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帝立オペレッタ18(新鮮な死んだ子豚)




 二人はまるで敵軍の本拠地にでも乗り込むように、図書室の扉をくぐり抜けた。図書室の穏やかなる静寂の均衡が乱れる。さっきからなにやってんだ、とばかりに、ゆったりと読書を楽しんでいた奴らから睨まれたが、二人は走るのをやめなかった。

「ミレーゼンに聞こう。たぶんいる」

 エメザレは走りながら言った。
 ミレーゼンは変わらずの体勢で、まだエロ本を読んでいた。

「おい、ミレーゼン!」

 エスラールが叫ぶと、微妙に名残り惜しそうにしてエロ本から顔を上げた。

「つーか、お前、俺一応年上だぞ。もうちっと敬ってくれてもいいんじゃない」

「俺に変態を敬う趣味はない。それよりもミレーゼン、お前、さっき事件の夜にサディーレを図書室で見たって言ってたよな。どこの棚で見たんだ」

「知らねーよ。俺が来た時、ちょうどサディーレは図書室を出るところだったんだ。入り口ですれ違ったから、どこにいたのかは知らん」

「じゃ、考えて。君がもしサディーレで、誰にも見られたくない本を隠すならどの棚に隠す?」

 二人は床に座るミレーゼンを物理的にも見下しながら詰め寄った。

「なんの話してんだよ?」
「理由は後だ、早く言え」

「ったくなんなんだよ。さっきから。ゆっくりエロ本も読ませてもらえないのかよ。そうだな大衆文学じゃないな。大人気のエロ本の棚でもない。きっと誰も読みそうにないところだろう。一番人気がなさそうなのはダルテス文学の棚だな。一度も触られてない本もあるんじゃないかってくらいに人気がない。奴だったらダルテス文学の古典の棚を選ぶかな。古典ってところが偉そうであいつっぽい。それがどうかしたのか」

「助かった」

 ミレーゼンの問いには答えず、二人はダルテス文学の棚に急いだ。

「ここがダルテス文学の古典の棚だ」

 エメザレが高々と指差した。

「なんじゃこりゃ……」

 エスラールの前には本の壁が立ちはだかっていた。ダルテス文学の古典スペースは一番奥まったところにあった。図書室の天井はやたらと高い。四メートルくらいはあるだろうか。壁に接していない本棚はせいぜい二メートルの高さだが、壁際の本棚だけは四メートルの壁の上部まで貼り付けるようにして棚を重ねてあるのだ。完璧な城塞のように聳え立つ四メートルの本棚、それが壁一面に連なっている。圧巻の光景だ。

「一体何冊くらいあるんだ。これ」

「さぁ。一万はないと思うけど、それに近いくらいじゃない。君と二人で探せば朝までに間に合う。エスラールは下から探して。僕は上を探す」

 エメザレはさっそく端に立てかけてあった梯子(はしご)に昇り始めた。

「でも、そもそも図書室に日記があるかどうかもわからないし、本当にダルテス文学の棚にあるのか、確証がないぞ」

「うん。確証はないよ。だけどさっき、君の言葉を聞いて、あるイメージが浮かんだんだ。ユドが自分が死ぬと思い込んでいたように、サディーレも自分が死ぬことを知っていたんじゃないかって。だから日記を隠そうとしたんじゃないかって。サディーレは日記帳を守りたかったんじゃないかな。自分が特別であると証明してくれた、ただ一つの所有物だから。そんな気がした。妄想だけどね。それにミレーゼンの能力はすごいよ。僕は何年もシマ先輩のそばにいたけど、シマ先輩の気持ちなんて全然わからなかった。でもミレーゼンにはわかるんだ。あれはもはや超能力の域だよ。ミレーゼンのことは信じてないけど、彼の能力は信用できる」

「わかった。その勘を信じよう。この棚を探そう」

 エスラールはそう言って屈むと、一番下の段の端から順々に見ていくことにした。
 本は一冊一冊がずっしりと重く、大きい。羊皮の表紙は綺麗に色が塗られ、金属で装飾されたものもある。中身はダルテス文字で書かれているので、読むことはできないが、そこに書かれている物語はどれも壮大な感じがした。

 活版印刷が普及してからというもの、本はそこまで高価ではなくなったらしいが、庶民からすれば高いことには変わりないだろう。触っていてそれがわかる。だが人気はなさそうだ。本はどれも新品のように美しかった。

