top text

帝立オペレッタ07(子供の王国)



「総隊長、なにも殴ることないじゃないですか……」

 エスラールは少し前を歩いているサイシャーンの凛々しい背中に言いながら、自分を慰めるように、頭のてっぺんでぷくぷくに膨れているたんこぶを撫でた。

 昨日からまったくいいことがない。ヴィゼルには童貞の喪失を疑われ、チョップを食らわされ、昨日助けたはずのエメザレからは、恩を返されるどころかインポとか言われ、そのおかげで仲間からはめでたくもインポに認定され、サイシャーンからは超強烈なゲンコツを頂いた。踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだ。さすがのエスラールもいじけたくなってくる。

「すまない。あそこで君を殴らなければ、一号寮はしばらくインポテンツという単語で溢れかえっていたことだろう。申し訳ない。君は尊い犠牲だった。悪いと思っている。許してくれ。君のたんこぶを無駄にはしない」

 サイシャーンは拳を握り、肩を震わせて背で憂える。

「僕って可哀想です」

 エスラールは自分の存在を哀れんで泣いた。
 サイシャーンがエスラールの頭頂にゲンコツを打ち下ろした瞬間、野次馬はクモの子を散らすように逃げていった。ついでにヴィゼルもいつの間にか忽然と姿をくらましていたので、なぜか成り行きでサイシャーンと顔を洗いに行くことになり、こうして仲良く廊下を歩いているのだった。


 洗面所は半分外にある。外というか、屋内にはあるのだが、屋根がついていない。洗面所の中央には高さが二メールはありそうな、石を組み上げて作った四角い貯水槽があり――巨大な浴槽に似ていた――洗面はそこにたまっている雨水を使っている。

 一号寮の洗面所は思いのほかすいていた。いつもならば、エスラールもとっくに顔を洗い終えて食堂に向かっている頃だ。そろそろ焦らなければならない時間なのだが、サイシャーンのペースはゆっくりだった。

 貯水槽には一メートルほどの高さの位置に、小さな穴が規則的にいくつもあけられていて、普段はコルクが詰まっている。そのコルクを抜くと顔を洗うのに丁度いい水圧で水が出てくるのだ。

「昨日は大変だったそうだな」

 サイシャーンは出てきた水で顔を丁寧に洗いながら言った。

「な、なんで知ってるんですか!?」

 一体どこから見ていたのだろうか。常に殺気を無意識に纏っている、サイシャーンのような危険人物(?)が後ろにいれば、すぐに気がつきそうなものだが。
 エスラールは口に含んだ生ぬるい水を噴き出した。

「あれだけの大事だからな。私でなくとも誰だって知ってるさ。昨日のうちに一号隊全土に知れ渡ってしまったようで、全く私も頭が痛いよ。私がいれば止めたんだが、昨日の夜はまた呼び出しをくらっててな……。バファリソンには強く注意しておいたが、君に頭を叩かれたことにご立腹の様子だったから、一応気をつけておけ」

「ああ、そっちのことですか」

 てっきり二号寮のサロンでの出来事のことかと思っていたので、エスラールは安心して、吐き出すはずの水を飲んでしまった。吐く予定のものを飲み込むというのは、例え水であれ、なんとなく嫌な気分である。

「そっち、とは? 他にもなにかあったのか。というか、エスラール。よく見ると君はひどい顔をしているな」

 エスラールの顔をまじまじと眺めて、サイシャーンは悪意のなさそうな声で言った。

「そんなこと真顔で言わないでくださいよ。傷付くじゃないですか。自分で言うものなんですが、僕はそこまでひどい不細工ではないと思っているんですけど」

「いや、造形美の方ではなくて、体調的な意味でだ。確かに君は不細工ではないから安心したまえ。本当にとりとめのない、ごくごく普通の、極めて凡庸な、良くも悪くも誰も振り返らない程度の、標準的で平均的で庶民的な、ありふれた、なんてことのない無難な顔立ちだ。自信を持て」

