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古の女王06



 カルテニの空気は冷え冷えとしていた。クウェージアのあの白い都市の拒絶的な空気によく似ている。元々人影は多くない小さな村であり、加えて早朝ともなれば人影がないのはごく日常の風景だが、今日は漂う空気が違う。いつもののどかな静けさではない。殺伐として戦慄すら感じて取れる静寂だ。暗い朝の色がぼんやりとカルテニを照らし、希望的であるはずの夜明けはここにはなかった。村の者は家に引きこもり窓もドアも硬く閉ざし、それらが早く過ぎ去ることを祈っているのだろう。ここから見える馬小屋では馬が立ったままで寝ているようだ。馬ですらこの索漠を感じているのだ。異形の者が来る、と村全体が無言に知らせていた。

 確かあの日も彼はこうして窓の外を眺めていたな。と彼は思った。やけに冷える冬の日で、鉛色の雲がいつにも増して重そうであったことを、未だ鮮明に思い出せた。あの時は宮廷の窓から黒い髪のエメザレがやって来るのを、特になにかに期待するわけでもなく待っていた。エメザレを愚かだと思っていた。不条理を理解していないのだと。無謀で浅はかで死ににきたのも同然だと。理解しがたい憤りさえ抱いたように思う。その黒い髪の英雄があらゆるものを、全てと言ってもいいものを変えてしまうなんて――

 そして今は古ぼけた屋敷の窓から、漆黒の肌の訪問者をこうして妙に熱い気持ちで待ち望んでいる。嫌な既視感だった。
 
それにしても、なぜエクアフという種族はこんなにも他者を拒むのだろうか。デネレアの時代にこの選民文化は一般化したとかつて教わった。支配者が自分と同じ種族をひいきするのはよくあることであり、世界の三分の一を統治した大帝国であるならば支配層の種族がそれを誇りに思うのは当然かもしれない。強い選民思想を誕生させるにはよい状況であったにせよ、今は全く状況が違う。エクアフの国は世界の隅でごく小さな領土を死守しているに過ぎないのだ。いわば斜陽の種族である。それでいてなぜ選民文化は降下の段階で淘汰されなかったのだろう。もしや、エクアフという種族はいまだにデネレアの支配を受けているのではないだろうか。昔々に滅びてしまった大帝国という形なき存在にまだ囚われている。おそらく滅びるまで、それはきっと継承されるのだ。
 悲しいことだ。エクアフはもうすぐ滅び去ることを知っていて、でもまだそのことを信じようとしないのだから。

 彼らの足音は静かだった。戦慄の静寂を荒立てない優雅な足並みだ。八頭の光る毛並みの黒い馬が二列縦隊で闊歩してくるのが見えた。うち二頭には貨物が乗せられている。東の果てからやってきたにしては、少なすぎる荷物である。馬に乗るひとびとの肌は深淵の底をくり貫いたようにただ黒く、彩度のないモノクロオム的な、純粋な漆黒だった。髪は四人が金髪で、二人は髪が白、あるいは灰色だった。服も全身が真っ黒で統一され、ここからではまだ詳細は見えないが、服の形はなんだか奇妙である。

 黒い塊が静かに進入してくる様は、常闇がカルテニを侵蝕していくようだった。悪い意味ではない。夜の神エルドを信仰するエクアフ種族にとって夜の闇は神聖なのだ。いくら排他的であろうとも、この光景に荘厳さを感じずにはいられまい。しかしこの神秘を目撃しているのは、彼一人であるのが残念でならない。

「おーい、もう用意できただろう。降りてこーい」

 セウ=ハルフの大声が響いてきた。用意もなにも、彼はクウェージアからほとんどこの身一つで来たのだ。忘れるものもない。ただ一つ大切なものはこの指輪だ。彼は上着の内ポケットの底の底に大切にしまってある指輪に、上着の上から手を置いた。
 ぼくは大丈夫だ。
 丁度、心臓の位置に重なる指輪は彼からおののきを取り去った。

「今、降りるよ」

 と答えて下に降りると、セウ=ハルフとデミングは大きな荷物を玄関に運んでいるところだった。

 オルギアへ行くには順調にいっても一週間はかかるらしい。霧が深く、天候が不安定だから最悪だと二週間くらいかかるとデミングに教わった。モートはモートで必要なものは持ってくるそうなのだが、三人でも往復で一ヶ月ともなれば、それなりの装備を持っていかなくてはならない。
 二人はオルギア探索にはぴったりの厚めの服を着ていた。クウェージア同様スミジリアンも夏であっても気温は高くならない。か弱い太陽が当たっている日中は暖かいが、朝晩は夏でも寒いのだ。二人ともレデルセンという皮のズボンと靴を組み合わせた脚依を履き、灰色の薄めで短い丈のチュニックを上に着て、羊毛の分厚い真紅のコートを着ていた。エクアフの文化では赤はあまりいい色ではなかった。正確な理由はわからないが、シクアス種族が太陽を赤で表現しているからだと言われている。コートの赤は意図的で、濃霧でも目立つように、ということなのだろう。
 自分はといえば少々汚れてきた白い服を着ている。これしか持っていないので仕方ないのだが、濃霧の中に紛れ込んだら容赦なく一体化されてしまう。

