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帝立オペレッタ08(優しさを知らない猫)


 ちょうど、訓練が始まるところだった。サイシャーンも訓練には間に合うように考慮していたのだろう。ただ間に合ったと言っても、すでに一号隊全体の朝礼は終わり、各年で整列していたところだったので、本来であれば遅刻であった。

 小規模な擬似合戦ができるほどの広さがあるガルデンの野外訓練場は、五百人が五つにわかれて各々違う訓練しても、充分すぎるほどのスペースが取れる。訓練をしている時はあまり感じたことはなかったが、遠巻きから見ると、五百人というのが訓練場の広さに対してちっぽけに感じられた。

 午前の教官は、規律に厳しく、どのように細かい違反でも容赦なく叱咤する、デイシャールだった。剣術の教官なのだが、名前の響が似ていることと、めったに変わらない顔の表情からサイシャーンの親戚と噂される教官であり、わりに慕われていたりする、ナルビルの対極に位置する存在だ。

 エスラールもデイシャールのことが苦手だった。そろそろ五十に差し掛かりそうな年であるのに、年老いて丸くなるという現象とは無縁の人物で、それも厳しいというのとはまた違った。一言でいうなら意地悪なのだ。わざわざ他人のよくない場所を探して、見つけると、ここぞとばかりに攻撃してくる。しかもこの手の人物にはよくあることだが、欠点を見つけたり、とりとめのないことを欠点に仕立てたりするのが非常にうまかった。遅刻でもしようものなら、その無表情な顔で嫌味をぐちぐち言われた挙句に、ゲンコツの五発くらいは食らいそうなものだ。

「僕、怒られませんかね」

 恐れもなく、ずんずんと歩くサイシャーンの背中に向かって、エスラールはぼやき気味に言った。エスラールの頭にはすでに二つのたんこぶができている。さらに五つもできるのは勘弁してほしい。

「デイシャール教官のところまで私がついていくから安心していい。それで状況は伝わるはずだ。なにも言われないよ」

 これも、サイシャーンが総監からふんだくってきた特権の一つであるらしい。サイシャーンの口調は自信に満ち溢れていた。

 サイシャーンの言ったとおり、デイシャールは遅れてきたエスラールを見ても、不機嫌そうな眼差しで、ちらと見ただけだった。サイシャーンはなにかを告げるわけでもなく、控えめな目礼をしたくらいで、それからエスラールの背中を軽く押した。エスラールはなんとなく気まずく感じながらも、デイシャールに目礼っぽい礼をしてから、自分の立ち位置に並んだ。

 クウェージア式の隊列順序は基本的に身幹順序――つまり背の高い順に三列横隊だ。長身の部類に入るエスラールは一列目だった。一列目というのは、当然だが教官の顔がよく見える。

「それでは剣術訓練を開始する。本日の訓練は――」

 デイシャールは前説を始めたが、どうもご機嫌が麗しくない。いや、麗しいところを見たことはないが、エスラールの遅刻を思う存分叱れなかったせいだろうか。いつも以上に明らかに不機嫌だった。何度見ても嫌な目だ。糸のように細くて吊上がった目で、一人一人を検閲でもするかのように丁寧に確認していく。
 その目が、後ろの列を見た。

「エメザレ、なぜ三本タイをつけている」

 比較的小柄なエメザレは三列目にいる。
 デイシャールは鋭い眼光を差し向け、隊列に割って入ってきた。デイシャールでなくても、その質問はしただろう。三本タイは正装をする時にだけつけるものだ。実は、訓練中にしてはいけない、という規則はない。ただ、してもいいという規則もない。デイシャールは普通とは違うエメザレの服装を見つけて、おそらく半分腹いせで言ったのだ。

 眼球だけを一生懸命動かしてみたが、もちろん後ろを見ることなどできない。エメザレの様子はわからなかった。

「ボタンが取れたからです」

 エメザレは静かに答えた。

「外したまえ。タイは私が預かる」
「はい」

 通常であれば、首を動かすのは慎まなければならないのだが、エスラールは思わずエメザレを見てしまった。エメザレが三本タイを取ると、襟元がだらしなく開いた。ここからはよく見えないが、デイシャールからは鬱血痕が丸見えだっただろう。エメザレはそれでもおとなしく三本タイを差し出した。

