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悪の終05 クウェージアの国境付近に差しかかると、御者は片言のエクアフ語で「クウェージアは入るの大変!出るのは簡単簡単!」とジヴェーダに言った。
全く恥ずかしいくらいにその通りで、クウェージアを抜けるのは野原を駆け抜けるかのごとくに簡単だった。小さな関所らしきものはあったが、入国する馬車ばかりを気にして、出国の馬車は止められもしなかった。
それから五日、御者と馬を変える以外はほとんど休みなく馬車は走り続けた。途中、悪路のひどい揺れで香りのきつい酒が二本割れ、しばらく車内に独特の香りとアルコール臭が立ち込めたおかげで気分が――というより機嫌が悪くなったこと以外はそれなりに文句のない旅だった。
***
「ベイネの都市に入りました! ラルダ・シジのところまでもう少しです」
フォスガンティいわく、馬車に「大亜ラルグイム貿易」のロゴが入っていて、ラルダ・シジの家紋旗をなびかせているため、らしいのだがベイネの関所でも止まることなくそのまま通過することができた。
フォスガンティが馬車の木窓を開けると、輝く太陽の光が差し込み車内の暗がりを一掃した。長く窓を閉め切って外を見ていなかったせいなのか、クウェージアで見るよりずっと太陽は強く光を放っているように思えた。
ベイネは大都市らしく大通りは込み合っており、当たり前であるがクウェージアでは見かけることがまずないシクアス種族がそこかしこに歩いている。雑踏の中から頭二つ飛び出た巨人のようなダルテス種族もちらほらと見かけることができ、赤茶色を思わせる都市の中で浮いて白い色のものをよく見れば、それはエクアフの肌であった。
ベイネの都市では三種族が共に暮らしているらしい。クウェージアでは全く考えられないことだ。ジヴェーダは人ごみに巻き込まれ停滞する馬車の窓から呆然と赤茶色の都市を見つめた。
「今は大名艶道中の最中なので道が混んでます。ご覧になりたければ近づくこともできますが」
とフォスガンティは窓の外を指差した。見るとそこには雑踏の中にさらにひしめき合う人だかりがあったが、建物の密度か高いためなのかベイネの空気はよどんでおり、砂やほこりが薄く都市を包んでいるようで、遠くのものがよく見えない。
「大名艶道中?」
仕方なくジヴェーダはきいた。
「ああ、大名艶は男娼や娼婦の最上級の位ですよ。ベイネの都市は花街が多く競争が激しいので、こうして宣伝のために店一番の売れっ子を練り歩かせるんです! ですが、ああして騒いでいるのはもっぱら観光客なので、店の収益にはあまり関係なかったりするのですがね」
「それはご苦労なことだな」
彼はまた鼻で笑った。
クウェージアの娼婦たちがどれほどひどい扱いを受けているか彼は嫌なほどに知っている。クウェージアの娼婦たちは灰色の髪が多かった。働き口がなく食べるものにも困ればそれは仕方のないことだ。
それでも彼女たちの存在は国をあげて徹底的に無視されてきた。娼館の外に一歩でも出れば人の扱いなどされず、例えなにかの拍子に死んだとしても雑草ほども気にされない。
それは拷問師と同じ灰色髪の呪われた職業の一つであった。
しかしジヴェーダはそんな娼婦たちが好きだった。強く邪悪で、そして同情し合うわけでも励まし合うわけでもなく、ただ身体を重ねるだけでなにも言わずとも辛さを分かち合える唯一の存在だったから。
その一方で世界には娼婦を偶像のようにしてもてはやす国がある。
約三十年もの時間をかけて構築してきた価値観がこんなにあっけなく意味のないものになるとは。シクアス的思想の破壊力は甚大といえた。
「ちなみにですが、ぼくも大名艶です。ただ無数にひしめき合う小さな花街の大名艶ではなくラルグイムという国の大名艶です。ぼくは正式には大名艶・ラルグイム・フォスガンティなんですよ! いうなれば国家資格というか称号みたいなものです」
フォスガンティは胸を張り自慢げに言ったが、ジヴェーダには残念ながらもう返す言葉が見つからなかった。
***
恐ろしく大きな、もはや城という表現が正確なラルダ・シジの豪邸はラルグイムに三十あるらしい。ラルダ・シジはいつもベイネにいるわけではなく、各地を気まぐれに転々としている。ラルダ・シジが歩けば金が動くので、こっそり後ろをつけて回る商人も少なくないと聞いた。
ラルグイムはクウェージアの国土の、約三倍の大きさを持つが軍事力と経済力の差は計り知れないことがベイネを見てよくわかった。ラルダ・シジの豪邸はクウェージアの宮廷より大きく太陽のごとき絢爛の輝きを放ちながら、ベイネのど真ん中に君臨していた。
「やぁやぁ、よく遠路遥々来てくれたね。ジヴェーダ君!」
どんなに無知でも一目で価値がわかるくらい、あからさまに高級な置物が所狭しときっちり並べられている広い部屋でラルダ・シジは立っていた。
