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王、沈黙の時01


 生きて、生きて、生きて。もう正確な年齢はわからない。

 不可思議の分岐を下った昔、神は永遠を生きる旧ヴェーネン(旧人類)を造った。少なくとも彼はそう習ったが、果たしてそれが本当なのか確かめる術はどこにもない。自論としては、法則の交差の果てに起こったただの現象の一つだと思っている。
 世界が終り、その世界が旧世界と名を変えて新世界が到来しても、旧ヴェーネンは変わらずに永遠だった。新世界から現れたヴェーネン(人類)は――皮肉にも全て旧ヴェーネンの腹から生まれたが、永遠の命は持ち合わせていなかった。
 我々は旧世界の生きた最後の遺物である。我々は世界を支配しヴェーネンを庇護という名で支配し、とこしえの命で世界の変革をせき止めている。

 部屋を照らしていたロウソクの火が消えたので辺りは暗闇になった。しかし時はまだ昼である。明かりを求めるのならば後ろにある窓を開ければいい。だが彼は窓を開けることをせず、代わりに暗闇の中で見えない己の両手を眺めた。闇の中で広げられている両手が、ひいては自分自身が世界から消えてしまうかのような、そんな恐怖が緩やかに彼を蝕んでいく。だが妙に心地よい。 このまま静かに消えてしまいたい。
 だがすぐに己の弱さを闇の中で嘲笑い、立ち上がると、すぐ後ろにある硬く閉ざされた木板の窓の取っ手に手をかけた。

 輝ける外の光が暗闇のリンドーラ王国の偉大王メルヴィトゼンを照らす。長く柔らかいウェーブの白い髪。威厳高い薄灰色の瞳は厳しさと同時に達観を宿し、時に温情を含んでいた。老いない皮膚は乳白色で女のようにきめ細かいが、顔の造形はきわめて男性的な美しさである。旧ヴェーネンらしい二メートル近い長身に対して少々細い体つきではあったが、全くか弱さを感じさせない。
 
 メルヴィトゼンと共に照らされた白亜の部屋には所狭しと歴史的に価値ある品が乱雑に並べられており、どれもこれも数百年前の、最も古いものは数千年前の物で、絵画、像、壷、貴金属、さらには破れた紙や壊れた靴、幼児用の帽子に折れた歯ブラシなどあまり意味のないものもあったが、メルヴィトゼンはそれらの古物に愛着を持っていた。それらは全て、買ったものではなく長く生きてきた彼の思い出の品であるからなのだが、苦楽を共にしてきた言わば戦友のような、そんな物質を超えた奇妙な執着を抱いているのも確かだった。
 特に――
 メルヴィトゼンはひび割れた石膏像に目をやった。長い髪を複雑に編み、花瓶の壷を抱いて微笑を湛える女性の像は、彼の一番目の妻メルアシンダをモデルにして作られたものである。花瓶にはメルアシンダに手向けるように、彼女が好きだった青いルーノリアの花が活けてある。長い間外に置かれていたため、雨風にさらされてひどく汚れ朽ちかけていたが、それでもメルアシンダの愛らしい面影を感じるには充分だった。メルヴィトゼンを映さない石の瞳でも、その顔を見ると癒された。
 そして壁一面に飾られた人物絵画の数々。見るものが見れば恐怖を感じることだろうが、そこに画かれているのは自分と関係の深かった者達ばかりだった。部屋の中央に立てばちょうど絵画の人物達の視線が集中するようになっている。感情のない視線を浴びて孤独を紛らわす。そんな毎日を彼はずっと生きている。

 されど、窓の外に広がるのは世界で最大の繁栄を興した多種族平等国家リンドーラの首都ヒューダス。抜かりなく整頓された穏やかで美しい街並みと、千年の安泰を誇り、最も幸福だといわれるリンドーラの民の姿。くしくも王と民の幸福の対比は時を追うごとに強くなっていくように思えた。