 ダルテス語がわかる奴なんてほとんどいない。エスラールが知っているダルテス語は『おはよう』の『ウンバホ』と『こんにちは』の『ウンポーコ』だけだ。図書室にはダルテス語の辞書があるから独学で学ぶことはできるだろうが、訓練のカリキュラムにシクアス語は入っていてもダルテス語は入っていない。それにダルテスの古典なんて題名すら思い浮かばない。唯一読んだことがあるのは『ラルレの空中庭園』という古い児童文学のエクアフ語訳だが、あれは古典に属するのだろうか。よくカイドノッテ大護院で読まされたことを思い出した。

 それにしても、誰も読むことのない本をこうして膨大に置いてなんになるのだろう。クウェージアらしい国力自慢だろうか。

 本当に無駄が多いな。エスラールはそんなことを思いながら黙々と本を開いては閉じ、開いては閉じた。見分けるのは簡単だ。サディーレの日記帳はエクアフの言葉で書かれている。エスラールはエクアフ文字で書かれた本を見つければいいだけだ。単調な作業が続いた。

◆◆

「エメザレはいるか? エスラールは?」

 図書室にそんな声が響いた。おそらくサイシャーンの声だ。エスラールは作業を中断して出入り口付近を見ようとしたが、本の棚に阻まれここからでは見えなかった。
「います。ここに。二人ともいます」

 エメザレは梯子に登り、上にいたのでサイシャーンの姿が見えたのかもしれない。エメザレが出入り口のほうに向かって答えた。

「こんなところにいたのか」

 サイシャーンは珍しく息を切らしていた。

「どうかしたんですか、総隊長。今、かなりすごいことになってます」

 エスラールがサイシャーンに駆け寄ったが、サイシャーンは上のエメザレに呼びかけた。

「こちらもかなりすごいことになっている。今、総監に呼び出されたんだが、反王家勢力がエメザレとはどういうことだ? 説明せよ、と命令がくだった。私と一緒に来てくれ」
「無理です」

 エメザレはそう言い放った。梯子から降りてくる気配はない。

「マジかよ」
「なぜ無理なんだね。呼んでいるのは総監だぞ」

 さすがのサイシャーンもその台詞に驚いたらしい。表情はほぼ変わらなかったが、目元の筋肉がぴくっと動いた。

「もう少しで事件の謎が解けます。説明すると長くなりますが、この図書室のどこかに、おそらくダルテス文学の棚にサディーレの日記帳があります。それさえ見つけられれば、事件は解決します。今日一日でなんとか探し出し、明日総監のところへ持っていきます。その時に全てお話します。だから明日まで待ってください。先輩、お願いします。そう総監に伝えてもらえませんか」

 エメザレはサイシャーンの顔を真っ直ぐに見つめている。サイシャーンもエメザレの顔を見つめる。まるでお互いがお互いを確かめ合っているように、見詰め合っていた。そこに一体、どのような心理がめぐらされているのか、エスラールには全く見当が付かない。

「なんとかしよう」
 サイシャーンが頷いた。
「あと、いくつかお願いがあります」
「なんだね」

「今日は図書室を開けたままにするように頼んでください。あと一つ、サディーレの中間調査の順位をきいてきてください」

 上の方からものを言うエメザレはなんだか偉そうに見える。

「まったく、きみは人使いが荒いな」

 サイシャーンはこめかみを掻くと、エスラールの肩をぽんと叩き、軽やかに、それでいて優雅に走り去った。


 午前一時の鐘が鳴った。探し続けているが見つからない。まだ三分の一も見きれていない。普段であれば図書室は午前二時に閉まる。ガルデン内の施設は、基本的にエルド教において最も神聖な時間帯が終る午前二時で閉められることになっているのだ。サイシャーンの権限とやらでなんとかなればいいが、最悪駄目だったとしても忍び込めないことはない。ただ当然ながら教官にバレれば叱咤の嵐となんらかの処罰は下されることだろう。まぁそれはこの際仕方がない。

 本を開け閉めするだけの作業は段々と苦痛になってくる。しかもこの棚からもっと面倒なことになった。本がダルテス語で書かれていないのだ。ダルテス文学をエクアフ語で訳した本に変わって、中身をいちいち読まねばならなくなった。しかも、なかには自伝や叙事詩などが混じっていて、ざっと見ると日記のようにも読めるものがあり、判断するのにやたらと時間が掛かった。

