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忘却の英雄 後編 心地よい、とても綺麗な風だ。金色の草原がゆったりと風に揺られている。
私は寝ているのだろうか。
日の光を浴びて温かくなった土の上で、私は寝転がりながら、高い空を優雅に流れる雲を、ただ見ていた。
ここはどこだろう。
体を起こしてみたが、見えるものは金色の草原だけだった。
その時、一瞬だけ赤子の泣くような声がした。誰かを呼んでいるような泣き声だ。
そっと後ろを振り返ると、さっきまで寝転がっていたところに、大木が聳え立っていた。
泣き声は、その裏から聞こえてくる。私は、木の裏側を覗き込んだ。
おいで。
はっきりと声がした。妙に懐かしく、温かい声だった。
「どこに」
もっと向こう。
その声に導かれるままに、私は金色の草原を歩いていった。やがて、規則的に揺れる何かが見えてきた。
白い揺りかごだ。
おいで。
揺りかごの中から、優しい声がした。
「うん。行くよ」
無邪気な子供の声で私は答えた。揺りかごに近付くに従って、だんだんと視界が低くなっていく。自分の腰ほどもなかった揺りかごの高さが、今は背伸びをして手を伸ばしても届かない。
「中が見えないよ」
「大丈夫。わたしからは見えてるから」
目の前にある揺りかごは、常に大きくゆっくりと規則的な動きをしている。しかし、どんなに傾いても、けして中は見えない。
「君はだれ?」
「わたしはゴルトバ。新造生物」
「しんぞうせいぶつ?」
「旧世界で生まれた生物兵器。創造主はアンヴァルク=ゼバス。ゼバスの消滅により、わたしたちは独立に成功したの」
「わたしたち? 君以外にも誰かいるの?」
辺りを見回したが、先ほどと同じ背丈がやたら高くなった金色の草が、風になびいているだけだった。
「わたしが、わたしたち。正しくは、わたしとわたしの子供たち」
「子供がいるの?」
「そう。たくさん、たくさんいるの」
「どこにもいないじゃない。」
「ねぇ、エメザレ、わたしの子供になって」
その時、突然に揺りかごの動きが止まった。瞬間、世界の動きも止まった。雲も草原も空間に張り付いてしまったように静止している。風の音も止み、痛い静寂に世界が包まれる。
その静かな世界の中で、ゴルトバの優しい声だけが響いた。
「どこにも、居場所がないのでしょう?
なにもうまくいかなかったのでしょう?
エメザレはとっても頑張ったのに、誰も何も認めてくれなかったのでしょう?
本当は英雄になりたいのでしょう?
皆から愛されたいのでしょう?
この国を救いたいのでしょう?
もっと力が欲しいのでしょう?
無力な自分が嫌いなのでしょう?
