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帝立オペレッタ19(ガルデンの怪物)※性描写注意
こうしてサイシャーンの背中を見つめるのは何年ぶりだろうか。たぶん、こんなに近くで見るのは初めてのことだ。二人で連れ立って歩くことも初めてだ。シグリオスタ大護院にいた時、その背中は常に遠く高みにあり、絶対的な恐怖の対象でもあった。その恐るべき存在が、何故今は恐ろしくも同時に優しさのようなものを揺蕩(たゆと)わせているのかが理解できなかった。
エメザレはサディーレの日記をしっかりと小脇に抱え、サイシャーンの後ろについて歩いていた。
ガルデンはいうなれば二層構造になっている。内側にある西棟、東棟、一号寮、二号寮の外側に外周千五百メートル、高さ二十五メートルの城壁が聳えているのだ。中央玄関のある東側の城壁には監理棟と呼ばれる荘厳な建物がくっついており、教官室や総監室は監理棟にあった。監理棟は東棟としか繋がっていない。
唯一の外界との繋がりを持つ東棟には食堂があるため、ちょうど朝食の時間にあたる今は賑わっていた。その食堂のほんのすぐ先に、ガルデンと外界を繋ぐ扉はあった。なんということのない二枚扉で、日常的に目にする場所にごく自然についていた。だが誰も日常的に開けようとはしない。扉の先には短い廊下があり、その先に本当に外へ通じる扉があるのだが、当然硬く閉ざされていて通れないことを、誰もが嫌というほどわかっていたからだ。
サイシャーンは、壁模様の一部のように日常に溶け込んだ、手前の扉に手を掛けた。いつも見流されている開かずの扉が開くのは妙に新鮮だった。サイシャーンは慣れた様子で入っていったが、エメザレがこの扉を通ったのは、ガルデンに来た時以来だ。僅かな緊張と共に足を踏み入れると、一年前に通った時と同じ、五メートルほどの短い廊下があった。廊下にはなんの装飾品もない。ランプを引っ掛ける金具が壁に一箇所ついているだけだ。
半ばまで来たところでサイシャーンが唐突に振り向いた。つい珍しさで周囲に意識が向いていたエメザレは、サイシャーンにぶつかる寸前に気付いて止まったが、ふいにドアップで現れた鉄面皮に驚いて叫びかけた。しかも今日は寝ていないせいで目が充血していて、危険な凄みに拍車がかかっている。大護院時代に見ていたら迷わず泣き出していたことだろう。
「な、なんでしょうか」
エメザレは二歩ほど後ろに下がり聞いた。
「そういえば三本タイは持ってきたかね?」
サイシャーンに言われて三本タイの存在を思い出した。総監に会うのだ。正装をしていく必要があるだろう。だが、肝心の三本タイは昨日デイシャールに没収されたまま返されていない。
「いえ、持っていません」
「ではこれを付けていきなさい」
サイシャーンは自分のポケットからきれいに折りたたまれた三本タイを出した。昔であれば絶対に考えられないことだ。この優しさを一体どこで手に入れてきたのか不思議に思いながら、エメザレは恐る恐る差し出された三本タイを受け取った。
「ありがとう……ございます」
エメザレは三本タイを結んだが、サイシャーンは無表情のままエメザレを見続けている。そういう表情に死ぬほど乏しいところは変わっていない。エメザレとサイシャーンは沈黙を挟んでしばし見つめ合った。
「あの」
「今日、総監室に呼ばれているのは君だけだ。私はついていけない」
「わかっています」
エメザレが答えた後で、またぎこちない間が空いた。
「私を許してくれ」
サイシャーンは願うように言った。先日も同じことを言われたが、それが具体的に何を指しているのか、実はエメザレにもわかっていなかった。
シグリオスタ大護院において、サイシャーンという男は神であった。もちろん救済の神ではない、畏怖の象徴としての神だ。サイシャーンはシグリオスタにいながらシグリオスタにはいなかった。シグリオスタの弱肉強食という伝統の支配を受けなかった、ただ一人の神だったのだ。そして伝統を変えられる立場にありながら、法則に干渉しない無慈悲な神のように伝統に一切干渉しなかった。全てを把握しながら、力がありながら、なにもしなかった。救えたものはたくさんあっただろう。エメザレのことにしてもそうだ。サイシャーンが一言「やめろ」とさえ言えば、エメザレへの容赦ない蹂躙行為は止んだはずだ。
