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帝立オペレッタ09(破綻の兆し)


「総隊長!」

 エスラールは扉に向かって言った。が、なかなかサイシャーンは姿を現さない。不思議に思いながらも待っていると、妙な間ののち二度扉を叩く音がした。今更ノックなど必要ない気がするが、変なところで律儀である。

「あ、どうぞ」

 入ってくる気配がないので、エスラールは外のサイシャーンに声をかけた。

「失礼する。立ち聞きするつもりはなかったんだが、すまない。外から聞こえたもので、つい」

「サイシャーン先輩。どういうことですか。僕を助けたいやつがたくさんいるとは、どういう意味なんです」

 エメザレの話し方はよそよそしい感じがしなかった。親しげというほどではないが、見知った仲に話すような口ぶりだ。そういえばエメザレとサイシャーンは、同じシグリオスタ大護院の出身なのだ。顔見知りでもおかしくはない。

 しかし、サイシャーンは休息など取らないのだろうか。エスラールは訓練が終ると脱力して背骨が丸まってしまうものだが、現れたサイシャーンは相変わらずの強固な鉄面皮で、姿態もぴっちりきっちりしている。そのせいなのか、部屋の中はえもいわれぬ緊張に包まれた。というか、サイシャーンが自分の部屋にいるというのは新鮮な光景だった。

「エメザレに全てを話すべきだと思ってここに来た。ちゃんと話すべきだ。私はガルデンの隠蔽体質にはうんざりなんだ。エメザレにも真相を知る権利はある。それに真実を告げることが、エメザレを止めるのに最も効果的だとも思う」

「いいんですか、総隊長。立場的に大丈夫ですか?」

 サイシャーンがいったいどんな条件を提示して、この一件を総監から任せてもらったのか聞いてはいないが、失策してお咎めなしということはないだろう。例えば総隊長の位を解任されるとか、悪ければこの後の昇進が一切なくなる、いうことも考えられる。
 それにエメザレは一応、ロイヤルファミリーの一人だったのだ。仲間意識があるとはあまり思えないが、絶対にないとも言い切れない。危ない賭けのように思えた。

「君にばかり面倒ごとを押し付けるわけにもいくまい。そもそも君はこの事件と、なんの関係もないんだ。エメザレは私が止める」 

「僕を止める? ああ、止める。止める、ね。そういうことか」

 エメザレは気がぬけたような、高揚のない平坦な声で言って、エスラールを冷めた目つきで見た。

「昨日のこと言ったんだね。エスラール。僕の行動を報告してたわけか。僕は、一号隊と僕の仲を取り持つことだけ頼まれているのかと思ってたよ。偵察とか向いてなさそうだったし……。事件のことも、全部知ってるの?」

「彼を責めないでくれ」

 エスラールより先にサイシャーンが口を開いた。

「エスラールは私の命令に従っただけだ。それに夜の行いのことなら、私はエスラールに報告される前から知っていた。私が知らなかったら、おそらくエスラールは私に言わなかっただろう。事件のことも、全部話したのは今日の朝だ」

「そういうことにしておきますよ。それよりも先輩――いや、総隊長。僕がどうして転属になったのかを知っているんですか」

 エメザレは納得していないようだった。しかし、それよりも事件のことが気になるらしい。冷めた眼差しは、サイシャーンに向けられた。
 本当は口を出したい気持ちがあったのだが、サイシャーンの任務の邪魔をするわけにはいかない。エスラールは我慢して言葉を飲み込んだ。

「知っている。知っているが、話す前に約束をしてくれ。絶対に他言しない。そして二度と二号寮に行かない、と」

「僕が他言したり、二号寮に行ったりしたら、どうなりますか」

 エメザレは微妙に冗談めいた声で言った。

「君はどうにもならない。どうにかなるのは私と二号隊だ。あと、ついでに総監だな」
 サイシャーンが答えると、エメザレは小首をかしげて、少し考えるようにしてから、ゆっくりと頷いた。

「総隊長にも、二号隊にも迷惑はかけません。約束します」
「感謝する」

 一言、ぽつりと呟いてサイシャーンは話し始めた。朝、エスラールに言ったことと同じことを、なにも隠さずに全て伝えた。エメザレは相づちだけ打って、質問もしなければ口を挟みもしなかった。

「そうですか。わかりました」

 話が終わっても、意外にもエメザレの顔色は少しも変わらなかった。エスラールは、ユドがエメザレのために殺人を犯した、ということにもっと感情的になるのではないかと思っていたのだ。だが、エメザレはかえって不自然なほど完全に聞き流した。

