top text

悪の終04


 母の顔を思い出そうにも思い出せない。
 浮かんでくるのは弱々しい細い背中と左右対称がきれいな薄汚れたエプロンの後ろの結び目くらいだ。母親は灰色の髪でエリンという名前だった。ジヴェーダの父親は白い髪でジュイドという名であると母から聞いたが、おそらくそれは本名ではなかっただろう。
 結婚すると約束したくせに腹に子が宿るとすぐに行方をくらましてしまった。エリンは家から縁を切られ、路頭に迷った挙句にその地ではそれなりに裕福だったバルダミアスという拷問師の家の倉庫を、家の掃除をすることを条件に貸してもらい、そこで子供と二人暮らすことになった。
 ただ、倉庫に住んでいたのはほんの少しの間だけで、バルダミアスとエリンはすぐに恋に落ちて結婚したので、ジヴェーダはまともな家で育つことができた。実際、倉庫に住んでいたことを母から聞かされるまで彼は知らなかった。

 バルダミアスは拷問師であることから近隣では軽蔑されいつも罵られて、家には毎日のように石が投げ込まれた。母がきれいに植えた花も翌日にはことごとく踏みにじられ、嘆く母を可哀そうに思っては、それは自分がやったのだと意味のわからない嘘をついた。
 バルダミアスとエリンの間にはやがて二人の子が生まれたが、バルダミアスはジヴェーダにいつまでも温顔で実の子と同じように可愛がってくれた。

 けれどもジヴェーダはバルダミアスの拷問師という職業が許せなかった。
 そのせいで家族は日夜嫌がらせに怯え、罵る言葉に耳を塞いでいるというのに、仕事で散々哀れな貧民に鞭を振るうわりには、心穏やかなのか腰抜けなのか、罵倒されてもなにもせずに黙りこくっている。
 そんなバルダミアスを何度も譴責し、ただ非壊して情けなく思った。

 そして日常からの解放を求め、なにかの優しさにすがり付きたかったジヴェーダが進んだのは神の道だった。「神学校に行きたい」と言った時もバルダミアスは笑って「好きにしろ」と言った。
 しかし万人に平等であるはずのエルドの御許にすら灰色髪の居場所はなかった。彼は黒い髪の東方一派のエルド神学校に通ったが、そこでは黒い髪と灰色髪のクラスはわけられており、優秀者だけを選抜した特進クラスには灰色髪は入ることが出来ず、よって必然的に出世コースから外されるのだが、無事神官の見習いになれたとしても一生田舎の礼拝堂で貧乏に喘ぎながらこき使われるのが目に見えていた。

 けれどもそのまやかしのような平等という言葉に、偽善者の吐く身のない綺麗事に、彼は見事にのめりこんで不可解にも救済され安息を手に入れることが出来た。
 エルドに祈れるのならば、安らかな顔のエルド像の前で泣くことを許されるなら、彼はそれで救われ一生をエルドに尽くしたいと思っていた。

 しかし十四歳の時、彼の人生は一転した。バルダミアスが死んだのである。殺されたのだ。
 バルダミアスはその日、地主の家からエルドの像を盗んだとして捕らえられた使用人を拷問し、像のありかを吐かせようとしていた。しかし三日三晩の責苦でついに気を違えた使用人が狂気の底力で縄を引きちぎりバルダミアスのナイフを奪って刺し殺した。

 稼ぎ頭を失った家はあっという間に窮乏した。あと一年神学校に通えば彼は神官になれた。
 そしてその金がなくはなかった。というのも母が、彼があと一年学校に通えるだけの金を使わずに取っておいたのだ。弟と妹も彼が神学校に通うことに賛成した。二つ下の弟は「自分が父の跡を継いで拷問師になるから心配するな」と言って、通っていた学校を辞めた。

 そんな家族に涙しつつも、神に祈り平安を願い人のために働きたいと思う心優しきかつての彼が、それを素直に受け入れるはずがなかった。あと一年学校に通い、神官になったとしても待っているのは無償に近い給料だけである。
 何日かの葛藤の末に彼は神官になるのを諦め、神学校を辞めて拷問師になると勝手に決めた。拷問師になれば裕福とまではいかなくとも、食べ物に困ることはまずない。

