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新・忘却の英雄 04※18歳未満は閲覧しないでください。


 次の日の朝エメザレは案外冷静な気持ちで目が覚めた。起き上がるとシーツには血がついていた。久々にしたので切れたんだろうと思った。結構な血がついている割に、そこまで痛くはない。目が腫れている感じがした。腹のあたりを撫でると乾いた精液が張り付いていて、穢れというものを実感した。
 これで完璧にジヴェーダの囲い者になってしまったと思った。なんの言い訳もできない。自分をこんな身体にした男にかくまわれていて、そして抱かれた。
ジヴェーダがいなければ、これから先、生きていくこともできないのだ。ここに居続けるしかない。そして多分、またエメザレを抱きに来る。完全なる囲い者だ。
 ただおかげで吹っ切れた。これでエスラールとわかれる理由ができたのだ。これで綺麗にエスラールと終わりにできる。
 しばらくぼんやりしていると看護婦が入ってきた。汚したシーツのことをなんと言い訳しようかと考えていると、
「入浴のお支度が整っております。そのままでは、お身体が気持ち悪いでしょう」
と看護婦レイテは全てを知っているかのような口ぶりで微笑んだ。
看護婦レイテの顔には驚きも嫌悪も浮かんではいない。まるで転んで汚れてしまった子供の服を、さも当然に洗濯するかのような口調だ。本当に不思議な施設だと思った。
「出血しているようですね。診察されますか?」
「いいえ。慣れているので平気です」
 その日から女性用の入院着が支給された。理由も説明されなければ理由を聞いて来るものもいなかった。
 そして、エメザレは友愛会に対し、嘆願書の要請を全て受け入れる意思があることをしたためた手紙を送った。

 予想通り、ジヴェーダは何度も抱きに来た。酒の力もあったかもしれないが、なんだかどうでもよくなって、ジヴェーダの好きにさせ、身を任せていた。エスラールを忘れようとしていた。
 結局は、ジヴェーダが丁度よかった。妙にしっくり来たところがあって、なるようになったのだと、自分の中で納得した。
それに、純粋に気持ちがよかった。快楽がなくとも生きてはいけるが、この見た目になって一切諦めていた快楽が、こうして手に入ると、なんだか嬉しかった。忘れていたものを探し求めるようにして、少し抵抗しながらも、すがるように、あれを身体に受け入れる時、自分の存在がまだ認められているような気がした。
 いくら感じて声が出ても、いく時に叫んでも、声が出ないのだから誰にも声は届かない。誰か気にすることなく、我慢せずに、派手に喘ぐのは、少なくとも気晴らしにはなった。
 そして何よりも、この施設にはエメザレを否定するものがいないのだ。悪い眼差しが存在しない。いくら昼から酒を飲んで、男同士で抱き合っていても、看護婦レイテは微笑んで、すべてを処理してくれる。
 ほとんど裸のような格好でディナーを食べていても、料理を運んでくるレイテの顔色は変わらない。きっと顔色が変わった瞬間に、何かを感じて顔に出した途端に、彼女たちはここから追い出されるのだろう。
 エメザレを裸にしてベッドに押し付け、醜い身体を月明かりに照らして鑑賞し、しばらく何も言わないまま、冷笑を浮かべて、ほんの間近で酒を飲んでいるジヴェーダの眼差しは、まるで美しいものを見るかのようで、それが堪らなく、いつも救いだった。
 だから、それでよかった。エスラールとの関係は、エメザレの中でとっくに終わっていた。あの嘆願書に対して、受け入れると返したのだ。終わったという認識でなければ、できないような倒錯の日々だった。
 だがしかし、エスラールがやって来た。
 もうてっきり来れないはずだと思っていたのでエメザレは驚いた。嬉しいというより、感じたのは血の気が引くほどの罪悪感だった。もう来ないでいてほしかった。おそらく友愛会の制止をかなり強引に振り切って来たのだろう。