「先輩。ひとつ、聞いてもいいですか。どうして僕に事件のことを教えたんです? 確かに僕は教えてもらえて助かりました。でも先輩の立場からすると、言わないほうがよかったんじゃないですか」

「誠意だよ。私なりの最大限の誠意だ。君は一号隊の仲間だ。私の仲間だ。その気持ちを行動で示してみた。表情で伝えるのは苦手なんでな」

「仲間、ですか。二号隊では禁句でしたけどね。シグリオスタでもそうでしたし。先輩は変わりましたね。まるで別人みたいです。あんなに強かったのに」

 エメザレはサイシャーンに微笑みかけてはいたが、あまりいい意味を持った微笑には見えなかった。嫌味っぽいわけでも、蔑んでいるわけでもなく、ゆえに悪い印象はしないのだが、穏やかに諦めているような、物悲しい気分にさせる微笑み方だ。

「許してくれ」

 囁くような声でサイシャーンが唐突に言った。なんの謝罪なのかはわからない。しかし、あまりに感情のこもった声だったので、エスラールはそっちのほうが気になった。
 エメザレはなにかを言おうとして口を開いたが、気が変わったのか一度閉じ、そしてまた口を開きかけたとき、なにやらやかましい複数に足音が近付いてきて、部屋の前で止まった。


「エスラールーーー!」

 ノックもなく突然扉が開いた。扉の方を見ると、ヴィゼルとラリオとその他三人がぞろぞろと部屋に入ってきていた。サイシャーンとは違い、ノックはしない主義らしい。

 彼らはサイシャーンの姿を見て、驚いたような顔をした。サイシャーンは自由時間だからといって冗談を言ったり、はしゃいだりするようなキャラではない。いや、自室では密かに不気味に微笑んでいるのかもしれないが、ともかく用もなく誰かの部屋を訪れるような人物ではなかった。彼らは部屋に渦巻く異様な緊張感を感じ取ったらしく、姿勢を正した。

「お取り込み中でしたか」

 ヴィゼルがよそ行きの声で控えめに言った。

「いや、私の用事はもう終ったから、あとはみんなで楽しむといい」
「総隊長も一緒にどうですか?」

 そんなラリオを慮(おもんばか)って、サイシャーンは優しく見つめたのだろうが、残念ながらにらめつけたようにしか見えなかった。元々憐れな顔をさらに憐れにさせて、ラリオはわなないた

「私は遠慮するよ。それよりエメザレを頼んだそ。さらば」

 サイシャーンはエスラールの顔を見て小さく頷くと、いつぞやのように、思わず陶然(とうぜん)とするような、堂々たる動作で背を向け、部屋から出て行ってしまった。
 まあ、一緒に遊ぶと言われても、どんな顔をして遊べばいいやら反応に困るので、よかったといえばよかったのだが。
 しかし、サイシャーンは去ったが、サイシャーンのオーラの余韻はなかなか収まらなかった。気まずい静寂が広がったままだ。

「ボタン持ってきたよ。サロン一周して探したけど、四つしか見つからなかった」

 意を決したようにヴィゼルが口を開いた。ポケットからボタンを取ると、エスラールに差し出した。
 誰もサイシャーンとなにを話していたのかと聞く者はいない。ヴィゼルが連れてきたのは四人とも、比較的おとなしく、平和主義者でのんびりしていた。ヴィゼルなりに考えてこの四人を連れてきたのだろう。この気の利きっぷり、本当に時々結婚したい衝動に駆られるほどだ。

「おお、友よ。ありがとう!」

 ボタンを受け取り、ヴィゼルと愛の抱擁を交わそうとした。が、その間にエメザレが入ってきた。

「君がボタンを拾ってきてくれたの? ヴィゼルってとっても親切だね。ありがとう」

 エメザレが笑ってヴィゼルにお礼を言った。ヴィゼルは不思議に思ったようだ。思わず愛しさで撫で回したくなるようなアホ面で、ヴィゼルはエメザレを見た。先ほどのエメザレの冷たい態度を考えれば、そんな顔もしたくなるだろう。だが悪い気はしないはずだ。

「え、ああ、どういたしまして」

 頬を赤らめ、恥ずかしそうに頭をかいて、ヴィゼルはもぞもぞと言った。

 エメザレが笑ったことで場はいっきに和やかになった。もしかしたら、彼らはエメザレに軽くあしらわれると思っていたのかもしれない。エメザレの友好的な態度を見て安心したのだろう。