 せっかく見つけたと思えば古い戦争の記録だったり、太陽の宗教の苦行の思い出だったりして、苛立ちが募った。時々エメザレの様子をうかがうと、エメザレはそういう動作をするために造られた生き物のように淡々と本を調べていた。

「いたいた、エルラール。すげー探したんだぞ」

 後ろから声をかけられ、エスラールは振り向いた。そこにはフェオが立っている。本の世界の呪いから一時的に解放されたような気分になって、爽やかな笑顔が湧き出てきた。

「あれ、どうしたんだよ」

 エスラールが聞くと、フェオはちょっとばつが悪そうに、うつむき加減で口を開いた。

「俺たち、あれから話し合ったんだけど、お前の言うとおり、言うだけ言ってみるようかと思って。お前の言う通りだよ。あのユドがこんな事件起こせたんだもんな。ユドですら、ロイヤルファミリーに抵抗しようとしたんだもんな。俺もそうするよ。そうしないと駄目だよな。俺のグループ全員を説得してきたよ。みんなでロイヤルファミリーのところに行くよ。それで、出会ったばっかりでこんなこと頼むの、悪いんだけど、もし協力してくれるなら、エスラールと、あとエメザレにも来てほしい。もう遅いかな。エメザレにも悪いこと言っちゃったし……」

「よく言った! もちろん協力するに決まってるだろ! 俺たちに任せろ! な、エメザレ」

 エスラールはフェオの肩をがしっと掴み、上にいるエメザレを見た。エメザレは作業を続けながらも、視線をこちらに向けて微笑んだ。

「うん」
「ありがとう! ありがとうエスラール。エメザレも」

 肩に置かれたエスラールの手を熱っぽく握り、フェオは目を輝かせ言葉を続けた。

「人数ってさ、雑魚でもたくさんいたほうがいいかな。それなら一応、皆に声かけてみるけど? 二人の名前を出せば、人数は集まると思う」

「ああ、人数は一人でも多い方がいいな。で、日時は?」

「明日の午後十一時だ。時間が経つと覚悟が鈍る。できるだけ早い方がいいと思って。今ならみんなその気になってる」

「よし! 明日だな。絶対やるぞ」

 エスラールとフェオは少々オーバーに手を取り合った。

「まるで革命だなぁ。お前ら」

 僅かな怒りを帯びながらも、やる気のない声が響いた。ミレーゼンだ。フェオの顔が一瞬にして青くなる。
 ミレーゼンはフェオの後ろにある本棚の間から、これぞ悪役の登場とばかりにゆったりと姿を現した。持っていた本で肩を叩きながら、陰険な笑みを浮かべている。

「そういう重要な計画はこんなところで堂々と話し合うもんじゃないぞ」
「お前、まだいたんかい。エロ本熟読しすぎだろ!」
「何時間エロ本読もうが俺の勝手だろうが」

 ミレーゼンはなぜか胸を張った。

「ミレーゼン先輩……」

 さっきはエスラールが怒鳴っても全く怯えなかったフェオだが、ミレーゼンは恐いらしい。フェオの両足は見てわかるほど震えていた。

「フェオ、自分の言ったことがどういうことかわかってるんだろうな。いや、わかっててもわかってなくても、もう遅い。ロイヤルファミリーの名にかけて、俺は反逆者を許すわけにはいかない。このことはシマ先輩に報告させてもらう」

「望むところだ! お前たちの趣味の悪い根性を叩きなおしてやる!」

 何も言えずに泣きそうになっているフェオの代わりにエスラールが言ってやった。

「エメザレ、お前はこいつらに味方するのか」

 ミレーゼンは、フェオとエスラールに一瞥をくれてから、梯子の上にいるエメザレを見た。エメザレはこの事態をものともせず、日記を探し続けていたが手を止めた。

「そうだよ」
「そうか。お前は敵になるのか。残念だな」
「僕はもう一度シマ先輩を倒す。そう伝えておいて」

 エメザレの言葉にミレーゼンは数度頷き、フェオに向き直った。フェオは今にも腰を抜かしそうなほどに震えて、不気味な少女のようにエスラールに擦り寄ってくる。

「二度と口がきけないように痛めつけてやるからな。覚悟しておけよ」

 ミレーゼンはフェオをにらめ付けて立ち去ったが、完全に姿が見えなくなると、気が抜けたようにフェオはその場に座り込んだ。

「俺、こんなんで大丈夫かなぁ」

「これで引くに引けなくなったな。もう行くしかない。でも大丈夫だ。絶対勝ってやる。だから仲間、集めてこいよ」

 ぼやくフェオに手を貸し立たせてやりながらエスラールは言った。

「わかった。絶対勝とう。絶対だ。明日の午後十一時だぞ。絶対来てくれよ。二人とも」

 フェオはもう一度しっかりと確かめるようにエスラールの腕を掴み揺すった。

 また日記探しに戻らねばならなくなったエスラールは、一度ため息を付いてから頬を叩き気合を入れ、一冊本を取った。と、向こうからサイシャーンの姿が見え、エスラールは取った本を戻した。

