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新・忘却の英雄 05※18歳未満は閲覧しないでください。


 エスラールと別れてから何か月かたったある日、珍しい訪問者がやってきた。
 あの血判入りの嘆願書の最後に名前があった、かつての親友、ヴィゼルだった。
「やぁ」
 ヴィゼルは何事もなかったようにエメザレの顔を見て微笑んだ。
 エメザレはヴィゼルの唐突な訪問を奇妙に思うより、ただ純粋な喜びを感じた。ジヴェーダ以外人物が来るのは、エスラールと別れてから初めてだった。
「久しぶりだな。体の具合はどう?」
 ヴィゼルはリンゴがたくさん入ったバスケットを差し入れに持ってきて、ベッドサイドに置いた。
「まぁまぁかな。来てくれて嬉しいよ」
「なんだかこの頃、君の夢ばかり見るんだ。だから気になって」
 ヴィゼルは全てを無視した。嘆願書を送ってきたことも、エメザレが女の服を着ていることも昼から酒を飲んでいることもベッドに柵がつけられていることも、全てを無視して話を始めた。
「どんな夢?」
「昔の夢さ。十六歳の時、よく変なすごろくで遊んだろ」
「セカテでしょう。暴虐ロード。変な指令がたくさん書いてあるやつ。君とエスラールが作った超大作。よく一緒に遊んだよね。覚えてるよ」
「あの時さ、あの時、ほら殺人事件が起きたから、それで君が僕たちの隊に移動になっただろう。僕はあの時、君のことが怖かったんだ。暗闇の底で一人で沈んでる君がとてつもなく恐ろしくて、見たくなかったんだ。どうしてこんな触ったら引きずり込まれそうな奴に、エスラールはなんの迷いもなく手を差し伸べることができるのか、僕には理解できなかったんだ。どうして一番という地位を長年の親友の僕ではなく、暗闇の底の君に差し出したんだろうと思ってずっと悲しかったんだ」
 こんなにもヴィゼルの顔をまじまじと見ながら話すのはどれくらいぶりだろう。いつも一緒にいたので、改めて顔を見つめ合うことがなかった。できるだけ表情を見せないよう気を付けて話しているようだったが、遠くを見ているようなヴィゼルの瞳はなんとなく辛そうだった。
「うん。もちろん知ってたよ。でももう、その地位は君に返したよ」
「形式的にはね。だけど僕は夢を見て思い出したのさ。あの時、君が来たとき暴虐ロードで一緒に遊ぼうって君を誘ったら一緒に遊んでくれただろう。その時なんだかほっとしたんだ。言葉が通じるんだなって思ってさ。馬鹿だろ。君は狂ってるから意思の疎通ができないと思ってたのさ」
「ちゃんと通じてるよ。こうなった今でさえ」
 エメザレは微笑んだ。もちろん嘲笑を含んでいる。
「その夢の中では君と遊べてすごく嬉しくて、それで思い出したんだ。君といて楽しかった日々を。なんであんなに楽しかったんだろうな。変なところに閉じ込められて、ひとの殺し方を教わって、外に行って戦ってたくさん殺してただけなのに、なんでこんなに楽しいことを思い出すんだろう」
「若かったんじゃないかな。若いってそれだけですごいことだから」
 それから、ヴィゼルはとりとめのない思い出話を話し続けた。たくさんの保存していた思い出を話すことで再生するかように、一方的に話し続けた。
 光り輝いていたと思った。その時、確かに楽しかった。ヴィゼルの言った通り、何が楽しかったのかはわからない。でもこの瞬間、頭を巡るのは、無邪気なたくさんの笑い声のような思い出ばかりだった。
 そしてふっと言葉が消失したかのように、ヴィゼルの話が止まった。話し終わったわけではなく、話の途中で終わってしまった。
 ヴィゼルの顔には何とも言えない、なんとも表現し難い、厳しく冷たくそれなのに耐えきれないほどに辛そうな悲しみと、そして深い深い愛情の念が湛えられていた。すべてが矛盾して交じり合ったような表情だった。
「エメザレ」
 ふいにヴィゼルはベッドの柵を越え、土足でベッドに乗り込むとエメザレを抱きしめた。その身体は震えていた。ヴィゼルは震えながら、しがみつくみたいにエメザレを抱擁した。それからしばらくエメザレという存在を名残惜しむように動かなかった。
「君からはいい匂いがする」
「ルーノリアの花の匂いでしょう。ここにいるとみんな同じ匂いになる」
 ヴィゼルからは、懐かしいガルデンの匂いがまだしていた。エメザレを育て、ひとの殺し方を教え、魂が壊された場所だ。それなのに泣きたくなるほど、この匂いが好きだった。
「エメザレ、今日僕が言ったことはすべて本当のことだ」
「うん」
 それだけ言うと、ヴィゼルは何事もなかったようにベッドから降りた。
 夕日が沈んでいくところだった。森は焼き尽くすかのような赤い光に照らされている。