「ねえ、セカテを持ってきたんだけど、エメザレも一緒に遊ばない? 『暴虐ロード』っていうんだ。これすごい楽しいよ」

 ラリオは持っていた『暴虐ロードを』広げて見せた。

 セカテというのは絵双六(えすごろく)の一種で古くからあるボードゲームだ。紙とペンと僅かな絵心さえあれば誰でも簡単に作れるので、誰しも一度くらいはセカテ作りに挑戦するものだった。

 彼らが持ってきたセカテはガルデン史上最強と思われる超大作だった。エスラールとヴィゼルが四ヶ月かけて作ったものなのだが、『暴虐ロード』という題名がついている。
 小さな紙を縫い合わせて作った三メートル強の巨大な紙に、長い長い一本道が右往左往しながら書かれていて、その道は約千のマス目に分割され、全てのマス目に暴虐的な指令が書いてある。例えば『百回休み』とか『一万回腕立て伏せ』とか『バファリソンにケンカを売る』とか『今はいてるパンツをかぶる』とかであり、その指令のほとんどは達成されることはなかったが、最初にゴールするよりも途中の指令を一番多く達成できた者が偉いという、なんとなくできてしまったルールのために、むちゃな指令を達成しようとして負傷する者が後を絶たなかった。まさに『暴虐ロード』の名にふさわしいセカテなのであった。

「なんだか面白そうだね。うん、僕も仲間にいれてよ」

 エメザレはマス目の命令を読んで、くすくすと笑った。

 少々意外だったのだが、エメザレはノリがよかった。冗談も言うし、よく笑う。ヴィゼルも四人もエメザレと面と向かって話すのは、ほぼ初めてのはずだが、すっかり溶け込んでいるように見えた。

 だがエスラールの心中は穏やかでなかった。エメザレはおそらく怒っているだろう。密告まがいのことをされたのだから仕方がないが、怒り方が不気味だ。血の気が多くて必要以上に怒る奴なら結構いるのだが、こんなふうに怒っていることを隠しながら怒る奴はエスラールの周囲にはいなかった。なにしろ、まるでずっと前から友達だったかのように錯覚してしまうほど、自然にエメザレはエスラールにも話しかけてくるのだ。戸惑うことすら忘れてしまう。
 変に突っ込んでこの関係を壊してしまうのも、なんだか勿体ないような気がしたし、なにより楽しく遊んでいるこの場の空気を破壊するのは申し訳がない。エスラールは適当に流れに身を任せることにした。

 結局『暴虐ロード』は誰一人としてゴールすることなく、夜も更けたのでお開きということになった。実はこの『暴虐ロード』、あまりに長いためにゴールをするのに三日かかるのだ。そのあたりも結構暴虐的である。
 エメザレはヴィゼルたちが帰ると、すぐに寝てしまった。ヴィゼルたちがいなくなったからといって、嫌な態度に戻ったりしなかった。ごく普通に、眠いからと言って、とっとと寝てしまったのだ。

 部屋に一人になったエスラールは、ヴィゼルから受け取った制服のボタンを縫い付け始めた。昨日のこともあって疲れていたし、少し眠くもあったのだが、明日もつんつるてんの制服を着るのは遠慮したい。肩幅が狭くて動きにくいのだ。

 小さいランタンを枕元に置き、裁縫をしていると、背を向けて寝ていたエメザレが寝返りを打って、こちらに顔を向けた。ぼんやりと照らされたエメザレの寝顔はつい見入ってしまう美しさだった。もし外の世界で生きていたら、美麗な容姿は役に立ったかもしれない。しかしこの愛国の息子たちの世界では呪い以外のなんでもなかっただろう。

 ところで、なんとなく裁縫を始めたが、この制服はエメザレのものである。エスラールがボタンを引きちぎったわけでもない。よく考えてみれば、エメザレが自分で縫うべきではないだろうか。だが、気付いたときには既に三つ目を付け終わっていた。今更やめるのも気持ちが悪い。微妙に損した気分になりながら、四つ目のボタンを取った。

「俺って、なんなんだろう……」

 安からに眠るエメザレに向かって聞いてみたが、静かな寝息が聞こえただけで、もちろん答えは帰ってこなかった。


◆◆◆

 ひどく浅い夢の世界に、ベッドの軋む音が響いた。それはほんの微かな音だったが、知らぬ間にエスラールは神経を研ぎ澄ませていたらしい。頭が起きるよりも先に身体が起きた。
 心細い月の光が部屋をぼんやり照らしている。深い夜は薄寒く肌にしみて、かすんだ意識をはっきりとさせた。