 だが、終わらない日常を打ち壊すかのように、ふと窓の外を見た彼の目に、にわかには信じられないものが映った。それは遠く遠く、外壁で囲まれたこの王都ヒューダスの外側からやって来る者の姿だった。目のいい彼にすらまだ青い点のようにしか見えなかったが、彼には一瞬でそれが何者かわかった。

「アンヴァルク=リアス」

 彼は呟き、密やかに嬉しさで胸が熱くなるのを感じた。
先ほどの悲嘆など吹き飛んで、気付けばメルヴィトゼンは部屋を飛び出し、幅の広い白い廊下を走っていた。

「アンヴァルクだ! 門を開けよ! 機構の使者だ、門を開けよ!」

 常に王の尊厳を保ち、滅多に表情を崩すことのない彼が、まるで少年のように疾走する姿を幻だと信じた者もいるに違いない。

 アンヴァルク=リアスの訪問は実に三百年ぶりである。そうきくと、ずいぶん久しい気もするがメルヴィトゼンの感覚で三百年はそれほど遠い昔でもない。
 アンヴァルク=リアスは古い友人であり、また数少ないメルヴィトゼンと同じ時の次元を歩く者であった。古くからの知人が次々と帰らぬ旅に出る中、旧世界からの付き合いがあるのは、リアスただ一人となっていた。

「リアス!」

 珍しく城門前まで下りてきたメルヴィトゼンは、やって来るであろう友人をしばらく待っていたが、やがて正面から馬に乗って向かってくるリアスの姿を見つけると名を叫んだ。それに気が付いたらしいリアスは、心持ちか馬の速度を上げ、なびく深いの群青のドレスを一層はためかせた。

「メルヴィトゼン。久しいな」

 メルヴィトゼンの前に現れたアンヴァルク=リアスは微笑んでいた。
 自然界においてありえない、長く青い髪はそれ以上伸びることもなく、美しい群青のドレスは色褪せることもない。深い海色の瞳にはいつもなんの感情も宿さないが、形のいい唇は常に彼の望む言葉をくれた。長身のせいで男に思われることが多かったが、その秀麗な顔は女のように見える。といってもリアスは女でもなく、普段は女性的でたおやかな顔つきが、紛れもない美男の顔に見える時もある。
 
 リアスは馬から降りるなりメルヴィトゼンをしっかり抱擁した。メルヴィトゼンも抱擁を返したが、それに意味があるのかは謎である。なぜならばリアスはアンヴァルク――すなわち、全ての次元の法則を絶対的に支配する世界機構の使者であり、人格や個性は存在するものの生物に分類されない、生きていない者であるからだ。
 つまりリアスがメルヴィトゼンを抱擁したのは、ヴェーネンを観察して学習したリアスがヴェーネンらしい振る舞いをしてみせたに過ぎない。
 悲しいことではあったが、遠く昔からそれを承知でリアスを友と呼んでいる。

「リアス、よく来たな」
「友よ、今日は機構の命令でここに来た」

 リアスは悲愴を含んでいる表情で言った。
 ヴェーネンを友と呼ぶ、奇妙なアンヴァルクはリアス一体だけであった。リアスは新世界に存在する八体のアンヴァルクの中で、唯一ヴェーネンに見まごうほどの滑らかな表情と柔らかい語彙を持っている。アンヴァルクに心はないが、このリアスだけは特別なのではないか、と疑問に思うこともしばしばである。もっとも、絶対的な機構の使者であるアンヴァルクが、心もしくは自我に目覚めれば旧世界に存在した世界で最も美しいアンヴァルク=アルトのように機構から削除される運命にあるので、リアスがこうして目の前にいるということは、やはり感情などないただのアンヴァルクであることを哀しくも証明しているのだが。
 何かが起きたのだ。
 メルヴィトゼンの微笑とつかぬ間の高揚は消えた。友はご機嫌伺いのためではなく機構の命令で来た。その事実だけでもメルヴィトゼンの落胆は密かに大きかった。