「エスラールは相変わらず令嬢との婚約を渋ってるよ」
 ヴィゼルは帰り際にそう一言を残した。
 燃え盛らる夕日の方へと帰っていくヴィゼルの背中を見て、遠い昔の母親の背中を思い出した。また捨てられるんだな、と思った。今度は切り捨てられるのだ。
 リンゴが五個入ったバスケットと共に置かれた果物ナイフ。それを見たとき、死んでくれと言いに来たのだと理解した。涙は出なかった。
嘆願書が送られてきた段階でもう泣き尽くすほど泣いて、愛国の息子達と共にあることを諦めた。これは救いなのだった。
 やっぱりヴィゼルは親友だったと思った。ジヴェーダがお友達に頼めといった時、友達なんかいないと言ってしまって悪かったと思った。エスラールもジヴェーダも終わりをくれなかった。終わりをくれるのは親友のヴィゼルしかいないと心の中で実は信じていた。ヴィゼルは真面目で冷静だから、エスラールでもエメザレでもなく国家の未来を選んだのだ。裏切りだとは全く思わなかった。
 今一番に欲しいものはもはや肉体の救いでも魂の救済でもない。紛れもなく完全な死であり認識の終焉だった。一番欲しかったものを彼は届けてくれたのだ。
 外は暗闇に包まれている。森が蠢いている。
 エメザレはナイフを握りしめた。小ぶりの果物ナイフだが、誰かを殺すには充分という感覚があった。
 エスラールはこれから先どのような人生を歩むのだろう。共に歩めないのが残念だ。
 けれども魂は、私という概念は常に君のそばにありたい。私は今還るよ。君のところへ。絶対に。

 目を開けた。あの優しい馬のような黒い瞳と目が合った。ボッティシーの悲しい旋律が流れている。
まだ、死んでいなかった。知らないうちに泣いていた。
動脈を突き刺したはずだ。確実に死ねるように三度刺した。それなのに、なぜ死なないのだろう。一度意識を失ったが回復したようだ。意識は朦朧として遠のいてはいるが、まだ事切れない。痛く息苦しくて、息を吸おうとしても口の中の血が邪魔して僅かな空気しか入ってこない。
 荒い呼吸をしたままで数時間経った。でもまだ死ねない。右手にもう力は入らない。中指が少しだけ動いた。あと一付きで、あと少しで死ねるのに。
 還りたいよ。還りたい。
 天井にはいつもの通り、黒く大きい静かな瞳がじっとエメザレを見ている。死にそうになると現れる。あの目。深く穏やかな眼差しで死にそうな彼を見ている。
 生かしてもくれない。殺してもくれない。どうなるのか傍観しているだけの優しい目。
 殺してよ。もう還りたいんだ。早くいきたいよ。みんなのところ、エスラールのところへ。
 死にきれない苦しさで涙が流れた。声も出ない。手も動かない。涙がたくさん、たくさん溢れてくる。もう死にたい。いつも、みんなが死んでも死ねない。一人だけ生き残る。何故死なない。何故死ねない。
 もう殺して。
「死にきれないのか」
 知らぬ間にジヴェーダが真横に立っていた。目が合って、暫くの後、エメザレは頷いた。
 ジヴェーダは目の存在に気づいていないようだった。いや、エメザレ以外には認識できないのかもしれない。目はジヴェーダすらも優しく見下している。ボッティシーの旋律は最終章に差し掛かり、壮大な調べとなってゆく。
「俺が殺してやるよ」
 ジヴェーダはいつも通り、片手に酒の入ったグラスを持っていて、水を飲むみたいに一気に飲み干した。とてつもなく冷徹な顔。
「お前、もう楽になれ」
 傍にあった果物ナイフを手に取り振りかざされる時、確かに彼は感謝していた。
「愛してた」

 空白だったのだ。そこはあの、空白だったのだ。
そう、白い世界だった。何も存在しない世界。
ここはいわゆるあの世と呼ばれる場所だったのだろうか。ひどく冷静な気持ちだった。身体もなく白い空間に意識だけが漂っている。暑くも寒くもない。皮膚は死に絶えたように何も感じない。
そもそも肉体が存在しない。物体として自分という存在を認識できる要素が、何一つこの空白にはなかった。もしこれが永遠だったとしても、何も感じないのだから楽かもしれない。
「私の声が感知できるか、エメザレ」
 目の前にあの、馬のような優しい目が現れた。暗く大きくすべてを知っているかのような静かな目。
「感知できている」
 エメザレはとてつもなく冷静だった。
「第五代目にあたるプロトタイプ、『エメザレ』への実験はこの死をもって全て終了した。残念ながらこのデザインは採用されず、破棄されることが既に決定している」
「ここは何」
「ここは世界機構と基本世界を隔てるクッションのような場所だ。このように、とりあえずの応接間として使うこともあるフリースペースだ。ここには概念しか存在しない。私と君の。私はスクリーンに表示されているだけだ。君も表示させよう」