 サイシャーンは歯木(歯ブラシ)を片手に、きりっとした顔をより一層きりりとさせて深くうなずいた。

「すいません。総隊長。そんな雄々しいお顔で言われても、それ、逆に傷付きます」

「そうなのか。それはすまなかった。そうか、私としてはうまくフォローできたつもりだったんだが。ああ、なんということだ。傷つけてしまうなんて。なんと謝ればいいか。心苦しく、面目ない。申し開きも顔向けもできず、本意なく、遺憾で、口惜しく、残念であり、負い目を感じる。すまなかった」

 サイシャーンは歯を磨きながら大量に詫びたが、いつものごとくに顔面の筋肉は、デフォルトに固定されたままで動かない。できれば語彙を増やすより、表情のレパートリーを増やすことに専念してほしいものだ。

「もういいです。総隊長。わかりましたから、無表情のまま詫びの言葉を連発しないでくださいよ。もう本当に、なんか大丈夫なんで」

 エスラールはやりきれない気持ちを己の歯にぶつけるようにして、がむしゃらに歯を磨いた。

「で、なぜそんなにしなびているんだ。なんだか一晩で二十近く老け込んだように見えるが」

 と言われたので、エスラールはびっくりして自分の顔に片手を当てた。手のひらに触れる自分の顔は確かにすべすべではない。昨日の寝不足のせいか、なんだかいつもより荒れているような気がする。お肌の調子を気にするような乙女ではないが、ストレスのことを思うと切なくなってくる。

「え、ええ、まぁ、自分的に色々あったというか、気になることがあってですね、よく眠れませんでした」

「色々とは?」

「ところで食堂に行かなくていいんでしょうか」

 見渡せば洗面所にはサイシャーンとエスラール以外、誰もいなくなっていた。下手をすればもう朝食の時間が始まっているかもしれない。エスラールはいまだ遅刻したことはないが、食べ損ねた朝食を気遣ってくれるほどガルデンは優しくないだろう。食べ損ねたら最後、そのまま訓練に直行としか考えられない。
 それはどうにか回避したいものである。が、

「廊下で破廉恥な発言をした罪で本日の朝食は抜きだ」

 サイシャーンは残酷な知らせを涼しい顔でさらりと告げ、歯磨きを続ける。

「うえぇ! そ、そんなぁ……」

 本当にいいことがない。エスラールはがっくりと肩を落とした。
 洗面の時間帯が遅かったにも関わらず、サイシャーンが急がなかったのはこういうことだったらしい。元々エメザレの様子を聞くつもりだったのかもしれない。

「って総隊長も食べないつもりですか。総隊長が不在って色々まずいんじゃないですか?」

「副隊長には私のいないときは、代わりに指揮を取るようにと言ってある。彼は私より、しっかりちゃっかりしているから大丈夫だろう。総監からも昨日、臨時の特権をふんだくってきた。今の私は下っ端の教官よりも権威があるのだ。君から朝食を奪うことも軽々とできるのさ。ははははは」

 サイシャーンはおそらく笑ったが、その形状に顔の筋肉が慣れていないのだろう。まるで顔筋が元に戻ろうと抵抗でもしているかのように、色々な部分がぴくぴくと痙攣して、もう引き付けを起こしているようにしか見えない。その形相は子供なら小便をちびるほどのおぞましさだ。もはや妖気すら漂っている。

「ははははは……」

 なんかあんまり、このひとに権限を与えちゃ駄目な気がする。と思いながらエスラールもつられて引きつった顔で笑った。
 それにしても、エメザレを一号隊の仲間に入れるためだけに、総監がサイシャーンに特権を与えるというのはどもう解せない。エメザレは確かにある意味で問題児ではあるが、総監にとっては一隊士でしかないはずだ。なんだか妙だ。

「それよりエメザレのことを聞かせてくれ。なにかあったのか?」

 サイシャーンは口をゆすぎながら言った。

「え、え……あぁ……はい」

 エスラールは昨日のことを話すべきかどうか迷って口ごもった。
 ちゃんと報告するべきなんだろうとは思う。だが、告げ口のような気がしてならないし、話してしまえば、著しくエメザレの人間性やら品位やらを貶めることにもなる。それに、もしサイシャーンがエメザレを嫌悪し切り捨てでもしたら、エスラールは唯一といってもいい味方を失うのだ。

