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帝立オペレッタ10(失望から)



 手には毛布を持っている。昨日エメザレを包んできた二号寮の毛布だ。どこに行こうとしているのかはバカでも考え付く。

「二号寮。毛布を返しに。それと寝間着を取りに」

 少しくらいたじろいでもいいようなものだが、エメザレはしばらく間をおいてから落ち着いた声で答えた。開き直りに見えなくもない。

 毛布を返して寝間着を取りに行くというのは、たぶん嘘ではないだろう。ただ、用がそれだけとは思えない。おそらく、あのふざけた宴会とやらにエメザレは行くつもりなのだ。そうでないなら、こっそり真夜中に行く必要はない。

 騙されたような気がしてエスラールはムカついた。あれだけ爆睡して、こちらを油断させておいて、寝静まった頃合を見計らって出て行くという計画性が非常に腹立たしい。

「じゃあ俺も一緒に行くよ」

 エスラールはちょっと怒って言った。昨日のこともあり、今日は――というかできれば毎日ぐっすりと眠りたかった。
 微妙に霞む視界を瞬きで制しながら、エスラールは裸足のままベッドから降りた。石床の冷たさが不覚にも足の裏に凍みて、どことなくぼんやりしていた意識がはっきりとした。

「来なくていい。僕一人で行く」

 その顔は無表情だったが、声から敵意を感じて取れる。
 エメザレがドアノブに手をかけたので、エスラールはドアを覆うようにして、急いでエメザレの前に立ちはだかり、ドアノブにかけられた手を掴んだ。

「行くなよ。もうやめろよ。どうしても毛布を返して寝間着を取りに行きたいなら二人で行こう。それですぐ帰ってこよう」

「頼むから、僕をそんなに苦しめないでよ」

 エメザレは自由の利くもう片方の手でエスラールの手を必死に引き剥がそうとする。その力が本気なのでエスラールも本気でエメザレの手首を締め上げた。

「痛いよ。放してよ。僕のことは放っておいてったら!」

 エメザレの突き放したような態度にエスラールはだんだんと苛立ってきた。どう冷静に考えても正しいのエスラールのほうだ。善意しかないはずなのに報われないのが虚しくて、ひどく悔しい気分になった。

「もっと自分を大切にしろよ! 毎日毎日、色んな奴とやってなんになるんだよ!」

 エスラールがエメザレの両手首を力いっぱい握り締めて強く揺さぶると、エメザレは一瞬だけ怯えたような表情を見せたが、すぐにそれを隠すように侮蔑的な目つきをした。

「どうしてそんなに苛立つのか教えてあげるよ、エスラール。君は僕の心配なんて本当はしていないんだよ。僕を友達だとも、僕と友達になりたいとも本当は思っていない」

 エメザレは不敵に笑んだ。

「なんでそんな捻くれた考え方するんだよ! 俺は本当に――」

 ぶん殴りたい衝動を抑えてエスラールは反論した。しかしエメザレは聞く気なんてないとばかりにエスラールの言葉を遮った。

「僕が来る前まで、君の周囲は平和そのものだったんだよね。君は世界の中のクウェージアという国の中の、ガルデンという施設の中の、ごくごく小さな領域の中に平穏を作り出して、そこだけ見て人生って素晴らしい、生まれてきて良かった、っていつまでも思っていたかったんだろう? 本当は平穏な領域の外があって、失望的な出来事が嵐のように吹き荒れているのを知っているのに、外を見ると生きているのが嫌になるから、ずっと見てこなかった。それが君なりの“まともな精神の保ちかた”なんだよね。
一生懸命作った平穏な領域に突然こんな淫売がやってきて、エスラールは混乱しているんだよ。エスラールは僕の心配をしているんじゃない。平穏な領域が壊れてしまうことを心配して、なんとかしようと足掻いているんだよ。だから僕のことを都合がいいように考えたがる。そしてなんとか僕を君好みの性質に仕立てて、平穏が壊れないようにしたいと思ってる。それで全てが解決すると信じている。だから友達という言葉を使いたがって、友達になりたいとか、もう友達だとか言ってるんだ。でも残念だけど、僕が意図しなくとも僕は居るだけで平穏を壊してしまうし、それに自分の性質がそう簡単に治ると思わない。
エスラールは今、とても混乱していて感情の輪郭がぼやけているんだよ。今は心配とか同情とか義憤とか、その程度の小奇麗な言葉で片付けられるだろうけど、これからはっきりと見えてくるのは僕への憎しみだ。平穏を破壊した僕への憎しみだ」

