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英雄と王子12「どうか、黒い髪を救ってください。どうか、戦争が起こらぬように。誰も苦しまないように。あなたが王になった時は、必ず良い国にすると、私と約束してください」
そう約束した。
ぼくはたった一日だって忘れたことはなかった。
いつかエメザレが全ての苦しみから救ってくれる日が来ると信じていた。
そしてエメザレは微笑んでいる。
イウの頭の中にだけ存在する、完璧なエメザレが。
恐れのない真っ直ぐな姿勢で。
穢れのない空気で。
勇気に満ち溢れた黒い瞳で前を見据えて。
いつまでも光り輝いて。夢みたいに。
***
儚い夢から目覚めると、そこはエメザレの腕の中だった。
マントを被せられているらしく視界は狭いが、エメザレの手綱を引く腕と鼻息荒く森を疾走している馬が見えた。
日は既に西へだいぶ傾いている。
「エメザレ、馬をとめろ!」
しかしエメザレはそれに従う気配はない。
「とめろと言ってるんだ! ぼくをおろせ」
イウはエメザレから手綱を奪い、引くと馬はいなないて止まった。
辺りには木々しかない。ここが一度も来たことがない森の奥深くであることは明らかだ。
「ここは北の国境の近くです。馬で行けばスミジリアンにすぐに着きます。あなたにこの馬を差し上げますから。これは少ないですがお金です」
エメザレは馬から降りると、そう言って小さな袋を差し出した。
「ぼくは行かない!」
馬から飛び降り、憎しみを込めてその袋を思い切り払った。
詰め込まれた、たくさんの金貨は地面に散らばり夕日を反射して皮肉のように輝いている。
「きっと会いに行きます。約束しますから」
それでもエメザレは声を荒げたりしないで落ち着いていた。
「嘘だ」
会いになんてこない。もう二度と会えない。
なぜかそんな気がしてならない。それがとても恐ろしい。
「どうして、あなたはそんなに優しいのですか」
エメザレの声には静かな苦しみが混じっていた。
「なぜ、私をそこまで思ってくださるのですか。
知っているのでしょう。私の汚らわしい行いを。ジヴェーダとのことも。軽蔑されるべきなのに……。
あなたは私を、まるで穢れのない聖人のような目で見る。
こうして生まれ変わったかのようでも、沁み付いた悪習は変えることができなかった。私はあなたが思っているような英雄ではないのに」
あの真っ直ぐな瞳がついに下を向いた。
「いいんだ。エメザレ。ぼくはお前が、どんなことをしていたって気にならない。何をしていたって、汚らわしいと思わない。同性愛者でも殺人鬼でも化け物でもなんでもいい。
お前はエメザレなんだろう? ぼくを殺したことくらい、なんとも思っていないよ。そんなことくらい許すから!
だからぼくと一緒にいてくれ……どこにも行かないで、離れたりしないで!」
闇雲で盲目の思いは滑稽なほどに純粋にエメザレを愛しているらしい。
先ほどの巨大な感情のうねりはすっかり掻き消され、今はそれよりもこの目の前にいる偉大な英雄に何としてもすがり付いて、わずかな愛のお零れを頂こうと必死に醜態を晒している。
それを恥じることも忘れて、イウはただ思いを叫び吐いた。
「本当です。新政府が確立し落ち着いたら必ず迎えに行きます」
エメザレの言葉を信じてこうなった。その言葉をもし信じることができたらどれほど嬉しいことだろう。
「いや…いやだ。ぼくを置いて行かないで! もう独りは嫌だ! 一緒にいて、一緒にいてよ! お願いだからぼくを独りにしないでよ………」
確かなのはこの思いが報われないということだけ。目の前が濡れて、何がしたいのか、どうすればいいのか、もう前がよく見えない。
無様にもエメザレの胸に擦付いて、よだれを垂らして泣いて、そしてエメザレの腰についていた短剣を引き抜いた。
「王子……何をするんです!」
エメザレはそれに気付き身を引いた。エメザレが遠のいていくのが、とてつもなく気に食わなかった。
「もう王子じゃない! ぼくの国はもうない!」
「剣をしまってください!」
エメザレは叫びに近い声を上げた。
「うるさい、黙れ! 何もないんだぼくには。何もない。何も。どうしてぼくから遠ざかるんだ? お前まで、ぼくを嫌がるのか? お前のせいだ。お前がぼくを駄目にした!」
「私達の時代です。あなたはいらない」
一体お前は誰なんだ。