 エスラールは微笑みながらやってきたが、エメザレが女性用の入院着を着ていることに気が付いて不思議そうな顔をした。そして、エメザレの顔を見て心配そうな顔をした。かなり青ざめて引きつっていたのだと思う。
「……あ、あの、ごめんなさい。エスラール」
 正気に返ったという表現が正しいかもしれない。この施設に飲み込まれて麻痺していたと、エスラールの顔を見て思い出した。
 身体中が震えだし、焦点が合わないほどに狼狽した。
「どうし……た。何があったんだ」
 只ならぬ雰囲気にエスラールが不信の表情を顔に映した時、部屋のドアが開いた。
「おやおや、彼氏様がおいでだったとは、これは失礼」
 ジヴェーダはグラス片手に、遠慮なくずかずかと部屋に入ってきて、エスラールに一瞥をくれた。
「エメザレ、俺が置いてった酒、どこにやった」
 ジヴェーダは適当に部屋を物色すると、戸棚にしまってあった酒を見つけて、並々注ぎ込んだ。あまりの事態にエメザレは言葉も出なかった。
 どうしよう。止めようがない。
「お前、よくも俺の前に現れたな」
 エスラールはジヴェーダの胸倉を掴んだ。そのまま引きずるようにして壁に押し付けた。酒がこぼれて服が汚れたので、ジヴェーダは舌打ちした。
「なんで今まで俺を避けてたんだ。何年も」
「こうなるからだ。俺は仕事でやったんだ。お前に恨まれる筋合いはない。怒りをぶつけたいなら陛下に怒れ」
「そういうことじゃない」
「お前だって軍人だろう。人殺す時、いちいち悲しんでるのか」
 エスラールの凄みに屈することなく、壁に押し付けられたままジヴェーダは飄々とした表情で、グラスに残っていた酒を飲んだ。背の高さと、がたいの良さなら格段にジヴェーダが上だ。ジヴェーダには余裕があった。
「悪いものと戦って何が悪い。悪いものを憎んで何が悪い。俺はわかってる。世の中がくそなことくらい、昔から嫌というほどわかりきってる。でもだからなんだ。俺が全部変えてやる。全部救ってやる。俺は悪いものに立ち向かうのをやめない。俺は悪いものを悪いと言うのを絶対にやめない。お前とは違う。俺は諦めない」
「俺は諦めたんじゃない。環境に順応したんだ。お前はいちいちいちいち世界中の汚点を探して、小さな汚い黒い点を少しずつ白く塗りつぶして、いいことした気になって生きて来たんだろう。だが俺は違う。必要悪なんだ。俺がいなければ世の中は成立しないのさ。お前が俺に敵うはずがない」
「俺はお前の職業や在り方を否定しているんじゃない。大切なエメザレを傷付けたことが許せないだけだ。もし子供を殺されたら、親には絶対的な怒る権利があるはずだ。それがいくら仕事だろうが必要悪だろうが、そんなことは関係ない。エメザレをこんな身体にされて、俺が悲しかったから怒るんだ。綺麗だったのに。エメザレは綺麗だった!」
「俺を殴ったりなんかしたら、どうなるかわかってるよな。俺の意思でそうしなかっただけで、お前を牢屋にぶち込むことなんか朝飯前なんだからな」
 胸倉を掴み続けているエスラールの手を、ジヴェーダは引きがそうとしたが、やはり力はエスラールのほうが強いらしい。幼少から戦闘訓練を受けてきた軍人と、すでに抵抗できない者と対峙する拷問師では、腕力の差は歴然としていた。エスラールの手が放れないので、ジヴェーダが不愉快そうな顔になった。
「その手を放せ。お前そんなんだから俺に寝取られるんだよ。馬鹿が」
「うそ、だろ……」
 エスラールの手が離れた。信じられないという表情で後ずさった。
「お前、お前……無理にしただろう」
「そうとも。無理やりやった。強姦したんだ。何度もな。なんだか寂しそうだったからさ。めちゃくちゃよがってたなぁ。お前知ってたか、あんなになっても中の具合は変わってなかったよ」