悪趣味ほど豪華な装飾を着たラルダ・シジという人物は見たところ愛想がよく謙虚さがにじみ出た風貌で、およそ大富豪らしくなかった。歳は五十半ばくらい。シクアスらしい小太りな体格で、背はこれで普通なのかもしれないがジヴェーダと比べればかなり小さく、流暢とはいかないまでもエクアフ語を操ってにこやかな様子である。
その裏で物騒なショーを生業にしているとはあまり想像ができない。
しかしシクアスの考えにそえば、罪人解体ショーも奴隷拷問ショーも演劇と同じ「見世物」なのだ。よってその劇場の支配人と物騒なワードからなんとなく連想される暗黒街のボスとが全くかけ離れているのは当然なのだが、邪悪な拷問師の引き取り手がこうも真っ当な商人であると、恐れ多くもジヴェーダとしては歪んだ誇りに少々傷がつくものだ。
もっともここまできて引くわけに行かないので、愛想良く二つ返事をするのだろうが。
「お会いできて光栄です。ラルダ・シジ閣下」
ジヴェーダはもちろんシクアス語で彼の武器でもあるしたたかさを見せ、ラルダ・シジにへつらった。
ジヴェーダから少し間を置いた後ろには、付いてきたフォスガンティが部屋の置物の一部のように佇んでいる。
「閣下などと堅苦しい! シジさんとでも呼んでくれたまえ」
人が良さそうな笑みを浮かべてラルダ・シジは言った。ジヴェーダは人の心の裏を察することにはかなり長けていると自負しているが、どう見てもこのシクアスの大富豪は育ちの良い大きなお坊ちゃんのように穏やかだ。
「こちらこそ、行くあてのなかったところを呼んで頂けて助かりました。それにこのように素敵な贈り物まで」
とジヴェーダは後ろのフォスガンティに右の手のひらを差し向け、左手は自分の胸に当ててエクアフらしく優雅に頭を下げた。
「いやいやいやいや! どうか頭を下げないでくれたまえ。わたしときみはもう友人だ」
本当に慌てた様子でラルダ・シジは横にかぶりを振り、ジヴェーダの肩を二度叩いた。
「それとフォスガンティ、お前もよくやってくれたね。ありがとう」
敬意を払いしっかりとフォスガンティに向き合ってから、ラルダ・シジは笑顔でそう言った。
率直な労いの言葉はなかなかクウェージアではお目にかかれなかった。かなり密やかではあるが、ジヴェーダはフォスガンティを羨ましく思った。
「恐れ入ります」
フォスガンティは嬉しそうにして深々と頭を下げた。
「さぁさぁ、どうか座ってくれ」
ラルダ・シジはシクアス式の低いソファーに手のひらを向けてうながした。
言われるがまま腰掛けたが、ジヴェーダにこのソファーは小さすぎるらしく尻が沈んで後ろのめりになり、見えるのは自分の膝だけという有様になった。両側の手すりにつかまり体勢を立て直してラルダ・シジを見ると、彼は丁度よく小さい身体でソファーに乗っかっている。
「それでさっそく本題なんだが……だいたいはフォスガンティから聞いているとは思うが、わたしはきみを拷問師として雇いたいんだ。わたしのノムン闘技場で働いてもらいたいんだが、答えはもう決まっているかね?」
「はい、私としても雇っていただければ助かります。それに閣下のような心の優しい方のもとで働かせて頂けるなど、私は世界有数の幸福者に違いありませんよ。
なにせクウェージアでの私の扱いはゴミより若干マシくらいでしたので」
身のない称賛を吐き出しながら、自嘲的にしかし冗談めいた笑顔でジヴェーダは言った。
「本当か! 嬉しいことを言ってくれるね。ジヴェーダ君。もちろん給料は弾むよ。月一億キーツでどうだね。来たばかりで住む所もないだろうから、ついでにこの別荘をつけよう!
それにしても、きみをそんなふうに扱うなんて、なんとひどい野蛮な国なのだろう。わたしは雇っている人間をとても大事にするよ。友人だと思っているくらいだ! わたしがこうして穏やかに暮らせるのは働いてくれる人たちのおかげなのだからね」
興奮してシクアスの悪い癖でもでたのか、ラルダ・シジはひどい眼力でジヴェーダを直視しながらつらつらと口を動かした。
「充分です。むしろ気が引ける額です。私にそんな価値がありますか?」
ジヴェーダは半笑いを浮かべて言った。彼は得意の平静を装ったが、ラルダ・シジの金銭感覚に恐れ入って気の利いた能弁もふるえない。
誇張が入っていると思われたフォスガンティの言葉は全くの本当であったらしい。
「なにを言っているんだ、ジヴェーダ君! きみは世界が認める素晴らしい拷問師だよ!」
燦々と輝く太陽のような笑顔をしてラルダ・シジは大声で言った。
「……素晴らしい?」
ジヴェーダは小さくぼやいたが、ラルダ・シジには聞こえなかったのか見事に流された。
「では! これからよろしく頼むよ」
平静の表情で唖然とするジヴェーダの肩を力強く叩き、ラルダ・シジはきれいに並んだ白い歯を見せて笑った。
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