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英雄と王子03


しかし、殺さないと言ったグセルガの言葉が信じられなくなるくらいに、エメザレの扱いはひどいものだった。

エメザレは日に日に痩せ細り、生気がなくなって、やっと息をしているかに見えた。
何かに操られているかのように、ひたすら床を磨き続ける姿は、滑稽としか言いようがなかった。

エメザレの近くには必ずジヴェーダの姿があり、何かがあるとすぐにエメザレを鞭で打った。
それは何かの罰というよりも、ジヴェーダの気分によるものが大半だったが、それでも口答えせずに命令に従うエメザレの姿は、少し気持ちの悪いくらいだった。

最初の頃はあまり見ないようにしていた。偶然に見かけたとしても無視して通り過ぎていた。
無論、可哀想には思ったが、残念ながら救う手立ては見当たらないし、それがまた自分の無力さを強調させるので少し苦手に思っていた。

しかし、どうしてもエメザレのことが気になり、その思いは増す一方で、無意識にエメザレを探している時もあった。
遠くからエメザレの背中を見つめて心配することが唯一彼にできることだった。

そして三ヶ月、イウはエメザレを見続けて気がついた。

エメザレこそが仲間であると。

エメザレにも居場所はないのだ。だから、かろうじて手に入れたこの狭い居場所の中に留まっていたくて、だから、どんなことをされても我慢して一生懸命その場に這いつくばっている。
それは、はたから見れば醜態でしかないが、それを改善する手段を打てば、確実にその粗悪な居場所すら失ってしまう。その輪廻からは抜け出せないのだ。
だから気付いた瞬間に、エメザレのことが愛しくてたまらなくなった。

きっと自分の気持ちをわかってくれると思った。
王子である自分が、白い髪と黒い髪の平等を望んでいることを伝えたら、エメザレは喜んでくれるのではないかと思った。
もしかしたら愛してくれるかもしれないと。
イウはそんな希望を抱いた。

イウの希望はどうしようもなく強くなって、何度も彼に夢を見させた。とても幸せな夢を。

エメザレと一度話しをしてみたと願ったが、それが王の耳に入りでもしたら一生信用されることはないだろう。二度と口をきいてくれないかもしれない。ずっと無視をされるかもしれない。
それはとても恐ろしいことだ。

それでも、イウはエメザレと話しがしたかった。どうしても。

しかしエメザレと二人きりで話しをするのは、なかなか難しいことだった。
エメザレの傍らには一日中ジヴェーダ張り付いているし、イウの方にも何人かの目付役が常にいたからだ。

夜に部屋を抜け出すしかない。

些細なことだが、いけない、と言われたことを一度もしたことのないイウにとって、これは大変な決心だった。
そしてエメザレが宮廷に来てから三ヵ月半という月日が流れて、ようやくイウは行動に移した。

昼間の華やかさを失い静まり返って闇に包まれた城の廊下を、月明かりを頼りにそっと歩いた。

広い、広い城の召使の部屋の先の馬小屋を越えて、更に奥に行った所の使われてない物置。
そこがエメザレに与えられた部屋だった。

ひどくかび臭く、馬小屋からくる臭いも強く、かつて白かったらしい壁の塗料がわずかに残っているだけの汚い部屋だった。
腐りかけの扉には取っ手がついていたが、鍵はついていないようだった。

イウは取っ手に手をかけた。声をかけなかったのは、勇気がなくて中の様子を伺いたかったからだ。

突然に中からジヴェーダの怒鳴り声がした。
イウは慌てて取っ手から手を放したが、扉は開いてしまったようで、隙間からエメザレとジヴェーダの姿が見えた。
夜までも、ジヴェーダが傍にいるとは思わなかった。

「俺の話を聞いているのか、エメザレ」

幸いにもジヴェーダは扉が開いたことに気が付いていない。
ジヴェーダはエメザレの頭を片手でわしづかみにして壁に押しつけていた。

「俺の言うことをきくのは、そんなに難しいことか? ただこの城から出ていくだけだ。それくらいできるだろう」

しかし、エメザレは答えない。

「何とか言えよ!」

エメザレの顔を壁からもぎ放すと、今度は思い切り突き飛ばした。
彼は倒れなかったが、ジヴェーダはそれが気に食わなかったのか、エメザレの胸ぐらを掴んで床になぎ倒した。
かなり派手に転倒したので、相当な衝撃を受けたはずだが、エメザレは呻き声ひとつたてず、起きあがろうともしなかった。