「エスラール。どうか正直に言ってくれないか。エメザレに関する噂のほとんどは本当なんだろう? 私はある程度、エメザレのことを知っているんだ。見放したりしないよ」

 ある程度とはどの程度なのだろう。
 エスラールはサイシャーンの顔を見た。
 いつ見ても鋭利な顔立ちである。トマトくらいなら突き刺せそうな顎の尖り具合はとても十九には見えない。顎だけではない、鼻も高く聳え立ち尖っており、こちらもプチトマトくらいなら突き刺せそうなほどに鋭い。

 それはさておき、サイシャーンが始めからエメザレの噂を信じていて、それでもなんとか仲間に入れようと思っていたのなら、たぶん本当のことを言っても問題はない。そのうえサイシャーンはエスラールが知る限り、かなり中立的で冷静な人物だ。というより心臓に毛が生えている。ヴィゼルのようにいちいち悲鳴をあげてぶっ倒れはしない。むしろ悲鳴をあげるところを見てみたいくらいだ。
 まぁ大丈夫だろう。たぶん。

「わかりました。話します」

 エスラールは、夜中に起きたらエメザレがおらず、長いウンコかと疑ったところから、先ほどのインポ事件のところまで、サイシャーンにほとんどのことを話した。
 内容が内容だけに破廉恥な単語が羅列されたが、ありがたいことにゲンコツは飛んでこなかった。

「そうか。わかった」

 話を聞き終わってもサイシャーンの表情は変わらなかった。この時ばかりは表情に乏し過ぎるサイシャーンの顔が愛しく思える。エスラールは胸をなでおろした。

「エスラール、エメザレをとめるんだ」

 サイシャーンは冷静な声で言った。

「はい。もちろんです! 全力でとめます」

「エメザレを二号寮へ行かせるな。絶対だ。先日の殺人事件にはエメザレのその行動が大きく関わっている。だからこそ総監はエメザレを一号隊に移したんだ」

 サイシャーンの声色は全く変わっていない。変わっていないのだが、言い方のせいなのか、その言葉は重みがあるように感じられた。

「どういうことですか?」

 まさかヴィゼルが言っていた通り、エメザレはヤバい関わり方をしているのだろうか。さすがに自分が殺されるとは思わないが、殺人と大きく関わっているらしい人物との同棲が強制というのは、いくらなんでもひどすぎる気がする。

「昨日は口止めをされている、と言ったが、私は昨日総監と話して、この一件を全て任せてほしいと頼んできた。かなり渋っていたが、なんとか許可をもらったよ。総監も相当困っているらしいな。だから君に私の知っていることを話す。だが必要のない他言はしないでほしい。とくにロイヤルファミリーには絶対に情報を洩らしたくない。私は君を全面的に信じているから話すんだ。わかったか?」

「はい。総隊長」

 なんとなく重い話をされる予感がして、エスラールは緊張気味に答えた。

「ユドはエメザレを宴会の犠牲者から外すためにサディーレを殺害したと自供している」

 サイシャーンは静かな声で告げた。

「え、それはつまりエメザレを助けるために殺した、ということですか?」

「そういうことのようだ。そしてエメザレを助けようとしている者が複数いるとも言っている。だから自分だけを逮捕しても他の者が行動を起こすだろう、とも。どうも、ロイヤルファミリーに対抗する集団が存在するらしいんだ。『反王家勢力』というそうだが、メンバーが誰なのかは口を割らない。さしずめ秘密結社もどき、というところだろうか。そういうわけで総監はエメザレを一号隊に転属させる決断を下したんだ。もし、ユドの供述が本当だった場合、同じようなことが起きては困るからな」

「そういうことですか」

 なぜ、そこで馬鹿げた宴会をやめさせようという発想に至らないのか、文句を言いたい気分になったが、理由は予想できる。
 おそらくブリンジベーレ遠征が二ヵ月後に迫っているからだ。できるだけ最高の状態で遠征に行かせたいのだろう。

