだろうか。自分の中にそんな可憐な感情が育ってるとはマホは思いもしなかった。
仕事の時は、着古したシャツとズボン。普段だって着飾る事は殆ど無い。スカートも滅多に履かない。
おまけに、家事はあまり好きでは無い。
リヴァイはそんなマホを知っていて、そんなマホと付き合っている。言い換えれば、メルヘンな事に憧れる、乙女心を持ったマホはリヴァイの知っているマホでは無いわけで、そんな女との付き合いはリヴァイは望んで無いのだ。
もし、そんな乙女心を素直に吐き出して、結果リヴァイが離れていってしまったら、それこそ絶望だ。
やはり自分には、純白のドレスも花吹雪の舞う空間も、縁が無いものなのだ……と、諦めのついた溜息を漏らした時、コンコンとノックの音がして遠慮がちに扉が開いた。

「マホさん、リヴァイ兵長と団長が呼んでます」

礼儀正しく、一礼をしてからそう言ってきたまだ幼い顔の少年達に、マホはドギマギとしながら急いで立ち上がる。
手早く布に包み直した写真を、鞄の中にしまって、再び椅子の下へと置いた。

「あ、ありがとう。伝えにきてくれて。えっと……団長室かな」

金髪碧眼の中性的な顔立ちをした少年に聞けば、隣にいた、先程実験体として巨人の姿をしていた、大きな瞳の少年が一歩前へ出た。

「はい!そうです!!次回に依頼したい撮影の打ち合わせ、と言ってました」

その少年に寄り添う様に立っていた、赤いマフラーを巻いた少女がマホにチラリと視線をやって、同情する様な顔をして瞳を伏せた。
同じ女だからだろうか……。
今、この時、“何故リヴァイが呼びに来てくれないのだろうか"と秘かに思った事が、読まれてる気がして、マホも恥ずかしそうに瞳を伏せた。

パタパタとマホが走り去って行った休憩室に残された3人は、どことなく居心地が悪そうにそれぞれの顔を見合わせた。
様子を伺う様にアルミンがまず口を開く。

「あ、あのさ、2人とも。なんかさっきのマホさん、ちょっと元気が無かった気が僕はしたんだけど……」
「やっぱりお前等もそう思ったか?変だったよな、マホさん」
「変……というか、落ち込んでる様に見えた。きっとチビが原因」

恨みがましい声色でそう言ったミカサに、アルミンはハハッと苦笑する。

「喧嘩してる感じには見えなかったけど……」

言って、アルミンの視線は先程マホが座っていた椅子の下にストンと落ちる。その動きを追っていたエレンが、あっ!!と口を開けた。

「そういや、俺達が入ってきた時、マホさん何か見てたよな?すぐその鞄の中に戻したけど……」

そのエレンの言葉が引き金の様にスタスタと歩き出したミカサは、その椅子の場所まで行き、躊躇様子も無く椅子の下から鞄を持ち上げた。
後ろでアルミンが「だ、駄目だよミカサ!勝手に開けたら……」と言っているが、そんな事は耳に入ってないとでもいった感じで、ミカサの手は鞄の中に入り込んだ。
すぐに感じた手応えと共に引っ張り出されたのは、紺色の布に包まれた四角い板の様なもので……。

「何だそれ?」

エレンもミカサの隣まできて不思議そうにそう聞き、その2人の少し後ろで「ちょっと……」と戸惑っているアルミンも、興味は隠せない様子でしきりにそれに目をやっている。
ミカサの手が布の端を摘み、女性らしい優しい手付きで、衣服を脱がす様にゆっくりとその布を開ける。

「これ……」
「なんだ!?」
「写真……だ」

3人の口からそれぞれ違った声が漏れ、そうしてから沈黙と共に3人の視線は現れたモノクロ写真に集中される。

幸せそうに微笑んでいる花嫁衣裳に身を包んだ女性と、その傍らに寄り添うタキシード姿の男性。バックを飾るハートの形に刈り取られた薔薇の木が、幾つも可憐な花を咲かせている。
その写真を見つめていたミカサの漆黒の瞳が熱を帯びた様に光った。

「きっと、これは結婚式の写真……」
「そうだろうな。マホさんが撮った写真だろ?何でマホさんはこれを眺めてたんだ?写真の出来が気に入らないのか?」

写真の事などよく知らないエレンの目にも、その写真の出来は素晴らしく映っており、何が気に入らないんだろうか、と不思議そうに首を捻った。

「エレン、それは違う……」

そう言ったミカサの声は、どこか呆れている様にも聞こえた。

「じゃあ何なんだよ!?」

噛み付く様にミカサに向かって言うエレンの肩に、アルミンがソッと手を置いた。

「エレン。多分、マホさんは、この写真の2人に憧れてたんだと思うよ……」
「えっ?」

エレンの瞳が、自分の見知らぬ世界を知ったかの様に真ん丸く見開いた。
エレンも、ミカサも、アルミンも、おそらく他の104期生の面々も、マホの事が好きだった。
それは、写真家という珍しい仕事をしているという興味や、自分達の上司であるリヴァイ兵士長の恋人であるという事も手伝ってはいるが、それだけでなく、マホの気取らない性格の打ち解けやすさもあるのだろう。
上司の恋人で、しかも兵士では無くたまに本部にやってくる人間など、普通なら接触する事も殆ど無いはずなのだが、マホが気さくに皆と話すものだから、いつの間にかエレン達の中でマホは、友好的な存在として認識されていた。

