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王、沈黙の時04


 メルヴィトゼンは部屋の中央に立った。たくさんのかつての友人たちがいっせいに彼を見る。しかし何も言わない絵画たち。さすがに恥かしいので、絵や像に話しかけたことはなかったが、今日ばかりは「リンドーラはどうなるだろか」と呟きたくなった。

 この部屋をみればわかるように、彼は欠点がないわけでもなければ、完璧な強さを持っているわけでもない。しかし彼が去勢を張り、常に最高の状態を見せたがるのは、彼がそう見られるのを望んでいるからではなく、ヴェーネンが永遠を生きる彼にそう望んでいたからだ。

 人前で弱音を吐くことも、不安定な部分を見せることもできないのは――ゆえに孤独でなくてはならないのは、弱い自分を見せれば確実にヴェーネンは勝手に失望して、偉大王の存在に安心することはなくなるからだ。

 完璧を装うことは苦しみを伴ったが、苦悶を超越してこそ己が永く生きる意味があるのだと信じた。それを無理にでも続けてきたのはリンドーラが愛しく大切でかけがえのない存在であり、なおかつそうすることで少しでも姉の大罪を償えると思っていたからなのだが、それにも関わらずリンドーラが膨れ上がった無意味な己の偉大さ以外に支えるものがなく、そして崩壊していくのなら、それはなんと残酷な結末だろうか。

 先ほどのラズーニンの、あの表情。あの視線はもはや神に向けられるものだった。その視線が向けられる方にとっては、どれほど辛いものかわかっていないのだ。
 おれはいつから神になったんだ。
 心の中には苦しみと共に、どこにぶつけることもできない怒りがくすぶっていた。絵画たちが向ける意思なき視線すら鬱陶しくなって、彼は逃げるようにテラスに出た。

 気が付けば日はとっぷり暮れている。厳命の規模が大きかっただけに多少手間取った自覚はあったが、これほどまで夜が深くなっていたことには気が付かなかった。
 メルヴィトゼンは城の高いテラスから、栄華輝く美しい王都ヒューダスを眺めた。遠くには小さな明かりをつけた王の使者がまるで蛍のように闇を駆けている。

テラスに出るのは久しぶりだ。勃興して繁栄の頂点に立つリンドーラの幸せそうな人々の笑い顔、仕事終りの男たちが通う酒場の暖な明かり、裏路地で愛を囁きあう恋人達。このテラスからはそんなものまで見えてしまう。
 それは王としては嬉しいことであり、それを望んであの超大国デネレアから――あの陋劣な姉から絶縁を突きつけて独立したのだが、一人のヴェーネン(人間)としての彼には、一瞬一瞬を脆弱にも美しく生きるヴェーネン(新人類)が、閃光を放つ流れ星のように感動的で、そして一面の夜空に流れ星が降り注ぐ光景はある種の――古代人が世界の終りを恐れるかのような――恐怖があった。

 だが今は、彼も一瞬を生きている。恐怖に咽び悠遠に叫び続けていた愚かな古代人は口をつぐみ、明日彼の世界は終わるのだから。

 しかし、誰もいないテラス。最後にここで共に過ごしたひとは誰であったか。せっかくの一瞬を手に入れたが、哀切にもメルヴィトゼンは孤独そのものだった。こんなにも独りが虚しいと感じたことはない。今までそれを超越してこその自分であると自負してきたのだが。

 もしも絶縁せず、デネレアから独立しなかったら、アシディアは今、隣にいただろうか。
 彼はふと姉のことを思った。あのアシディアの弟という事実。どんなにその事実を消したくても消えることはなかった。

 彼は隠すように着けていた首飾りを手に取った。くたびれた茶色い紐についているのは小さな白い宝石だ。それはずっと昔にアシディアが身に着けていたものだった。しかしほんの一瞬眺めただけで、彼はもう忘れ去りたいのだと言わんばかりに、また隠すようにして肌着の下に入れてしまった。