 今まで、自由時間の行動に関しては、それこそ殺人事件でも起きない限り、けんかだろうが、リンチだろうが、強姦だろうが、教官側からはなんの干渉も受けることはなかった。愛国の息子たちを過保護にしてやったところで、どの道、戦場の前線に行くことになるのだ。そこではけんかやリンチ以上に過酷な現実が待っている。隊内でのいざこざを対処するのは総隊長の役割であり、それも自主的な判断にゆだねられていた。

 良し悪しはどうあれ、干渉されない時間というのは非常に大切な存在であることには変わりない。唐突に教官側から理由も知らされずに宴会禁止の圧力がかかれば、主戦力であるロイヤルファミリーの士気は確実に下がる。かといって反王家勢力の存在を知らせてしまうと、理解は得られるだろうが、今度はロイヤルファミリーが反王家勢力探しを始めて大事になるはずだ。

 それに反王家勢力の出現で混乱するのはロイヤルファミリーだけではない。連続殺人、しかも犯人が複数いるかもしれないとなれば、二号隊全体で疑心暗鬼に陥り、仲間を信用できなくなる。そのうえ、前期二年はブリンジベーレ遠征が初戦だ。経験値がないぶん、余計にチームワークと団結力に頼るしかない。そこで仲間が信用できないとなると致命的だ。もちろん、初戦とはいえ、前期二年はたっぷり戦闘訓練を受けているので、精神面が原因であっさりくたばるとは思わないが、可能性が全くないわけではない。だが万一のことがあっては総監が困るのだ。

 愛国の息子たちの教育費は国庫から出されている。クウェージアはただえさえド貧乏だ。国家規模での傭兵家業が外貨獲得手段の大半を担っている状況下で、せっかく育てあげた兵にすぐ死なれると損失が大きくなる。ゆえに愛国の息子たちを死なせない配慮をする必要があり、それはもっぱら総監の仕事であった。戦いで多くの死傷者が出ると、総監は責任を取らねばならない。万一でもブリンジベーレ遠征で大敗すれば、総監の首は確実に吹っ飛ぶことになる。総監としては、反王家勢力の存在をなんとしても隠しておきたいところだ。

 しかし宴会をやめさせなければ、また殺人が起こる可能性があるのだ。それも絶対に阻止しなくてはならない。

 で、その唯一の解決策が、事件の詳細を語らないまま、エメザレを一号隊に移すことだった、ということだ。幸い反王家勢力の目的は宴会の禁止ではなく、エメザレを犠牲者から外すことにある。だが、これではとりあえずの混乱を回避しただけで、根本的な解決になっていない。

「しかし、反王家勢力の目的はなんなんですか。エメザレを犠牲者から外すことが最終目的ではないでしょうし。反王家勢力というくらいだから、ロイヤルファミリーの殲滅とかそのへんでしょうか。となると、早くなんとかしないと、二号隊はまずいことになるんじゃ……」

 なにしろ、その反王家勢力は目的のために殺人すらやってのけるのだ。子供のけんかとはわけが違う。宴会でさえ可愛く感じるほどだ。ロイヤルファミリーが今までなにをしてきたのかは知らないが、少なくとも宴会を主催しているのは彼らだ。そんなロイヤルファミリーが二号隊内で称賛されているとは思えない。

「そう。早くなんとかしなければ非常にまずい。総監は反王家勢力の存在を私に知らせてしまうほどに困っている。エメザレの転属は応急処置だ。君の言うとおり、エメザレを犠牲者から外すことだけが目的ではないだろう。最終目的は別にあるとは思う。だがユドは最終目的に関しては黙秘を続けているらしい。私は、言わないのではなく、おそらく知らないのではないかと思うが。
実のところ総監はユドが犯人ではないと考えているようだ。能力検査の結果を見れば誰だってそう思うだろう。サディーレの戦闘能力は二十五段階評価で『二十三』、対してユドの戦闘能力はなんと『一』だそうだ」

