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忘却の英雄 中編



 私の名はスギスタ
 私はゼーレより、情報を奪った
 私は誰よりも世界を知っている




 扉にはかすれた文字でそう書かれていた。
 スギスタという名前には、どことなく聞き覚えがあったが、思い出すには至らなかった。

 世界はアルテという全知全能の神が作成した、世界機構による半永久的な統制を受けて稼働している。
 私を含め、世界上にある全てのものは世界機構の管理下にあり、機構を作成したアルテそのものに自我はほとんど存在せず、世界機構がアルテの代行として、事実上世界の統制を行っている。
 世界機構は世界にある全ての情報と、アルテによる極めて初期の多くの設定で構成されて、非常に複雑であり、我々がその設定を変更することは大変難しいことである。

 と、このようなことが延々続いている。訳のわからないままに、それでも私は読み続けた。「世界を知っている」というスギスタの言葉にいたく惹かれたのだ。

「お待たせ」

 三十ページほど読んだところで、あつあつの卵焼きをトレーにのせてエスラールが入ってきた。

「ありがとう」

 続きが気になったが、私はそっと本を閉じて枕元に置いた。

「パンも食えよ」
「食べれたら、食べるよ」

 卵焼きの隣にのっけてきたパンを彼は押し付けてきたが、苦笑いをしてトレーに戻した。食欲が全くわかないのだ。

「卵焼きは残したら怒るぞ」
「わかった。ちゃんと食べるから」
「食わせてやるよ。ほら、あーーん」

 エスラールは自分の口を大きく開けながら、私の口元に山盛りの卵焼きを近づけてくる。一瞬、いい大人が二人で何をやってるんだろう、とは思ったが、素直に口を開けてみた。

「ヴィゼルが明日うちに来るってさ」
「ヴィゼルが? 懐かしいね。いつも本当にお世話になっているから、盛大にもてなさなきゃ。なんてお礼を言えばいいだろう」
「あんまりお礼を言い過ぎると、ヴィゼルが困るよ。そういうの苦手なんだ。あいつ」

 そういえば、昔から褒めたりお礼を言ったりすると怒る癖がある。早い話が照れ屋なのだ。昔と変わっていないヴィゼルが少し羨ましかった。

「あ、ねぇその本、一体なんの本なんだ? それを買ったとき、古本屋のばばあが変なこと言ってたぞ」
「変なこと?」
「なんでも、世界を知りすぎると大変なことになるとか、なんとか。シクアス語の事典だと思って買ってきたんだが、違うのか?」

 エスラールは枕元にあったその本に手を伸ばした。

「あ」

 彼が勢いよく本を開けると、そのついでにどこかから、取れてしまった四、五枚のページがはらはらと床に落ちた。

「うわ、すまん」
「いいよ。それ相当古いみたいだし。事典といえば事典のようだけど。何なんだがよくわからない」

 エスラールは落ちたページを拾うと、本と一緒に私の膝の上に置いた。

「ま、飯食えよ。ほれ、あーーん」
「待って、このページ、面白いことが書いてある」

 それは、先ほどエスラールが落としたページの一枚だった。

「なんて書いてあるんだ?」
「新造生物ゴルトバについて―――体を修復する方法
 新造生物には、変則能力を持ち、個人世界を所有できる変則系新造生物と、身体的に秀でた能力を持ち、個人世界を所有できない戦闘系新造生物がいると説明したが、このゴルトバという新造生物は特殊である。

もともとは、エルド派のアンヴァルク=イースと同じ能力を欲したレスト派のアンヴァルク=ゼバスが作成した、復活と修復を得意とする新造生物だったが、ゼバスの消滅で、独立し自らの意思で復活と修復を行っている。
ただし、現世界では、世界機構により死者の復活は禁止されているため、修復だけの能力のようだ。
裂傷や骨折だけではなく、腕や足を失っていても、遺伝子の一部を初期化することで、身体の修復は可能である。
それ以外では、不変遺伝子の配布も特筆すべきだろう。身体の修復後、その身体の形状は死後も永遠に維持される。

ゴルトバは完全の母である。契約者は死後、母の元へと帰り、永遠に母へ我が身を尽くさなくてはならない。また、契約者にはゴルトバの分子が配布される。分子は人生の戒めと反省を教えてくれる、未来への導き手である。

