クリスタルによる忘却。
死者を存在から消し去るこの定理は、生者を悲しみから救う為だと言われている。
事実忘却によって人々の士気が下がることはなくて、その瞬間は心に空いた隙間に違和感を覚えるけれども、結局は何事も無かったかのように平然と日常に戻って行く。例えば兄を戦争の中で失った者だって、ただ事実としてのみしか受け止められず、淡白な反応で終わらせるだけだった。
それは端から見ればまるで悲劇だ。大切な人を失っても悲しむことが出来ない、そんな非情な理は本当に人々の救いになるのか。疑問は当然だった。
そんな恐ろしい力を、朱雀はクリスタルの加護と呼んだ。恩恵だと言った。死者を置き去りにし捨て去る力を信じ仰ぐこの国は、ああなんて残酷だろうか。

「なるほど、君はそう思うわけだ」

トオノの話を興味深く聞いていたカヅサは組んでいた腕を解きながらそう言った。
彼の研究所で何故トオノがこのような話をしていたか、それはカヅサの関心が彼女に向いたことにある。
元々クリスタルの忘却について興味のあったカヅサがトオノに目をつけるのは自然な流れだ。なにせトオノは忘却を受けない特異な存在である。研究対象としては逸材中の逸材だった。
初対面でカヅサは自分の研究内容とトオノに対する興味を隠すことなく打ち明けた。彼にしてみれば特になんともないことだけど、「君に興味があるんだ」といきなり言われた方にしてみれば不信感たっぷりでいかにも怪しく、大抵は以降関わらないよう距離を置くものだ。けれどトオノは臆することなくカヅサの話に乗ってきて、こうしてふらりとカヅサの研究所を訪れては彼の研究に手を貸すこととなった。協力と言っても薬を盛られるとかそんなことはなくて、少し話をするだけだった。記憶を失わないトオノの価値観はやはり周囲とは変わっていて、根底から異なる見解を聞くのは研究者として非常に面白い。今の話も、きっと朱雀を「残酷な国」と言うのは彼女だけだ。

「そう言えば僕達は忘却を客観的にでさえ見たことも無いね。忘れてるから当たり前なんだけど、死者の与える日常の変化に気付けない。恐らく風景として一度でも見てしまえば脳が記憶し、それに対して忘却が起こるからだろう。しかし、話で聞くだけでは忘却の対象にならない……これは知識として覚えるからだとすれば、クリスタルはあくまで対象との直接的接触による記憶、つまり思い出を消すことでその存在を消すということになって……」

こうしてトオノとの会話から少しずつ理論を組み立てて自身の考えを纏める為の独り言をぶつぶつと呟きながら部屋の中を歩き回るカヅサはもう見慣れた光景だった。
そろそろカヅサがトオノのことを忘れて本格的に思考の海に沈んでいくかという辺りで、トオノは彼に話しかけた。それはそろそろ帰るといったものではなく、彼女にしては珍しいカヅサ本人に対する質問だった。

「ねぇ、あなたはどうしてそんなにクリスタルの忘却を調べてるの?」

他人を遠ざけるトオノがカヅサの申請を受け入れた理由、それはまたトオノもカヅサに興味を抱いていたからだった。彼の研究対象は忘却のメカニズムだ。それが分かれば魔法でも同様のことを起こせる、その言葉にトオノは引っ掛かった。

「魔法で忘却を操作……記憶を操作出来るようになれば、それはまさに人の手に余る力になるわ。あなたはその域に手を伸ばそうとしている。その力を得て、あなたはどうしたいの?」

ほんの一部だとしても、クリスタルの力の解明はこの世界にあらゆる影響を与えるだろう。それが良い事にも悪い事にも利用出来るのなら尚更だ。記憶の操作なんて軍事利用にも価値が出てくる。それこそ非情で残酷な使い道もある。トオノはそれを恐れた。

「どうもしないよ」
「……えっ?」

けれどカヅサはそんな不安など全く知らん顔で、しれっとそう言った。

「僕はただメカニズムを解明させたいだけさ。科学者なんて大抵はそんなものだよ、僕達は自分達の興味のあることだけをする。それを誰かが利用して世の中に出回っているんだ。まあ、行き過ぎた好奇心が人の道を外れることもあるだろうけど、少なくとも僕は自分の知りたいことを知れれば十分だ」

トオノは目をぱちくりとさせながら聞いていた。もう少し打算的な考えがあると思っていた。カヅサを動かしているのは純粋かつ旺盛な知識欲だった。

「ああそれと、機序が分かったところで出来るのは擬似的な忘却と、忘却による記憶の回復だけだと僕は考えている。記憶を自由自在に操作出来るものではないよ」

大事なことだよ、とカヅサは訂正を加えた。
それからカヅサは机の上に広げた紙に今しがた考えついたことを書き上げ始めた。

(つくづく変わった人だと思っていたけれど、予想以上だわ)

嘘と本音の区別くらいつく。トオノはカヅサの答えに安心したというより、ただ驚いていた。
そんなトオノに背を向けながら、カヅサは落ち着いた声で呟いた。

「……でもそうだな、もし僕が使うとしたら、友人の為に使いたいな。失った記憶に苦しむ友人を救う為にね」
「………」

その話を深く追及するのはトオノには出来なかった。
変わっているというより、不思議な人。私なんか足元にも及ばない奇異な人。
トオノは静かにそう思った。

「ごめんなさい、私の思い違いだったわ」
「気にしてないよ。それより、次もよろしくね」
「私が死んでいなければね」
「笑えないなぁ」

トオノの不躾な質問も、彼は特に気にした訳ではなさそうだった。それはトオノが都合のいいサンプルだからか、彼の性格からか。
そのまま振り返ることなく左手を上げてひらひらと振るカヅサにそれじゃあまたと一声掛けて、トオノは部屋から出て行った。




(ああ、そこにある瓶には気を付けて)
(そんなに危ないものでも?)
(耐性の付いた人用の、ちょっと強力なものがね)
(……いつか痛い目見るわよ)
(大丈夫、僕偉いから)




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