「陛下!」

 と後ろから声がした。メルヴィトゼンが振り返ると、宰相ラズーニンが老体を必死に動かしながら近づいてくるところだった。

「陛下が廊下を走っていたとお聞きしたものですから、何かあったのではと思いまして」

息を切らしているラズーニンに「いや、なんということはない。友人が訪ねてきただけだ」と彼はリアスに目をやった。

「あ、あなた様はもしや、神の使者アンヴァルク……。お会いできて光栄です」
 
 老眼らしいラズーニンは目を細めてリアスを見ると感嘆した声を出した。
 なにしろ髪が青いのだ。しかもメルヴィトゼンにアンヴァルクの友人がいるというのは有名な話でもあったので、ラズーニンはすぐに気が付いた。

「アンヴァルクが神に仕えていたのは旧世界の話だ。今は世界機構の使者というのが正しい」

 新世界ではほとんど姿を現す事がなくなったアンヴァルクを前にして、さぞ感動しているであろうラズーニンにリアスが向けたのは、そんな冷静な言葉だった。
 メルヴィトゼンは心の中でため息をついた。

 本来、来賓であってもメルヴィトゼンの自室に通すことはまずないが、リアスだけは自室に通している。メルヴィトゼンがリンドーラの国王になる前から、ずっとそうしてきたので、今更場所を変えて会うのはかえって落ち着かないというものだ。

 何度となくメルヴィトゼンの部屋を訪れているリアスは、一見物置のようにも見える奇妙な部屋に驚くこともなく、ただぐるりと部屋を見渡して「また物が増えたな」と言った。
 
 書類が散乱している机の上には誰が気を利かせたのか、すでに紅茶と菓子の用意がしてあった。あまり部屋に黙って入られるのは好かないが、心遣いは受け取っておくとしても、アンヴァルクにそんな振る舞いをしても無意味であると親切な召使は知らないのだ。アンヴァルクは物を食べない。しかしリアスであれば、勧めればいかにも美味しそうに食べることだろうが。
 遠く昔にアンヴァルクが物を食べるとどうかなるのか、と聞いた事がある。「完全燃焼される。質量や構成物質に影響はない」という答えが返ってきた。旧世界の話である。今もそうなのかは知らない。

「さて、話を聞こうか」

 メルヴィトゼンはリアスに椅子へ座るよう目配せしつつ、せっかくの親切を邪険にしまいと三百年前に作られたらしい小奇麗な骨董のティーポットを手に取った。これも彼の大事な思い出の品の一つだった。
 しかしリアスは優雅な動作で椅子に腰掛けるなり、歓迎の振る舞いを待つことなく口を開いた。

「機構は旧ヴェーネンの廃止を決定した。明日、すなわち第5期1982年8月8日をもって旧ヴェーネンは全て破棄される――つまり死が与えられる」
「破棄……?」

 俄然も俄然ではなはだしい。
 冗談だろう。
 一番に彼はそう思ったが、アンヴァルクは嘘を言わない。
 友が彼に伝えた言葉は失意や消沈といった安直な言葉ではとうてい片付けられない、あまりにも酷い極めて無慈悲な、この世にある全ての打消しの言葉を集めてもまだ足りないほどに非理な告知だった。
 何を言っているんだ。
 明日。明日、唐突に彼の長い長い永遠のような人生が終わる。永遠だと信じていた自分が終わる。この国の未来はどうなる? 誰が変わりに統治する? 誰もいない。おそらく四千年続いた歴史深きこの国も自分と共に明日滅ぶのだ。民はどうなる。この国が明後日を迎える時、何が起こるのか長く生きた彼にすらわからない。
 このような不条理が許される世界に彼は純粋な憎しみを感じた。
 冗談だろう。
 だがアンヴァルクは嘘など言わない。それだけは確かなのだ。
 動揺と怒りに振るえて、つい彼は持っていたティーポットをテーブルに落とした。ポットは丁度真下にあったリアスの前に置かれたカップの上に落ち、かまびすしい嫌な音を立てて、長く時を生きた陶器がまるで明日の自分のように呆気なく割れて価値を失った。
 熱い紅茶は白いクロスを侵し伝って、膝の上できちんと揃えられたリアスの白い手の上に降り注いだが、その手が狼狽することはおろか些かも動くことはなく、リアスは深く青い瞳でメルヴィトゼンを見つめていただけだった。
 「友」が限りない危うさに呑まれていく。リアスが単なる物質であることを熱湯が如実に導き出している。遥か前から承知している事実だが、落胆する側面から彼はずっと目を背けていたかった。

