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王、沈黙の時00


 彼はひざまずかされた女の首に剣を向けた。彼の眼光は鋭く、剣の構えに隙もなく、完全に獲物を捕らえ勝利を前にしても気を緩ませることはない。
 丈の高い草達が緩やかに風になびいては、慎ましやかに寂しい音を立てている。新緑の鮮やかな草色と、それに映える白い色の女の絵図は伝説の一場面のようだった。雲の群れが彼らの頭上に差し掛かり、暖かだった太陽の日は弱まって、辺りは薄寒い空気に包まれた。
 この女――超大国デネレアの女王、アシディアの首を捕れば約五千五百年もの間、世界を蹂躙し続けた悪の帝国デネレアはついに終焉するのだ。

「なぜ? メルヴィトゼン」

 女は口を開いた。その声は震えていたが恐怖からではなかっただろう。おそらく悲しみだ。剣先を恐れることもなく、女の白い瞳が映しているものは自分に剣を向けている弟のメルヴィトゼンだけだった。

「かつて私は言った。もうあなたに付いていけないし、あなたに付いていかない、と。あなたが自分の正義を信じるように、私も自分の正義を信じる。あなたを殺すことが正しいと信じている。だから私はあなたを討つ。それが答えだ」
 彼の眼光の鋭さは弱まることなく、狂気すら感じられるほどに爛々としていた。

「私の何が間違っていると言うの」

 突如、吹き荒んだ強い風の中に消え入りそうな声で女は言った。
 美しい白い髪の、まるで霧の中に存在する幻のように儚い空気を帯びて、色素のない白い瞳はあらゆる光を反射し、虹色の輝きを放ってはひとを魅了し、虫すらも殺せないようなか弱い身体と優しい声と、少女の面影を残したままの美麗な顔で、彼女はどれだけの人々をなんとも思わずに虐殺しただろう。
 誰が、こんなにも美しく弱々しい存在が恐怖となることを予想しただろう。そして恐怖を与えていた存在が、こんなにも優しい面持ちをしていると一体誰が信じるだろう。彼女はそうやってひとを騙して生きてきた。いや、騙しているというのは正確ではない。人々が勝手に騙されてきたのだ。

「もう終りだ」

「こんなにもあなたを愛しているのに、どうして私を憎むの? 私が何をしたと言うの。私は不浄なものをたくさん制裁したけれど、なぜそれを悪いと言うの。あなただって思っているでしょう? 世界は不完全で汚いものに溢れていると。完全世界が到来し苦しみから解放されることを、みんな願っているの。私はそれを実現しなければならなかった。なぜならば私は世界を愛しているから。この醜くて悪のはびこる汚い世界を、私はそれでも見捨てずに愛しているから。だからあなたも愛しましょう。私と共にこの汚辱の世界を愛しましょう?」

 女の白い瞳からたくさんの涙が溢れた。ほとばしる言葉の意味は命乞いでもなければ辞世の句でもない。ただの、優しい優しい愛なのだ。彼女は心の底から世界の幸せを願う、心美しくもか弱い女王以外の何者でもない。
 しかしその穢れなき想いは、あらゆる罪なき悪の国々を崩壊させ、悪の国々に住む者達を容赦なく弾圧し制裁し処刑し粉砕しながら、どこまでも美しい理想に向かっていった。

「もう終りなんだ。姉上」

 彼は息を吐いた。
 恐怖を感じていたのはむしろメルヴィトゼンの方であった。身内を殺すことへの罪悪感。捨て去ったはずの家族愛がまだ僅かに残っているようだった。しかし姉を断罪できるのは自分しかいないのだ。指が震えているのがわかった。
 おれがやらなくて誰がやる。殺すんだ。
 殺さなければ、また世界がこの女にひざまずく。
 彼女がまだひざまずいているうちに。贖いを。贖いを。
 世界よ、もうこれでおれを赦してくれ。
 女をにらめ付けて、彼はもう一度息を吸い、そしてついに剣を振り上げた。

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