 アシディアと聞いて一番に思い出すのは二千五百年前の戦いのことである。
 彼女は二千五百年ほど前まで、世界の三分の一を支配する超巨大帝国デネレアの女王であった。しかしその統治体制は彼から言わせれば悪政そのものであり、アシディアとメルヴィトゼンの父である、種祖エクアフの血を受け継ぐエクアフ種族の、しかも白い髪(ユグリヴェ族)のエクアフ以外を徹底的に制圧し一切の権限を与えなかった。

 アシディアはこの統治体制が最も正しいと狂信しており、メルヴィトゼンの助言を実に四千年にも渡って無視し続けてきた。本来ならば身内同士で争いなど起こしたくはない。しかももう新しく生まれることのない旧ヴェーネン同士、できることならば中睦まじく永遠を共にしたかった。だが、メルヴィトゼンとアシディアの、理想とする世界観はもう分かち合えることはないと確信するほどに、全くかけ離れた場所にあったのだ。

 もし、たった百年の寿命であったならばこんなにも思想が遠く離れることはなかったかもしれない。事実、旧世界では姉弟の仲は良すぎるほどに良かった。しかし長い時をかけ、いくつもの分岐を超えるにつれて少しずつ少しずつ心がずれて行き、気が付けばお互い全く違う結論にたどり着いていた。

 そして約四千年前、メルヴィトゼンは自分と同じ理想を掲げる民を引き連れて、半ば反乱のようにアシディアの元から去り、この国リンドーラを建国した。「姉弟の別れ事件」と呼ばれる出来事である。

 そこから超巨大帝国デネレアの衰退は始まりを告げた。それはおそらくアシディアの精神的な衰退に比例していたと思われる。アシディアは支配的ではあったが、盲目的にメルヴィトゼンを愛していたのだ。自分の父である種祖エクアフを狂愛し今も崇拝しているように、おそらく種祖エクアフの次にメルヴィトゼンを愛していた。だがその愛に思いやりは含まれてはおらず、常に一方的な制圧下に置きメルヴィトゼンを管理しようとした。彼がアシディアと絶縁した理由は多々あるが、それが一番の原因だった。

 そして緩やかに滅びの道を進むデネレアの一方で、極小国であったリンドーラはデネレアの領土を吸収し興起した。アシディアは何度となく使者と手紙を送ってきたが、どれも開封することなく燃やしてしまった。もとより彼はデネレアを討ち滅ぼす気でいたが、すぐに行動に移すことなく、じっとデネレアの衰退していくのを待っていた。

 かつて自分が姉と共に統治していた巨大な国が滅びていく様を、まざまざと見なければならないのは悲しいことであったが、それが正しいと信じて、彼はデネレアと姉を捨てたのだった。いや、心の底では絶縁されたことでアシディアの考えが変わることを、密かに嘱望(しょくぼう)していたのかもしれない。
 だからこそ、デネレアと戦をするまでに長い時間を置いたのだろう。「姉弟の別れ事件」からリンドーラがデネレアを滅ぼす「姉弟の別れ戦争」が起きるまで千五百年もの間がある。その間、なにをしていたのかと問われれば、彼は見ていた。そう、ただ見ていただけだった。

 その上、「姉弟の別れ戦争」が起こった理由もデネレア側のきっかけであった。衰退しきったデネレア内でついにクーデターが起きたのである。クーデターの首謀者ケルネリンはリンドーラに応援を要請した。重い腰を上げ要請を受諾したリンドーラはかつての超帝国を一瞬で飲み込んだ。その「姉弟の別れ戦争」は歴史に残る大戦であったが、デネレアの大軍は女王の情緒不安定さから全く役に立たず、たった一週間で決着が付いた。