 エメザレの言葉に、エスラールはなにも返せなかった。その通りだと思ってしまった。
 つい昨日まで、エスラールはエメザレを少なからず嫌悪していたはずだ。悪いものの象徴のように感じていたはずだった。しかし、同室になるのだと覚悟した瞬間、エスラールの中でエメザレは綺麗で可哀想な存在に変わった。誰とでも寝るのが本当だとわかったときも、犯してと言ってすがってきたときも、セックスはパンだとか言ってきたときも、本当は大きく失望していた。でも失望を埋めるように、なにかか覆いかぶさってきて失望はなかったことにされた。だからエメザレを嫌いにならなかった。

 そのなにかがなんだったのかわかった。理想への執着で、現実への拒絶だ。そうやっていつも精神と平穏を保ってきたのだ。ずっとしてきたのは現実を割り切る努力ではない。夢を見るための努力だ。

「だから、僕は君に憎まれる前に消えるよ。嫌われたり、蔑まれたりするのは構わないけど、憎まれるのはすごく苦手なんだ。だからもう僕に構わなくていいよ。君の平穏な世界から、僕はちゃんといなくなるんだから。心配しなくていいんだよ」

 エスラールはエメザレの両手首を握り締めたまま、エメザレの冷たい顔をただ見つめていた。目に見えそうなほどのエメザレ強烈な孤独が部屋いっぱいに漂ってくる。沈黙が流れ、耳が痛くなるような静けさに包まれた。

 でも。
 その静寂の中で、エスラールは思った。
 でも気持ちは変わらない。
 エメザレと仲良くなりたいという気持ちも、助けたいという気持ちも嘘ではない。なぜそんな気持ちを抱いたのかという理由が明らかになっただけで、気持ちそのものは本物だ。
 平穏を大切にしているのは事実だし、エメザレが平穏を破壊しそうになっているのも事実だ。だからこれから先、エスラールが築いてきた安っぽい平穏が完全に破壊されたとき、エメザレを憎まないでいられるかはわからない。そんな未来のことは神にしかわからない。
 けれども今、エメザレを救いたいと思っている、この気持ちだけは絶対的だ。それだけは譲れない。この思いだけはしっかりと正確にエメザレに伝えたい。いや、絶対に伝えなければならない。
 
 エスラールは衝動的にエメザレを抱きしめていた。

「……な、なに? 急に」
「嘘じゃない。俺はエメザレを救いたい」

 エメザレの骨ばった細い身体から寂しさが凍みてくるような気がして、悲しくなってくる。なんだか堪らなくなって、エメザレを強く抱いた。うつむいているエメザレの柔らかい髪の毛が、ちょうどエスラールの頬に触れ、その感触の優しさにわずかな安らぎを感じた。

「エメザレ、行くな。もうやめろ」
「どうしてそんなこと言うの。僕に。そんなこと言われたって、僕は……。酷い。酷いよ……」

 エスラールにおとなしく抱かれていたエメザレが擦れた声で呟いた。

「なにが酷いの?」
「……君のこと、信じるよ。エスラール」

 エメザレはエスラールの問いを流し、唐突にも思えることを言って、ゆっくりと顔を上げた。その顔は力なく微笑んでいる。エメザレの鼻先がエスラールの口元に触れそうなところにあった。弱く静かな月の光に照らされているエメザレの秀麗な顔立ちが、やたらと幻想的に見えた。エスラールのまだ知らない感覚が自分の意志とは無関係に、急激に盛り上がってきて、身体が乗っ取られてしまうような恐怖に駆られる。

 エメザレから離れなければ、と思ったとき、エスラールの唇に柔らかく冷たいものが触れてきた。それがエメザレの唇なのだとわかって、エスラールはもうなにも考えることができなくなった。ただ苦しいほどに心臓が締め付けられた。羞恥なのか不快感なのか、はたまた喜びなのか、ときめきなのか、大まかな印象さえ不確かだった。

「ごめんね」

 すぐ傍から聞こえたはずなのに、まるで遠い場所から放たれた言葉のような気がした。なにに対する謝罪なのかと、エスラールが考え始める前に、腕の中からエメザレが消え去っていることに気付いた。誰もいなくなった自分の腕の中を、不思議に思ってぼんやり見ていると、とんでもなく強大な殺気が真正面から襲ってきた。エスラールはよくわからぬままに、それでも避けようと身を屈めたが、その軌道すら読まれていた。