「エスラール!」
 エメザレは叫んだが、声が出ていない。
「エメザレはあんな身体なんだぞ。抵抗もできないのに。お前は化け物だ! ひとの心がないのか! なんで、なんでそんなことを」
 エスラールはすごい剣幕で怒鳴るとジヴェーダに飛び掛かった。ジヴェーダは冷酷な顔で、エスラールが殴ってくるのを楽しみにしているかように嘲笑っている。
「エスラール!」
 エメザレはベッドサイドに置いてあったトレーを手に取り壁を叩いた。
「エスラール。聞いて」
 エスラールはこちらを見た。可哀想になんだか泣きそうな顔をしていた。
「無理にじゃない」
 ジヴェーダは力の抜けたエスラールを強めに押しのけると、再び舌打ちして、持っていたグラスを思い切り床に投げつけた。砕け散ったグラスを放置して、ジヴェーダは部屋を出て行った。

 エスラールはベッドに腰かけ、しばらく頭を抱えて動かなかった。エメザレはキラキラと光る割れたグラスの無数の破片を見つめていた。その沈黙の時間はかなり長く感じた。
「どうして……」
 やっとエスラールが力なく呟いた。
「君は悪くない」
「ならどうして」
「私とわかれてほしい」
「ヴィゼルに何か言われたのか」
「いいや。違う」
 少し間を置いてからエメザレは続けた。
「ねぇ、どうして私を抱いてくれなかったの。私が男だから? 今はいいですけど昔の話。私が女の人とできないのわかってるでしょう。なら私の気持ちはどう処理するのが正しかったの。私には温もりを感じる権利もないの。どうしてそれをかつての君がくれなかったの」
「エメザレ」
 エスラールはエメザレに口づけた。温かい唾液と舌が入り込んでくる。それまでずっと待ち望んでいた温かさだった。けれどももう必要ない。必要としたところで、もう手に入らないのだから。引き離そうとするが、いまだかつてないくらいに強く押さえつけて離さない。
「やめて」
 そのまま強引にベッドに押し倒された。
「痛い! 嫌だってば!」
 レースのついた裾野からエスラールの手が割って入ってくる。
「俺がだめだからあいつを選んだの」
「やめて! 見ないで! もう……もう、許してよ……」
 エスラールは忠告を無視して、美麗なレースが付いた白い服を引き裂いた。
 晒された身体。継ぎ接ぎだらけの、醜い身体。綺麗な部分なんて残っていない。きっと見たら永遠に忘れられない。化け物だもの。体中が縫われて無理やりくっつけて、こんな姿でまだ息が吸えるんだと、人体の不可思議に誰もが驚愕するだろう。
「ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。酷いことしてごめん。痛かったろ」
 エスラールは泣いていた。目を見開いて、見開いたまま、エメザレの身体を眼球にしっかりと映して、そして大きな雨粒みたいな涙を継ぎ接ぎだらけの身体に落とした。
「守れなくてごめん。約束したのに。行かせなければよかった。無理にでもどうにかして君を止めればよかった。俺が行けばよかった。ごめん。ごめん。ごめんね。ごめん。やっぱりできない。俺にはできない。可哀想でできない。君、どれだけ痛かったの。一人でどれだけ辛かったの。これ以上に、君の身体を酷使するなんて、俺には無理だ。ごめん。ごめんね」
 エメザレに覆いかぶさるようにして抱きしめてエスラールは泣いた。