サイシャーンはそういったことを詫びているのだろうかと思った。だが許すもなにも、そもそもエメザレはサイシャーンの助けを期待したことは一度もない。期待していないから恨んでいない。それとも全く別のことに詫びているのだろうか。エメザレは首を傾げた。
「私が言っているのはメルベロットのことだ」
「メルベロット?」
意外な名前が飛び出してきたので、エメザレは驚いた。
「メルベロットのすぐ近くに私はいた。だが私は彼を助けなかった」
「それを、なぜ僕に謝るんですか」
「君たちは友達だったんだろう。君たちは手紙をやり取りしていたはずだ。私はそのことを知っていた。君はメルベロットを殺した私を、私たちを憎んでいるだろう。メルベロットをなぶり者にしていた私たちのグループを」
サイシャーンの表情からは謝罪の感情は読み取れなかった。だが平坦な声の中には確かに罪悪感が感じ取れた。
メルベロット。それはエメザレの中で最も美しい存在であると共に最も忌まわしい存在でもあった。彼を思い出す時、必ず最高に美しいことと最高に醜いことを思い浮かべることになる。いくら忘れようとしてもその強大な思い出は、エメザレの脳を抉るように刻み込まれていて、けして取り去ることはできなかった。永遠に美しい少年はエメザレの心に深すぎる影を落としていた。そしてその二人の関係は誰にも知られていないはずだった。清く大切な関係を守るため、細心の注意を払っていたはずだ。だが神にはとっくの昔に見透かされていたのだ。
なんだか滑稽に思えて、脳裏に蘇る幻影を追い払うようにエメザレはそっと微笑んだ。
「いいえ。先輩は勘違いしています。その理屈で言うなら、メルベロットを殺したのは僕です。その証拠に、メルベロットの最後の手紙には、先輩のこともシマ先輩のことも一切書いてありませんでした。僕への恨みだけが綴られていました。僕への呪いの言葉だけが綺麗に書かれていたんです。だからあなたが謝る必要はありません」
「君への恨み? 君はなにもしていないじゃないか」
「それより行きましょう。ただでさえ総監は待ちぼうけをくらっているんですから」
エメザレは先へ急いだ。エメザレはメルベロットの存在からできる限り遠ざかっていたかった。
「待て、エメザレ」
サイシャーンに腕を掴まれ、自分の意志とは無関係に身体がびくついた。嫌な癖だ。直したいがどうしても直らない。身体がどうあれ、意識としては別に怯えているつもりはなかった。
サイシャーンはエメザレの腕を優しく掴み直した。
「総監はシマよりもかつての私よりも、もっとずっと恐ろしい存在だ。会えばわかる。一目見ればわかる。早く帰ってくるんだ。早く帰ってくる努力をするんだ。出し抜こうなんて考えは捨てろ。総監は――ガルデンが造り出した怪物だ」
「僕は例え死んでも気にしません」
「ばかな気を起こすな」
サイシャーンはエメザレを強く揺さぶった。心配しているのだろうが、表情はただ恐いだけで、どちらかというと脅迫めいている。
エメザレは自分の腕を掴むサイシャーンの大きな手の上に手を置いた。
「大丈夫ですよ。早々に死ぬ気もありませんから、ちゃんと帰ってきます。でも、もしなにかあっても先輩が気に病むことはないと言いたかっただけです。もう行きます」
サイシャーンの手は諦めたように離れた。エメザレは外へと続く扉の前に立った。
扉にはベルを鳴らす紐と小窓が付いている。紐を引っ張れば向こう側のベルが鳴り、常時二十人いる見張り番の誰かがやってきて小窓を覗き、鍵を開けるか否かを決めるわけである。
扉の脇に控えめにぶら下がっている紐を引っ張ると、案外けたたましいベルが鳴り響いた。エメザレがこの時間に来ることが知らされていたのだろう。小窓はベルがなったのとほぼ同時に開き、眼光の鋭い中年の顔が中途半端に見えた。
「エメザレか」
「はい」
エメザレが答えると扉は軽く軋んだ音を立てて空いた。エメザレには本当に特別な外の世界だ。だが、嬉しいという気持ちは意外なほどなかった。振り返ると、サイシャーンがかなり後ろのほうから相変わらずの金属で固めたような無表情で、エメザレを見つめていた。