「声ぐらい出せよ。つまらない奴だな。この口は飾り物か」

床に倒れたままのエメザレの顔をのぞくようにしてしゃがみ込んだジヴェーダは、持っていた鞭の柄をエメザレの口に無理やりねじ込んだ。
たまらず、咳き込むエメザレの姿を見て、ジヴェーダは高笑いをした。

「あぁ、無様だ。これが黒い髪の最も有能な男の姿か。実に滑稽だ。誇りも威厳もあったもんじゃないな」

「私は出て行きません。私はあなたの功績にも加担しませんよ」

さすがに腹が立ったのか、エメザレがやっと口を開いたが、出てきたのはそんな言葉だった。
イウは咄嗟に口に手を当てた。自分が言ったかのような気がしたのだ。

そんなことを言ったら殺されてしまうよ!

イウの心の声はエメザレに叫んでいた。

「なんだと、生意気な!」
言うが早いか、ジヴェーダは体を起こしかけていたエメザレをもう一度床に突き倒すと、馬乗りになった。

「くそ野郎!」

ものすごい形相でエメザレを睨みつけ、こぶしを顔にめがけて振り下ろした。

「やめろ!」

気付いた時には既に、イウは力一杯に叫びながらその部屋に飛び込んでいた。
どうやらジヴェーダのこぶしはまだ、エメザレの顔に到着していない。

こんなことができたのか。
イウは自分のしたことに驚いた。
エメザレとジヴェーダは、突然のイウの登場に絶句して固まった。

「王子……なぜ、ここに?」

この状況に気まずさを感じたのか、ジヴェーダはすぐにエメザレを解放した。その問いを無視してイウはエメザレに駆け寄り、彼を抱き起こしながら、ジヴェーダを睨み付けて言った。

「いい加減にしろ! 彼が何をしたっていうんだ。これ以上エメザレを傷つけたら、ぼくが許さないからな! さがれ! 部屋から出て行け」

ジヴェーダはその奸悪のあふれ出す目を細めて、低い位置にいる二人を見ると、なにか言いたげな顔をした。

「なんだ」

「いいえ。失礼いたしました」

納得いかないといった声で、ややぶっきらぼうに言うと、エメザレに一瞥をくれて部屋から出ていった。

「イウ王子。私をかばうと、罰を受けますよ。あまり私と関わらないほうが……」

エメザレは背に回されたイウの腕を、優しく振りほどきながら言った。
さっきの転倒でやはり強く頭を打ったのか、彼は軽い脳震盪を起こしたようで、ふらふらしていて一人では立ち上がれそうになかった。

「罰なんてどうでもいい。それより手当てをしないと」

そういうと、エメザレは複雑な表情をして、すまなさそうに微笑んだ。
近くで見るエメザレの顔は傷だらけで、固まりかけた血液がいたるところに、こびりついていた。
床に座り込んでいるエメザレにイウは手を差し伸べたが、エメザレはそれをさりげない動作でよけ、壁に手をついて何とか立ちあがった。だがすぐに、眩暈でもしたのか座り込んでしまった。

「大丈夫?」

「なんでもありませんから」

心配になってエメザレの顔をのぞくと、彼は必死にそう言った。

「どこがなんでもないんだよ。自分の顔を見てみなよ。こんなになって……」

けれども、エメザレの瞳はいまだに真っ直ぐだった。そして見据える先には漠然とした死があった。しかし、彼はそれを恐れているようには見えない。このまま死んでしまっても構わないというように諦観を抱えている。