 下を見る。足が表示されている。手もある。手が動く、顔を触った。傷がなかった。右目も見えている。ガルデンの軍服を着ていた。だが皮膚の感覚がなかった。手も足も自分の意志で動かすことができるのに、自分のものではないようだった。
「君は表示されている。十六歳の、美しい君だ」
思わず両手で顔を撫でてみたが、残念ながらエメザレの視点からでは確認できなかった。
「私はここに来たことがある。ここはあの時の空白なの?」
「そうだ。君はここに到達したことがある。」
「世界機構とは何。あなたは何」
「世界機構は基本世界を支配している存在だ。基本世界とは君たちが存在している世界。支配といっても滅多なことでは世界機構は基本世界に干渉しないので、管理している、という言葉のほうが近いかもしれない。私は機構側の存在ではない。私の名はスギスタ。元々は君たちと同じくヴェーネン(人類)だった。私は昔、世界機構の管理システムを書き換えようとして、削除されかけたが一部を保存することに成功し、思念体としてのみ存在している。要は魂だけが残っている状態と解釈してもらえばおおむね正しい。私が基本世界に干渉しようとすると、機構は感知して私を削除しようと動き出す。だから君が瀕死になったときにしか、つまり重大な場面以外は物体として出現できなかったのだ」
「あなたは私が小さい頃からずっと、ずっと死にそうな私を見ていた」
「ずっと君を見ていた。それが我々の役目だったから」
「あなたの目的とは」
「我々の目的は現ヴェーネンを新たなるヴェーネンに置き換えることだ。世界に進化を与え、あの不老不死だった偉大なる旧ヴェーネンを最終的には可能な領域の範囲内で復元したいのだ。世界女王と戦うために最強の兵隊が必要だ。君のデザインはそのプロセスの途中にある」
「私はヴェーネンではなかったの。だからいつも死ななかったの」
「そうだ。君は正確には現ヴェーネンではない。限りなく酷似しているが違う生命体だった。君は死ににくい。死ににくい遺伝子で設計したからだ。いつも君は死ななかった。子供の時、疫病にかかったはずだ。疫病の子供は一つの部屋に押し込められ、部屋の子供は、君以外は死んだだろう。どんなに傷ついても傷は治る。覚えているか? 十七の時、君はある美しい男に剣山のようなもので顔を傷付けられただろう。そしてその男も同じく剣山で顔を傷付けられた。だが君の傷だけが治り、あの男の顔は傷付いたままだった。不思議に思っていただろう。致死量以上の毒を飲まされた時もあった。宮廷での拷問にしてもそうだ。君は通常のヴェーネンより格段に美しく賢く強く、長く生きながらえるよう設計されたのだ。そして我々はその強度を観察していた。あらゆる不幸、あらゆる厄災、あらゆる試練、君の肉体と精神がどれほどの負荷に耐えられるのか我々は測らねばならなかった。君が生理的に女体と交われない事象も設計の事情によるものだ。プロトタイプである君が子孫を残すことを我々は阻止せねばならなかった。君の子孫たちが誕生すれば、あっという間に彼らが世界を支配するだろう。そして現ヴェーネンの遺伝子は君たちに淘汰される。最終的にそれらのプロセスは実行されるが、それは我々が理想とする個体が完成された時の話だ。だが君は我々が求めている強度に達していなかった。君は骨まで傷が及ぶと完全には皮膚を修復できない。また、自らの性癖に冷静に対処できず、幼少期より精神的な苦痛を常に抱えていた。君の精神は我々が望んだものよりはるかに脆かった。君は繊細で優しすぎたんだ。そしてなにより、君はこの空白スペースにアクセスすることができた。それは想定外の重大な瑕疵(バグ)なのだ。それが君のデザインが破棄される最大の理由だ」
「私は削除されるの」
「いいや、君への救済処置は初期より完備されている。それについて心配する必要はない。君はリニューアルされるのだ。我々は君の健闘を讃えよう。通常のヴェーネンでは乗り越えられない、苦痛と待遇に、よく耐え抜いてくれた。君は美しくて強かった。君に恩恵を与えよう。完全なる母たるゴルトバが、君に恩恵をもたらすのだ。初期から完備された待遇だった。ゴルトバが君を設計した。君はゴルトバへ返還されるのだ」
「あまり理解できていない」
「理解などする必要はない。君は新しく生きればいいだけだ。全く違う君として。いつかまた会おう。我々はまた君に会える気がする」
「そうだね」
「では君を転送する。新たなる君に祝福を」

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