◆◆◆
外界といえども所詮は同じ建物の中である。客人を迎えることもあるのだろうし、内装には少々気を使っているようだが、特別驚くようなものはない。内部と違うことといえば、あまり大したものには見えない剣と盾が壁に飾られていることと、内部より床が磨かれていてきれいだということくらいだが、せっかくなのでエメザレは一応周りを見回しながら中年男の後に続いた。
総監室は四階にあった。どうやら監理棟の最上階であるらしい。最上階は他の階層より狭いのか、見たところでは総監室以外に部屋はなさそうだった。権限の高さを誇示したいのか、ただの趣味なのか謎であるが、総監室の扉は白かった。全く汚れのない白い扉は、西棟に鎮座する白い礼拝堂の高慢さに似ている気がした。
「エメザレを連れてまいりました」
中年男は総監室に取り付けられた白いドアノッカーを二度鳴らして言った。中から声は聞こえなかったが中年男は迷わずドアを開けた。唐突に部屋から眩しい光が溢れ出してきて、エメザレは一瞬色彩を失った。
中年男はエメザレの背を押し部屋に押し込めると、すぐに扉を閉めた。
目の前に広がる光景にエメザレは息を呑まないわけにはいかなかった。エメザレは色彩を失ったのではなかった。そこはは色彩のない部屋だったのだ。見たこともない、ただ真っ白な世界だ。総監室には大きな窓があり、エメザレをちょうど照らすように、わずかに温かく鋭い朝日が入り込んでいて、真っ白な世界により一層の輝きを与えていた。そこにあるものは全て、机も椅子も本棚も絨毯も壁も窓枠に至るまで白い色で統一されていた。
ずっと昔に聞いた事がある。白い髪の住む王都は世界で最も美しく、白いものしかない都市であると。エメザレは幼いとき、白い都市を想像し、よく陶然(とうぜん)としたものだ。エメザレが知っている、黒っぽく汚れた世界ではなく、もっと違う完全な白い世界がこの世のどこかにあるのだと思うと、純粋に嬉しくなった。エメザレの前に広がっている光景は、その白い都市のイメージを思い起こさせた。
「綺麗」
エメザレは声に出さず、口の中で呟いた。
「よく来たね」
横から声がした。ガルデンを統べる男は純潔な白い部屋で、偉大な影のようにそっと佇んでいた。
エメザレは敬礼の姿勢を取り、総監の顔を見た。一目見ればわかる、と言った先ほどのサイシャーンの言葉を思い出した。
総監の見てくれから言えば、怪物でもなんでもなかった。むしろ穏やかな顔の壮年だ。歳のわりにかなり引き締まった軍人らしい身体つきではあるが、元の骨格は大して立派ではなかっただろう。身長は高いとはいえなかった。白髪が丁度よく入り混じった黒髪は、灰色がかって見え、その色合いはどことなく柔らかな印象を与えている。控えめにウェーブした長めの髪を後ろで縛った姿は、軍人というより裕福な家のおじさんといった感じで、なんの脅威を感じる必要もないように思える。
しかしそれはあくまでも見た目の話である。
一見して害のなさそうな容姿の裏側には、計り知れない悪意が閉じ込められていることをエメザレは瞬時に感じ取った。
「直ってよろしい」
総監の声色は、今まで聞いたどんな声よりも優しく聞こえた。エメザレは言われたとおり、敬礼を直った。
「こっちへおいで」
総監はたおやかな笑みを浮かべ、さらうようにエメザレの腰に手を回してくる。その手つきはあくまでも上品だったが、その指の先から底知れない憎悪が伝わってきるようで寒気がした。
エメザレは脇に抱えていたサディーレの日記を胸の位置に持ち替えた。
総監はたおやかな笑みを浮かべているが、けして微笑んではいないのだ。まるで微笑みを描いた絵を顔に飾っているようだ。総監は笑っていない。もちろんエメザレを歓迎してもいない。総監は全てに怒り狂っている。内なる感情を鎮めて押し戻し、押し殺し、かろうじて不安定にそっと笑っているのだ。顔に飾られた微笑の絵を剥がしたら、きっとあらゆる汚物を煮出したような、世にも醜い情念が我を忘れ、溢れてくることだろう。エメザレはゆっくりと大きく息を吸った。
腰を穏やかに抱かれたまま、奥へと連れて行かれる。奥はプライベートスペースと言わんばかりに、白い薄手のカーテンで仕切られている。外からは物のシルエットがなんとなくわかるくらいだ。総監はカーテンを優雅に開けて見せた。
