top text

古の女王04


 幸運なことに、この屋敷は広く、住人が一人増えたところで特に困ることもなかった。ただ、掃除はお世辞にも行き届いておらず、二人が使っている部屋以外はほこりが山のように積もっていた。イウに与えられた部屋は、ごく稀に訪れる客人用なのか比較的きれいだったが、それでもあまり使われていないことを証明するかのように、薄くほこりがかぶっていた。
おそらく領主様とやらの趣味であろう家具一式は、クウェージアではまず見かけない黒い光沢があるもので、円を描く装飾が美しく、その輝きは多少くすぶってはいたが、それでもつい見とれてしまうような美を誇示し続けていた。物珍しさから、彼はわりに夜遅くまで家具の一つ一つを見つめていた。

 ちょうど昼に差し掛かった頃合にイウは目覚めた。ぼんやりと現実を受け入れてから、しばらくして起き上がり、そして唐突にやってきたかゆみに気付いて身体中を掻いた。寝ていたときは気にならなかったのだが、どうも毛布がいけなかったらしい。
 お世話になっている手前、文句も言えずにとりあえず窓を開け、彼は毛布を干すことにした。天気は一応晴れであったが、クウェージアと大して変わらない弱々しい太陽の光がカルテニを照らしている。相変わらずの単調な景色で、活気のありそうな時間帯にも関わらず村人もまばらである。
 彼のいる位置からちょうどこの屋敷の馬小屋が見えたが、馬はいなかった。二人はまた巡回に出ているようだ。
 窓辺に腰掛け、つまらない景色を眺めながら、彼は思考を巡らせた。
 一体なぜ、セウ=ハルフとデミングはこんな屋敷に住んでいるのだろうか。いくら使われていないからといって、一般人に別荘を開放するほど優しい貴族を彼は見たことがない。デミングは本当に考古学者なのだろうか。セウ=ハルフはモートの学術団をオルギアへ案内するのが本業だと言っていたが、誰に雇われているのだろう。この屋敷の持ち主である領主に二人は従えている、というのが一番自然な考え方だろうか。
 と、このように実のところ彼らに聞きたいことはたくさんあったのだが、昨日のやり取りを考えると、あまり深入りしない方がよさそうだとイウは結論づけた。あの二人が何者であれ、イウのなによりの目的はオルギアに行き古の女王アシディアに会うことなのだ。それに関係ないのなら、わざわざ関わる必要もない。それより自分の素性がばれぬよう、大人しくしているのが一番だ。
 面倒だな。
 彼は大きなため息をひとつ吐き、身体中を掻いた。
 しばらく外を眺めているとデミルマートが屋敷に来るのが見えた。買い物に行っていたのだろう。たくさんの食料品が入った大きな籠を抱えていた。デミルマートは窓から頭を出していたイウにすぐ気付き、籠をなんとか片手で支えてもう片方の手を振った。

「おはようございます、お坊ちゃん。起きたんですね。今朝食をお持ちしますから、ちょっと待っててくださいな」

 と言って、屋敷に入っていくと、本当にすぐに朝食を持って部屋に現れた。デミルマートはこれから洗濯物を干すのか、朝食が乗ったトレーを持ちながら、器用にも小脇に洗濯籠を抱えて微笑んでいた。

「おはよう、デミルマートさん。なにからなにまでありがとう」
「いいえ、作る量が一人増えたからって、どういうことでもありませんよ。五日間泊ると聞いてあたしは嬉しく思っているのよ。ここだけの話、あの二人の面子に飽き飽きしていたところですから」

 デミルマートは茶目っ気たっぷりに毒づきながら、大きくはないテーブルに料理を並べて椅子までひいてくれた。

「お坊ちゃん。ちょっとすいませんよ」

 にわかにデミルマートはイウの前を通り過ぎると、なぜか窓を閉めた。

「どうかしたの?」
「お洋服が乾きましたよ」

 デミルマートはイウの質問には答えず、抱えてきた洗濯籠の下の方から、隠すようにして布に包んである白い服を取り出し、しのび声で言った。

「それで……ポケットからこんなものが出てきたの」

 差し出された白い服の上には、見たことのない銀の指輪が乗っていた。指輪には折りたたまれた紙切れが結ばれている。

「持ってきた覚えはないんだけどな」

 白い服と指輪を受け取りイウは言った。見たところ指輪の銀は粗悪で宝石も付いておらず、ただ表面になにかのマークが刻印されているだけだった。内側には素人が無理やり彫り刻んだような文字で“エスラール(名無し)”と書いてあるが、彼にはそれがなにを表しているのかわからなかった。結んである紙切れのほうに目をやると、透けて反転した文字で“エメザレ”と書いてあるのが見えた。
 その名に、思わず彼は立ち上がった。小刻みに震える手で指輪は握り締めていたが、せっかくきれいになった白い服は床に落ちた。