「その痕はなんなんだ」

 デイシャールは、三本タイを受け取り、訊かなくてもいいことをわざと訊いた。ガルデンに勤務する教官は全員がガルデンの卒隊者だ。彼らだって、若き日に、このガルデンで生きていたのだ。痕が意味することくらい質問せずともわかるはずだ。
 エメザレは黙ってうつむいた。

「答えろ。その痕はどうしてついたんだ」

 エメザレは答えない。それはそうだ。こんなに静まり返った場所で経緯など説明できるわけがない。しかしその沈黙は、上官の問いには答えなくてはならない、という規則に反していた。デイシャールはふいにエメザレの頬を殴った。静かな訓練場に鈍い音が響く。倒れはしなかったが、エメザレはよろめいた。このくらいの体罰は日常的だ。誰しもが見慣れている光景だった。軍人の顔の醜美などどうでもいいとは思うが、それでもやはりエメザレの顔を殴るというのは、なんだか残酷な気がした。

「淫売め」

 デイシャールは低い声で吐き捨てるように言った。
 やっぱりわかっているんじゃないか、と内心エスラールは突っ込んだ。それにしても単に機嫌が悪いのか、それともエメザレが気に食わないのかは不明だが、攻撃の対象は完全にエメザレへ向けられてしまった。こうなると長くなるのをエスラールは知っていた。適当に謝り倒せば、ことは早く治まるのだが、エメザレはそれを知らない。

「なんだその態度は、貴様。答えろ」

 デイシャールがエメザレの襟元を掴み上げると、制服のボタンがまた取れた。きっと、かろうじてついていたボタンだったのだろう。襟元どころか、無残にも胸元あたりまでがむき出しだ。

「黙っていないでなにか答えろ。聞こえないのか」

 エメザレはむき出しの胸を隠そうともしない。ただ頑なに下を向いて黙っているのだ。痕の経緯を述べずとも、謝るとか、やめてくださいと言ってみるとか、色々と対応の仕方はありそうなものだが、ダンマリを決め込むとは、案外エメザレは意地っ張りなのかもしれない。

 エスラールは気が気ではなかった。エメザレを一号隊に早く馴染ませるのに、どう考えてもこの状況は好ましくない。教官にまでないがしろにされてはエメザレの孤立感がいっそう強くなってしまう。それに三本タイを没収されたということは、エメザレはこのまま訓練をすることになる。そうなれば、思いやりのない視線を浴びるとこは必至だろうし、自由時間の嘲笑のネタにされることも間違いない。

「教官」

 エスラールは前を向き、サイシャーンのように背をぴんと伸ばして、挙手をした。が、答えはない。しかしもう一度発言するのは逆効果だ。さらに機嫌が悪くなる。デイシャールの気が向くまで待っているのが一番の得策だった。

「エスラール、発言を許可する」

 意地の悪いしばらくの沈黙の後、デイシャールはやっと言った。

「僕の制服と、エメザレの制服を交換する許可を頂けないでしょうか」
「そんな配慮は必要ない」
「ですが――」
「口答えをするな」

 後ろにいると思っていたデイシャールが、自分のすぐ脇に佇んでいたのでエスラールはぎょっとした。さすがに幾多の戦闘経験をつんでいるだけのことはある。気配がまったくしなかった。眼球を横に向けると、デイシャールが吊上がった目元をさらに引き上げて、激しく怒かっている。

「お言葉ですが、僕の任務に関わることですので引けません。許可をください」

 面倒な展開になるのを承知で、エスラールは食い下がった。

「任務?」

 デイシャールの顔色が変わった。特に深い意味を込めたわけではなかったのだが、デイシャールは変に深読みをしたらしい。サイシャーンに告げ口をする、とでも解釈したのだろう。

 デイシャールが殺人事件について、どこまで知っているのかはわからない。隠蔽体質のガルデンのことだ。全貌は知らないだろうが、それでもサイシャーンが、殺人事件の“なにか”で特権を与えられたことは知っているはずだ。そしてエメザレを一号隊に同化させる件に関しても、協力命令くらいは出ていたのかもしれない。そのあたりの事情は謎だが、とりあえず助かったようだ。