そこはゆっくりと食事を取るためのスペースであるらしい。テーブルとソファーに対して、広すぎる印象の空間はやはり真っ白で、現実から切り離したようにゆったりとしている。
「ここに掛けたまえ。君と食事をするのを楽しみにしていたよ」
総監は淑女を扱う紳士のような動作で、肘掛のついた一人掛けの大きなソファーをひいた。総監の有り得ないほどの親切に恐れを感じながら、持ってきたサディーレの日記帳を膝の上に置いてしっかり守り、エメザレは一応おとなしく座った。
貴族が使うような優雅な曲線美の脚がついたテーブルの上には、色彩の美しさを計算し尽くして飾ったのであろう料理が並べられていた。エメザレがいつも食べている、美味しくもないぼそぼそしたパンとは比べものにならない。席の前には、朝食にしてはやたらと品数の多い料理が一式、もう置かれている。
世の中にはこんなにきれいな食べ物があるのだと感嘆して、エメザレは自分の目の前に並べられた料理に見入ってしまった。
「さてと」
総監は向かいに腰をおろした。
「今更言うこともないだろうが、私はガルデンの最高責任者ラステルガ総監だ。もっともほとんどの場合、ただの総監としか呼ばれないがね」
と両手で天を仰ぎ、軽い口調で言った。
「昨日は大変失礼をいたしました」
エメザレは立ち上がり深々と頭を下げた。厳罰に処されてもなんの文句も言えない立場にある。だが、聞こえたのは総監の小さな笑い声だった。
「まさか私が呼んでいるのに来ないとは思わなかったから驚いたよ。しかし反王家勢力が空想上の存在であるならば、この一件は解決したようなものだ。急ぐ必要もないと考えを改めた。それなら最初の予定通り、君とゆっくり朝食でも食べながら話し合うのも悪くないと思ってね。もういいから、頭を上げて座りなさい」
「申し訳ありませんでした」
エメザレはもう一度謝罪してから、ふかふかのソファーに腰掛けた。
「それにしても君は本当に綺麗な顔立ちをしているんだね。まるで愛されるために生まれてきたようだ」
「恐れ入ります」
そうは返したが、孤児で愛とは無縁の人生を歩んできたエメザレからしてみれば、総監の言葉はただの嫌味にしか聞こえない。
「さあ、さっそく召し上がれ。いつも君が食べているものより美味しいはずだ。どれでも好きなものを好きなだけ食べていいんだよ」
総監はテーブルに広げられた料理を指し示し、まるで小さな子を甘やかすような口調で言った。
エメザレは、総監と二人でのんびり朝食を食べることに、なんの意図があるのかを考えかけてやめた。どちらにしろこれらの料理を食べねばならない。総監がわざわざ用意してくださった朝食を拒否する権利はないのだ。
「はい、頂きます」
エメザレは見事に白いスープを煌びやかなスプーンですくい、口に運んだ。ミルクのような白さだが上品なジャガイモの味がした。テーブルの中央には滅多に見かけることすらない、異国の果物が並んでいる。馴染みのない形の異国の果物はあまり食べたいような気がしない。それよりスープの隣にある、苺を潰してミルクをかけたシンプルなデザートのほうが美味しそうに見えた。
◆
食事が始まると総監は色々と話し出したが、まるで本題を避けているように、料理の素材の話やら、訓練の話やら、天気の話やらをし続けた。世間話をするために呼んだわけではなかろうし、エメザレも世間話をするために来たのではない。
焦る気持ちがエメザレを苛立たせたが、それでも世間話に適当に相づちを打って、苺ミルクを味わった。
しばらく総監との取り留めのない会話が続き、ようやく気が済んだらしい総監は、急に我に返ったように無駄話をぴたりと止めて、エメザレを見つめた。
「それで、そろそろ本題にでも入ろうか。エメザレくん。私が振るまで、よく我慢したね。えらいえらい。さすがに君はお利巧なようだ。君の話を聞こうか。私に言いたいことはなにかな」
総監はあくまでも穏やかな顔を保ちながら聞いた。試されていたのだろうかと思いながら立ち上がり、エメザレはサディーレの日記を取り出して、最後のページを開いて掲げた。