 ついに、あの女王アシディアをこの手で捕らえ、ひざまずかせたのだ。伝説のような歴史の場面を忘れることはない。彼は剣を振り上げ、振り上げ――しかしアシディアの首に振り下ろすことはできなかった。
 なぜ殺せなかったのか。
 彼女殺してしまったら孤独の辛さが増すような気がした。大切にしてきた思い出が死んでしまう気がした。追憶にすがって生きている彼には、どのように愚かな昔さえも財宝のように思えた。それはただの己の弱さだが、メルヴィトゼンは形なき執着に勝つことができずに、ともかく彼は逃げ去るアシディアの背を黙って見送ってしまった。後悔してもどうにもなるわけではないが、その時の感覚がいつまでも後味悪く残っている。

 逃れたアシディアは北の果てに小さな王国オルギアを築いた。一見慎ましやかに過ごしているように見えたが、メルヴィトゼンにはわかっていた。アシディアはけして自分の非を認めたりしない。己の可能性に限りがあることも信じない。
 揺るがない自信こそが、天与の与え給いし超自然的、超人間(ヴェーネン)的な力の素質の源であり、それゆえに彼女は非日常的なカリスマ支配を可能にしたのだ。アシディアは再び世界の頂点に立つ機会を伺っている。永遠であるがためにいつまでも。

 それゆえにアシディアはなんの躊躇もせずにゼーレの脳と融合した。どうような低確率でも、たとえ無限分の一でも可能性があるならば諦めるわけがない。いつか、世界はアシディアのものになるだろう。
 また世界が彼女にひざまずく。止めなくては。

「そんなところで何をしている」

 その声はアンヴァルク=リアスのものだった。

「使者を見ている」

 彼は振り返らずに、小さな明かりが点々と灯る夜の王都を見渡した。

「こんなものを飲んでみてはどうだろう」

 と、リアスは琥珀色の液体が入ったグラスをメルヴィトゼンの目の前に差し出してきた。振り返ればリアスも同じものを持っている。とりあえず素直に受け取って香りを嗅ぐと、爽やかなアルコールの匂いがした。アルコールに頼るようなヴェーネンらしいことを彼は久しくしていなかったことに気付いて、それがなぜか面白かった。

「アンヴァルクが酒とはな。お前も飲む気か」

 つい失笑しながら、そう聞くと

「飲む」

 と真面目な顔でリアスが答えて飲んだ。

「アンヴァルクが酒を飲むとどうかなるのか?」

「完全分解される。質量や構成物質に影響はない」

「変わらないな。リアス」

 旧世界で同じような質問をして同じような答えが返ってきた。アンヴァルクの回答のテンプレートは決まっている。単語の配列一つ変わることはないのだ。

「ところでこの酒はどこから失敬してきたんだい」
 
 せっかくなので一口飲んで彼は聞いた。

「厨房にあった」

「だろうな。これは料理酒だ」

 なにが可笑しいのか、自分でも不思議に思うほどメルヴィトゼンは笑った。料理酒を口に含む度その華麗な味がなんとも間抜けで、しかもそれをアンヴァルクが真面目な顔で持ってきたのかと思うと失礼ながら滑稽でもあり、隣で首を傾げているリアスを尻目に彼は長らく笑い続けた。

「死を前にして笑えるから、お前は偉大王なのか? お前はもう笑わないと思っていた。ともかく笑ってくれて良かった」

「またアンヴァルクは、とんちんかんなことを言う」

「私はおかしなことを言ったか?」

「確かに死を前にして笑っていられる人物はすごいかもしれないが、さっきのおれの狼狽ぶりを、お前はもう忘れたのか」

 苦笑しつつも、いつの間にやらメルヴィトゼンの真横に立っているリアス顔を見た。 アンヴァルクの不変に美しい顔。アンヴァルクにとっては、己の見た目など最もどうでもいいことの一つだろうが、少なくともヴェーネンにとってその造形は、崇拝の対象にするのにわりと重要な事柄だった。元々、そういうふうに――性別のない不変に美しい存在として、崇拝の対象になるように演出掛かってわざわざ神秘的に造られたのだから。

