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新・忘却の英雄 06※18歳未満は閲覧しないでください。


 夕日だ。綺麗な夕日。空が燃えるように赤いんだ。太陽が爆破されたみたいに、世界が終わる、灼熱のあの最期の日のように空が赤いんだ。でも体温のような暖かさ。
耳の中で水の音がする。そして太陽のような匂いがする。けれども空に浮かんでいたのは太陽ではなかった。巨大な真っ白な月だった。雲は一つもない。赤い空に大きな月が浮かんでいるだけだった。
なんて懐かしい匂いだろう。どうしてこの灼熱のような燃え盛る空の下で、こんなにも絶対的な安寧を感じるのだろう。
偉大なる美しい月の下には、地平線まで続く広大な金の草原が広がって、その中心のようなところに大きな大きな木があった。そこはずっと帰りたいと思っていた場所だった。ひとは誰しも大きな木の下に還りたいのだと思っていた。
それは木なのではなくて、全てを見守り受け入れ、時には外敵の厄災から守ってくれる大きくて優しい存在という意味で、そういう意味で木の下に還りたいと、ふとした瞬間に思い出すことがあるのだとしたら、それは間違いなくこの大きな木のことだと思った。そんな木があったっていいじゃないかと思った。守ってくれる救いの木が世界のどこかにあってもいいじゃないか。
 あれは夕日じゃなかったんだ。あの時の、捨てられた日のものすごく綺麗な夕日は、燃える空に輝く月だったのだ。
「母さん、どこにいるの」
 エメザレは泣いていた。一体自分は今どのように表示されているのだろう。きっとそのまま、あの時、死んだまま二十七歳なのだろうか。手が動き、足があるけれど、どのようにこの世界で表示されているのか自分ではわからない。でも子供みたいな気持ちだった。
「お帰りなさい」
 唐突に、背後で尊大な塊が騒めいた。高揚のない、平らでとても静かな声だった。
 糸が、黒いたくさんの細い糸が、後ろからエメザレに絡みついてきて、細すぎる指先と腕が、まるで殺す時のように、もしくは産み落とす時のように強く抱きしめた。
「母さんなの」
 エメザレは振り向いた。初めて見たのだ。母親というものを。
「お帰り。お帰り。私のエメザレ。私の子供。私の私の私の私の私の子供。私の私の私の私の私の私の愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい私の私の私の私の子供。お帰りなさい。お帰りなさい。エメザレ」
 背の高い、細い、長い黒い髪の、顔の白い、暗黒で塗りつぶされたような瞳の、表情がなく静かで、幻覚のように美しく、曠然たるひとだった。母親の暗黒の瞳には、拷問を受けなければ、おそらくそうなっていたであろう、二十七歳の傷のついていないエメザレが表示されていた。
 母はエメザレを抱きしめた。細い指で棒みたいな腕で。抱きしめられた時、ちょうど母親の胸の下に顔が埋もれて、一度も感じたことのない胸の柔らかさと温もりに安堵した。そして恐ろしくなった。
この優しさに身を任せたら、また辛くなるのではないかと思った。きっと生き様を、エメザレが生きてきた道程を、母親が知ったら悲しむのではないかと思った。でもわがままな子供のように、それでも無条件に抱いていてほしかった。
「ごめんなさい。怒らないで。否定しないで。寂しかったよ。寂しかったんだ」
 母親は不思議そうな顔をしてエメザレを見つめた。
「どうして否定することがあるの。私は私は私はあなたのお母さんなのに、どうしてどうしてあなたの何を否定するのですか。あなたは立派でした。ずっとずっと見て、見ていました」
「ありがとう」
 細い直毛の世界を覆い尽くすほどに長い、漆黒の絹糸のような黒髪が、まるで触手のようにエメザレを包み込んできた。心地が良い。気持ちが良い。この世界に溶けてしまいたい。
「ねぇ、母さん、なぜ私を捨てたの」
 母親の瞳に反射して映るエメザレはずっと泣いている。
「エメザレエメザレエメザレエメザレ。泣かないで泣かないで泣かないで。捨ててごめんね捨ててごめんね。あのひとをあのひとを葬らなければならないのです。負けたら全てが消えてしまうのです。でも、もうずっとずっと私が私が私が放さないから。泣かないで泣かないで泣かないで泣かないで」
