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英雄と王子04結局、イウがエメザレに会ったことはグセルガの耳に入らなかった。
おそらくジヴェーダはイウと話すことを禁止されていたのだろう。面倒事がいかにも嫌いそうなジヴェーダは自分の身を案じてか告げ口をしなかったらしい。
だがそのことはあまり関係なかった。どちらにせよ、今日こそ自分の意思をしっかりとグセルガに伝えるつもりでいたからだ。
「毎日毎日、殴らればかにされ、それでも懲りずに床を磨いている。なんて愚かなのだろう。あの濁り汚れた黒い瞳を見たか。我々を恐れ、憎んでいる。あの男には気をつけるのだ」
そう呟きながらグセルガは朝食の席にやって来た。傍らの召使はその呟きを聞いているのかいないのか、黙って王の座る椅子をひいた。
グセルガは黒い髪を目に映すことすら嫌悪していて、エメザレという存在を可能な限り無視し、できるだけ顔を合わせないように心掛けていたが、今日に限っては何の手違いかエメザレに出会ってしまったのだろう。
いつにも増してグセルガの顔は不機嫌だった。
「ち、父上……!」
いつもはおとなしい息子が、いきなり大声を出したのでグセルガは驚いた表情をした。
「なんだね。我が息子よ」
「それは…ぼくは、違うと……。それは、違うと思います……」
イウは言葉をつまらせながら、それでも精一杯言った。
少し間を置いて、考えてから不思議そうにグセルガはきいた。
「それで、どう違うのだね」
「エメザレが何をされても怒らないのは、この国を思っているからです。けして、誇りがないわけでも、愚かなわけでもなくて……」
グセルガの顔から血の気が引いてゆき、表情がどんどん硬くなっていくので、いくぶんイウは心配になって、口をつぐんだ。
「どうした。続けたまえ」
ひかれた椅子に座りもせずに、イウの言葉に耳を傾けた。
「だから、エメザレは父上に認めてもらえるよう、すごく……努力しています。なぜ、認めてやらないのですか…?」
重苦しい、しばらくの沈黙の後、グセルガは深刻な顔で言った。
「イウ。それは非常に危険な思想だ。実の息子の口から、そんな言葉が飛び出てくるとは、正直心外だ。お前にいらぬことを吹き込んだ悪しき者はエメザレか?」
「……いえ。違います」
「エメザレはお前を脅し、口止めまでしたのか。前々から、息子に悪影響が及ぶことを懸念していたが……」
だんだんと強く大きくなる声に、イウは自分の意見を言ってしまったことを後悔した。しかし、今さら後悔などしたところで、全く無意味である。グセルガはとまらなかった。
「エメザレをここへ呼べ」
召使はその怒鳴り声から逃げるようにして、黙ったまま背を向けると走っていった。
「違う。違うよ。父上! ぼくが勝手に思って言ったんだ。エメザレは何も言ってない!」
なぜ父は自分ではなくエメザレに矛先を向けるのだろう。
エメザレのためを思って言った言葉は残酷にもなんの役にも立たず、逆に窮地に追い込もうとしている。
「我が息子よ。お前までわたしを裏切るのか!」
ついに、それは叫び声になった。
「違います。父上、ぼくはあなたを裏切るつもりは――」
「早くしろ! 早くエメザレをここに連れて来い!」
自分を表現することは、そんなにもいけないことなのだろうか。グセルガがイウ考えを認めるはずがないのはわかっていた。それで自分が傷つけられるのは、覚悟して言った意見ではある。
ただエメザレを助けたかっただけなのに。それなのに。
取り返しがつかないことだとわかりつつもイウは心底嘆いた。
「お呼びでございますか。陛下」
エメザレは音もなく現れると、グセルガの前でひざまずき頭を下げた。少し遅れてジヴェーダも現れたが、王の様子をうかがって隅のほうに立った。
「お前に一つ言っておく。我等より劣った、黒い髪のお前がこの城で働けるのは、わたしが慈悲をかけているからだ。
わたしの思いやりと優しさ以外に、お前を救えるものはない。お前はそれをわかっているのかね」
静かに始まったグセルガの言葉はいつもより余計に重く聞こえた。