「どこに行くんだよ」

 エスラールは出て行こうとしているエメザレに言った。
 手には毛布を持っている。昨日エメザレを包んできた二号寮の毛布だ。どこに行こうとしているのかはバカでも考え付く。エメザレは振り返ったが、暗くて表情がよく見えなかった。

「トイレとか」
「毛布持ってトイレかよ」
「毛布を返しに行きたいんだよ。それと寝間着を取りに。それくらい、いいでしょう」

 少しくらいたじろいでもいいようなものだが、エメザレはしばらく間をおいてから落ち着いた声で答えた。開き直りに見えなくもない。
 毛布を返して寝間着を取りに行くというのは、たぶん嘘ではないだろう。ただ、用がそれだけとは思えない。それならば、さっき行けばよかったのだ。こっそり真夜中に行く必要はない。

 今度ばかりはエスラールも怒りたくなった。宴会に行くということが、どういう意味を持つのか、エメザレはもうわかっているのだ。それでも行こうとするエメザレの気持ちが全く理解できない。

「毛布を返して寝間着を取りに行きたいなら、俺が行ってきてやるよ」

 エスラールはベッドから起き上がると、エメザレに近付き、毛布を取り上げようとした。が、何気にエメザレの力が強く、逆に手を払われた。

「いいよ。僕、一人で行く」

 エメザレがドアノブに手をかけたので、エスラールはドアを覆うようにして、急いでエメザレの前に立ちはだかり、ドアノブにかけられた手を掴んだ。

「じゃあ、二人で行こう。それですぐ帰ってこよう」

「もういいよ。エスラール。大丈夫、口裏はあわせるから。さっきは鬱陶しいとか言ってごめんね。嫌な態度、とってごめんね。もっと早く気付けばよかったのに、僕は鈍いな。君、命令されて全部やってたんだね」

 近くで見るエメザレは悲しそうに微笑んでいた。
 その顔でエスラールは気がついた。エメザレはエスラールの告げ口に怒っていたのではなかった。傷付いて失望してがっかりしていたのだ。本人にいっても否定するだろうし、自覚もないのかもしれないが、エスラールにはそう見えた。

「おい、それは違うぞ。それは絶対に違う。全然違う」

 エスラールは慌てた。しかし、しっかりとした説明の文句が思いつかない。子供のように何度も首を横に振って、掴んだエメザレの手を強く握った。

「僕のこと友達だって言ってくれたのも、友達になろうとしてくれたのも、そうやって僕を止めるのも、サイシャーン先輩に言われたからなんでしょう」

「確かにそうは言われたけど、そうじゃなくて――」

「僕と変な噂たてられても構わないのだって、総隊長って後ろ盾があるから大丈夫だと思ったんでしょう。そりゃあそうだよね。エスラールの気持ちも知らないで、本気で怒ったりして、僕ってばかだね」

 ミスした自分を小ばかにするように、エメザレははにかんだ。

「俺の話、聞けよ。確かに俺は頼まれたよ。だけど総隊長が俺に頼んだのは、頼まれなくてもそうする奴だからだよ」

「僕、一瞬信じちゃったよ。だってエスラールは、嘘つけなさそうに見えたからさ。君はすごいね。全然見抜けなかった」

「だから、違うってば! 俺は嘘なんてつけないよ。全部、本当に思ったことだ」

 エスラールは声を荒げた。
 エスラールがサイシャーンにしたことは、告げ口かもしれないが、エスラールにもサイシャーンにも悪意があったわけではない。というか善意しかない。エメザレを心配する気持ちも助けたいと思う気持ちも本物だ。でなければ、ゲロまみれのエメザレを助けたりするだろうか。ケツの中まで洗ってやるだろうか。訓練中に制服の交換を教官に懇願したりするだろうか。ボタンだってつけてやったのに、こんなに、なんとかして救いたいと思っているのに、エメザレに、その気持ちまで嘘だと思われるのは悔しかった。なんだか全てが報われていない気がして、無性に腹が立ってきた。

「そんなに頑張らなくていいよ。僕はチクったりしないし。ちゃんと止めたって言うから、だからそこ、通して」

 エメザレはエスラールの手を引き離そうとした。

「お前、さっき総隊長と、もう行かないって約束しただろう。約束は守れよ。二号寮に行くってことがどういうことなのか、わかって言ってんのかよ。誰か死ぬかもしれないんだぞ」