「憧れてって……マホさんが?そういうタイプには見えないぞ?」

少なくともエレンが知ってるマホは、そういった乙女チックな一面など見せた事が無い。

「エレン。貴方は女心を何も分かってない。花嫁衣裳に憧れない女性なんてまずいない」
「なっ、何だよ!?じゃぁお前は女心を分かってるって言うのかよ!?」
「エレン!ミカサは女の子だよっ……」

アルミンが2人の間に入り、散りかけた火花はすぐに治まった。
そんな些細な小競り合いよりも、今はもっと重大な事案が3人の前に現れている。

「と、とにかく、マホさんは結婚したいのか?」
「結婚は勿論だろうけど、さっきミカサが言った様に、花嫁衣裳に憧れを持ってるんじゃないかな?」
「それで元気が無いという事は、チビがマホさんの気持ちを分かっていないという事。きっとマホさんは自分からそれを言ったりしないだろうから、チビが分かっていない限り、花嫁衣裳を着れる日はやって来ない」

ミカサの黒い瞳がメラメラと燃えている。それは、世の中の鈍い男性への怒りの具現化の様にも見えた。


「もう、行くのか」

団長室を出て、足早に歩くマホの隣で少し不満気な声色でリヴァイが聞いた。

「だって、言ったでしょ。私、今日は王都に写真を届けに行きたいって。遅くなりたくないの」

そう淡々と言ってのけるマホからは、不機嫌な空気が醸し出されていて、リヴァイは小さく肩を竦めた。
別に、リヴァイに対して怒っているというわけでは無いが、不機嫌の原因にリヴァイがいないかというとそれは嘘になる。
だから無意識のうちに少しキツイ口調になってしまっている事に、マホは自己嫌悪を抱いた。

「あ……ごめん。」

ゴニョゴニョとそう呟けば、それに応える様にリヴァイの手がマホの手の平を握った。
それだけで、たった今までのムシャクシャした感じも全て溶けていく様な気がした。
まるで、濁って澱んだ水に少しずつ清水が流れ込んでくる様な、そんな優しさがマホを包む。

「ねぇ、リヴァイ……」
「何だ」

全てを受け入れてくれそうな優しい声に吊られて、吐き出してしまいそうになる気持ちをギリギリでマホは堪える。

「……私、幸せだよ」
「何だいきなり……」

呆れた声を聞いて、フフッとマホは顏を俯けて笑った。


マホを送り出し、休憩室を簡単に掃除していたリヴァイの所に、ずらずらと見知った104期の面々が集まる。
召集をかけてもいないのに、何の用だ、皆で仲良くお茶会か……?と掃除の手を止め不審そうに彼等に視線を向けたリヴァイは、如何にも文句言いたげに自分を見てくる瞳の群れに意外そうに瞳を瞬かせる。

「何……だ、てめぇら?」

そう、不思議そうに聞けば、絶対の従順を貫いているはずのエレンが一歩、前に進み出る。
金色の瞳を飢えた獣の様に爛々とさせて、真っ直ぐに狙いを定める様にリヴァイを見つめると、エレンは大きく息を吸い込んでその勢いのままに、声を上げた。

「兵長!!マホさんを幸せにしてあげて下さい!!」

リヴァイの灰色の瞳が毒気を抜かれた様にキョトン、とエレンを見上げた。

「何言ってるんだ?お前……」

まさかエレンの口からそんな言葉が出るとは思いもせず、本当に意味が分からないといった様子でそう聞くリヴァイに、彼等の責める様な瞳が突き刺さった。

「リヴァイ兵長は何も分かってないですよ!食べる事が好きな私だって花嫁衣裳には憧れます!」
「俺の妹なんて、まだチビだったのにいっつもお嫁さんごっこしてましたよ!」
「もう恋人になってどれだけ経つんですか!?兵長から言わないと何も変わらないっスよ!」
「貴方は強い。とても強い。でも、女心を全く分かってない。それでも貴方の恋人でいてくれるマホさんには感謝をするべき」
「リヴァイ兵長。僕達に祝福させて下さい。見たいです。マホさんの花嫁衣裳を」

口々にそう言ってくる声に、リヴァイは大好きな掃除の手も止めて呆然としていた。

昨晩のマホの様子から、先程「幸せだ」と言ってのけたマホの顏から、翳りが見え隠れしているのはリヴァイも気付いていた。
それでも深く追求しようとは思わなかったのは、マホが自分から離れて行く事は無いからと安心していたからで……。マホの中の女心など、分からずとも愛し合えてる事で満足していたからで……。
けれどそれはただのエゴなのだと、たった今、リヴァイは気付くのだった。

「おい、知ってる事を話せ。“女心を全く分かってない”らしい俺に分かる様にな……」

リヴァイの灰色の瞳が、ギラリと光った。
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