「エスラール、君みたいに綺麗に生まれて来れなくてごめんね。自分のそばに私を置けば、いつかこの性癖が直ると信じていたんでしょ。最後まで直らなくてごめん。今まで本当に苦痛だったでしょう。本当にありがとう。優しさをくれて嬉しかったよ。でも私を受け入れてくれるひとができたから、もう大丈夫だよ。君だったら良かったのにと思った。あんなに優しく何度も君から愛されたことなかった。抱かれることが気持ちいいことだって嬉しいことだって思い出してしまった。やっぱり私は男に抱かれるのが好きだったみたい。私はそういう意味で罪悪感を抱いたのかもしれないな。君がせっかくあんなに綺麗にしてくれたのに、私はまた穢れてしまったね。赦せなかったんでしょう? 本当はずっと私のことを君が一番赦せなかったんだ。抱いたら汚してしまうから自分も汚れてしまうから、ある時それに気が付いて抱けなくなった。君が知らなくても私はわかってたんだよ。でもそれを君は愛だと言うんだよ。穢れなき愛だと言うんだ。みんなそれならば納得して我々を認めてくれるだろう。だから私を抱けなかったんでしょう? 君にとって私のすべては邪魔な存在だ。君の美しい世界に私は必要ない。そう、最初から」
「どうして、どうして、君を救えないんだろう。抱けないという理由で君を救えないのだとしたら、どうして俺にはその機能がついてないんだろう」
「君が美しいからだよ」
「救いたかった。君を素敵な世界に、どうにか連れて行ってあげたかった。君に向けられる悪い眼差したちから永遠に守ってあげたかった。この世界は素晴らしいと、その片鱗を少しでも感じてほしかった。大好きだったから。ずっと悲しいより、ちょっとでも楽しい方がいい。生まれてきて良かったと、少しでもいいから思ってほしかった。愛していたから。心から。心から愛してる。愛してた」
 知っている。エスラールはエメザレに向けられる嫌悪の眼差しをたくさん潰したかったのだ。世の中の悪意がいつもどうしても許せなくて、エメザレに向けられる悪意を追い払って守ることが使命なのだと、ずっと信じ込んできただけなのだと思った。
あの悪意の目をひとつひとつ潰す時、いいことをしている自分に納得して安心していたのだろう。
でもあの眼差しは蛆のように無限に涌いてきて完全に駆逐することなどできない。
「泣かないで。もうわかってるから。できないならわかれて」
エメザレはエスラールを抱きしめた。もうそう言うしかなかった。
その日、エメザレとエスラールの約十年間続いた恋人関係は終焉した。
エメザレは友愛会に、恋人関係を正式に解消したことを伝える手紙を書き、その証明として血判を添えて彼らの気持ちに応えた。
正式にエスラールと別れてからジヴェーダは頻繁に訪れるようになった。なぜそんなにも、エメザレに時間をさしてくれるのかはわからない。酒を飲み酩酊したうえでジヴェーダに散々に抱かれることが、日常の一部のようになっていった。
嫌でも抵抗できないのでエメザレの意思と少し食い違っているのは事実だが、それでも肉欲という意味では毎回満たされた。疲れて眠り込んでしまうときは安らかな気持ちにすらなる。
 ジヴェーダの抱き方は信じられないくらいに優しかった。宮廷の時とは違う。この冷徹な顔のどこから、その優しさを生み出しているのか不思議なくらいにジヴェーダの抱き方は優しいのだ。
 こんな風に胸をずっと愛でてくれるひとに、いまだかつて抱かれたことがなかった。
大抵の場合、エメザレ側の快楽についてはあまり顧みられなかった。
ガルデンにいた時も、彼らは欲情を身勝手に擦り付けて来ただけで、吐き出すだけ吐き出すと汚いもののように冷たく突き放した。宮廷で手ひどくジヴェーダに犯された時も昔を思い出して、その時と同じような耐え方をすればよかっただけだった。
 こんな恐ろしいほどの優しさを与えてどうしたいのだろうと思った。眠りにつくまでずっと抱きしめて愛撫してくれる。髪を撫で、耳元に吐息を吐いて安堵を与えてくれる。
大きくて暖かい手はジヴェーダの持ちうる優しさのすべてなのかもしれないとすら思った。
もしかしたら本当に愛されているのかもしれないと錯覚するくらいに、快楽のために、その手は惜しみなく労力を割いてくれる。
 でも愛されているわけではない。ジヴェーダは同じ顔をして同じようなことを施設中の女にしているのだろう。その中には愛されているのだと信じているひともいるかもしれない。自分のように救いだと感じるひとも居るのだろう。愛しみを与えられているかもしれないが、愛されてはいないのだ。