「これはサディーレが書いていた日記です。ここにはっきりと、自殺すると書いてあります。調べればこの筆跡がサディーレであることも、この日記帳が現地指揮官から貰ったものであることもわかります。ユドがサディーレの部屋を訪れる前に、サディーレは既に自殺し死んでいたんです。でなければユドがサディーレを刺せるはずがありません。ユドは無実です。確かに事件を大事(おおごと)にしたことは罪に当たります。けれども死刑に値する罪ではありません」
エメザレが日記を差し出すと、総監は食い入るように最後のページを読んでから、ぱらぱらと前のページをめくった。総監の顔つきは無表情で、柔らかな表情を顔に貼り付けることを忘れてしまっている。
「なるほど」
総監は日記を閉じると呟いた。その顔には穏やかさが戻っている。
「あなたにならばユドを救うことができるはずです。お願いします。彼を助けてください」
「私がユドを救わねばならない理由はなんだろう」
極めて冷徹な声色だった。それでも温和な表情だけは崩さすに言って、総監は続けた。
「それにこの国、クウェージアでは自白がなによりの証拠になる。君が持ってきたその日記帳は、ユドが来る前にサディーレが自殺していた可能性を示してはいるが、決定的な証拠ではない。ユドが自白を撤回しない限り極刑は免れない。その上、ロイヤルファミリーならばともかく、彼は二号隊最弱の役立たずだ。いなくなったところで誰が困るわけでもない。生きている価値のない奴が、ありもしない事件をでっち上げ、偉そうに要求を突きつけ、ガルデン史上に残る混乱をもたらせ、総監である私を困らせた。私にはユドを憎む理由はあっても、手間暇かけてまで救う理由は一つもないと思うのだが、どうだろう」
「あなたはガルデン総監です。ガルデンの愛国の息子達を守る義務があるはずです。全ての可能性はユドが無実であることを示しています」
「可能性は認めよう。そしてもちろん、私にはユドを救う義務がある。だが私には義務を葬る力もあるんだよ。エメザレくん。義務を守るか葬るかは私の気分次第ということだ。それにだ、エメザレくん。この事件の原因は君だろう。ユドは、ロイヤルファミリーでありながら犠牲者であり続けた君の奇行をやめさせたかったから、こんなことをしたんだろう。つまり、私はユドと君に踊らされていたことになる。私には君の願いを聞き届けてやる理由もない」
穏やかな顔は、無理に作りこんだような変な表情となって、このガルデンで何十年の月日をかけて腐り育った闇が透けて見えたような気がした。
「どうすればあなたの気が向くのでしょうか……」
と言った時、エメザレは口が重たくなっていることに気が付いた。眠気にも似ているのだが、ぼんやりして頭が痺れていくような感覚がゆっくりと侵食してきて、“食事をした意味”をエメザレは瞬時に理解した。
「そんなにユドのことを助けたいのか。理由はなんだね」
ラステルガの声は何重にも重なり揺れて、幻想的に耳に響く。
「僕の善意は……かつて報われませんでした。だから、彼の……善意、は報われて、ほしい……」
違和感を覚えてから、ほんの僅かな時間しか経っていないというのに、エメザレの正常な感覚はどんどん失われていった。全然知らない誰かの身体を無理やり借りているような、自分が自分ではないような錯覚に陥り、一体自分が何を言っているのか、何をしようとしているのかが、よくわからなくなる。
いつもの、あの愉悦に飲み込まれる気分とは違う。自ら意識を手放すのではなく、強制的に奪われていく。
「善意か。少年らしくていいね。可愛いよ」
そう言ったのが誰なのかも考えるのが面倒だった。身体中の力が抜け、まともに立っていられなくなる。テーブルの端に掴まり、なんとか体勢を保とうとしたが、急に視界が切り替わって、一体なにが起きたのかすぐに理解できない。
冷たい床の固い感触が頬を覆い、自分が横たわっていることがわかった。
身体中の皮膚が浮き上がるように熱を帯びて水分が蒸発し、干からびて死に絶えるような気分になる。苦悶そっくりの陶酔が皮膚を駆け巡っている。
思考が破壊され単純な感覚だけが増徴し、異常な感覚から逃げようがないのに、絶対に逃げなければならないような気がして、エメザレは床を這ったが、借り物のように痺れた身体は弱々しく数十センチ動いただけだった。
