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王、沈黙の時03


 早々に、メルヴィトゼンは明日早朝に緊急議会を開くよう命令したが、今日の明日ではリンドーラの中心人物を全て召集するのはとても無理である。広いリンドーラでは端から端まで移動するのに最短で一ヶ月以上はかかるのだ。王都ヒューダスはリンドーラのほぼ中央に位置しているが、一日で行ける距離にある都市は限られている。

 しかし幸いなことに、定期的に開かれる『リンドーラ外交会談』が半月後に迫っていたため、出席する地方諸侯は地方から王都ヒューダスに向かっている道中にあった。すでに王都に到着している諸侯も少なからずいたので、とにかく一人でも多くの諸侯を招集せよと大量の使者を送ったが、どれほどの人数が集まるかは予測できなかった。
 
 リンドーラは十二の州にわかれており、メルヴィトゼンは基本的に十二の領主による自治を認めていた――とはいえ非道な統治に対してメルヴィトゼンの制裁は厳しかったが。それ以外のことについてはあまり口を出したりはしなかった。多種族国家ゆえに宗教や文化の違いが各々あるため、安易に一つの事柄を禁止すればたちまち市民の不平が蔓延すると彼は知っていたのだ。その土地にはその土地に合った支配をしなければならない。この考えの下、リンドーラは千年の安泰を護ってきた。

 それでもリンドーラにおいて王権は絶対であり、王権を行使した場合、十二領主は必ず従わなければならいという最高の掟があった。しかしそれが行使されたのは、リンドーラ四千年の歴史の中でたったの二回だけである。

 今回、三回目の行使をするかもしれない。
 こうしたことは前例にならって宰相に相談した方がよいだろうと、メルヴィトゼンは宰相を自室に呼び寄せた。

 
 こうしてこの宰相の顔をしっかり見るのは、初めてなような気がする。そして彼が個人を意識して話すのも、おそらくこの宰相がその地位に付いてから初めてのことだった。
 なにしろ彼は数万年を生きているのだ。その知識力や経験はヴェーネンの比ではない。なにをするにも誰かに相談する必要も能力を借りる必要もなく、それでいて今まで物事を全て円滑に済ませてきたのだから。宰相という地位はほとんど名ばかりで、彼が宰相に意見を求めることはあまりなかったし、彼に意見してくる宰相も未だかつていなかった。しかしそれは年の違いを考えるならば当然のことであり、年下の宰相を置く必要などない気もするが、メルヴィトゼンとしては宰相を置くことで、自分はいつでもひとの話を聞く耳を持っている、または聞くつもりがあるということを主張したかったのである。

「突然呼び出してすまなかった」

 相手はさぞ驚いているに違いない。今まで見向きもしなかった相手に、突然巨大な事柄を伝えて意見を仰がなければならないことに罪悪感すら覚えて、ただただひれ伏している、ずっと年下の老人に優しく言った。

「いえ、陛下。滅相もございません。このラズーニン、陛下よりお声がかかる日を……長い間待ちわびておりました……。わたくしのような無知で老いた宰相を、一度でもお呼び立て頂いたことを、人生の誇りに思う所存でございます」

 ラズーニンがそう言うのも無理はない。メルヴィトゼンがリンドーラの国王になってから何代宰相が代わったのかは知らないが、たとえなにかを相談したとして、次に彼がまた相談する時は確実に別の相手になっている。むしろ相談を受けた宰相のほうが珍しいくらいなのだ。

 ちなみにラズーニンとはメルヴィトゼンがつけた宰相の別名である。宰相を務めるその老人の本当の名をメルヴィトゼンは知らない。百年も生きないヴェーネンの名を覚えるのは、一瞬で消えゆく流れ星の名をいちいち覚えるのに等しい。宰相という役職柄年、就くのは老いた者が多く、余計に目まぐるしく変わるので、初代宰相のラズーニンの名を取って代々宰相をラズーニンと呼ぶことにしている。個人を廃絶して接していることを申し訳なくは思うが、そうでもしなければとても彼の孤独に晒され続けている、強靭にも危うい精神が持ちそうにない。