「待たせたな、言ってきたぞ」
「総隊長、どうでしたか?」

「それはそれは憤慨されておられたが、なんとかなだめておいた。明日の朝まで待つそうだ。一体どうなってるんだ」

 総監をなだめるという、ものすごい偉業をさらりと流してサイシャーンは冷静な顔のままで聞いた。

「サディーレは日記をつけていたんですよ」

 エスラールがサイシャーンに一通りの出来事を説明すると、サイシャーンは腕を組み、目を瞑って考えるような仕草した。

「なるほど。日記か。私も探すのを手伝おう。図書室は開けっ放しにしてもらうようにしてきたから、朝まで探しても問題ない」

「中間調査の結果はどうでしたか?」

 エメザレが上から会話に入ってきた。

「ああ、順位だが、戦闘能力値が二十五段階中『二十三』、学力値が五百点満点中、『四百十二点』で、年別の総合順位は十五位だった」

「低い」

 エメザレは唸るように言った。

「え?」
「低いです。年別で十五位ならロイヤルファミリーに入ってないと思います」
「ロイヤルファミリーに入ってないとどうだっていうんだよ?」
「たぶん、死んだ原因はそれだよ。日記を早く探そう」

 エメザレは本を調べる手を速めた。

 三人で探しだしてから、かなりの時間が経過したが日記は依然として見つからない。
時を知らせる鐘は三十分ごとに大小交互の音で鳴るが、午前二時を過ぎると、しばらく鳴らなくなる。終身時間は決まっているわけではないが、だいたい午前二時なると皆寝てしまう。寝ている間に鐘がなってもうるさいだけなので、鳴らさないことになっているのだ。次になるのは午前六時だった。

 だいぶ前に午前二時の鐘が鳴った気がするが、今が何時なのかわからない。
 段々と時間の感覚が麻痺していく。会話もなく、まるで時間が無限に引き延ばされているような感覚に陥る。集中力も途切れ、睡魔に襲われ、文字を読んでも意味を理解するのに時間が掛かってきた。なにせエスラールはここしばらくまともに寝ていないのだ。だがもし見落としでもしたら洒落にならない。エスラールは何度も眠りかけ、頭を揺らしながらも本をめくり続けた。頭の中はもはや文字地獄だ。

 ふと、文字地獄の中に奇妙な文字が現れた。それがシクアスの文字だと理解した瞬間、エスラールの目が完全に覚めた。本の表紙には何も書かれていないが、一枚めくるとシクアス語で活版印刷がされている。ボラビン河流域の公用語はシクアス語だ。現地の指揮官から貰ったのなら、当然シクアス語で中表紙が飾られているだろう。次のページをめくらずにエスラールは直感した。

「あった」
「本当か」

 その声に引き寄せられるようにエメザレとサイシャーンがよってきたが、さすがに二人とも疲れているらしく、酷い顔をしていた。

「これだ。これが、サディーレの日記だ」

 エスラールは日記を勝利を報せる旗のように掲げた。それとほぼ同時に午前六時を知らせる鐘が鳴った。

◆◆

 ボラビン河流域にて
 本日、現地指揮官マ=メアスの息子を戦場にて救出し、その褒賞でこの日記を頂戴した。本当は勉学に役立てくれと言われたのだが、以前より日記を付けたかったので、日記として使わせてもらう。今日は雨だ。この辺りはクウェージアよりも雨が多い。

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 今日も雨だ。あと一週間で任期が終る。こんな憂鬱な場所から早く抜け出したい。ガルデンの柔らかなベッドが恋しい。
 そういえば、この辺りに伝わる『ヴォルフィード』の伝説を現地の兵士から聞いた。ヴォルフィードは本当に自らを信仰する者の前に現れ、願いを叶えてくれるそうだ。金髪のとてつもない美女で最高の慈(いつく)しみをくれると、見た者は皆、口を揃えて言っているらしい。本当だろうか。