グセルガの瞳の中では狂気に似たなにかが輝きを放っていた。だからといって、イウに何ができるわけでもない。この場から逃げたい衝動に駆られたが、それすらもかなわない。
「はい。わかっております」
「わたしに感謝しているかね」
さらに静かな声でグセルガはきいた。
「はい。いつも感謝しております」
「そうか。わたしに感謝しているのだな。ならば、なぜ我が息子に余計なことを教えた! わたしが大事に大事に育ててきた息子に! なぜいらぬ事を吹き込んだ! なぜわたしは息子にまで裏切られないとならない? お前だ。お前のせいだ!」
金切り声で叫んだ。グセルガを取り巻く不穏な空気は激烈な怒りとなって、殺意すら漂わせていた。
「違う! 父上、ぼくの話をきいてください!」
体を振るわせながらも、腹から声を絞り出した。エメザレが殺されてしまいそうで、ただ恐ろしかった。城の中で、自分以外に彼の味方をする者は、一人もいない。少しでもエメザレの力になりたいと、イウは必死に悲鳴を上げた。
「私はイウ王子に、余計なことを教えた覚えはありません」
しかし、その願いはエメザレの一言によって崩れ去った。
明らかに声の調子が変わった。まるでグセルガに対して喧嘩を売るような声の感じだ。
グセルガを睨み付けるエメザレの目には、微笑と優しさではなく、これまでの仕打ちへの恨みと憎悪が込められていた。
なぜこんなことをするのか、イウは不思議に思った。いつもの穏やかな声で言えば、グセルガの怒りをかうことはなかったかもしれないのに。苦痛や憎しみを我慢することなど、エメザレには簡単にできたはずなのに。
疑問を投げかけるようにエメザレを見ると、彼はイウの方を見て優しげな表情をした。
「口答えをするな! 劣等した黒い髪め!」
もはや、エメザレが言ったことなど聞こえていない。グセルガはエメザレのそばまで行くと、いきなりにひざまずいたままのエメザレの頭を蹴りあげた。
エメザレは体勢を崩して倒れ、床でさらに頭を強打したが、グセルガはかまわずに何度も彼の頭を踏み付けた。
「なぜ、こんなもののために! わたしが!」
声は裏返り、グセルガは狂ったかのように何度も何度もエメザレを蹴りつづけた。それでもエメザレは抵抗するわけでもなく、悲鳴を上げるでもなく、全てを受け入れていた。
しばらくして、疲れたのかグゼルガはエメザレを蹴るのをやめた。しかし、グゼルガの怒りがおさまったわけではなさそうだった。
これ以上見ていたくなくて、イウは両手で頭を抱え、その場にうずくまった。
「ジヴェーダ。それを痛めつけろ。手加減するな」
グセルガは、部屋の隅で薄ら笑いを浮かべて見物していたジヴェーダに言った。
「ここで、でございますか」
遠慮気味に彼はきいた。
「そうだ。我が息子の目の前で、わたしに逆らうものはどうなるか教育してやらねばならない。
みておくがいい。我が息子よ。二度と見られぬような、惨い光景をその目に焼きつかせておけ」
そう言うと、泣きながら震えているイウの髪を引っつかんで、無理やり椅子に座らせ、それを見せ付けた。
白い大理石の床が、次第に赤く染まってゆく。皮膚という皮膚が傷付けられ、全身から血が吹き出して、血生臭い匂いが部屋中に広がった。ジヴェーダの鞭を打つ音や、殴る音がイウの頭の中で響き広がる。
でもエメザレは、ただ黙ってどこか前を見つめていた。きっと彼は死を見つめているのだ。静かに。彼はその時を待っているのだ。
それがイウには信じられなかった。自分は玉座に座って見ているだけで、止めることもできずに、頭を抱えて震えながら泣いているのに。自分にはけして受け止められない、酷い現実をエメザレは何の抵抗もなく受け止めている。
どうしてこんなに無力なんだろう。
ごめんなさい。ぼくが悪いんだ。
何かしなくては。何か――
しかし、そう思うだけで、結局イウは何もできないままに、エメザレは少しも動かなくなった。鮮血の絨緞に横たわるエメザレを前にグセルガはこう言い放った。
「白い宮廷に黒い無能者はいらない」
「ぼくの言うことを誰も聞いてくれないんだ……。だから…手当てのしかたがわからなくて……。ごめんなさい、ごめんなさい……ぼく、何もできなくて…ぼくのせいなのに……」