「ぐぎゃ!」

 エスラールの首には、エメザレの回し蹴りがお手本のように華麗に決まっていた。混迷極まる思考の中、真横に吹っ飛んだエスラールの意識は、宙を舞った状態で途切れた。


◆◆◆

 昔、カイドノッテ大護院にいた頃、年に三回ある遠足がエスラールはとても楽しみだった。遠足といっても、歩いて三十分ほどの距離にある丘に行って昼食をとって帰ってくるだけで、とくに面白いことがあるわけではない。丘に向かう途中には貧相な畑と小さく汚い家が何軒かと、しょぼい川があるだけだった。それでも大護院の外に自由に出ることができないエスラールには特別な世界に思えた。

 エスラールが知らないだけで、もっと家はあったのだろうし、どこかに商店のようなものや、もう少し拓けた場所があったのだろうと後に思ったが、最初の頃はまだ幼かったので、遠足のときに見かける数軒の家だけが、村の全てどころか、世界全体のような気がしていた。

 遠足のことを思い出すとき、エスラールは決まって同時にきれいなコートと黄金色の飴玉を思い浮かべる。
 いつもは、ごわごわの質素な服を着ているのだが、遠足に行くときと、かしこまった行事があるときだけは、裏地のついた、貴族が着るような立派なコートを着ることができたからだ。黒いビロードでできていて、襟と袖に白い刺繍が入っている、そのコートの異常なまでの心地よさが強く印象に残っているのだ。普段、コートは子供の手の届かないところへしまわれているらしく、見ることさえ叶わなかった。特別なときにだけ、どこからともなく魔法のように現れ、教師によって配られた。美しく輝くコートを着て、大護院生全員が二列に並び、田舎の道を歩くのだ。

 クウェージアの天候は、もれなく曇りが多い。晴れの日もあっただろうが、思い出の中の遠足は常に薄寒く、どんよりとした曇り空だった。

 村の家の前を通るとき、先頭を歩く教師はハンドベルを鳴らし、「愛国の息子たちだ。愛国の息子たちだ」と誰にともなく告げた。その時間帯はたいていの場合、村人は外へ出て農作業をしていたが、大護院生が通る間は畑を耕す手を止めた。とくにそういう決まりがあったわけではないと思う。だが村人たちは、寄ってくるでもなく、笑いかけてくるわけでもなく、かといって嫌な顔をするわけでもなく、立ち尽くして、川の上流から葉っぱとか木の枝とかが流れてくるのを、なんとなく目で追うように、表現しがたい奇妙な眼差しで大護院生を見送っていた。

 灰色の鈍い色彩で思い出される村人の顔は無表情で、全員が干物みたいに痩せこけている。ビロードのコートとは次元の違いすぎる、汚く泥だらけの服を着ていて、かつての色がわからないほどに土色に染まっていた。白いはずの肌も不健全に濁っていて、灰をかぶったような色をしている。ひもじい大地からは、枯れ草に似た細い農作物が頭を出していた。

 村を過ぎると幅が二メートルほどの小さな川があった。エスラールはその川を通るたびに魚を目で探したが、一度も見つけられなかった。昔はマスが釣れたらしいと聞いたことがある。ひもじさのあまり、ひとびとが捕り尽くしていなくなってしまったのだ。マスだけではない、丘の一帯にはその昔、野ウサギもいたのだという。野ウサギもまた、飢えたひとびとによって狩り尽くされた。

「村人たちは、木の皮を剥がし、地面をほじくり返して幼虫を捕まえ、それを食べているのだ」

 教師はよく丘の上で大護院生に村人の生活がいかに悲惨かという話をした。それから「感謝しなさい」と言って大麦のパンと黄金色の飴玉を配った。半透明の飴はまるで芸術品のようで、いつまで眺めていても飽きなかった。口の中で消えていってしまうのが残念で残念でしかたなかった。

 丘からは荒廃した広い大地がよく見えた。
 エスラールはカイドノッテの外は汚いのだなと何度も思い、素晴らしいコートを着られる自分は幸せなのだなと感じて、そのときに必ず頬っぺたが痛くなるほどに甘い、とても美味しい飴を舐めていた。

 幼い頃、その遠足の意味がわからなかった。なぜ遠足があるのか、なぜハンドベルを鳴らし、「愛国の息子たちだ」とわざわざ告げるのか、なぜコートを着せられるのか、なぜ丘の上で飴玉が配られたのか、少しも深く考えはしなかった。そして村人たちが、なぜ表情のない眼差しを向けていたのかもわからなかった。ただ、遠足に行けることが、コートを着られることが、飴を舐められることが嬉しいだけだった。