「正当性はこちらにある」

 にわかに冷静を欠いた声色だった。

「はい。その通りです」
「わかった。早く交換しろ」

 デイシャールは苦い顔で促した。

「感謝します」

 エスラールは華麗に回れ右をするとエメザレのもとに駆け寄った。エスラールがエメザレの前に立っても、エメザレはまだうつむいていた。小さく震えていたので一瞬泣いているのかと思ったが、そうではなかった。エメザレは怒って怯えていた。

 なんだか野良猫に似ていると思った。昔、大護院に迷い込んできた猫がいて、エスラールはどうしてもその猫に触りたかった。茶色い毛の痩せこけた、可愛いくもない猫だったが、毛だけはふわふわしていた。見ているだけでうっとりするあの毛並みに、一度でいいから触ってみたかった。くすねてきたパンの欠片を置いておびき寄せ、パンを食べるのに夢中になっている猫の背中をそっと触った。猫は触られた瞬間、牙をむき出して怒り、怯えて後ずさりすると一目散に逃げてしまった。

 きっとあの猫はひとに触られたことがなかったのだ。そして優しく撫でられる気持ちよさも知らないまま、愛でられる幸せを知ることもないまま、おそらくもう死んでしまっただろう。その猫に似ている気がした。

 出し抜けに、死んでしまった猫を慈しむようにして、エスラールはエメザレの繊細な髪を撫でた。理屈は不明なのだが、そうしなければエメザレは顔を上げないような気がしたのだ。案の定、エメザレは顔を上げた。殴られたとき、唇を噛んだのだろう。右端にうっすらと血が滲んでいる。エメザレは驚いたように目を見開いていた。

「エメザレ、上着を脱いで。俺のと交換するんだ」

 エスラールは上着を脱ぐと突き出した。だが、エメザレはなかなか受け取らない。小意地になっているというより、どうすればいいのかわからないといった感じで、目を見開いたまま突っ立ている。

「早くしろ」

 デイシャールが急き立てた。

「……あ、あの、僕の小さいよ」
「だから、ボタンが取れてるくらいでちょうどいいよ。早く脱いで。ね」

 エスラールが微笑むと、エメザレはやっと上着を脱いだ。

「ありがとう」

 エスラールの上着を受け取るとき、風で吹き流されてしまうほどの、擦れた小さな声でエメザレは確かにそう言った。


◆◆◆

 訓練が終わると、エスラールは真っ先にヴィゼルの姿を探した。朝方、ヴィゼルがサロンでエメザレのボタンを拾ったと言っていたのを思い出したからだ。

 エメザレの制服はエスラールには小さすぎた。少し手を挙げただけでヘソが見えるし、肩幅もぱんぱんだし、袖は八分袖状態で、あからさまにつんつるてんだ。

 申請すれば新しい制服をもらえないこともないのだが、ただではなかった。元々、この制服は自分のものではない。国から貸してもらっているのだ。成長に伴い着られなくなった場合は、返却となるので金はかからない。しかし破損の場合は積立金から引かれることになっている。積立金というのは、二十五歳になってガルデンを卒隊するときに、クウェージアから支払われるいわば退職金のようなものだ。とはいえ以降も軍事に従事することになるので、正確には中間退職金といったところだろうか。

 大金は大金だが、老後の生活やらを考えると、今、無駄に消費するべきではない。幸い、ボタンが吹き飛んだだけなので、直すのは簡単だった。

「ヴィゼル!」

 ヴィゼルを見つけて、エスラールはその背中に飛びついた。

「友よおおおおおおぉぉぉぉーー! 僕は痺れたぞ! さすがは僕の愛する男! 今日は僕が鼻血を噴出すところだった」

 ヴィゼルはエスラールの腕の中で向きを変え、しっかりとエスラールを抱きしめる。抱きしめ返すエスラール。やはりヴィゼルの抱き心地は最高である。多少無碍(むげ)にしてもびくともしなさそうな、抜群の安定感がとても良い。
 そんな二人を取り巻くように一号隊のメンバーが寄ってきた。