「なんの誇張でもなく、気持ちいいくらい本当に最弱なんですね」

 能力検査というのはいわゆる試験であり、年に二回ある。つい先日も中間能力検査が実施されたばかりだ。この能力検査の結果が、後の昇級に関係してくる。
 筆記検査については順位が出るが、戦闘能力検査は二十五段階評価で結果が出る。兵は各年齢、だいたい百人なので、単純に二十五で割ると四人が『一』を食らうことになる。が、それにしても『一』とはひどい。

「そうだ。ユドはぶっちぎりの最下位。これぞ落ちこぼれ的な存在だった。普通に考えてサディーレを殺すのは無理だ。たぶんサディーレを殺したのはユドではないだろう。犯人は反王家勢力の誰か――複数の可能性もあるが、ユドはその人物の身代わりになって逮捕されたと考えると辻褄が合う」

「それで結局、総監は事件をどう解決するつもりなんです? なんか今の状況だと臭いものに蓋をしただけって感じですが」

「ロイヤルファミリーに勘付かれることなく反王家勢力を割り出し、説得してロイヤルファミリーと仲良くさせたい、らしい」

 サイシャーンも半分呆れたような声を出した。

「なんちゅー無茶な……。そんな都合よく物事は運びませんって。割り出すって言ったって、どうやってですか?」

「二号隊には内偵がいるはずだ。二号隊にも一人以上、事件の詳細を知っている人物がいる。それは誰だか私にはわからないが、ロイヤルファミリーでないことだけは確かだな。そいつが、二号隊の内部の状況を総監に報告しながら、反王家勢力のことを探っている」

「でも殺人までやるような集団なんですよ。割り出せたとしても、説得なんかできるんですか?」

「さあ、どうだか。私だって総監のしていることは無謀だと感じるよ。一応、私は自分の意見をぶつけてみた。まぁ、無駄だったわけだが」

 サイシャーンは額に拳を当て、不甲斐なさそうな顔をしたが、天下の総監様に一兵士が意見したというだけでも尊敬ものだ。その勇気に是非とも拍手を送りたい。

「あの、ユドはこれからどうなるんですか?」

 答えはたいてい察しがつく。エスラールの声は小さかった。

「おそらく死刑だろうな。軍事教育所内での殺人の前例は何件かあるが、加害者は全て死刑に処されている。見せしめのためだ。なけなしの国費で育てた兵に殺し合われては、たまったもんじゃないからな」

「でも、冤罪かもしれないって総監もわかってるんですよね。死刑なんて、そんなん変です。それでいいんですか」

 ユドとは一度も話したことはない。顔すらも知らない。だが、それでもガルデンという建物の中で一緒に生きてきた。例え落ちこぼれでも、大きな括りでは、過酷な大護院生活を乗り越えてきた強者の一人だ。ここまで頑張って生き残ったのだ。冤罪で死刑になるなどばかばかしい。それこそ生まれてきた意味がわからない。

「クウェージアでは、自白が有罪のなによりの決め手になる。本人が認めている以上、我々の力ではどうしようもない。総監は反王家勢力を潰すつもりはあっても、ユドを救うつもりはないだろう。ユドも死ぬ覚悟があったから自分がやったと言ったんだ。ユドは自分の意志で死刑になるだけだ。君が心を痛める必要はない」

 サイシャーンもエスラールの気持ちはわかっているだろう。
 ユドが否認をしない限り、死刑は避けられないが、ユドは自分の意志でサディーレを殺害したことにしたのだ。本人に助かるつもりがないのだから、助けることなどできるわけがない。

「……はい」

 エスラールは諦めて小さく笑った。

「とにかくだ。これ以上、話がややこしくなる前にエメザレをとめてほしい。本来であれば君たちに友人関係を築いてほしかったのだが、それはもう諦めていい。どんな手段を使ってもいい。縛り付けてでも、なんでもいいからエメザレをとめてくれ」

「とめるのはとめます。でも僕は、エメザレと友達になるの、諦めません。仲が悪くなったところで同室なのは変わらないんでしょうし、目の前にあんなのがいたら、僕は放っておけないんで」