ゴルトバの公式個人世界へは誰でも入ることができる。
入界の言葉は、次のページの一番下の段に直訳付で書いておく。

だって。次のページはその本のどこかにあるみたいだ」
「わけが、わからんな。新造生物に変則能力、アンヴァルクに不変遺伝子って何のことだろうな」

 エスラールは苦い顔をした。彼は本を読んだり、難しいことを考えたりするのが、なによりも苦手なのだ。

「私もよくわからない。おかしな本だよね」

 そう言いつつも、私は密やかな希望を抱いた。もし、この体が治ったなら、また人生をやり直すことができないと。もしかしたら、昔に戻れるかもしれないと。


***
「ヴィゼルが来たぞ」

 ドア越しにエスラールが言った。
 静かにドアが開いて、懐かしいヴィゼルの顔が入ってきた。

「久しいな。エメザレ」

 久しぶりに会ったヴィゼルはだいぶ、男らしくなっていた。背は高くないが、それでも威厳の漂う顔立ちだ。落ち着いた雰囲気は、エスラールよりだいぶ年上に感じられる。
 上等なコートに身を包んだヴィゼルは、まるでどこかの貴族のようだ。

「ええ。本当にお久しぶり」
「思ったより、君が変わってなくてよかったよ」

 ヴィゼルは穏やかな顔つきで笑ってみせた。

「その辺にある椅子に勝手に座ってくれ。お茶でも入れてくるから、適当にくつろいでな」
「ああ、ありがとう」

 エスラールがそう言うと、ヴィゼルは上品に会釈をした。

「もっと、近くにおいでよ。そこじゃ遠くて私の声がよく聞こえないでしょう。この頃はあまり大きな声が出せないから」

 彼はベッドから少し離れた位置にある、テーブルの椅子を持ち上げると、私のすぐそばに置いて座ってくれた。

「だいぶ調子はいいみたいだな。顔色もいいし、元気そうだ」
「ヴィゼルのお陰だよ。ありがとう」
「いいんだよ。お礼なんて。照れるからやめてくれ」

 ほんの少し頬を赤く染めて、気恥ずかしそうに笑った。

「ヴィゼル、戦争はいつ起きる?」

 その質問をした途端、彼の瞳はにわかに濁った。

「それは……、なんていうか、エスラール次第なんだ」
「なるほど。なら、エスラール次第というより私次第、といった方が正しいのかな」

 ヴィゼルが言いにくそうな顔をしていたので、私が代弁した。

「そいういことになるな」
「私をどうしたい」

 きっと、彼にはこの言葉だけで私の言いたいことが伝わっただろう。その証拠に彼は黙ってうつむいた。

「構わないよ」

 私は優しく言った。ヴィゼルはとても優しいから、心を痛めているのだろう。でも、何かを変えるためには、必ず犠牲が付きものなのだ。私は小さい存在だ。小さい犠牲のために、何も悩む必要などない。

「ねぇ、ヴィゼル。この頃、よく昔のことを思い出すよ。おかしいね。大半は戦争と殺人の記憶なのに、何故か思い出すのは楽しいことだけなんだ」

 ヴィゼルはうつむいたままで、何も言わない。

「何がそんなに楽しかったんだろうね。ただひとを殺していただけなのに。でも、今に比べたら、それですら楽しく感じられる」
「……エメザレ」

 小さな声で、彼は苦しそうに呟いた。両手で頭を抱え込んで、しばらく彼は動かなかった。

「エスラールと話をしてくる」

 立ち上がったヴィゼルの顔には、静かな覚悟があった。

「いってらっしゃい」

 私は彼の背中を見送った。閉まるドアの音。一人になった部屋の中は一瞬にして闇の世界になった。


*** 
 
 私は体ごとを壁に耳を押し付けた。壁の薄いこの家は、少しでも大きな声をたてれば、壁に耳を当てなくても隣の部屋に丸聞こえだ。
 隣の部屋のドアを開ける音がした。

「なんだ、来たのかヴィゼル。エメザレとなんかしゃべってればいいのに」

 明るいエスラールの声がする。

「エスラール、例の話は考えてくれたか?」

 深刻そうな低い声でヴィゼルが言った。

「…ああ、それは、その話はまだ……」
「エスラール。お願いだ。俺と一緒に来てくれ。お前の力が必要なんだ。お前の強さと統率力があれば民衆の士気はあがる。俺たちの夢まであともう少しなんだ。
おそらく白い髪は、北の国スミジリアンから応援を呼ぶだろう。人数では負けないだろうが、装備は黒い髪が圧倒的に不利だ。士気が頼りなんだ。民衆は君を英雄と呼んでいる」
「エメザレは? あいつも英雄だ。英雄だった。今じゃどうだ」