「逃げられるわけがないだろう」
脳を溶かすような優しい声が響く。空間の些細な振動に恍惚を感じるほどに、感覚が剥き出しになっている。腕を掴まれ引き起こされると、視界がひどくぶれた。
「……ぁ」
腕を掴まれただけなのに、性器を撫でられたような快感が走り、思わず身をよじった。
「この薬、凄いだろう。エロバカのシクアス種族から買ったんだよ。セラインというらしい。高かったなぁ」
弄ぶように服の上からゆっくりと腹の辺りをなぞられて、堪らずに背中がしなる。
「く、……っん……」
「私はね、君のような奴が嫌いなんだ」
首に激しく男の指が食い込んできた。息ができないが、全身が感じているのは苦痛ではなく、はっきりとした堕落そのもので、血管が苦しそうにヒクヒクと鼓動するのに合わせ、射精する時のように全体が震えた。
「君は我々の傷を呼び起こす。君のことを調べたよ。君は大護院時代に多くの教師と寝ていたそうだね。きっと可愛く誘ったんだろうね。可哀想に。彼らは甘美たる少年の味など忘れ去りたかっただろうに。この惨めな気持ちなんて、君にはわからないだろうね……」
力ない悲しそうな声とは真逆に首を絞める力は強まり、息をしようと口を開けると、温かい唾液が滴って顎や男の手を濡らした。男はこぼれた唾液を舐め尽すように首筋や唇に舌を這わせてくる。荒々しく口腔を犯され大量の唾液が混じりあい、口の中で異物のように泡だって、それがいつしか表しようもない恍惚に変化している。
「私は誤解されている。私は美しい少年が好きなのではないよ。駆逐したいほど憎んでいるんだよ」
唐突に首から手が離れたが、息をする暇もなく、すぐ乱暴に押し倒された。タイが外され、上着のボタンが丁寧に開けられていくのを、酩酊した意識の中で感じしていたが、抵抗しようにも身体が重ったるく、思うように動かない。
「ひどい噛み傷だ。あの風習は今でも健在、か」
上半身がひんやりとした外気に侵されるのが、なぜか心地よい。男は晒されたエメザレの上半身を見て懐かしむような表情をした。
「……っん……や……ああぁぁ……」
胸の突起に爪が突き立てられる。たったそれだけなのに、急激に盛り上がった絶頂の波が包み込んできて、身体の内部が酷く疼いて下半身の熱がさらに増した。
男は無防備に横たわるエメザレの胸から腹にかけて悪戯にそっと指を這わせ、ズボンの上から熱を帯びた場所をまさぐった。
「や……やめ……!」
敏感に反応しすぎるそこに、張り詰めた絶頂感が押し寄せる。性器は溶けるように熱い。その熱さを全身で感じるだけで果ててしまいそうだった。男の手を退けようとしたが、痺れた腕は少し上がっただけでなんの意味も成さず、男は性器に直に触れようと周囲をなぶってくる。それが堪らなく気持ちよくて、身体が小刻み震えた。
「ああっ……ふ、……ゃ、ん! あああぁぁ――っ」
狂うような快感と共に下着の中に熱いぬめりが広がった。ペニスと精液が融合する感じがして、一瞬の不快感は新たな快感に変わり、ぬめる性器はまた熱を帯びる。
「もうイっちゃったの?」
嘲るように哂って、男は熱を帯び始めたエメザレのペニスを優しく触った。痺れたむず痒さと恍惚が入り混じり、狂いそうになって、それから逃げたくて首を振った。
「……い、い……や……」
「嫌なわけないでしょう。こういうことされるの、好きなんだろう。話を聞いたよ。誰とでもやるんだってね。お尻に入れられるのが大好きなんだって?」
ズボンが一気に剥ぎ取られ、精液で濡れて充分に硬くなった性器があらわになる。くるぶしに引っ掛かったズボンを、男は鬱陶しそうに力任せに脱がせて遠くに放り投げた。
テーブルの上に美しい料理が置いてあるのが見える。押し倒されている自分は、その美しい存在に見下されている感じがして無性に悲しかった。
「とってもすごいもの入れてあげるよ」
脚を開かされ、脚の間に男の腰が割り込んでくる。熱くとてつもなく大きなものが、ぴったりと押し当てられた。神経がいきり立って過敏になっているそこは、男のペニスの大きさを明瞭に感じ取れて、僅かに息をするまともな思考が抵抗する。
「……無理、む……り」