「ありがとうエスラール。頼りにしているよ」

 気のせいといわれればそれまでの程度だが、サイシャーンの顔がこころもちほころんだ。

「もちろん、私も放っておきはしない。最悪、私がロイヤルファミリーと話をつける。できるだけ穏便に済ませるつもりだが――しかし、ロイヤルファミリーにはシマがいるんだろう? いや、シマは確実にロイヤルファミリーだろうな。成績順ならかなり上位にいるはずだから」

 が、微かなほころびはあっという間に消え失せ、今度は沈うつな表情になった。

「ミレベンゼの話を聞いた感じでは、シマ先輩はロイヤルファミリーみたいです。エメザレに『もう来たくないなら来なくていい』って言ってたらしいので。シマ先輩がどうかしたんですか? てゆーか面識があるんですか?」

「大護院時代に色々とな。私が行くと、事態がもっとややこしくなる可能性がある。おそらくシマは私を憎んでいるだろう。顔も見たくないと思っているはずだ。下手すると二号隊全体と争うことにもなりかねない。それほど、私とシマは深刻な間柄なんだ……それはまずいな。総監の意に反することになる」

「え、総隊長ってエメザレやシマ先輩と同じ大護院出身なんですか?」

「そうだよ。シグリオスタ大護院だ」

 それは結構意外だった。なぜならエスラールの知る限りでは、同じ大護院の出身者は同じ部隊に振り分けられていたからだ。
 エスラールはカイドノッテ大護院の出身だが、同じカイドノッテ出身者は全員一号隊に配属された。もし、同じ大護院の出身者が別々の部隊に振り分けられていたのなら、一号隊と二号隊の交流は頻繁にあっただろうし、ないということは、きっと二号隊も同じ大護院の出身者でまとめられているからだろうと思っていたのだ。

「あの……、噂に聞いたんですが、シマ先輩のあの顔ってエメザレがやったんですか? シマ先輩に強姦されかけて、エメザレがキレたって」

 エスラールがきくとサイシャーンは顔をしかめて、視線をエスラールに戻した。

「それは知らない。その一件があったのは、エメザレが十二歳でシマが十四歳のときのことだ。私は十五で、すでにシグリオスタ大護院を卒業してガルデンに来ていたんだよ。十五になったシマがガルデンに来たとき、顔があんなふうになっていたから驚いた。
私もエメザレがやったと聞いたが、本当かどうかはわからない。最初に聞いたときは信じなかったよ。なにせシマは小さいときから強くて、よく年下に暴力を振るっていたが、エメザレは顔が可愛いという以外に突出した能力はなかったからね。どちらかというと地味で大人しい、目立たない存在だった。今ではどうやら君をぶん投げるほど強いみたいだが。そのエメザレがシマに傷を負わせるなんて、とても信じられなかった。
ただ、強姦されかけて怒った、という理由は違うだろうとは思う」

「どういうことですか?」

「いつからなのかは知らないが、エメザレはシマのグループに性的ないじめを受けていた。強姦されかけたどころか、ずっと強姦されていたんだ」

「ずっと? 誰もとめなかったんですか?」

「とめないよ。とめるってことは、あそこでは身代わりになると言ってるようなものだったからな。弱い奴は犠牲になるのが宿命だったんだよ。皆、それが普通だと思っている。二号隊では今でもそれが常識なんだろう。もし、エメザレがシマの顔をああしたのだとしたら、エメザレは抵抗し復讐したんだよ。おそらく。だが、本当のところは本人に聞くしかないだろう」

「なんだか聞きづらいですよ。ますます険悪な雰囲気になりそうですし」

 エスラールはエメザレの冷たい態度を思い出して、ため息を吐いた。
 エメザレは先にどこかへ行ってしまうし、とくに部屋の外では避けられているような気がする。友達がほしいとか言っておきながら、友達になろうとすると、拒絶されるし、絶対助けが必要なはずなのに、助けようとすると、放っておいてと突き放される。ついでにインポとか言われるし。いったいあいつは何様なんだ、と思いつつも、なぜか放っておけず、嫌いにもなれない自分にいらいらしてくる。
 一瞬だけ見せたあのからっぽの表情が頭に浮かんできて、エメザレを抱きしめたときの身体の冷たさが蘇り、エスラールは身震いした。