 進化する前のさなぎのように、エメザレは黒い美しい糸に包まれていく。木が騒めいている。風など吹いていないのに黄金の草原が揺らめいている。水の音がする。ずっと水の中にいるような、轟音に近い水の音がする。
「ねぇ、ここはどこなの」
「子宮の中」
「母さん、あなたは何者なの」
「私の名前は名前は名前はゴルトバ。私は私は新造生物」
「新造生物とは何」
「アンヴァルクが、アンヴァルクが、つまり神の使者が、あの時、二万年前、旧世界で大戦の時に、あの時に、たくさん製造された生物兵器ですよ。私の私の私の創造主はアンヴァルク=イース。だが、イースは削除されました。削除されました。だからだから、私は独立したのです」
「言っていることがよくわからない。アンヴァルクは、あのエルドの神殿に奉られている神の使者は、本当に存在するということ? 私はこれから一体何になるの」
「私たちは融合するのです」
 その時赤い空を覆う無数の流星群がやってきた。月以外には何もなかったはずの赤い空には、どこか遠い彼方からやってきたであろう小さな星たちが、空を埋め尽くさんばかりに燃え尽きる手前の輝きを放っている。
 ゴルトバは抱きしめた。黒い髪の糸で柔らかく包み込んだエメザレの身体を。エメザレの目の前には、深い夜空ような広い恩愛を湛えた暗黒の大きな瞳があった。ゴルトバはエメザレを胸に掻き抱き、愛しむように髪を撫でた。
「どこにも居場所がなかったの。なにもうまくいかなかったの。エメザレはとっても頑張ったのに、誰も誰も何も認めてくれなかったの。みんながみんながあなたを見捨てるの。みんながあなたを破壊するの。嫌悪するの。軽蔑するの。否定して否定して最後に全てを消し去ってしまったの。本当は英雄になりたかったの。みんなから愛されたかったの。あの国を救いたかったの。もっともっともっと力が欲しかったの。無力な自分が嫌いなの。あの悪い悪い眼差したちを破壊したいの。私が私が私が私があなたの全ての願いを叶えてあげる。おいで哀れな美しい子よ。私の私の私の私の愛おしい愛おしい可愛い可愛い子よ。私が私が全てをあげる。与えてあげる」
 エメザレは母の胸の中で目を閉じた。水の音がする。こんな気持ちになったことがなかった。無償の愛とはなんて偉大なのだろう。黒い糸は、エメザレを、そして母までをも包み込んでいく。溶けていくような感覚がする。とてつもなく心地が良かった。
「あなたは完全にヴェーネンではなくなるのです。ヴェーネンに酷似した新しい生命体でもない。あなたは私と同じ新造生物ゴルトバに、エメザレ=ゴルトバになるのです。もう肉体の快楽を必要とすることも愛の定義に振り回されることもない。心が蝕まれることもなく優しさや安らぎに惑わされることもない。一つの個体として己のみで完結しているのですから。さらに美しく賢く強く孤高の超完全体として新たに誕生し、そしてゴルトバの子として第零の位を授けましょう。様々な変則能力を付属できる許可も与えましょう。あなたは私の完全なる最高の子供となるのです。あなたは私によって世界に永久に保存されるのです。そして、ヴェーネンとしてのカテゴリを外れ、美しの君よ、かつての悪い眼差したちを破壊し粉砕し根こそぎ消滅させ国ごと滅ぼし焼き尽くし灰の嵐にして彼らの遺伝子を根絶させ天の日を起こしてあらゆる玉座に君臨し御稜威の如き輝きを放ちながらあの時の忌まわしい汚辱と不条理の日々の憤怒を晴らし給え。世界よ、どうぞ功徳を果せし新しい君に、甘露の社からの壮絶な祝福を捧げて、世界は畏み恐れ給いかんながらに常しえに蘇り還り給え」
 莫大な白い月を目掛けて、幾億の小さな流れ星たちが、空に何億もの線を描きながら世界の月に集約されていく。月に引き寄せられるように突撃するように、破壊しようとしているのか、いや、融合しようとしているのか。
 やがて無数の星々が月に突き刺さると、月は鼓動するかのように、息を吸うかのように揺らめき、内部で幾回も分裂して成長していくと、月という殻を破り捨てて空へと生まれ出て、空を、世界を侵食していく。さらに分裂し歪つに膨らんでいく月が赤い空を覆いつくし、凄まじい勢いで世界中を包み込み、二人を飲み込み優しく侵していき、全てが同じとなり無数の白い月がエメザレの内部まで支配する時、目の中に月だけが映った。
 月が綺麗だよ。エスラール、月が綺麗なんだ。

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