ものすごい圧迫感と共に熱いものがめり込んでくる。濡れることもなく、ほぐされてもいないそこは、滑りが悪くて奥まで入らない。裂けるどころか、腹が突き破られるのではないかと思うほどぎゅうぎゅうに切迫しているが、それでも男は一切力を緩めずに、力任せに押し込んだ。破れそうなのに痛みがない。侵入する瞬間に引き裂かれるような恍惚が走った。
「ひっ……あああぁ……――!!」
最深部を抉るように強く突かれ、経験したことのない快楽が一瞬で脳を埋め尽くし、エメザレはまた絶頂を迎えた。濡れるはずかないのに、中にたくさんの精子を出された後ように、熱くぬめる液体で満たされて、その気持ちよさでヒクヒクしている。
本当に内部が溶けているのではないかと思った。
「……あ、ぁ、……ん、はぁ……」
「ほら見て、これが入ったんだよ」
男は自らを引き抜いた。それと同時に自分の中からは大量の血が噴き出したのが見えた。痛みなど全く感じないのに、産まれたての新生児ほどの大きさのそれは、取り出したばかりの内臓のように鮮血で包まれている。
「や……、ぃあぁあああああ――――!」
あまりの出血の酷さに寒気を感じで、立ち上がろうと力んだが、足はほとんど動かず、中から血が出てくるだけだった。
こんなことをされているのに性器はずっと痛いほど肥大したままで、血がどろりと溢れてくる度、排泄に似た生理的な快感が走った。
「ほら、また入れるよ。いっぱい突いてあげるよ」
「あぁぁ、や、……ンっ、ああぁ!」
出てきた内臓を戻すように、男はまたエメザレを犯した。血が心地いい潤滑油となって、圧迫感はありながらも、すんなりと押し入ってくる。押し戻そうと力を入れるが、締め付けてしまい、どんどん快楽に犯されていく。悲しいのか快楽のためか、把握できない曖昧な涙が流れた。
「あ……だ、め、……イっ、ちゃ……う、っ」
頭のどこかで死を感じながら、逃げることもできずに、まとわりつく恍惚をただ受け入れるしかなかった。
わけがわからないまま、またペニスから白い液体が放たれる。自分の意志ではもう止めようがなく、絶対に逆らえない法則のように、果てしない欲情が治まらない。
「何度イくつもり? 本当にいやらしい子だ。お腹の周り、君の精子でいっぱいだよ」
男は囁いて哂った。
エメザレは身体を折り曲げられ、半分畳まれるような姿勢にさせられる。腹の辺りまで持ち上げられて、自分のペニスと、血と白い精液でぐちゃぐちゃになっている腹部が見えた。溶け合う血と精液の配色は、さっき食べた苺ミルクを思い起こさせた。
その体勢のまま男はペニスを強力に突きたて、よく見せ付けるように大振りの動作で抜き差しさせて、淫猥(いんわい)な音を響かせる。
「くっ……う、んッ……!」
突かれる角度が変わり、呼吸が圧迫する。
滅茶苦茶に内壁を突かれて、ひきつったような叫び声をあげて、すすり泣いた。
「……っあぁ、あ……ん、――んんっ……」
絶頂を迎えると放たれた自分の精子が顔にかかり、喘いで、だらしなく開かれた口にまで垂れてきて僅かな苦味が舌に広がった。
◆
「い、イく……! あ、あっぁん、ああああ――!」
もう何度果てたかわからない。さっきから絶頂感がずっと続いている。身体も意識もなにもかも痺れていて、ペニスは触られてもいないのに怒張(どちょう)をやめない。快楽を感じる以外になにもできなかった。
エメザレは激しく揺さぶられ、男が望むまま蹂躙(じゅうりん)され続けた。
白い世界が目の前にやってきている。飛び立つのではなく連れ去られる気分だ。思考らしきものを保っていられる限界だった。涙が視界を霞ませて、なおさら現実感を奪っていく。美しい白い世界。
「……は、ぁ」
エメザレは息を吐いた。
もう永遠に正気に戻れないような恐怖が、徐々に浮かび上がっていく。最後の本能がシンプルにとても恐がっている。恐くて耐えられない。完全に堕ちる前に逃げなければ精神も肉体も崩壊するだろう。感覚に抵抗しなければと思った。
「ふ、……んぅ……」
手が確かに動く。
エメザレは本能に操られるように、なんとか触れられそうなところにあった、テーブルクロスを引っ張った。今まで自分を見下していた、白いきれいな食器が落ちてきて、夢の欠片のようなものを散らして割れた。