 その、彼と同じく老いることも醜くなることもなく永遠を生きる存在は、理想の仲間であったように思えた。アンヴァルクに心がなくとも、いやなかったからこそ時に悲しくはありながらも、自分に都合よく付き合えたのだ。今まではそれでよかった。

しかし。

「メルヴィトゼン。一つ、気になったことがある」

 リアスは思い出したかのように言った。

「気になること?」

「アシディアはアンヴァルクの遺産であるアルトの石の管理を任されていたはずだ。だが、我々が確認した限りではアシディアはアルトの石を所持していなかった。その件について我々は散々質問したのだが、アシディアの回答は得られなかった。おそらくどこかに隠しているのではないかと考えている。お前に思い当たる場所はないか?」

「思い当たる場所はないが、アシディアは確実にアルトの石を紛失している」

「なぜ、そう言える」

 アンヴァルクは変に可愛く小首を傾げた。

「アルトの石が手元にあったならば、自国復興のためにとうに使っている。なにしろゼーレの脳となんの躊躇もなく融合したんだ。アルトの石を使わなかったということは、あの女の手に届かない場所にあるということだ。安心していいだろう」

「なるほど」

「それはそうと、リアス。お前に頼みたいことが三つあるんだが、きいてくれるか」

 彼はまた料理酒を一口含んでから、グラスに残った琥珀色の液体を眺めた。

「なんだ」

「まず一つ目、アシディアに手紙を渡して欲しい」

 と言ってメルヴィトゼンは後ろの自室に入ると、机に置いた手紙を手に取った。
 それは姉との関係を粛清したいと願ってきたメルヴィトゼンの最後の妥協でもあった。宛名には『我が姉アシディアへ』と書いてある。アシディアを姉と呼ぶのは何千年ぶりだろうか、そしてこれが最後なのだ。
 話しの途中であることを承知しつつも、ほんの一瞬だけ彼は感慨に浸った。どの道、待たせているのはアンヴァルクである。本来ならば気を使う必要もない。
 テラスに戻ると案の定、リアスは部屋の方を向いて微笑を浮かべ立っているだけだった。

「だが、すぐにではない。あの女は必ず再び世界征服を試みるだろう。しかも今度は機構レベルで、だ。その手紙はアシディアが世界危機を起こした時、もうそれ以外に手段が無いという時まで、切札としてお前が持っていろ。これは必ずアシディアに変化をもたらす。心変わりとまでいかなくても躊躇はするだろう。使いどころを誤るなよ」

「わかった。預かっておこう」

 手紙を手渡すとリアスは受け取った。ヴェーネンとは桁違いに合理的なアンヴァルクであれば、有効に使用してくれることだろう。

「それと二つ目、おれの死体を隠してほしい。できれば燃やすか解体して処理してくれ」

「意図は偉大王の死を隠ぺいすることか」

 普通ならば言われた方は驚いて言葉を詰まらせることだろうが、アンヴァルクの顔色は当然のように変わらない。こういうときばかりはアンヴァルクの冷静さが役に立つ。下手に泣かれてもこちらが心を乱されるだけであるし。

「そうだ。こんなことはお前にしか頼めない。おれは明日、早朝の緊急議会に出て事情を説明したらすぐにここを去る。できるだけ遠くの人目につかない場所で死にたい。おれの死が露呈すれば必ず不安定な情勢を狙って隣国が攻めて来る。せめて情勢が安定するまではおれの死を隠せねばならない」

「いいだろう。お前がそう望むなら」

「それと三つ目は……」

 彼は言おうとして気が変わった。

「三つ目は?」

「いや、これは最後に言おう。死ぬ前に」

 そう言ってまた酒を一口飲んだ。
 生ぬるい真夏の夜風が二人を包み、リンドーラの街灯をわずかに揺らしていた。

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