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 突然だが、あなたに名前をつけようと思う。日記とは日を記すものだが、私は心も記しておきたい。誰に見せるつもりもないし、見せないから、本当の気持ちを語れるだろう。紙に語るのではやりにくい。名が欲しい。誰かに聞いてほしいという気持ちがあるのだろう。だが私は強さを失うことをなによりも恐れている。

 日記に名前をつけるなんて、私は可笑しいだろうか。滑稽だろうか。けれどどこかで語らなければ、なにかで表現しなければ、それはもっと惨めな気がする。

 あなたの名はヴォルフィード。気に入ってくれただろうか? 私の女神。私の美しい金髪の乙女。柔らかなピンクの肌を持つ、清く強い神よ、私を救ってくれることを祈ります。おやすみなさい。

(中略)

 ガルデンにて
 無事帰還しました。クウェージアは曇りが多いです。今日も曇りでした。久しぶりに太陽が見たい。禁句ですね。エルド教では太陽の神は敵でした。

 時間ができたので私のことを話します。私はサディーレといいます。歳は十八の男です。私は、はっきり言って誰にも好かれておりません。好かれるようなことはなに一つしていない。自覚しています。友人はいません。心を打ち明けたひともいませんし、誰かに打ち明けたくもありません。なぜなら、私は絶対的に強くありたいからです。私はそういう生き方しかできない馬鹿な男です。

 でもヴォルフィード、昔はそんな自分が好きだった。誰に頼らずとも、好かれずとも、一人でその地位を築き、座っていられることが自慢だったのです。しかし、今は違う。私は僅かながら、しかし確実に消失できない悲愴を感じている。どうしてそんなことを思うのか、もう気付いています。ずっと前から気付いていて、どうにかして変化をもたらしたかったのですけれど、私は動けずにいます。私は深い深い穴の中に落ちてしまったかのようです。這い上がりたいのに、その間抜けな姿を見られたくないばかりに、穴の中から出られずにいます。

 私のヴォルフィード。薔薇色の頬を持つ輝かしい女神。私に強さをください。

(中略)

こんばんは。ヴォルフィード。今日は久しぶりに晴れていました。
私には思う事がある。能力のことです。この間、昔の自分が好きだったと言いました。あれは全能感を持っていたから思っていたことなのでしょう。私は十八ですが、もう限界を感じております。たかが十八で、とお思いでしょうが、限界の輪郭は日に日に強くなってくるのです。そんな輪郭を感じず、限界など見えなかったあの愚かな若い日々は、まるで無限大のような、どこまでも強くなれ、能力が伸び続け、やがては全能になれるような気がしていたのです。だから誰かに優しくする必要はなかった。孤高であることが美しく、そんな自分にはできないことが何もないような、盲目的な錯覚していた。

 そんな感覚をまだ持っているひとたちはいるでしょう。皆、まだ若く、まだまだ伸びていく。私だけが止まり、もう皆の速度に合わせて進めないことだけが確定しています。限界が恐い。限界が襲ってくる。

 限界値はひとによって違います。そしてそれは安易に変えられる数値ではない。知っています。ヴォルフィード。私の世界の均衡が厳かに崩れてゆきます。あの全能感を味わうことは二度とないのでしょうか。でもまだかすかに覚えてはいます。おやすみなさい。

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 こんばんは。昨日はあなたの夢を見ましたよ。私はボラビン河にまた滞在していました。長く長く雨が降り続き、憂鬱なで湿った、あの薄暗い空気の中に、閃耀(せんよう)と映える全ての美で構築されたあなたが、どこまでも広がった救済のように現れて、私を、羊水に似た優しさで酷く包み込んでくれましたね。女神。あなたと二人でどこへでも行けるような気がしました。私を慰めてくださったことを感謝します。

(中略)

 ヴォルフィード。あなたのことを考えると心が苦しくなるのです。私は女を知らない。触ったことがありません。女はどれほどしなやかな肌をしているのだろうかと、そんなことを延々と考える時があります。男なので下品な想像もします。でもあなたのことを考えると、心が一掃される。あなたに会えてよかった。ヴォルフィード。あなたは救いです。美しく神聖な金髪の乙女。深い穴の中でもあなたの美しさをはっきりと見ることができます。

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 ひとに見られた。殺したい。

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 いいことがない。全部死ねばいい。どうして世界などあるんでしょう。今日も曇りでした。おやすみなさい。