その瞳。虚無を携えた瞳は澄んでいない。ただ真っ黒な果てしない闇。
そしてあの日の鮮やかな映像が、イウの頭の中で何度も何度も繰り返し流れては、無慈悲にもその闇の中に次々と吸い込まれていく。
美しすぎたエメザレと、あまりにも光り輝きすぎていた想いが、今まさに天地を反して暗澹の底へと落ちていく。
だから、絶望と憎しみのあまりに。
ただ――
大好きだったのに
お前のようになりたかったのに
ぼくは大きくなったのに
お前の力になれると思ったのに
エメザレ。ぼくは許さない。
叫び声と激しい憎しみが、すさまじい勢いで全ての思いを猛爆する。
イウはその絶望に任せてエメザレの胸に強く剣を突き刺した。
確かな手応え。刺したという感触。
しかし、彼は避けられたはずなのだ。ろくに剣も握ったことのない小さな少年の一突きなど。簡単にかわせたはずなのだ。
それなのに、エメザレは動かなかった。黙ってそれを受け入れた。それが義務であるかのように。
恐れのない真っ直ぐな姿勢で。しっかりと。
血が流れ出るエメザレの胸の中で、はっとしてイウはエメザレの顔を見上げた。
その顔に憎しみや苦しみは浮かんでいなかった。
ただ、微笑んでいた。
そして胸の中でイウを優しく抱きしめた。それだけで、彼は何も言わなかった。それからだんだんと、エメザレの体から力が抜けていき、体が傾くと一瞬にして、エメザレは固い地面へと落ちていった。
「ああ」
どうして
どうして微笑んだんだ。エメザレ。
どうして憎しみのひとつも言わないでぼくを抱きしめたんだ。
罵りの言葉ひとつ浴びせてくれれば、ぼくはいくぶん楽だったろうに。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ぼくは死を恐れないくらい全てを信じて大きな夢を見ていればよかった。
一瞬だって疑う必要はなかった。
それでも彼の正しさをずっと信じていればよかったんだ。
全部ぼくのせいだ。ごめんなさい。ごめんなさい。
「ごめん……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
地に横たわるエメザレを抱きしめて、泣きながらも後悔の言葉をとめどなく繰り返えしたが、彼が動くことはなかった。エメザレは微笑んだままに永遠の静寂に包まれたのだ。
何もなくなってしまった世界で、イウは独りきりになった。
希望を与え続けてくれた存在はもういない。だから悲しくて。悲しくて。世界が暗くなって。何の救いもなかったから、エメザレを抱きしめてただ泣き喚いた。
昔のようにそれしかできなかった。彼は一人ではなにもできない、ただの弱い少年なのだから。
「イース。どうか彼を助けて。ぼくを助けたのなら、お願いだからエメザレを助けて」
その時イウは半ば妄言のようにして願った。
イースだと。
それは声のようだった。大きな広がりで頭に響いている。
「エメザレ?」
エメザレの声に似ていた。驚いて、エメザレの顔をのぞき込んだが、彼の口が動いたようには見えない。
わたしは不完全な部分を補う不完全な存在。エメザレではない。
君はイースに会ったのか。
「エメザレはイースのところへ行ったの?生き返る?」
イウはエメザレを抱いたまま空中に聞いた。声のようなものは姿が見えない。
生き返る?不可能な話だ。
エメザレの住基盤は既に我々の手に渡った。
これは契約によるものだ。
声のようなものは聞き取りやすいように配慮したのか、広く鈍い音域から狭く絞った音に変わった。
「契約?エメザレに何が起こったの?」
彼が力を望んだから、母さんが力を貸したんだ。
「母さんってゴルトバのことか?ぼくに、エメザレに何をした!ぼくはゴルトバの血を浴びて生き返ったんだ!エメザレの身体を治したのもゴルトバなんだろう?」
イウは宙に向かって叫んだが、相変わらず声は姿を現さない。頭に、半強制のように音が送られてくるだけだ。
母さんはたくさんの遺伝子情報と住基盤を集めているんだ。
君は死にそうだったから、どうせ死ぬのなら住基盤を乗っ取って母さんにあげようと思ったんだ。
でも完全に乗っ取る前に君は死んでしまった。
「お願いだ教えてくれ!エメザレを生き返らせる方法を知っているんでしょう!だってぼくはイースの世界へ行って生き返ったんだから!イースの世界にはどうやって行くの?」
イースは旧世界で破壊された。
イースの世界はまだ存在しているのか?