エメザレは手元にちょうど転がってきた大き目のガラスの破片を握り締め、痺れる右手でなんとか振り上げた。
すぐそばで男が自分を見ている。ひどく悲しい夜のような眼差しだった。男がなにを考えているのかはわからない。こいつに自分が殺せるわけがないと思っているのかもしれない。もしかしたら反対に殺して欲しいと思っているのかもしれない。あるいはどうでもいいのかもしれない。男はエメザレを止めようともせず、黙っている。
エメザレは破片を振り落とした。自分の左腕に深く突き刺さった感触がしたが感覚がない。血だけがどんどん溢れて腕を伝い、床を汚していく。痛くないことが許せなくて、突き刺さった破片を抜き、もう一度突き刺した。それでも痛みがない。開いた傷口は他の皮膚より敏感で、痺れがひどく、新しく生まれた性器のように官能を増幅させた。それに反応して身体が疼き、男のものを締め付けて、動いてもいないのに勝手に果てた。身体が快楽と恐怖で震えている。正気に戻りたかっただけなのに、どんどんと遠のいて狂っていく。
「やめろ。死ぬぞ」
男はエメザレの手から破片を取り上げ、どこかへ放った。
ずっと床に押し倒されたままだったエメザレを、今度はまるで子供を抱くみたいにかかえ上げ、さっきとは違って、あやすように内部を突いてくる。優しい快感が愛しくなって、男にしがみついた。
「……あ……ぁん、っ、あぁぁぁ……」
自分の体重がかかり、これ以上ないほどに奥まで届いている。
首に手を回すと、男の首も顔も血だらけになり、二人で抱きしめ合って死に向かっているような気分になる。それは悪い気分ではなく、解放されたような気持ちよさだ。このまま快楽をむさぼるだけむさぼって、なんだか死んでしまいたかった。
「……あ、ぁあ……ぃい、よ、……いい……っ」
もっと奥を突いて欲しくて、腰を擦り付けた。男はそれに応えるように中をぐるぐると掻き混ぜる。淫らな音が響いて、男を締め付け、また果てた。
表面だけは溶けるように熱い。しかし内側の熱は血と共に外へと流れていくようで、いつの間にか内臓が冷え切っている。身体の芯からゆっくりと冷気が全身に広がっていくのを感じて、きっとひとは内側から死んでいくのだと思った。
「エメザレ」
エメザレの耳に届いたのは男の声ではなかった。確かにその声はエスラールのものだった。だがエスラールの姿はない。
どんなに混濁していてもわかる。エスラールが来られるはずがない。助けに来てくれるはずがない。ここにはエスラールはいない。エスラールは来ない。エメザレの瞳からたくさんの涙がこぼれた。
「エメザレ、戻っておいで」
けれども確かにエメザレには聞こえた。いつもの明るい声でなくて、心配して今にも泣きそうな声だった。エメザレはあの優しい制服の香りをもう一度嗅ぎたいと思った。
エメザレは自分の身体を掻き抱く男の頭を撫でた。男はびくりとして繋がったまま動きを止める。
これまで数えるのも面倒なほどに犯された。だが不思議なことに、最後の最後の感じるのは、いつも憎しみではなかった。残るものは決まって、諦めに似た同情だった。
生きているひとは、そのひとなりに一生懸命生きている。きっと、この男もそうやって必死に生きてきた。その結果として人格が破綻してしまったとしても、間違ったことをし続けるのだとしても、自分を破壊するのだとしても、そんな風に生きてきた、強くて可哀想なひとを完全に恨みきることは――昔、シマを結局殺せなかったように、エメザレにはどうしてもできなかった。
「……ユド、を……助け、て」
エメザレは男の耳に唇を沿わせて囁いた。男が、あの悲しい夜のような眼差しでエメザレを見る。
この男は怪物なんかじゃない。シマもサイシャーンも怪物ではない。精一杯、生きてきただけだ。苦しみ乗り越え続けてきた偉大なる影を慈しむように、エメザレは男の顔を見返して微笑んだ。
「すごい子だね……。驚いた」
男は息を吐くように、そっと呟いた。
「わかった。いい子だ。約束する。ユドを助けてあげる」
男に強く強く抱きしめられ、その言葉を確かに聞き届けた時、エメザレの意識は真っ白に塗りつぶされた。
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