 けれどもある日、理解した。思春期の手前特有の潔癖な正義感が、貧困を憎ませ、善悪を問わせ、エスラールに現実を教えた。

 カイドノッテの教師たちは、大護院生に幸せであると思い込ませたかったのだ。愛国の息子たちはクウェージアに愛されていると信じ込ませたかった。だから国家に従順でありなさいといいたかった。愛の象徴がコートと飴だった。

 そして村人たちに知らしめたかったのだ。「愛国の息子たちを見よ。彼らはクウェージアの未来だ。このように素晴らしいコートを着ている。それだけの国力がまだクウェージアにはあるのだ。未来はまだ輝いているぞ」と。

 そして村人たちは、ちゃちな芝居を全て見抜いていて、なにも知らずに芝居をさせられ、やがて戦場で死に行くであろう大護院生を哀れみ、同時に、飢えを知らず清潔で、上等なコートを着ている大護院生を羨み、それらが相殺され無となって、あの言い表しがたい表情と眼差しを作り出していたのだ。


 そのときだ。現実を知ったとき、同時に、村の貧困をなんとかしたいと思っても、人生の道程をもう決められてしまっているエスラールには、どうにもできないことがわかってしまった。

 それを理解したのを機に、エスラールは丘の上から村を見るのをやめた。村に背を向けて、パンを頬張るヴィゼルの不細工な顔を見て笑っていた。
 そう、そのときからエスラールはずっと人生に失望し続けていた。



◆◆◆

「あたたたた……」

 エスラールは、ただ思い出を回想していたような、微妙な夢から目覚めた。半分もげているんじゃないかと心配になるほどの首の痛みで、思考がなかなか復活しないが、どうやらベッドに寝かされ、ご丁寧に毛布まで掛けられているらしい。辺りはまだ暗かった。
 とりあえず起き上がったが違和感がある。なんか世界が斜めになっている。首が右側に傾いている気がする。

「痛たた! 痛っ! いったいぃぃぃぃ」

 首を真っ直ぐにしようと手で頭を動かすと、激しい痛みが走った。まぁ首は繋がっているようであるし、呼吸もしているし、死にはしないだろう。しかし昨日と今日の出来事でエスラールの頭部はもうボロボロである。しかたないので首を右に傾けたまま、状況を整理しようと考え出すと、真っ先にエメザレの冷たい唇のことが浮かんできた。自分の唇がまだ冷たいような錯覚があり、親指でなぞったが、そこにはなんの名残もなかった。

 いや、それよりも、エメザレは?
 エスラールはエメザレのベッドに目をやったが、ベッドは空だった。
 今は何時なのだろうと思った。気絶してからどれだけの時間が経ったのだろうか。とにかくエメザレが帰ってきていないことだけは確かだ。行かなくては。早く助けなくては。きっとまた一人で震えて泣いている。

 エメザレはもうエスラールの世界の一部なのだ。どんなに遠くへ行ってしまっても、二度と会うことがなくても、永遠に仲間だ。それは定められた自由のない人生の中で、失望はびこる現実の中で、最も大切にしなければならない気持ちなのだ。
 それがエスラールの“まともな精神の保ちかた”だ。生き方だ。
 エスラールは痛む首を傾け、部屋を飛び出した。


 二号寮に足を踏み入れると、威嚇するような空気が昨日と変わらずに流れていた。しかし今日はそれに躊躇することなく、エスラールは二号寮に入っていった。
 入ってすぐに、よく響く高い喘ぎが聞こえて、その声がエメザレものだとなぜかわかった。暗闇の中に浮かび上がるサロンは異次元への入り口のようで、うごめく大きな塊のシルエットが遠巻きから見えた。巨大な影絵のような塊は不定形で、動きが不気味だ。わずかな怯えが生まれたが、エスラールは止まらなかった。
 サロンに近付くにつれて、シルエットが詳細になり、それがひとの群れなのだと理解した。その群がりの隙間からエメザレの姿が見えた。飢えた虫が甘いものに群がるように、男たちがエメザレに群がっている。男たちはエメザレの首や腹や足に、文字通り激しく喰い付いていたので、一瞬食われているのではないかと思った。エメザレはされるがまま、床に横たわり、痛いのか、時折身体を仰け反らせて悲鳴に近い喘ぎ声を上げている。
 彼らは行為に必死で、走り寄るエスラールに気付かない。

「エメザレから離れろ!」

 エスラールはサロンの真ん中でうごめいている塊に向かって言った。



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