だとすればその場所はとても危険だ。きっともう狂っている。
おそらく君も手遅れだ。
声は動揺したのか、にわかに音域が広がり音が乱れた。
「イースが狂ってる?どうやったらエメザレは生き返るの?方法を教えてよ!」
今現在、世界機構の法則の中に死者を蘇らせる方法はない。
又、機構は同じ人物を二度とデザインしない。
方法があるとすれば、新規の住基盤をなんらかの手段で作成し、その中に契約前の遺伝子情報と、
第二世界に無作為にばらまかれた3億6954万年分の記録源からエメザレの記憶だけを摘出して入れ、
なんらかの手段で第一世界に接続させるというくらいだ。
住基盤の生産ラインは凍結されているし、契約前の遺伝子情報を手に入れるのは難しい。
なにより3億6954万年分の記録源から、ランダムにちらばった27年のエメザレの記憶を摘出するのは不可能だ。
「それじゃ具体的なことがわからない!ぼくはなにをすればいいの?どこへ行ってどうすればいいの?世界機構はどこにあるの?」
小さな希望を放すまいとイウは必死に聞いた。
そうだ、わたしは母さんのところへ行かなくては。
母さんが、待っているんだ。
なんだか嬉しそうだった。音域はまた鈍くなり広がっていく。
「待って!聞きたいことがたくさんあるんだ!行かないで!行かないで!」
わたしは君にオルギアへ行くことを勧告する。
アシディアに会うことができれば、彼女は君に力になってくれるかもしれない。
今、君にはそれしかない。
しかし、気をつけろ。彼女はやがて世界を――――――
だんだんと遠のいてゆき、そしてそれきり声のようなものは聞こえなくなった。
「わかった。ぼくはオルギアに行く」
イウは眠りについたエメザレに優しく言った。
「絶対にお前を生き返らせてみせる。お前の作った国が見たい。その国に住めることをぼくはずっと待ち望んでいるよ」
その言葉にエメザレがうなずき微笑むことはなかったが、イウにはそれでも今度こそ約束が果たされるように思えた。
エメザレの夢を叶えることで、この罪を償えることを願った。
そしてエメザレを木の根元に座らせると、優しく黒い髪を撫でた。
まるで、眠っているかのように優しげな死に顔は、永遠に腐敗しないように見え、微笑んでいる口元には、エメザレ歩んだ人生からは全く連想されない、穏やかな安らぎがあった。
まだほのかに温かい、エメザレの体に身をよせて、二度と鼓動しないであろう心臓の上に顔を置いた。
「ぼくはとても疲れたよ。いろいろなことがあったから。今日は、今日だけはぼくと一緒にいてくれ。ぼくはお前のそばにいたいんだ。それだけで、それだけでぼくはこんなにも幸せなんだから……」
なんと満ち足りた気分だろうか。生きてきた時間の中でこんなにも幸せな気分を味わったことはあっただろうか。
もう誰にも支配されていない。なにもなくなった世界にまた美しい光が芽吹きつつある。その感覚のなんと素晴らしいことか。
けれども今日を終えてしまったら、この至福のときはしばらく訪れないだろう。そしてまた明日から、孤独と絶望が長く彼を支配するのだろう。
それでもこの一瞬の幸せが、その長い時を打ち負かすようにと願って、イウは英雄の胸の中で静かにまぶたを閉じた。
彼のまぶたの中では、完全なる神と化して新たに爆誕したエメザレが絶対的に君臨していた。
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