 かなり強い口調でエスラールが返した。

「気まぐれな民衆をうまく、操るのも英雄の仕事だ」
「エメザレを置いていけない!」
「エメザレは連れていけない。目立ちすぎるし、足手まといだ。あんな体で連れていったら、ザカンタで捕まってしまう。そんなことになったら、俺もお前たちも革命も全ておしまいになるんだぞ。言わなくてもわかるだろう。
だが、心配しなくていい。エメザレの面倒は俺の召使がみる」

「駄目だ。また、死のうとしたらどうする! 俺のいない間になにかあったら……。俺は一生自分を許せない。エメザレが死ぬのが一番つらい。
頼む。わがままは承知してる。こんなに世話になって、なにも返せるものがないなんて、馬鹿にしてると言われても仕方ない。でも、どうしてもエメザレが大切なんだ。本当に済まない」

 悲痛なエスラールの声の後しばらくの沈黙があった。

「わかった。今のことは忘れてくれ。無理を言って悪かったな」
「ヴィゼル」
「エメザレとおしゃべりでもしてくるよ」

 そして、隣の部屋のドアが閉まる音がした。


*** 


 ゆっくりと、私の部屋のドアが開く。貴族のように優雅なヴィゼルが入ってくる。絶望の空気をまとわせながら。

「死んで、くれるのか」

 私の顔を見るなり、ヴィゼルはそう言い放った。普通ならば怒るべき言葉だ。しかし、私にはその言葉が天からの救いのように聞こえた。もう、苦しまなくていい、俺が助けてあげるから。彼はそう言っているのだ。

「いいよ」

 激しい感情はなかった。拷問以来、常に離れない嫌な言葉たちも、息をする苦しみも、悪いものは全て消え去って、懐かしい穏やかな気持ちが帰ってくる。かつての私。 晴れやかな心。静かで真っ直ぐな、私の瞳。

「本当にいいのか」
「いいよ。私を殺しに来たんでしょう?」
「……エメザレ」

 ヴィゼルは立ち上がり、ゆっくり近づいてくると、やわらかく私を抱きしめた。最後の抱擁。友人としての最後の別れ。

「俺は……君に憧れてた。いつも、羨ましかった。今でも君が好きだ。尊敬してるよ。嘘じゃない。こんなことになるなんて……こんな…残酷な……こんなに頑張ったのに…」

 彼の胸からは懐かしい、ガルデンの臭いがした。
 生れた時から知っている香り。私を育て、ひとを殺すことを教え、種族の劣等を教えた。でも、エスラールやヴィゼル、たくさんの仲間たちと出会えた。あそこは楽しかった。こことは別世界だ。
 急に楽しかったことを思い出して、それがなんだか悲しくて、目の前がぼやけてくる。

「ヴィゼル……いいよ。もう、いいよ。そんなことより、エスラールを頼むよ。誰か素敵なひとが見つかるといいね。清楚で優しくて健康的で……きっと彼に似合うと思うんだ。もういい年だから、本当は早く結婚してほしかったんだけどね」
「わかった。わかったよ」
「ヴィゼル、この国を任せたよ」

 黙って頷く、ヴィゼルの右腕にはしっかりと短剣が握られていた。
 光る刃は天からの導きのようで、神々しい。何故だろう、たくさんの思い出が、次から次へと頭に浮かんでくる。すごい速さだ。笑い声がする。無邪気だった。
 いつも、私たちはこの刃のように光っていた。細く不安定で、そして無邪気さゆえに刃物のように残酷だった。憎しみは、いつも振り返らず、背中で受け取っていた。
 たくさんのひとを殺した。なんの疑問も抱かないで、なんの罪も感じないでそれが当然だと思っていた。
 それが私たちの軍人としての務めだったから。

 やっと思い知った。こんな英雄なんていらないのだと。
 それでも私は愛されたかったのかもしれない。
 そして終焉が来る。輝きの終焉が。

 

 その時、私の死の幻想が途切れた。

「ヴィゼル!! 貴様!!」

 見たこともない恐ろしげな表情をして、今にもヴィゼルに飛びかからんばかりの勢いで、エスラールが叫び吐いた。

「エスラール……これは…」

 ヴィゼルの表情が強張った。ヴィゼルが何か言い終わる前に、エスラールはヴィゼルに飛び掛った。

「やめてくれ! エスラール! エスラール!!」

 しかし、二人の争う音で私の虫のような声は全く届かない。
 体格でも腕力でも勝るエスラールは、ヴィゼルの手から簡単に短剣を奪い取った。

「やめろ! ヴィゼルは悪くない! やめてくれ!」

 裏返った私の声は、もはや音すら発していない。無音の叫びをあげながら、右手を必死に伸ばすが、無論二人に届きはしない。こん身の力で、重い体を引きずって、私はやっとベッドから床へと落ちた。

