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英雄と王子11 それはアスヴィットが発ってから四日過ぎた早朝のことだった。
外がにわかに騒がしくなり、イウは物々しいざわめきで起こされた。
地下牢に窓はないが、この冷え具合からして日はまだ昇っていないだろう。
「おい、起きろ」
血相をかかえたアスヴィットが入ってきた。
「お前、何者なんだ。元帥様がほんとに来て下さったぞ」
「本当に!」
イウは飛び起きると鉄格子を握り締めた。
「お前のおかげで元帥様と話すことができた。なんだかよくわからないが礼を言うよ」
興奮した様子でアスヴィットも鉄格子を握り締めて言った。
「ところでゴルトバってなんだ?」
アスヴィットは本部へと赴いたが、少年をスミジリアンの国境で解放せよ、とだけ末端兵に言われ手紙の受け取りも拒否されたらしい。
そこでアスヴィットはエメザレの部屋と思われる扉に向かって、イウに言われたとおり「ゴルトバ」と叫んだ。途端、慌てたように部屋からエメザレが出てきて、アスヴィットはすんなりと部屋に通されたのだそうだ。
「ゴルトバってなんなんだろう。ぼくも知らない」
「それは新造生物の名前です」
その時だった。よく通る美しい声がした。
その声の先には、あのエメザレの姿があった。
呆然と立ちすくんでいるエメザレ。
それでも彼の瞳は真っ直ぐで、迷いがなく清らかだ。これこそが全ての者から賞賛され崇拝されるべき英雄の姿。イウがいつまでも信じ続けたエメザレの姿だ。
昔よりも更に崇高に洗練され、元帥たる威厳を携え、恐れのない姿勢を持ってエメザレはイウのすぐ傍にいる。
「エメザレ」
イウの声は感動に震えていた。
「アスヴィット。すみませんが、二人にしてください。あと牢屋の鍵を。それから馬の支度をお願いします」
「わかりました」
アスヴィットは慣れない動作でうやうやしくお辞儀をすると、牢屋の鍵をエメザレに渡して出て行った。
「王子……」
エメザレは呟いた。信じられないといった様子で、しばらくその場所に立ち尽くして動かなかった。
「そうだ、ぼくだよ」
「生きていた……いえ、あなたは生き返ったのですか?」
やがて正気に戻ったのか、エメザレは牢屋の鍵を開けた。
「そうだよ!」
牢屋から解放されるなり、イウはエメザレに抱きついた。
どれだけこの瞬間を待ちわびたことか。何度夢見たことか。このどうしようもない気持ちを。何度。何度。
けれどもそんなイウを抱きしめも引き離しもせずに、エメザレはその恐ろしいほどに真っ直ぐな瞳でイウを見つめているだけだった。
「エメザレ。ぼくを許してくれ。エメザレ。ぼくはお前が好きだった。憧れていたんだ、この世界の何よりも。
だから、ぼくが約束を破るはずがないんだ。あの言葉は嘘だったんだよ。ぼくは少しも黒い髪が劣っているなんて思ってないよ。
でも、ぼくはもう少しで父上に殺されてしまうところだったんだ。だか
ら、お前との約束を果たすためには、嘘をつくしかなかったんだよ。信じて!」
荒ぶる気持ちは抑えきれずに、たくさんの言葉がとめどなく口からあふれ出す。
「わかっていました」
エメザレはイウの瞳を見つめてしっかりと言った。
「じゃあ、どうして殺したの? ぼくの嘘に怒って殺したのではないなら、なぜぼくを殺す必要があるんだ?」
だんだんと黄金の夢の世界は傾いていく。その答えは実に簡単なことだった。
「それは――単に私があなたを裏切ったからですよ」
エメザレは目を背けたりしなかった。あまりにも自分を真っ直ぐに見つめ続けるエメザレが怖くなってイウはその視線から逃げた。
「……そんな。 嘘だよね? 嘘にきまってる! ぼくが嘘を言ったから怒ってるんだよね? どうして皆ぼくに嘘ばかりつくの? ジヴェーダも嘘を言った」
「ジヴェーダが……」
エメザレは、ジヴェーダがイウに何と言ったのか理解したようで、諦めの表情を浮かべた。
「それは嘘ではない」
にわかに瞳を曇らせて、辛そうに言った。
「嘘だ。全部、全部嘘だ」
無意識に涙が溢れた。激情はあまりにも巨大すぎてもはや静かな祈りでしかない。
「私はあなたを裏切った。それだけのことです」
「どうして? どうして? もう少しで、ぼくは王になれたのに。そうしたら、誰も死ななかった。そうしたら、お前の力になろうと思って……ずっと約束を覚えてた」
嘘だと言ってほしくて、希望を消したくなくて、必死にエメザレにしがみついた。
けれどもエメザレはそんなイウを抱きしめてはくれない。絶望的な答えはすぐそこまでやってきている。けれども諦めたくない。エメザレを放したくない。
「私もですよ。王子」
エメザレの声は優しかった。
「なら、なぜ…?」
「待ってほしいと頼みました。でも、誰も私の言うことなんかに耳を貸さなかった。
戦争が起こりかけていた。私は世界を知らなかった。あそこを出て、初めてこの国が置かれている状況に気付いたのです。でも気付いたときにはもう、私の力ではどうにもならなかった。
多くの血が流れる、たくさんの者が傷付き、悲しみ、絶望する。どうしても、とめたかった。
私は自分にできる全てのことを考えました。でも、どんなに考えても私にできる最良の手段は、王の血筋を断つことだったのです」
エメザレは言った。悲しそうに。苦しそうに。申し訳なさそうに。
でも、だからなんだというんだ。
「でもぼくは四年間も……四年も我慢したのに。 全てを敵にまわしても、お前を選んだのに!