「エスラール、朝はかっこよかったなぁ」
「デイシャールの慌てっぷりが最高だったよ。俺スッキリした」
「つか、俺、あんなことされたら惚れるわ」

 次々に上がる称賛の声に、エスラールは気恥ずかしさを感じながらも、ささやかな優越感に浸った。

「いやいや、うへへ、照れるじゃんか」
「あれ、あの台詞。あれよかったな」
「あ、わかった! あれだろ?」

 ヴィゼルはひらめいたように言うと、エスラールの頭を引き寄せ、なんとなくぞっとするような優しい手つきで頭を撫でた。

「……早く、脱いで」
「そこを抜粋すんな!」

 エスラールはヴィゼルの頭をぶっ叩いた。

「おい、エメザレ。エスラールに一言お礼くらい言いなよ」

 ヴィゼルが、少し遠くに歩いていたエメザレを見つけて言った。エメザレはそれに気がついて一瞬こちらを見たが、足も止めずに冷めた一瞥をくれただけだった。助けたときは確かにありがとうと言ったのに、なぜ今はそんな目をしたのか、若干疑問に思ったが、みんながいる前で改めてお礼を言うのが恥かしい、という気持ちなら、わからなくはない。エスラールは気にならなかった。

「なんだよ、あの態度。エスラールがせっかく助けてくれたっていうのに」

 だがヴィゼルが口を尖らせた。

「うわー、嫌な奴」
「デイシャールに負けず劣らず根性が悪いな」

 遠くのエメザレには聞こえないだろうが、そんな言葉があたりから湧いて出る。

「お礼はもう言われたよ。助けたとき、ものすごい小声で。エメザレは恥かしがり屋さんなんだろ。そんなに嫌な奴じゃないよ」
「エスラールはいい奴だなぁ。僕は時々、心の底から心配になるよ」

 ヴィゼルは半分呆れたような声で言った。

「あ、そうだ、ヴィゼル。昨日、制服のボタン拾ったって言ってたよね。ボタン、どこにある?」
「僕の部屋にあるよ。あとで届けに行くよ」

 本音を言うならヴィゼルの部屋に行っておしゃべりでもしたかったりしたが、あまりエメザレを一人にするのはよくない。おそらくヴィゼルもエスラールと同じ気持ちだっただろうが、ヴィゼルはそのへんの空気を読むのがうまかった。あえて『僕の部屋に取りにおいで』と言わないところに健気さを感じる。そんなところがたまらない。

「友よっ! 礼を言う」

 エスラールはそこはかとない愛しさを籠めて、ヴィゼルを窒息死寸前まで抱きしめた。


◆◆◆

「ああいうことするの、やめてくれる」

 自室に戻ると、エメザレがなぜか怒っていた。しかも帰ってくるエスラールを待ち構えていたとばかりに部屋の中央の仁王立ちをしている。

 それにしてもこんなにも体格差があったのかと驚くほど、エスラールの制服はエメザレには大きかった。エメザレは平均より若干背が低いくらいで、チビというほどではない。たぶん身長差の問題ではなく、体格の問題なのだろう。エメザレは、まだまだ大人には程遠い、少年の華奢さを色濃く残していた。まるで大人の服を子供が着ているように見えて、失礼ながら、怒っている顔を可愛らしく感じてしまった。

「制服のこと? だってあのままで訓練するの、嫌だろう?」
「制服もそうだけど、みんなの前で僕の頭を撫でるとか、やめてよ。どういう神経してんの」
「ご、ごめん」

 助けたときはまんざらでもなさそうだったのに、と微妙に不服に思いながらも、エスラールが謝ると、エメザレは苛立った様子で深く息を吐いた。それからなにを思ったのか、エメザレはエスラールの手を取ると、自分の頭に持っていった。

「僕のこと触りたいなら、二人きりのときにいくらでも触っていいから」
「違うよ。そういうのじゃないんだよ。なんか猫のこと思い出したんだ」

 エスラールは慌てて手を引っ込めた。しかしエメザレの髪の毛は細くて柔らかい。くせになりそうな手触りだ。どうしてこの麗しい肌触りの髪が、ヴィゼルには付いていないのか。そうであれば思う存分撫でられるのにと思うと、非常に悔やまれる。