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 ずいぶんと間が空いてしまいました。中間調査と呼ばれる試験があり、そのことばかりが気になっておりました。一言で報告すると失敗しました。こうして日記を書く気力を奮い起こすのに一週間もかかりました。いや、気力などありません。抜け殻です。私の絶望は酷く、言葉にするのも辛いです。まともな顔をしたまま、叫ぶこともしなかった私を褒めたいほどです。

 私はおそらく王家を追放されることでしょう。私はずっとこの日を恐れていました。自分の無能がついに証明される日が迫っています。私はどうするべきでしょうか。

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 気分が悪い。寝ます。宴会には行かない。今日も曇りでした。

(中略)

 ヴォルフィード、私は生ゴミの中で生まれました。ベルリナオという大きな市場には、肉や卵やミルクや遠くから運ばれてきた痛んだ魚などが売っていて、簡易な屋台がたくさんあり、腐って駄目になった食材や残飯を捨てる大きなゴミ捨て場が近くにあって、そこは飢えた浮浪者たちが集う食堂のようなところでしたが、私はそこに捨てられていました。

 浮浪者の一人が、腐った血や肉にまみれてヘソの緒をぶら下げている私を、新鮮な死んだ子豚だと思って拾い上げてくれました。子豚ではないとわかり、全く動かない私をどうしようかと迷ったあげくに、生ゴミの中に戻そうとすると、私はまるで今生まれたかのように泣き出したのだそうです。優しい浮浪者は私をシグリオスタ小護院まで連れて行ってくれ、私を渡す時に、その話をして去っていきました。

 モフィスという教師は私を特別に可愛がってくれました。モフィスはその時の話を、暗示のように何度も私に聞かせては、最後に「英雄は生まれた時から伝説を持っているものだ。お前は強いからきっと最後には英雄になれる」と言って締めくくりました。
だから私も自分は強いのだと信じてきました。私は生ゴミの中で死んだのではなく、そこから生まれた強い存在なのですから。伝説を持って生まれてきたという事実は絶対的な自信に繋がりました。私の全能感はそうして生まれたのだと思います。

 限界の輪郭が見える前までは、私はずっと自分が選ばれた存在だと思い込んでいました。一番強い孤高の戦士になれる気がしていました。でもそうじゃないことに気付いたら、私の内に眠る本当の私と目が合って、怖くなりました。そしてその私は、王家の追放という形で、表の世界に誕生することになるのです。

 ああいう私は殺さなくてはなりません。ああいう私は死ななくてはなりません。私の強さを奪う存在は、それが例え自分自身であっても、けして許すことはできません。弱い私が、私を完全に覆いつくす前に、誰かの目に触れる前に息の根を止めねばなりません。

(中略) 

 ヴォルフィード。私は明日、私を殺すことにしました。
 だからあなたとはここでお別れです。あなたをどうしようかと悩みました。破棄することも考えましたが、やはりあなたは大事な存在なので、それはどうしてもできません。あなたは私が確かに強かったということを物質的に証明してくる、たった一つの存在です。そして同時に私の弱さを書き記した日記でもあります。ですから、どこかへやらねばなりません。

 けれど安心してください。あなたを寂しい場所や汚い場所へ葬ったり致しません。あなたに相応しい、高等で静かな場所を見つけました。
 あなたをそこへ隠したら、私は誇り高く、呻きの一つもあげることなく、ゆっくりゆっくり、生命という名の源流がついに途絶えてゆくように、薄い煙がいつの間にか消え去るように、苦しみとは無縁のような顔で、最後の尊厳として、心ばかりの微笑みを湛(たた)えて私に殺されます。

 ヴォルフィード、あなたに感謝しています。こうして自分と向き合う事ができたのはあなたのお陰です。もしあなたがいなければ、私は死ぬ理由もわからないまま、突発的に死のうとしたことでしょう。でも私はどうして私を殺さなければならないのか、しっかりと理解し納得したので、なんだかすっきりとした気持ちで殺されることができます。

 私の美しい金髪の乙女よ、ありがとう。

 ああ、私のこの言葉が、世界中の誰にも届きませんように。
 どうか永遠に見つかりませんように。
 どうか、私の滑稽で弱い大切な強さが、誰かに踏みにじられませんように。

 ヴォルフィード、私は英雄ではありませんでした。本当の私は、市場の生ゴミの中に捨てられた、新鮮な死んだ子豚のようなただの子供でした。ただの淋しい目をした、捨てられた子供でした。

 外は今日も曇りでした。きっと明日も曇りでしょう。
 それでは、おやすみなさい。ヴォルフィード。


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