「王子、なぜここにいらしたのですか?」

なんだか少し悲しそうな声だった。

「なぜって……心配で……」

いざエメザレを前にすると話すのが恥ずかしくなって、イウはエメザレから目をそらせた。
「感謝致します。王子。私のような黒い髪に情けをかけて頂いて……」

エメザレは床に頭を摩り付けるようにして深く頭を下げた。

「やめて!顔をあげてよ!」

エメザレに恐れられているような気がして嫌だった。つい叫ぶと、エメザレは慌てて顔を上げ不思議そうにイウの顔を見た。

「ぼくは、黒い髪が劣等してると思ってない!ぼくは黒髪が醜いと思わないし、お前を卑しいとも思わない!ぼくはお前のことが心配で来ただけだ。だから……ぼくは、ぼくだけは敵じゃないんだ」

しばらくエメザレは座ったままイウを見上げていたが、やがて静かな黒い瞳が鮮やかな感情を抱いて輝いた。

「良かった」

エメザレは呟いた。

「私はここへ来て良かった。王子に会えて。その言葉を聞けて。感謝致します。ありがとう。ありがとうございます。あなたは私の希望です」

「そんな……」

そんなふうに言ってくれたのはエメザレだけだった。
いつだって、否定されてそれに耐えてきた。グセルガの作った型のなかに入って、気持ちを変形させてきた。誰も自分の存在を認めてはくれなかった。頼りにされたことも感謝されたこともなく、ただ目を開けて息をしているだけだった。
そんなイウを今エメザレは希望と呼んだのだ。
心から嬉しく思った。
劣等感の塊であった少年の凍りついた心を暖めるには、その言葉は充分すぎた。

だから、エメザレには死んでほしくない。できれば宮廷でずっと働いてほしいが、それが彼を傷つけるなら、その望みは諦めていい。それよりも、幸せな場所で彼には生きてもらいたい。
イウはしゃがんで床に座り込んでいるエメザレの腕を掴んだ。

「城を去るんだ。エメザレ。このままだと死んでしまうよ。確かにこの国は不条理だし、お前が納得できないのはわかるけど、ぼくが絶対変えてみせるから。
だから意地を張るのはもうやめて、父上に仕事をやめさせてほしいと頼むんだ」

願いを込めてイウは言った。

「無理ですよ」

「どうして。そんな体でどうするつもり? そこまでして、一体何がしたいんだ?」

エメザレの答えがにわかには信じられなくて、イウは少し強くきいた。

「私にはね、黒い髪の希望がかかっているんです。みんな、私に期待しています。平和解決の希望をつないでいるのは、私だけだから。
私が陛下に認められて、陛下が私たちを積極的に平等に扱うことを約束してくれさえすれば、もしかしたら、誰一人死なず、戦争は起こらないかもしれない」

「そんなの夢物語だよ!」

悲しくなってイウは叫んだ。
しかしエメザレはそんなことくらいわかっているのだろう。それが余計に歯がゆくて、悔しくて仕方がなかった。

「そうですね。そうかもしれません。でも私はその可能性に全てをかけているのです。だから、自分からやめるわけにはいきません。
私は自分に微塵の価値もあるとは思っていませんが、そんな私の微々たる犠牲で国を変えることができるなら、それは喜ぶべきことのように思います。素晴らしいことです。とても誇りに思っています」

どうしようもないくらいに頑な声だ。エメザレの決意が変わることはけしてないのだろう。改めてイウは自分の無力さに失望した。

「死んでしまうかもしれないんだよ? どうして何も恐れていないの? どうして?」

やりきれない思いが溢れ出して、いつの間にかイウは泣いていた。

「あなたもいつか、死など恐れないくらいに全てを信じ、大きな夢を見ることがあるでしょう。陛下の厳格な思想の下で、消えることのなかったその意思の強さを持っているのならば、私のしたことの意味をわかってくださると信じています」

そう言って微笑んだエメザレの瞳には、諦念に似たたくさんの希望が埋め込まれていた。
しっかりとした口調で言われたその言葉は、少年の胸に深く深く突き刺さり激烈な印象を与えた。イウの求めていた純粋な正義と「正しい」正論が、そのなかにあったからだ。形式じみた称賛や置物のような綺麗ごとではなく、確固たる意思として存在するそれは、いまだかつてないくらいに強く心に響いた。
イウの心はエメザレへの憧れで一杯になった。

これほどまでに正しいひとはいただろうか。否、全てのものは間違っていた。
そう、答えは限りなく簡単なことだったのだ。
グセルガの「間違い」はイウのなかでその時、完全に証明された。


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