「冗談はよせ! エスラール」

 切羽詰ったヴィゼルの声がした。

「邪魔するなよ!」

 だが、怒りという感情に体を任せたエスラールは、なんの迷いもなくヴィゼルの胸に短剣を突き刺した。何度も。
 私は床の上で無音の絶叫をあげた。
 勢いよく噴き出した血が、辺りを汚していく。これでもかというくらいに、肉の破片 が飛び散って、部屋の中を血の海にした。

「どうして皆で、俺を否定するんだ! 俺は命を懸けて、これから先の人生全てを懸けて、エメザレと共にいることを選んだんだ! 邪魔しないでくれよ。男同士で悪いかよ。よってたかって俺たちを馬鹿にしやがって。俺たちはただ生きいてるだけじゃないか! 生きて何が悪いんだよ!」

 泣いて叫びながら。何度も。原形がなくなるまで、刺し続けた。

「やめて! それはヴィゼルだ。私たちの友達だよ!」

 エスラールはヴィゼルの何がそんなにも憎かったのだろうか。
 いや、憎かったのは多分この国だ。庇いたかったのは自身の人生だ。私を否定すると言うことは、すなわちエスラールの人生を賭けた選択が間違っていたことになる。エスラールはこの選択が最も正しかったと信じたいだけなのだろう。
 やがて、血だらけの顔で、私の方に振り向いた。

「エメザレ、俺はお前を置いてどこへも行かないよ」

 臓物のついた血まみれの両手を差し出して、私のほうへ向かってくる。優しいいつもの顔をしながら。

「う……あ…」

 生臭い両手が私の頬に触れる。温かな血が顔を伝う。逃げ出したくても、逃げられない。恐怖に震える私の顔を見て、彼は悲しそうな顔をした。

「なんで、そんな顔するんだよ。そんな顔するなよ」
「だって……だって…ヴィゼルが、何で殺したんだ……あんなにして……」
「いいじゃないか、俺がいるんだから。どこかへ行こう。どこか遠いところだ。こんな国、捨てよう。こんな国、いらない。もう、疲れたんだ。いつも心配ばかりで。お前が死ぬのが恐ろしくて。お前を置き去りにするなんて無理だ」

 もう、エスラールは無理なんだ。もう、どうやっても私じゃどうにもできないんだ。
 ごめん。気付かなかった。生きていても、死んでいても、「私」という存在がこの世界からなくならない限り、君は安息を手に入れられないんだね。
 私が死ねば変わってくれると思っていたけど、無理なんだね。私は君と生き続けるしかないんだ。
 大丈夫。いつまでも君を愛しているから。



***

「明日は早いから、もう寝よう」

 そう言って、彼は私をベッドの上に寝かせた。その私を腕で包み込んで、エスラールも同じベッドで横になる。かつて当たり前だった、二人で一緒に寝るということ。それが、今では懐かしい。

「どこに行きたい?」
「太陽の近くに」

 血だらけの胸の中で、呟いた。

「わかった」

 静かな心臓の音が聞こえる。私は目を閉じた。

 誰かが、私の顔を嘲りの含んだ表情で覗き込んでいる。

「ジヴェーダ」

 ジヴェーダは意地悪く微笑むだけで何も言わない。

「醜い私を嗤っているんですか。あなたがこうしたんじゃないですか。ジヴェーダ様」
「殺してやればよかったかな」

 投げやりな感じで彼はそう言った。

「そうですよ」
「でも賭けられるものは、残してやっただろう」
「そうですね」

 目を開けると、隣ではエスラールが寝息を立てて眠っている。
 もう一度、私は賭けてみよう。これが私の最後の賭けになるだろう。彼のために。彼に安息を与えるために。彼の愛している私に戻るために。
 エスラールは私に全てを賭けてくれた。私も全てを賭ける。私という存在。そんな小さな犠牲で、世界の何かが変わるなら、嘆くことなんてない。

 そっと枕元にある、本を取った。その本は不思議と私を、必要とする言葉のページに引き寄せた。
 導かれるまま無心に開けたページには、あの切れたページの次が書かれていた。辺りは暖かい光に包まれ、その時が来ることを知っていたかのように、本にはこうかかれている。
選ばれし黒い英雄よ、今こそ、異世界への扉を開け。
己の悲しき愛のために。永遠の時を駆けよ。



「さぁ完全の母よ
母体に宿し愛しき子のための
汝の子宮に
真正なる新しき子を贈ろう」


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