「今までの非礼、許して欲しい」

「許すもなにも、貴方様は雲の上の、天上のお方。わたくしめのような卑しい下々に詫びる必要などございません」

「どうか、顔をあげてくれ」

「恐れ入ります」

 静かに面をあげたラズーニンの目には涙が滲んでいた。詩人のような風体で知識深げな面持ちであり、控えめな印象だったが強い信念のようなものを帯びた眼差しをしている。ダルテス種族の赤味を帯びた白い肌にはたくさんの染みと深いしわが刻み付けられ、プラチナブロンドの髪は全体的に弱々しく頭を覆っていたが、しっかりと真っ直ぐに伸ばされ後ろで結ばれていた。
 かつて大柄であったであろう体躯は――今でも充分長身の部類にはいることだろうが、年と共に縮みこんで腰はわずかとは言えないほどに湾曲しており、そして奇妙にも老いたその顔から、活発な若者の片鱗を見て取れる瞬間があった。その若者を以前どこかで見たような、かすかな記憶が小さく蘇ったが、はたしてそれがこの老人であったかは知れない。

「力を貸してくれ。ラズーニン」

「どのようなことでも、命の限り陛下にお仕えいたします」

「私は、世界機構より召集を受けた。私は明日の昼には出立し世界機構に赴かねばならない。そして、もうリンドーラに戻らない」

 メルヴィトゼンの言葉を聞くとラズーニンは固まった。その老いた顔に哀れなほどの絶望の色がみるみる映し出され、額のしわはもう戻ることはないのではないか、というくらいに深く寄せられた。

「申し訳ありません、無知なわたくしめにお教えください。陛下……世界機構とはなんなのです」

 メルヴィトゼンはこれまで、ヴェーネンに対して世界機構の存在をほとんど話してこなかった。気の毒なラズーニンが唸るのも仕方ない。

「世界機構は……この世界に基本的には干渉せず、物質的にはどこにも存在しないが、しかし絶対的に世界を支配している、完全な個体の集合体で神ではない存在だ」

 世界機構はなんなのか。こちらがアンヴァルクに問いたいくらいだが、いくら問うてもその答えが理解できない。今の答えはリアスの受け売りだなのだが、これで誰が機構を理解できるというのだろうか。違う質問のしかたをしても返ってくるのはこの定型文だった。アンヴァルクは機構の説明に対して、それ以外の答えを持ち合わせていないらしい。
 
 しかしメルヴィトゼンが機構の話をこれまでヴェーネンにしてこなかったのは、むしろ存在を隠しておきたかった理由は、答えが明確でないからではなく、世界に神がいることを推奨したかったからである。
 旧世界で存在したエルドとレストは削除され新世界にはいないのだから、神に祈ることも救済を願うことも言ってしまえば無意味なのだが、正しく優しく絶対的な存在はたとえ実在しなくとも、その概念だけで多くを救う事ができるのだ。ならば、いない神でも崇拝する価値は充分にあるのではなかろうか。

「は、はぁ」

 ラズーニンは不憫にもそのまま口を閉じてしまったので、メルヴィトゼンは話を進めた。

「この国でもっとも力を持ち民衆の支持を受け、心強くも慈悲深い人物は誰か」

「それは陛下自身であらせられます」

 厳しい顔つきのままで、ラズーニンはすぐさま答えたが、もちろんそんな答えを望んで彼は質問したのではない。多少の苛つきを感じつつも、しかしそれは社交辞令でもなんでもなく、本当にそう思って仕方ないのだという情熱だけは伝わってきたので、メルヴィトゼンはため息をついた。

「私以外では? リンドーラで私に代われる者は」

「おりません。陛下に代わる存在はこの国にありません。いるはずがないのでございます。何万年もの陛下の人生において蓄積された知識と経験、完成された統治能力は、百年も生きることのない我々が取得できるはずがございません。貴方様の天与の地位はおいそれと、限りある命の者が取って代われるものではないのでございます」