「良い拷問師にはどうしたらなれるのか」と最後の日の学校で聞いた。年老いた神官は「拷問師は良くなどなれない。邪悪を極めた者なのだから」と言った。

 家族のために悪に染まろうとする少年の心は果たして邪悪だろうか。神は哀れな少年の心を踏みにじって気休めを与え最終的な救済をしなかった。彼はその言葉に心底絶望して二度と祈らないと誓った。

 神学校を辞めたことを知った母は「どうして」と何度も口にして泣き崩れた。彼はそんな母に背を向けて家を出、結局それきり家に戻ることはなかった。

 それは彼を本当の子のように愛してくれたバルダミアスを散々憎んで一度も父とも呼ばず、数え切れない恩を受けたことも忘れ、拷問師であることが重い罪であるかのように暴言を吐き、更には母の期待にも弟の応援にも応えることが出来ずに自分勝手に学校を辞めて、あろうことか嫌というほど完全否定してきた拷問師になろうとする自分の姿を恥ずかしく思い、卑下するあまりのことからだった。

 よって彼は、家族のその後のことは一切知らない。というよりも意識的に避けて聞かないようにしていた。

 ジヴェーダはバルダミアスの知人であったログという拷問師を訪ね、弟子にしてほしいと頼んだ。ログは気前のいいさっぱりした気質の男で、ジヴェーダがバルダミアスの息子も同然であると知ると二つ返事で承諾してくれた。
 彼はログのもとで技術と知識を習得し十五歳のある日初めて人を鞭打った。
 あえて自分を慰めるように表現するなら「それが運命だったから」といったところであろうか。

 その時、彼が感じたのは悲劇にも罪悪感ではなく、人生で始めての優越感だった。味わったことのない至福と爽快感。
 自分を罵倒し軽蔑し救いもせず責苦を与え続けた「奴ら」は、その時縮こまり震え泣き叫び許しを請い床に頭をすりつけ崇拝するかのように彼に恐怖して無様に這いずり回る。
 彼はかつて「奴ら」が母の植えた花を踏みにじったように「奴ら」を無下に踏みにじって正義すら感じた。

 そしてひどい憎悪の猛爆の末に、冷静を取り戻した時の無限のような嫌悪感、後悔、虚無感、煩悶。段々と邪悪と化していく自分を肌で感じて泣いた。指先から冷たくなり感情を失くしていく皮膚が全身を包み込んでいく感覚が恐かった。
 何度彼はそれを繰り返し繰り返し、愚かに繰り返し、哀れにも何度も何度も何度も何度も。

 そしてやがてたどり着いたのは心の平静の海。静かで冷たくなにも響かず広がるただの面。誰かを支配するときだけやってくる、海を焦がす憎しみの爆炎と太陽のごとき蹂躙欲。
 まるで使命のように怒り狂い世界を憎んで「奴ら」を破壊しようとも、歪んだ誇りが無敵のように彼を庇って痛さもなく直進し続ければ、気付いた時には既にクウェージアで誰もが恐れる邪悪な拷問師と成り果てていた。

 母はどうしているだろうか。

 死んだはずの少年がまだ息でもしているのか、彼は十数年ぶりにそんなことを思った。
 ログのもとで働き出した時からクウェージアが滅んだその日まで、彼は給料の三分の一を家に送り続けていた。配達を頼んでいる運送会社には、もし受け取りが拒否されたり受け取る家族がなくなった場合、自分には知らせず会社の運営資金にでも充ててくれと頼んである。

「何を考えておられるのですか?」

 夢すらも害さないような静かな声でフォスガンティが聞いてきた。

「海のことを考えていた。広い平静の海を」

 ジヴェーダは腕中のフォスガンティの顔は見ず、まるで自分に答えるように冗談めかしてそう言った。
 ふいに冗談を吐いた唇に指が当てられ、まるでエルドのように安らぎを湛えた綺麗な顔の男娼が腕中から這い上がってきた。ごく自然のことのように口づけて、押し付けられた細い腰を抱き、誘われるままに服を脱がせるとフォスガンティのそこには男性器を切除した時にできたと思われる傷を隠すように太陽モチーフの刺青が入れられており、その下には女のものより多少歪な、それでもそれ似た得体の知れない穴が付いていた。
 まるで迷宮に挑む冒険者のように妙な高揚感を感じつつも、彼は勇ましく自らを迷宮の穴に入れた。

前へ 次へ


text top

- ナノ -