だから、わたしの子供になって。そうすれば、全部うまくいく。わたしが力を貸してあげる」
優しい声だ。救いの声だ。ぼくを包み込む温かい声、いつも憧れていた、無償に愛されるべき存在として向けられる、その声。母親のようで、そしてぼくは無償に愛される子供だ。
「さぁ、おいで。哀れな美しい子よ。わたしの愛しい子よ。君に輝かしい未来を、そして永遠の美しさを、君に捧げよう。そして、いつか生きることに疲れ果て、わたしを懐かしく思った時は、またこの世界に帰っておいで」
その時、光の雪が降ってきて、同時にぼくは天空へと舞い上がる。
青い空から落ちる一本の金色の光を伝い、ぼくの体は優しく世界を流れていく。
美しい光の中で、また動き出す揺りかごが、まるで子守唄のようにぼくを夢の世界へ誘っている。
「わかったよ。お母さん」
願い事のように呟いた言葉が、頭の中を駆け巡る。そして優しい何かが、ぼくに同調した。
***
「エスラール」
辺りに響いた私の声はとても静かだった。だから、彼はまだ瞼を閉じたままだ。安らかな寝息をたてる彼は何よりも愛おしい。
「エスラール」
今度は耳元で名を呼んだ。そして優しく顔に触れる。
「エメザレ……?」
彼はゆっくりと、夢の世界へ行くようにとてもゆっくりと瞼を開いた。
「エスラール、帰ってきたよ。君のために」
「エメザレ……?」
「そう、私はエメザレ」
私は微笑んだが、彼の顔からはだんだんと血の気が引いてゆく。まるで、醜くおぞましいものでも見るかのように。突然起き上がった彼は、私からじりじりと離れていった。
「ち、違う……、お前はエメザレじゃない。エメザレじゃない。これは夢か?」
「夢じゃない。私はエメザレだ。ほら、よく見て」
私は彼を部屋の隅に追い詰めると、顔を近づけた。月明かりを借りて彼の瞳に映る私は、かつての、あの輝かしい時を生きた、その時の顔だった。
どこが違うというんだ。まるで違わないのに。
「俺に近づくな! 触るな!」
そんな罵声と共に、思い切り突き飛ばされた。途中でテーブルにぶつかってバランスを崩し、床に倒れこんだ。そのまま、私は起き上がりたくなかった。
喜んでもらえると思ったのに。抱きしめてもらえると思ってたのに。
昔に戻りたかった。また、この顔で笑いたかった。
それを望んでいるのだと思っていた。この顔とこの体があれば、なんでもできる気がしていた。
一生懸命頑張って、いろんなことを我慢して、汚いことして、たくさん殺して、ここまでやっと生きてきた。
その終焉がこうならば、何故今まで死ななかったのだろう。なんでくだらない賭けをしたんだろう。
死ねばよかったのに、死ななかった。こんな場所で、まだ、生ぬるい希望でも抱いていたのだろうか。
「エメザレ……」
エスラールは、私がなかなか起き上がらないことを心配してか、恐る恐る私に近づいてきた。
私は、堪えつつも溢れ出る涙を見られまいと、体を丸めた。
「もういいよ」
「泣いてるのか?」
その声は優しかった。あまりにも優しすぎて、余計に涙が噴き出してくる。
「……ごめん」
彼は低くそう言うと、私の頭を撫でた。それから私を体ごと引き寄せて、せいいっぱい抱きしめた。
「変なこと言ってごめん。せっかく帰ってきてくれたのに。どうかしてたよ」
「そうだよ。君はどうかしてた」
その瞬間だった。悲しみが唐突に消えた。心がきれいに整理され尽くして、感情がまるで静かになった。
どうして、あんなことで私は傷ついたのだろう。死のうとか、生きたいとか、そんなくだらないことで、悲しくなったりしたんだろう。
何はともあれ、引っ付いているエスラールを放すまいと、抱きしめ返してから、私は彼の耳元で囁いた。
「私と一緒に来るだろう? だって、私を愛しているんでしょう? 私とこの国を変えよう。皆を救おう。私たちは英雄になるんだ」
「お前は、誰だ」
抱きつく私を引き離して、彼はしつこく同じ質問をした。
「何度、言わせるの。私はエメザレ」
彼は何か言いかけたが、結局何も言わなかった。
「さぁ、ガルデンへ行こう。私たちの邪魔をするものは全て殺すんだ。君がヴィゼルにやったみたいに」 目に入ったヴィゼルの死体を見て、私は笑いながら言った。清々しい気持ち、冷たい小川のように、とても澄んだ気持ち。
「俺は愛してるよ。エメザレを」
「私も。愛してるよ。エスラールを」
くだらない戯言に縛られていては、幸福な人生を見出すことはできない。
私はもっと冷静に生きるべきだったのだ。エスラールに対する愛はけして忘れないだろう。そして、くだらない戯言から開放された今、私たちの未来はかつてないほどに光り輝くものとなった。
そして安心した。
私はやっと存在として死ぬことができたのだ。
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