「もう来たみたいだ。窓から見えたよ」
「あいかわらず奴らは時間に正確だな」

 セウ=ハルフは大きな荷物を玄関にどすんと投げるように置いた。

「そりゃあモート種族だもの。正確さ」
 デミングのクマは相変わらず治っていないが、早起きのせいなのか今日は一層クマが濃いような気がした。

「体内時計でも内蔵されてんのか。奴らには」
「彼らの国には原子時計というとんでもなく正確な時計があるらしい」
「ゲンシ時計? ゲンシって何だ?」
「知らん。説明されたがちんぷんかんぷんだったよ。哲学的には分割不可能な存在で物事を構成する最小単位だそうだが、物質としては元素の最小単位だそうだ」
「ゲンソ? なんだそりゃ」
「だから、知らんて。化学物質を構成する基礎的な要素を指す概念で、原子は物質を構成する具体的要素なのに対して、元素は性質を包括する抽象的概念と言っていたかな」
「え、化学物質? ゲンシ? 性質を包括? 構成するゲンソがなんだって?」
「もういいよ。その頭はしばらく休めておいた方がいい」
「おはようございます。お坊ちゃん」

 二人の会話はこの後しばらく続いたが、そこへデミルマートがやってきた。二人は取り込み中らしいと悟ったらしくデミルマートはイウに言った。

「おはよう」
「これ、着替えの服です。上等の物でなくて、しかもうちの子のお下がりで申し訳ないですが、白い服は汚れると目立つと思って。よかったら着てください。靴はお坊ちゃんには少し大きいかもしれませんが、その靴が駄目になってしまったら履いてください。あとこれは昼食です」

 とデミルマートは麻布に包まれた小包を差し出してきた。ありがたく受け取りながら、ところでデミルマートの年齢は一体いくつなのだろうか。と彼は思った。あまり女性の年齢を気にして生きてこなかったこともあり、今の今までしっかり考えもしなかったが、改めて優しいデミルマートの顔を眺めた。

 驚くような美人ではないが、特に欠点のない顔立ちで美しかったし、しわもない。声も落ち着いているが若々しい。勝手に二十代後半か、いっても三十くらいだと思っていたが、デミルマートの息子は彼よりも年上であるらしい。そう考えると、なかなか恐ろしいことになった。

「助かります。ありがとう。親切にしてくれて、とても感謝しています」

 イウの母親は物心のつく前に死んでしまったが、生きていたらデミルマートのように美しく優しかっただろうか、とふと思って、なんだか急に泣きたいような気分になってきた。

「無事に帰ってきてくださいね。みなさんで必ず無事に帰ってきてください」
「無事に……」

 イウは弱々しく呟いた。
 ここへは、おそらくもう帰ってこない。オルギアへ着いたその後でなにが待ち受けているのかわからない。アシディアへ会えるかどうかも知れないが、確信めいたものがあった。どちらにせよ、ここへは帰ってこられない。一ヶ月も経てばエメザレが殺害されたことと、亡国の王子からの手紙の噂は、カルテニにまで及んでいるだろう。彼女には二度と会うことはないのだ。
 イウの表情は沈みかけたが、デミルマートが不思議そうな顔をしたので、はっとして彼は笑いかけた。

「いや、ちゃんと帰ってくるよ。三人で」

 と彼が言い終わってすぐに朝を告げる鐘が鳴った。

「よし、行くぞ。というか多分、もうそこに着いていると思うが」

 玄関を開けるとセウ=ハルフが言ったとおり、彼らはもうそこにいた。二列縦隊のまま微動だにせず、三人を待ち受けている。六人とも馬にまたがったままだ。視線が上から来るせいなのか威圧感がある。デミルマートが愛想はよくないと言っていたが、まったくその通りだと思った。

 それよりも、イウはモートたちの細長さに驚いた。貧弱な、と揶揄されるエクアフ種族に負けないほど彼らは細く――というか長いのだ。輪郭といい手といい足といい指といい、身体中のパーツを全て引き伸ばしたような、目の錯覚を疑ってしまうほどにシルエットが細長い。彼らがイウと同じヴェーネン(人類)というのが信じがたい。根本的な骨格の違いを持っていた。