「そうだ、二号隊の奴らなら知っているんじゃないかな。なにしろ二号隊のほとんどはシグリオスタの出身だからな」

「ああ、そうだったんですか。なんか、二号寮が別次元の雰囲気だったことに納得しました。けど、じゃあなんで総隊長は一号隊にいるんですか?」

「ガルデンの振り分けはシグリオスタ出身が二号隊で、その他が一号隊になっているらしいんだが、私がガルデンに入った年は、シグリオスタ出身者の人数が多すぎて二号隊に入りきらず、私と何人かだけ一号隊に回されたんだよ。
ことろで、私がシグリオスタの出身だということは、あんまり言いふらさないでくれ。人格を疑われると困る」

「そんなに、人格が歪むのが普通なくらいにひどい環境だったんですか」

「シグリオスタは子供の王国だったよ」

 きっと嫌な思い出なのだろう。サイシャーンは気持ちを整理するかのように少し間を置き、話を続けた。

「教師という大人は確かにいたが、彼らは武術と勉強を教えるだけの存在だった。もちろん悪いことをしているのを見かけたら叱るがね、子供だってそうバカでもないから、悪いことは大人のいないところでこっそりとやるだろう。本当は、裏でしていることこそ監視するべきなのに、大人は誰も裏まで入り込んでこなかった。人数が多くて目が行き届かなかったという理由も確かにあるだろうが、それを含めてシグリオスタの方針だったんだろう。弱い者はいらない、という方針さ。
だから実質、あそこは子供だけの王国なんだよ。あんな秩序のない、過酷な環境は滅多にないだろうな。なにしろみんな子供だから、情けも容赦もない。残酷で、手加減のしかたも知らない。強い者が滅茶苦茶なルールを作って弱い者を支配する。もう動物の世界だよ。思い出したくもない。強者の立場にいた私ですらそうなんだ。弱者を――エメザレのことを思うと憐れとしか言いようがないよ。いや、そんなことを言う資格もないな。私は……、私は強者だったのだから」

 エスラールはなんと答えればいいのかわからず、下を向いた。
 クウェージアが愛国の息子たちを大切にし始めるのは大護院を卒業してからだ。戦場に立ち、軍人としての勤めを果たせる年頃になって、初めて死なせない配慮をしてもらえる。それまでは、弱者と強者を分けるために、ふるいにかけられる期間なのだ。カイドノッテでは、そのふるいは病気だけだったが、それでもガルデンに比べれば過酷な環境といえた。大護院の思い出は辛いものだ。それは全ての大護院にいえることだろう。

「さて、もう行こうか、エスラール。そろそろ朝食が終わる時間だろう」

 サイシャーンは過去から逃げるように背を向けた。二人とも洗顔はとっくに終っている。最初から歩きながら話していれば、朝食に間に合ったのではないか、という考えはこのさいしないでおく。

「あの、総隊長はエメザレの二号寮での行為を知ってて、それでも歓迎すると言ったんですか?」

 エスラールはサイシャーンの、ぴんと伸びた背中に向かって訊ねた。

「そうだよ。エメザレはまだ変われる。まだ十六なんだ。私は一号隊に来て、考え方も価値観もずいぶん変わった。ひとなんて環境でいくらでも変われるさ。ひとの半分は環境によって作られてるようなもんだ。まぁ、あとの半分は私の顔面のように、治らないかもしれないが。エメザレは絶対に変わるよ。君なら必ず変えられる!」

 サイシャーンは振り向き、冷酷な顔で――しかし瞳を星空のように煌かせながら言った。冷徹とロマンを併せ持つ、矛盾したその顔のなんと輝かしく崇高に男前なことか。エスラールはサイシャーンの悪人顔に萌え悶え、決め台詞に惚れ禿げた。

「超かっこいいです!! そおたいちょおぉぉぉぉぉぉーーーーーーー!!」

 エスラールは荒ぶる感情の赴くまま、激しく猛烈に、サイシャーンに抱きついたが、次の瞬間、わずかに気が遠のいて、気がつけば膨らんだたんこぶのさらに上に、もう一つたんこぶができていた。



前へ 次へ


text top

- ナノ -