だから肉体が満たされても空洞がさらに膨張する。
朝起きると現実に引き戻された。ぐしゃぐしゃに乱れたベッドに横たわっていて、やがて看護婦レイテがやって来ると、エメザレの身体を丁寧に拭き、新しい入院着に着替えさせ、車椅子に移して朝食の置かれたテーブルの前に座らせて、エメザレが朝食を食べている間に、看護婦が淡々とシーツを変えるのだ。
それが終わると何もない時間が続く。
 この頃、読書はしなくなった。エスラールから貰った本は、エスラールのことを思い出して辛くなるのですべて捨ててしまった。
そして何よりの理由は、視力が落ちて文字が読めなくなったからだった。文字のシルエットを頼りに、書かれていることをある程度予想はできるが、とてつもない労力を要するので本を読むことは諦めた。
そして視力だけではなく、聴力も確実に悪くなっていた。水の中に潜りながら話しているような感覚だ。時々自分の声が聞こえないことがあった。自分が何を話しているのか聞こえないのだ。
視力も聴力も、今後どこまで悪化するのかわからない。目が見えなくなり、耳も聞こえなくなったらと思うと怖くて仕方がなかった。すがれるものは酩酊と快楽しか残されていない。
 そして、エメザレの心の中でエスラールという存在が占めていた割合は、思っていたより遥かにずっと尊大だった。内側から虚無が襲い来るようで、一人でいる時間が震えるほどに寂しい。
 虚無から逃げるために朝から酒を飲むようになった。酔っている間だけは少しだけ冷静でいられた。楽しいような気分になって落ち着いた。
だが酒がある分量を超えると悲しみが決壊したみたいに吹き出てきて、気付くと泣き叫んでいる。声が出ないので誰にも気付かれないのが救いだった。
精神が荒廃していくのがわかる。破綻に突き進んでいる。
けれどもそうしなければ虚無に抗えない。
いままでエスラールの存在にどれだけ支えられてきたのかを思い知った。どんなに周囲から嫌われていてもエスラールだけはエメザレをかばってくれた。仲間の輪に入れてくれた。ずっとそばで支えてくれていた。エスラールがいなければ自分が輝けることはなかっただろう。
エスラールの会う前は独りぼっちが恐いだなんて思ったことがなかった。独りになることがこんなに恐いことだなんて知らなかった。
 昔、自分には才能があると思っていた。どんな苦痛にも耐えられる才能だ。どんなに辛くても死なない才能だ。確かに少年の時には持っていた。独りぼっちで壊れていたけど、死ぬ気は全くしなかった。
 エスラールに寄り掛かってしまったら、二度ともどれなくなると、あの時からわかっていた。でも寄り掛かっている時、全てが赦されている気がして初めて肯定された気がして、ものすごく心地よかった。
 エスラールの皮膚に触りたい。柔らかい猫みたいな毛。純粋無垢な魂に。もう一度。もう一度。会いたいな。今何をしているんだろう。こんなことをしてるから、会ったら軽蔑されるかな。
あの笑顔が見たいな。魔法みたいな素敵な笑顔。あの笑顔を見ると誰しもが幸せで温かい気分になる。優しい気分になりたいな。食べさせてくれた卵焼き変な形だったけど、甘くていつも美味しかった。卵の殻が入ってじゃりじゃりしてたの気付いていたのかな。どんな顔して作っていたのだろう。きっと魔法みたいに優しい顔だよね。
でももう二度とエスラールはやってこない。

 もはやジヴェーダが来ることが、抱かれることだけが心の救いになっていった。ずっと抱き続けてほしいとさえ思った。している時は何も考えなくていいからだ。外部を認識するのが苦痛だった。
何もわからなくなってしまえばいいのにと思った。そして抱かれている時は僅かな安心を感じていた。一人ではないような気がして、まだ居場所があるような気がして、なんだか少し安心するのだ。