「なぜだ……!理由はなんだ? なぜ機構はそんな決定をした!」

 絶望に似たものが身体を震わせ、説明しようのない複雑なうごめきが心を締め付けた。
 死が怖いのか? こんなに生きたのに。
 何度、死を肯定的に思い描いたことだろう。何度、愛しいひとの後を追って死んでしまいたいと思っただろう。何度この孤独と王という立場から死をもって逃げたいと願っただろう。つい先ほども消えてしまいたいと思ったばかりだと言うのに。
しかしこうして突如現れた死は、生易しい救済の意味など含まれていない。ただの、ヴェーネンが恐れるのと同等の恐怖としての死だ。
 築き上げてきたものが自分と共に滅ぶ、この惨劇。

「落ち着け。メルヴィトゼン」

 リアスは音もなく立ち上がり彼の横に立つとアンヴァルクとは思えぬ優しい声でそう言った。そして紅茶に濡れたままのリアスの手がそっとメルヴィトゼンの肩に触れる。

「やめろ、アンヴァルク」

 その手をなぎ払い、ふと顔を見ればそこには多少の悲しみを含んだ、冷静なアンヴァルクが佇んでいる。変わらない顔に腹が立った。心のない永遠を生きる存在が今の彼にはこの上ない当て付けである。つい彼は荒い情緒が赴くまま、リアスに掴みかかりやり場のない怒りを込めて首を締めあげた。アンヴァルクの、独特なヴェーネンとは違う皮膚の感触――冷たい粘土のような、静物を感じさせる感触が首に食い込む指先に染み渡る。
それでもリアスは静かで、もはや安らかさを含んだ表情のまま抵抗もしない。

「ヴェーネンにアンヴァルクは殺せない。アンヴァルクは存在し続ける」
「知っている! そんなことくらい……わかっている」
 
 首を締めているメルヴィトゼンの方が、むしろ苦しそうに言った。
 そう、例えリアスの喉を引き裂き身体を引き千切って火山口に投げ入れたとしても、アンヴァルクは何度でも、機構が望む限りは永遠に無限に、変わらぬ姿でこの世界に現れる。絶対的な機構の使者。アンヴァルクはそれ以外の何ものでもない。それがアンヴァルクの正しい存在の仕方なのだ。

「わかっている」

 お前は悪くない。
 メルヴィトゼンはもう一度同じ言葉を繰り返し、リアスの首から手を放した。そして妙な脱力感を覚えリアスの身体を伝ってずり落ちるように床に座り込んだ。

「落ち着け。落ち着いて私の話を聞け」
 
 優しいリアスは力をなくした彼と同じく床に座ると、まるで母が子を諭すように柔らかく彼を抱きしめた。
 最後にこうして誰かの胸に顔を埋めたのはいつだったか、と彼は考えたが、もうそうしたひとの名前すら忘れてしまった。ともかく遠く昔の話である。メルヴィトゼンは十八回結婚し五人の子供をもうけたが、数えるのも面倒なほど昔に老いて死んでいった。愛しい者の死は何度乗り越えても悲しいもので、彼が孤独を望むのはそういった傷心を避けたいがためだった。

 鼓動しない胸、脈を打たない手、生物の匂いもしない。しかしなぜか今は、それに安らぎを感じている自分がいる。

「全て話せ」

 すがるようにアンヴァルクに抱きついて、偉大な王メルヴィトゼンは静かに言った。

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