「このメモを読んだ?」

 声は驚くほど揺らいでいた。

「いいえ。あたしは文字が読めませんから」

 デミルマートは落ちた白い服をひろい、たたみながら優しい顔で笑った。そして白い服をベッドの上に丁寧に置き、向き直るとイウの肩をそっと掴んでまた優しい顔をした。

「これはあたしの勘なんですけど、たぶんお坊ちゃんは入り組んだ事情を抱えていると思うんです。少なくともあたしにはとっても困っているように見えるわ。政治とか国がどうのとか難しいことはわかりませんが、ただセウ=ハルフさんの様子がおかしいことはわかります」
「おかしいってどういうこと?」
「あのお二人はとってもいい方なんですよ? 親切だし優しいし、権力を振りかざすこともしないし、偉ぶらないし、農作業だって嫌な顔もしないで手伝ってくれます。苗の植え方も上手いし、誰かが困っていれば助けてくれます。
でもセウ=ハルフさんはけして仕事に私情をはさまないひとです。モートのオルギア探査はスミジリアンにとってかなり重要な事柄だというようなことを、デミングさんから聞いた事があります。そんな重要なことにお坊ちゃんを巻き込むなんて変だわ。きっとなにか考えがあってのことだと思います。どうもセウ=ハルフさんは都市から来たエリートの警吏(警官)みたいなんです。あたしもデミングさんも、セウ=ハルフさんの本当の職業を知らないんで、めったなことも言えないんですけど、気をつけるには越したことないと思って」
「どうもありがとう。気をつけるよ。でも安心して、ぼくにそんな複雑な事情はないからね。ぼくはオルギアに行きたくて、ちょっと脱走めいたことをしたんだ。あんまり騒ぎになるとぼくを探しにくるかもしれないし、それを恐れているだけだから」

 親切なデミルマートに嘘をつくのを申し訳なく思いながらも、イウは精一杯の落ち着いた表情を作り静かに言った。

「そうですか。それならいいんです。じゃああたしは洗濯物を干さないといけないんで、失礼します」

 とデミルマートは軽くお辞儀をして、洗濯籠を抱え出て行った。


 一人になった部屋で、緊張が途切れた彼は椅子に座る気力すらなく床に座り込んだ。指輪を握り締める手の震えは止まらなかった。鬱陶しくも震える指で、憑かれたように忙しく紙切れをほどくと、そこには数行の文が書かれていた。

“必ず迎えに行きます。私はクウェージアの王にはなりません。王位は古くからの友人に譲り、私は余生をあなたと暮らします。それが嘘ではない証に私の最も大切なものを贈ります。――エメザレ”

 どこからともなく涙がただ溢れてくるのがわかった。
 どうして。どうして、最後までエメザレを信じなかったのだろう。
 エメザレがとても正しいひとであると、一番知っていたのは自分であるのに。
 どうして、嘘だと思ってしまったのだろう。もう二度と会えないと思い込んで、どうして殺してしまったのだろう。
彼は声を押し殺して泣き、しばらくなにを考えることも、動くこともできなかった。息をするのも面倒なくらい、虚空に似た悲しみが脳を覆いつくして、否定的な感情以外もう永遠に抱けないようにすら感じた。

「ごめんなさい」

 誰にも聞こえないように小さく口の中で言った。
 彼はその頭で、その身体で、その皮膚で、冷たく果てしない喪失を感受した。それは生きる上で長らく感じていた類の孤独よりも、遥かに壮大な喪失であった。居場所という意味でも未来という意味でも、なんの安定も感じられない。安心を得られる当てもない。理解できないほどに広い世界で、彼の意識は確固たる意志を持って、支えもなく漂っているのだった。それでもエメザレという存在が残された最後の座標であり、明るい星のように、もしくは太陽のように、煌々と爛々と、美しく小さく強く荘厳に輝いていた。
 もう彼を救えるのは、エメザレという概念だけなのだ。
 イウは涙が溢れるのを諦めるまで、静かな声で泣き続けた。悲しかったのではない。哀しかったのだ。

前へ 次へ


text top

- ナノ -