「私なき後、この国はどうなるとお前は考える」

「陛下の存在がリンドーラから消えることがありますれば、確実にリンドーラは崩壊することでしょう」

 その口調は確信めいており厳しかった。

「では私はどうすればいい」

 ここまで率直に、ことを聞いたのは、おそらくヴェーネンに対して初めてだった。

「恐れながら、わたくしめの愚案を申し上げますと、陛下の存在が消えなればよいのです。つまり、リンドーラへの帰還を約束されたまま去ればよい」

「しかし、私は――」

 明日死ぬのだ。
 メルヴィトゼンは言葉を詰まらせた。先ほど「死」という単語を使わず、「帰らない」と言ったのは、知らず知らずのうちに彼もラズーニンと同じことを考えていたからかもしれない。己の死でリンドーラが滅びるなど恐ろしくて認めたくなかったが、ラズーニンの答えで、そうなのだと諦めがついた。

 愛しい国。しかしあらゆるものはいつか朽ちる定めにある。それを認めなくては何事も前には進まないものだ。

「陛下は必ずやリンドーラに帰還されるでしょう。されなければ――されると約束なさらなければ、リンドーラは一年と持ちませぬ」

「しかし――」

 そんな嘘で乗り切れるわけがない。
 いくらヴェーネンが彼に比べて知識が劣るからといって、そんな言葉を信じていつまでも待ち続けるほど魯鈍だとは思っていない。信じたとしても、せいぜい三年くらいが限界だろう。新たな支配者と新体制を望む声があがるのは目に見えている。そんなばからしいことをするなら、真実を話してしまった方が、よほど道が拓ける気がするが。

「陛下! 貴方様はご自身のことを理解しておられない!」

 突然、ラズーニンが声を荒げた。メルヴィトゼンが口を開く間も与えずに、ラズーニンは強い口調で続けた。

「貴方様がどれほど偉大で巨大で恐ろしく完全な存在なのかをわかっておられないのです。リンドーラの十二州の領主達は、わたしくも含めてこの国の諸侯は皆、陛下の足元どころか足の下にも及ばない。陛下の誰もが服従したくなるような、どうやっても認めざるを得ないほどに強靭な統率力も能力も持ち合わせていない凡庸な者達ばかりなのでございます。順位をつけたとて、貴方様の御前では結局誰でも変わらないような差しかございません。陛下の跡をヴェーネンが継ぐのは無理なことなのです。
それに陛下は永遠でございました。百年などたった一瞬の出来事なのでございましょう。それを知っているリンドーラの民ならば、百年でも二百年でも貴方様の帰還を待ち続けることでしょう。貴方様が例え……、この世から消え去るのだとしても、リンドーラからは消え去らないでくださいませ」

 その崇拝の気迫は、メルヴィトゼンの息が詰まるほどだった。
 屈強な自信を帯びて無謀なことを言うラズーニンが無意識にアシディアと重なって、密やかにも自分が怯んだことに気付いた。もちろん彼の威厳に満ちた表情が崩れることはなかったが、僅かな怯えを証明するように押し黙ってしまった。

「わたくしはいつも貴方様のお傍にいました。わたくしの名を知らなくとも、目の端にすら映してくださらなくても、わたくしはずっとずっと何十年も前から、幼い頃から貴方様に憧れ尊敬してきた――いつか貴方様のお役にほんの少しでもいいから立てたらと……ずっと、陛下をそっと、遠くから見ていました。
ですらか、陛下がリンドーラをなにより大切にされていることが、痛いほどわかります。わたくしの意見は陛下を愚弄するものかもしれません。ですが、リンドーラを救うにはそれしか、それしか方法がないのでございます。ご無礼をお許しください。しかし、わたくしは……わたくしは、陛下。あなたはもう、きっと――」

「もういい、わかった。助かったよ、ラズーニン」

 無理に微笑んでメルヴィトゼンは言った。

「ご無礼を……ご無礼を申し上げました」

 老人は深く深く頭を下げ、そして静かに少し名残惜しそうに王の部屋を去っていった。


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