それ以外に繋がれるものも、すがれるものも存在していなかった。
抱かれないと気が狂いそうになる。部屋に一人でいる時、世界から分離しているような気がして、どこかへ行きたくて、誰かに会いたくて、逃げたくて、外に行こうとして、抱きしめてほしくて何度もベッドから落ちた。
床で這いずっている時、虫みたいで惨めだった。みんなと一緒に行きたかった。心だけでも共に居たかった。冷たい床で藻掻いているとドアの隙間から明るい光が見えて、地平線のように綺麗だった。
あの地平線の向こう側へは、もう行くことはできないのだろう。どこへも行けない。ここからは逃げられない。死ぬまで快楽に溺れて絶望に立ち向かうしかない。
 あまりにも頻繁にベッドから落ちるので柵が取り付けられた。なんだか鉄格子に入れられてしまったみたいで悲しかった。
ベッドの隅で縮こまってひらすらずっと毎日毎日酒を飲んでいると、過去と現在が交差して錯覚に陥った。
幻だとしてもそれでいい。だって本当に見えているのだからそれは現実と変わらない。昔のことを思い出す。今起きていることのように鮮明に思い出してしまう。
 捨てられた子供みたいな気持ち。不安で心細くてどうすればいいのかわからない。
捨てられた時、エメザレは小さすぎて捨てられたことが理解できなかった。母親はいつか戻ってくるのだと思ってずっと待っていた。
あの時、捨てられた時、ものすごく綺麗な燃え盛る夕日に向かって歩いていく母親の背中を今でも覚えている。
母親は今どこにいるんだろう。自分を捨てたことで彼女は何かが変わったのだろうか。自分が生まれたとき彼女は優しく抱きしめてくれたのだろうか。せめてそうであってほしい。そうしたら、それを保証してくれたら、まだ少しだけ救いがある気がする。
還りたい。戻りたい。その時、誕生を祝福し、もし抱きしめてくれたのだとしたら同じ気持ちで今どうか抱きしめてほしい。あの母親はどこに行ってしまったんだろう。なんでこんなところに置き去りにしたのだろう。

寒いよ。なんだか寒いんだ。
エメザレ、空を見てみなよ。月が綺麗だよ。
月とかさ、ちゃんと見たことないんだろう。今度見てみろよ。月はさ、月だと思って眺めてるといつまでもただの月なんだ。でも感動するまで見続けるんだよ。諦めないで見続けるんだ。そうしたらいつかきっと感動できるよ。そうしたら、月が綺麗だなって思えたら少し世界が綺麗になるだろ。
 なんで君、独りぼっちで壊れてんのさ。俺、諦めないよ。俺がこんなこと許さないからな。うぜーとか鬱陶しいとか大きなお世話とか言われても聞かないからな。
 何を言ってるの。僕は穴だよ。ただの穴さ。女が来るまでの代用品だよ。
 俺、べつに淫売でもいいよ。誰とやってても好きだよ。嫌いになんかならないよ。エメザレの生き方の一つなんだろう。わかったよ。でも、痕、痛いだろう? やったって痛いのがひどくなるだけじゃんか。俺は本当に本当に本当に本当にお前のこと心配してんだぞ。嘘なんてついてない。俺の気持ち、わかれよ。
 君はなんでそんなに綺麗な目をしているの。僕は無数に点在する黒い点なんだよ。
 だからエメザレ、ぼくが王になった時はきっと、ぼくのそばにいてくれ。ぼくが迷ったり、何をすればいいかわからなくなったりした時は、お前が助言をするんだ。そうすれば、もっと良い国になるよ。そうでしょう?
 そんな目で、純潔な少年の何も知らない真っ新な正義で、これ以上期待しても何もないんだ。あの私はエスラールが創ったんだよ。もういないんだよ。
 エメザレ、聞いてるか? 君、ほんと死体みたいだな。幽霊だよ、これじゃ。でもこんなん悲しいだろ。悲しいんだろ。君はどこにいるんだ。一体どこにいるんだ。俺は悲しいよ。俺が悲しいんだ。
 悲しいの? 悲しいの? どうしてあなたが悲しいの?