「あれ、待った?」

 セウ=ハルフは空気を読めないのか読まないのか、厳しい顔のモートたちに頓狂とも言っていい声で聞いた。

「いや、来たのは今です」

 最前列の左にいるモートの男が答えた。エクアフ語だったが少し訛っている。「来た」というところがイウには聞き取りづらかった。声はそれほど恐くはない。言葉使いは礼儀正しいし、むしろ優しげだった。最前列の左の男はなんとなく他を従えているように感じる。おそらく彼がトップなのだろう。

 モートの六人はほとんど同じような、見たこともないテカテカと光る光沢のある素材の黒く長いコートを着て、コートの上に黒いベルトを二本巻き、そこに小型のナイフや小物入れや、用途のわからない細く短い棒などを括りつけていて、セウ=ハルフやデミングの探索に適した格好とは真反対に、六人全てが常識では考えられないくらいに高いヒールの、ベルトなのかバンドなのか、これまたよくわからない紐がこれでもかと巻かれた、膝よりも長いブーツを履いている。何人かは額より少し上に、台形状の浅い筒にガラスを乗せたようなものが二つ連なっている奇妙なものをつけていた。下にずらせば丁度、目を覆う形になるので、モート式の眼鏡なのだろうか、とイウは思った。

「そちらは? お約束では二人のはずですが、案内は」

 怒ってはいない。純粋に疑問に思っている、という印象だ。

「この子は!」

 と勢いよくデミングが叫ぶように言った。モートたちは一斉にデミングを、その表情があまり感じられない顔で見た。デミングは一瞬たじろいだが、負けんとばかりに声を張り上げて続けた。

「この子は、考古学に興味があり、どうしてもどうしてもどうしてもオルギアの遺跡に行きたいそうなのです。クウェージアの子で、本当はヴルドンへ行かなくてはならないところを、こっそり逃げてきてしまったくらいです。悪さなんてしませんし、あなた方の邪魔もしません。なんとか連れて行ってやりたいのです」
「なるほど。そうですか」

 驚くほどあっさりとした口調でそう言うと、モートたちは自分達の言葉でなにやら相談し始めた。音を文字に起こせないくらいに耳慣れない言葉で、しかも音域が平坦であり、そもそも母音が違いすぎてお互いにお互いの言語を完璧に習得するのは難しいように感じられた。

「こいつは本当にオルギアに行きたいみたいなんだ。俺からも頼むよ。一緒に連れて行ってくれないか」

 セウ=ハルフが約束どおりモートの背中に一応頼んでくれた。先日の一件でセウ=ハルフはしばらく気を落としていたが、イウが積極的に話しかけるようにしたところ、どうやらセウ=ハルフの心の傷は治ったらしかった。

「クウェージアの子だと言いましたね。先ほど。そうですね」

 会議が終り、隊長らしき先ほどの男がデミングに向き直ってそう聞いた。

「そうです! クウェージアの子で家柄はたぶん立派な子です! 分別のある子です! 全く!」
「わかりました。いいでしょう」

 優しくはあるが高揚のない、淡々とした言い方だったので、喜びを大声で表現することははばかられたが、イウの内心は安堵と歓喜でざわめいていた。

「おー、良かったね」

 セウーハルフはぽんとイウの肩を叩いて笑った。

「言うのが遅くなりました。名前です。私は高峰といいます」

 隊長らしきモートの男は馬を降り、イウに右手を差し出して、エクアフ語で意味のある単語を組み合わせた名を名乗った。
 高峰の顔は自分より二倍近く長く、そのぶん額も広く、落ち着いた色味の金の直毛は、腰の辺りまである長さだった。長髪の合間からは、耳にぶら下がったたくさんの銀色のピアスが見えた。肌の色は闇色という表現が一番ふさわしく、それでいて瞳の色は白い髪のエクアフと同じように、色素がほとんどない白っぽい色だったが、角度を変えるとまるで猫の瞳のように瞳全体が光って見える。大人であることはわかったが、高峰の年齢は全くわからない。二十代だと言われても五十代だと言われても、そうかもしれないとしか思えない。美的感覚が違うので断言はできないが、細い鼻筋と切れ長の凛々しげな目元から、それなりの顔立ちをしているように見える。

「なんと言うのですか? 名前は、あなた」

 表情は全く変わらない。怒っているわけでもないし、拒もうとしているわけでもないのだろうが、とにかく顔の筋肉が静かで取っ付きにくい。

「イウ」

 イウは差し出されていた高峰の右手を軽く握り返して言った。

「ではイウさん。よろしくお願いします」

 高峰が礼儀正しく言ったので、イウは笑いかけてみたが、高峰はにこりともせずにただ黙って軽く頭を下げただけだった。

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