自分の無力さが歯がゆくて、自分が憎くて、後から後から涙が零れ落ちた。泣いたところで、どうにもならないことくらいわかっても、涙が止まらなかった。
「なにも、王子が謝ることなんてありませんよ」
しかし、エメザレの声は擦れていて、耳をそばだてなければ聞き取れないくらいに弱々しかった。
「私が陛下に生意気な口をきいたせいですから。それに、あなたは私をここまで運んでくださった。重かったでしょう?」
イウは頭を横にふった。エメザレが重いはずがない。十歳のひ弱な少年が運べるほどだ。痩せきったエメザレの身体は、生きているのが不思議なくらいに軽かった。
そんなエメザレを引きずって、イウは自分のベッドに彼を寝かせたが、一国の王子が怪我の手当ての仕方を知っているはずがない。どんどん紅色に染まっていくシーツを前に、彼は泣きじゃくりながら、吹き出す血を押さえるので精一杯だった。
「ぼくのせいで……許してくれ。ぼくらを許して。こんなことになるなんて……。ただ、ぼくは、父上があんまりにもお前をばかにするから…悔しくなって。ごめんなさい……」
「平気ですから。心配しないでください。私は見た目より頑丈にできていますから。すぐに治りますよ」
エメザレの明るい声が、余計イウの心を締め付けた。
「でも……でも、右目が潰れてしまったよ…。痛かったでしょう? もう、治らないよね。ごめん……許せるはずないよね。ごめんね」
何度も踏みつけられた右側の顔は変色し、ひどい箇所は抉れて赤い肉が見えていた。
殺すつもりだったのだろう。傷は深く、骨も幾本か折れている。特に足はひどく折れ曲がっていて、もう軍人としての役目が果たせないのは明らかだった。
「いいんです。片目くらい。足でも手でも、何でもいいんです。それで、少しでも望みが繋がるなら、そんなもの少しも惜しくないんです。
私には我慢することくらいしか、できることがないから……だから、私は今まで、今までずっと……」
エメザレは声を殺して泣いていた。涙を見せるのが恥ずかしいみたいで、骨の浮いてみえる不自由な手で顔を覆って、すすり泣いた。
「すみません。あなたに、こんな姿を見せたくなかったのに……」
そう言って彼はイウに背を向けようとしたが、思うように動けなかったらしく、少し体を浮かせただけであきらめた。
「あまり体を動かしちゃ駄目だよ。ゆっくり休んで。ぼく、そばにいるから」
「いえ、そんな――」
「いいから、おやすみ。ぼくはお前のそばに居たいんだ」
唯一自由のきく、それでも傷だらけのエメザレの右手を、優しくなでるようにして握った。
「王子。あなたに一つお願いがございます」
目を閉じる前に擦れる声でエメザレが言った。その声は何か祈りのようだった。
「なんだ?」
「どうか、黒い髪を救ってください。どうか、戦争が起こらぬように。誰も苦しまないように。あなたが王になった時は、必ず良い国にすると、私と約束してください。
そして自分自身の意思でものごとを判断することを、けして忘れないでください」
エメザレは小さな、やっと振り絞った声で言った。
「わかった。絶対に守るよ。良い国にする。だからエメザレ、ぼくが王になった時はきっと、ぼくのそばにいてくれ。ぼくが迷ったり、何をすればいいかわからなくなったりした時は、お前が助言をするんだ。そうすれば、もっと良い国になるよ。そうでしょう?」
また、全てが間違っている場所でイウは生きなくてはならない。しかし、エメザレの正しさだけは消えないだろう。エメザレの言葉の一つ一つが、彼の心をつくる基盤となって、力強く支えていた。
「はい。王子。約束いたします」
優しげな顔には必死さと希望がみなぎっていて、でも自身は時代においていかれることを、誰よりも悟っていて、だからとても清々しいようで、それでもどこか憂愁が漂っていて、それを全部浮かべて彼は微笑んでいた。
そしてエメザレは安心したように静かに目をつぶった。
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