 どうしてあの時、私を救ったの。どうして私なんかを助けたの。
 私がいると汚いからでしょう。私が一番汚いからでしょう。私を浄化することで世の中を君の周りの世界を綺麗にしたかったんでしょう。私は目障りだったんだ。君の正義の美しい王国で僕は浄化されなければ耐えられない存在だった。愛してるっていうんだろう。だってあんなにも優しい気持ちを込めて魂を削ってありったけの穢れない愛を注いで僕を救い守り支えて讃えて僕という存在を綺麗にしたのだから。もしずっと僕が汚かったら、君は僕を消去したのかな。
 ここはどこなんだろう。昔来たことがあるだろう。ここを覚えているよ。見てよ。ここは空白なんだ。そうだよ。空白だよ。そう、少年だった時見たことがあるよ。あの恐ろしい蹂躙の日々よ。自分という肉体を貪り食う何十人の同胞たちよ。あの粘膜を覚えているよ。そうだよ。思い出したんだ。白いだけの空間。空白みたいに何もない、何も感じない絶対的な領域。どんな蹂躙にも耐えられる最強の要塞だ。誰も踏み入れてはこない。悪い眼差したちもここまでは到達できない。そうだよ。昔と同じだ。エスラールがいなくなったから元に戻ったのさ。すべては戻ってきたのさ。結局は空白に戻ってこなくてはいけなかったんだ。あの時みたいに昔みたいに守ってくれるのはこの空白しかない。空白だ。ここは空白だ。もう透明なのだ。もう存在しない。概念だから。何もないんだよ。ここには何もないんだよ。なんて静かなんだろう。なんという平静。なんて静かな気持ちなんだろう。だけど一体何を言っているんだろう。一体これは何なんだろう。でももう何もないんだ。
離れないで……離さないで……離れたくないの。抜かないで……中に出して……中にいて。温かい。温かいから。寒いのは嫌なの……ずっと、中にいて。
「ああ。抜かないで何回だって抱いてやるよ。お前今、どこにいるんだ。何も聞こえないんだろ。どこにいるんだ。昔の世界か。ガルデンというあの黒い建物の箱の中で閉じ込められてた。男しかいない世界で、みんながお前に欲情しただろう。十六の時のお前。さぞ綺麗だっただろうな。毎日犯されてたんだろう。昔からいろんな奴に。そいつらがお前を作った。お前を壊した。こんなに破壊したのに、それなのに、あの黒い箱を出た途端に、女という存在が飛び出してきて、みんなお前を捨てたんだろう。壊れたお前を見捨てて、他人事みたいに触れないように目をそらして、外の世界に出たのに男に抱かれ続けるお前を否定する。あんなに散々に気が狂うほど犯しておいて。それなのに女を抱けないお前を軽蔑する。お前が悪いんじゃない。お前は環境に順応して、それを利用して生き延びようとしただけだ。何も思わず何もかも破壊できる拷問師の俺みたいに。なんでそれが悪いことなんだ。なんで否定され続けて嫌悪されないとならないんだ。俺たちは間違ってなんかいない。俺たちは環境によって生成されたのさ。環境が作り出した化け物だ。全部世界が悪いんだ。世界が悪いのに、勝手に作り出したのに俺たちは乗り越えてきただけなのに、それなのに俺たちの生き様を、さも当然のように否定する。こんなお前を抱ける邪悪なる拷問師と、お前みたいな壊れてる化け物が、毎日のように昼から酔い狂って男同士で抱き合ってるから嗤うんだよな。俺たちは醜いな。物体として最高に醜い塊だ。俺たちは邪悪なのかな。邪悪ってなんなんだ。俺たちは何なんだ。なぁ俺が動いてるのちゃんと感じてるのか。もう、それもわからないのか。お前どこにいるんだ。感じろよ。俺を。俺を見ろよ。愛してなんかいないけどな。俺は男なんか愛さないから、愛してなんかいないけどな、捨てられた猫みたいにたまらなくお前が愛おしいよ。聞いてるか。もっと動いてやろうか。死にそうになりたいだろう。お前今どこにいるんだよ」

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