「なに? 猫って。それより、きっと今頃、みんなで僕たちのこと噂してるよ。やめなよ。エスラールの立場が悪くなるんだよ? わかってんの。いくらエスラールが人気者でも、僕はそれ以上の嫌われ者なんだよ。何度も言うけどさ、僕と一緒にいると誤解されるよ」

「そういえば、二人のときは話してくれるけど、みんなの前ではそっけない態度とるよな。エメザレって、もしかして俺のこと心配してんの?」

 エスラールが問うと、エメザレはきまりが悪そうな顔をして目を逸らした。

「心配っていうか……。まあそうだね。心配してるよ。だからさ、僕も一応、悪いと思ってるんだよ。何したってわけでもないのに、僕なんかと同室になってさ。それで僕とできてるとか言われて、みんなから軽蔑されでもしたら、普通、いい気分はしないでしょ。だからやめてよ、そういう気遣い。僕と変な噂、たてられてもいいの?」

「うん。いいよ」
「え?」

「いいよ。別に。だって、できてないじゃん。俺たち。みんなちゃんとわかってくれるよ。最初はそう言われてもさ、わかってくれるよ。だってヴィゼルとだって、『お前ら本当はできてんだろう』ってよく言われるよ。俺は『そうだよ。ヴィゼルのこと大好きだよ』って答えてるけど、みんなできてないの知ってるし。少なくとも、俺は誤解されても嫌じゃない。そんなこと気にすんなよ」

 エスラールがにっこり笑って言うと、エメザレはなんとも複雑な、悲傷と歓喜を押し殺したような表情を浮かべて、しばらくなにも言わなかった。

「エスラール。君って、本当に本当に、ばかみたいにポジティブになんだね。君みたいな人に初めて会ったよ。出会えてよかったような、出会わないほうがよかったような、変な気分だ。すごく変な気分。逃げ出したい気がするよ。どうしてだろう」

 エメザレは小さな声で、自分自身に語りかけるように静かに言った。エスラールにはエメザレの言いたいことがよくわからなかったが、それでもエメザレの心が揺れていることはわかった。

「行くなよ」

 自分でも不思議に思うほど唐突だった。口から言葉が勝手に出てきた。

「もう、二号寮、行くなよ」
「またその話か。しつこいな。朝言ったでしょう。僕のことは放っておいてよ。お願いだからやめてよ」

 エメザレは感情が溢れそうになっているのを、隠すようにエスラールに背を向けた。

「エメザレ。ちゃんと話、聞けよ。逃げるのはよくない」
「なんだよ。鬱陶しいんだよ」

 エメザレは声を荒げた。
 意地を張っているだけだ。負けず嫌いの子供みたいに、あの野良猫みたいに、怯えて怒りながら、それでも自分は強いんだと叫ぶように、逆毛を立てているだけだ。

 あのとき、エスラールは猫を撫でたいだけだった。傷つける気なんて少しもなかった。野良猫を虐待する奴はいる。汚いといって嫌がる奴もいる。でも優しく抱きしめたいと思う奴だっているのだ。あの猫は、自分以外の全てを敵だと思っていただろう。だが、そうではない。そうでないことをエスラールは知っている。

「君のこと、放っておけない奴がたくさんいるんだよ」

 言うべきなのだろうか。言ってしまってもいいのだろうか。エスラールは困惑しながらも言った。

「なんの話?」

 エメザレは振り向いた。喜んではいない。不快そうだった。

「二号隊にいるんだ。君のことを助けたいと思ってる奴らがいるんだよ。エメザレは嫌われてない。自分でそう思い込んでるだけだ。エメザレは一人ぼっちじゃないよ。みんな心配してるのに、気付いてないんだ」

 全てぶちまけてしまいたいのを我慢して、エスラールは曖昧な言葉を並べた。

「そんな作り話して、なんのつもり? だいたい、エスラールは二号隊の事情なんて知らないだろ」
「いや、作り話ではない」

 部屋の外から冷静な声がした。サイシャーンの声だった。



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