ずっと独りで……それでもお前と暮らせる日を夢見てた。そのぼくに、お前がくれたのは裏切り?」
巨大な激情は今、心の中でおぞましく低い音を立て、深い底の方からイウの全てを飲み込むようにして湧き上がってくる。
四年間。それはとても長い孤独との戦いだった。その中でどれだけの想いが積もっていったことだろう。計り知れない。
とめどなく溢れ出る涙を拭うことすらできなかった。
「どうか許してください。私は無力で愚かなのです」
エメザレは嘆いた。自分を呪うようにして。
「許す?どうやって?ぼくの全てを返してくれ」
国も城も財産もなくなってしまった。
でも王子になんて生まれてきたくなかった。あんな城で暮らしたくなかった。財産などあったところで幸せでもなんでもなかった。
エメザレと二人で国を統治するという夢だけが、その夢を見ることだけが幸せだった。それだけでどんな苦痛にも耐えられた。
四年前、弱く臆病であった少年を変え、それこそ人生を、全ての価値観を変えてしまったのは、この世界で唯一無二のもしくはただの一つのエメザレという存在であり、それこそが絶対でそれだけが光で、全ての希望で、願いで、祈りで、救いだった。
孤独にも無関心にも耐えられたのは、自分に価値を見出し使命を持って勇気を出せたのは、エメザレという神がイウの傍で常に瞬いていたからだ。
エメザレという神が居ない世界では、イウは四年前と同じ無力で脆弱なただの少年でしかない。
「スミジリアンへ行くんです。あそこなら、必ずあなたを受け入れてくれます。
スミジリアンの王にあなたを優遇するようにとの手紙を書いてきました。それを渡せば住居と最低限の生活は保障してくださるはずです。
多くの白い髪がスミジリアンに向かっています。きっと、あなたが知っている顔もいるでしょう。
何年かは不自由しないだけのお金もこちらで用意します」
「いやだ! ぼくはスミジリアンなんかに行かない。白い髪の中に友人も理解者もいない。ぼくは四年間、常に孤独だったんだから。いまさら、どの面を下げてスミジリアンに行けと言うんだ。なにをより所にして生きていけと?」
住居もお金もいらない。ぼくがほしいのはそんなもんじゃない。
ばかにするな。そんなくだらないもので。
「お願いします。あなたが拒否するならば私はあなたを殺さねばなりません。私は覚えています。あなたが「黒い髪は劣っていない」と言ってくださった時の喜びを。今でも感謝しています。だから、もう殺したくない」
しがみついていたイウを引き離して、エメザレはそっとイウの肩を掴んだ。
「いやだ」
エメザレから離れたくない。今離れたら、きっとエメザレは手に届かない遠くに行ってしまって、二度と会うことはできないだろう。
エメザレのためだけに生きてきた。ひたすら信じて。ばかみたいに。
だけど、どうしても好きなんだ。だからいやだ。
いやだいやだいやだいやだ。
「お願いですから……お願いします」
彼は最後の願いを口にした。涙を一杯瞳にためて、唇をかみ締めて、そしてイウを見つめ続けて。
「いやだ」
その言葉を口にした瞬間、イウの腹にエメザレのこぶしが突き刺ささっていた。
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