 しかしエスラールはエメザレの手首を掴んで放さなかった。強い力で締め上げると、エメザレは自由の利くもう片方の手で抗った。エメザレが持っていた毛布が床に落ちた。

「わかってるよ」

 エメザレの口調は本当にどうでもいいという感じだった。

「お前、仲間が死ぬんだぞ。それともロイヤルファミリーに全部話すつもりなのか」
「さあね」

 エメザレの答えに、エスラールは返す言葉が出てこなかった。
ひとの命が関わっているのだ。命というものが、どれほど貴重なのか、このクウェージアに生まれたのなら嫌というほどわかっているはずだ。エメザレだって身近に見てきただろう。大護院で死んでいった憐れで弱い孤児たちを。その死に顔を、覚えているだろう。それらを全てなかったことにされたような気がした。死んだひとびとが、かつて生きていたことを、ないがしろにされた気がした。

 もう、こいつ狂ってる。

 掻きむしられるような悔しさが膨れて、たまらずにエスラールは右手を振り上げた。

「………ぅ」

 エメザレの口の端から、小さな呻きがもれ、身を強張らせて目を閉じた。

 昨日と同じだと思った。バファリソンがしたことと同じだ。殴ったら、エメザレは二度と心を開かない。べつにひどいことをしたいわけじゃない。でもエメザレはその違いを理解できないだろう。
 エメザレを殴る奴はたくさんいるのだ。罵る奴も軽蔑する奴も強姦する奴もたくさんいるのだ。ずっとそんな奴らに囲まれながら、負けずに生きてきたのだ。きっと、きっと辛かっただろう。痛かっただろう。身体中が痛いんだろう。それでも悲しそうに笑って、一人で必死に生きている奴を殴るのか?

 エスラール。お前はそんな奴じゃないだろう?

「行くなよ」

 エスラールは衝動的にエメザレを抱きしめていた。それしかないような気がした。殴っても怒鳴っても無意味だ。エメザレには効かない。苦しみに慣れているのだ。慣れていないのは労わりだ。生きてきた道を認めることだ。

「俺、べつに淫売でもいいよ。誰とやってても好きだよ。嫌いになんかならないよ。エメザレの生き方の一つなんだろう。わかったよ。でも、痕、痛いだろう? 行ったって痛いのがひどくなるだけじゃんか。俺は本当に本当に本当に本当にお前のこと心配してんだぞ。嘘なんてついてない。俺の気持ち、わかれよ」

 エメザレの骨ばった細い身体から寂しさが凍みてくるような気がして、悲しくなってくる。いまだかつて、こんな気持ちでエメザレを抱きしめた奴はいるのだろうか、とふと疑問に思った。
 エメザレの柔らかい髪の毛が、ちょうどエスラールの頬に触れ、引き寄せられるようにエスラールは髪に頬をつけた。

「エスラール」

 エメザレは顔をあげた。
 鼻先がエスラールの口元に触れそうなところにある。弱く静かな月の光に照らされているエメザレの秀麗な顔立ちが、やたらと幻想的に見えた。エスラールのまだ知らない感覚が自分の意志とは無関係に、急激に盛り上がってきて、身体が乗っ取られてしまうような恐怖に駆られる。

 エメザレから離れなければ、と思ったとき、エスラールの唇に柔らかく冷たいものが触れてきた。それがエメザレの唇なのだとわかって、エスラールはもうなにも考えることができなくなった。ただ苦しいほどに心臓が締め付けられた。羞恥なのか不快感なのか、はたまた喜びなのか、ときめきなのか、大まかな印象さえ不確かだった。

「ごめんね。おやすみ」

 すぐ傍から聞こえたはずなのに、まるで遠い場所から放たれた言葉のような気がした。なにに対する謝罪なのかと、エスラールが考え始める前に、腕の中からエメザレが消え去っていることに気付いた。誰もいなくなった自分の腕の中を、不思議に思ってぼんやり見ていると、とんでもなく強大な殺気が真正面から襲ってきた。エスラールはよくわからぬままに、それでも避けようと身を屈めたが、その軌道すら読まれていた。

「ぐぎゃ!」

 エスラールの首には、エメザレの回し蹴りがお手本のように華麗に決まっていた。混迷極まる思考の中、真横に吹っ飛んだエスラールの意識は、宙を舞った状態で途切れた。


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