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忘却の英雄 前編


 かつて、私は英雄と呼ばれた。そしてたくさんの人々の希望だった。

 私はそれを望んだわけではない、英雄になどなりたくなかった。
 私はただ、何かの役に立ちたかっただけなのだ。
 その地位に酔いしれていたわけではない。ただ、人々を絶望から救いたかっただけなのだ。

 しかし、たくさんの期待を背負い、数多の犠牲を払って、行き着いたのは暗い部屋の汚いベッドの上だった。
 拷問され、両足を失った。右目は潰れて、左目の視力もだいぶ落ちた。
 顔にはかつての面影などは微塵もない。左手はもう動かない。
 そして唯一残った右手はベッドにくくりつけられ、私は固くかび臭いベッドに横たわっている。

 それは全て自業自得なのだ。私に不満をいう資格などない。私はこうなることがわかっていて、そうしたのだから。
 だから私は生きている限り続く拷問に耐えなくてはならない。
 あの拷問から、三年と半年経つ。それにしても長いものだ。私には三年半が百年にも二百年にも感じられた。一体、あとどれだけ生きろというのだろう。
 長すぎて、耐えられそうにもない。
 それ故に、私は死を望んでしまうのだ。




「帰ったよ。エメザレ」

 彼は私の部屋のドアを静かに開けて入ってきた。エスラール。それは私の親友であり恋人の名だ。
 世間では白い眼でみられる同性の恋人。嫌悪と軽蔑の眼差しで、私たちは見られ馬鹿にされる。
 どんなに嘲笑されようとも、私を見捨てなかった、愛しい恋人だ。
 背が高く、しっかりとした体格で、年は同じだが私より無邪気だ。
 この国では弱者の象徴であるような黒い髪を、少し長くして癖のある髪質とうまく合わせている。

「おかえりなさい」

 私は言ったが、おそらくエスラールには聞こえなかっただろう。
 つまらないことだが、私は自殺を試みて自分でのどを切ったことがある。そのせいで、のどが潰れてしまってうまく声が出せないのだ。
 それでも、そばで耳を澄ませてくれればなんとか意思は伝わるようだ。

「お前の好きそうな本を買ってきたよ。留守にして悪かったな」
「ありがとう」

 そう言ったものの、私はあまり嬉しくなかった。
 本を買う金の余裕などあるはずがないのだ。それでも、本を読むことくらいしか楽しみがない私のために無理をして、彼はいつもどこかに行くときは本を買ってきてくれる。自分のことはいつも後回しで、私のことを心配してくれる。
 でも私はそうされる度に自分を情けなく思う。

「すまない。手が痛かったか? きつく結びすぎた?」

 赤黒く変色した私の手を見て、エスラールは慌てて紐を解いた。
 彼の留守中に二度も自殺未遂をしたから、それを恐れてこんなことをする。
 申し訳のないことをしたと思っている。私は二度も彼を裏切った。でも、死の誘惑に勝つ自信がないから、手を縛られても仕方がない。

「エスラール、ザカンタはどうだった?」
「何も変わってないよ。あそこは。もちろん、この国も何も変わってなかった」

 クウェージアという国は、不平等であり不条理の国だ。白い髪の種族は白い髪だからという理由だけで支配権を握り、黒い髪の種族は黒い髪だからという理由だけで支配される。

 私たちは黒い髪の種族であり、また孤児でもあった。
 クウェージアにおいて、孤児は国の所有物だ。私たちは、生きている限り戦い続けなければならない、終身の軍人にされた。私たちは国家の作った檻の中で、生涯を送らなくてはならなかった。
 たが、私はそんな状況に不満などなかった。檻の中しか知らない私には、それが当然のように感じられたからだ。
 親を知らない私だったたが、一つだけ親から譲り受けたものがある。
 黒い髪は劣ってなどいないという思想だ。
 誰から教わった訳でもないのに、その思いだけは揺るがなかった。何度、劣っていると教え込まれても、そんなはずはないと思った。確かに優れてはいないかもしれない。でも劣ってもいない。

 だから、それを証明するために、いずれ起こるであろう、黒い髪と白い髪の戦争を阻止するために、少しでも小さな犠牲でこの国が救われるように、私はクウェージアの宮廷へと赴いたのだ。
 どうなるかもわかっていた。私なんかの力で、クウェージアを変えることなどできないと。殺されてもいいと思っていた。
 あれは、私の中で最後の賭けだったのだ。

 そしてこの様だ。
 世間は私を英雄に祭り上げておいて、こうなった途端に罵った。
 私が育った、国立軍事教育所であるガルデンからは不名誉除隊をさせられ、更にガルデンのある軍事都市ザカンタからは永久追放された。
 つまり死ねということだ。私はそれでも構わなかった。私は自分のできることはしたし、力が足りなかったのは自分のせいだと思っていたからだ。
 だが、愛すべきエスラールだけは、唯一私を見捨てずに、あろうことか軍を脱走してまで私についてきてくれた。これは死刑に値する罪である。
 従って、エスラールもまた、ガルデンからは除名処分にザカンタからは永久追放された。

 軍人の地位を剥奪され、何も持たないままに逃げ出してきた私たちには住む場所も一文の金もなかった。
 私たちはしばらく、放浪した。目立たないように、ある時は橋の下で、ある時は路地の隙間で眠り、食べ物は畑から盗んだ。

 どこか遠くへ行ければよかったのだが、私を連れて長旅をするのは無理だとわかったエスラールは、外国へ行くことを諦め、ザカンタの隣町でひっそりと暮らすことになった。

 そしてちょうど、二十五年の途中兵役を終え、ガルデンを出てザカンタ内で家と家族を持つことを許された、同期のヴィゼルが私たちを探しにきたのだ。

 ヴィゼルは、初めてザカンタを出た日に、初めて関係を持った女性と結婚した。彼女は娼婦だったが、エスラールが言うには愛嬌のある可愛らしい女性であるらしい。
 二十五年分の給料が国から支払われ、小さいながらも家も与えられたヴィゼルは、自由になった途端、私たちの行方が心配になったそうだ。

 ヴィゼルは自分のもらった中から五年分の給料を私たちにくれた。その代わり、エスラールはガルデンの同志が率いる革命軍に協力することになった。

 どうやら私の思想は、私がいなくなった今もガルデン内で引き継がれているらしい。私の思惑とは全く正反対の方向に、ことが進んでいるのは否めないが、ここまで無力な私が今更なにを言っても仕方がない。

「戦争はいつ起きるの?」

 ガルデンの革命軍はすでに、黒い髪の種族を結束させていた。国中の黒い髪はもはや革命軍の駒と化している。

「もうすぐだ」
「止められない?」
「無理だ」

 なだめるように彼は言った。

「そう」
「ごめん。何もできなくて」

 彼は優しく私を抱きしめた。温かい体温がゆっくりと伝わってくる。それでも私には、彼をしっかりと抱きしめる力がない。
 全てのものが不可能になり、全てのものが絶望になり、ささやかな幸せすら脅かされる。

「仕方ないよ。君のせいじゃない」

 この国がこうなったのは誰のせいでもない。たくさんの思惑と思想が絡み合って、こうなってしまっただけだ。

「なら、戦争に行きなよ。君は民衆に必要とされてる。君がいなきゃだめなんだ。私のことはいいから、この国を変えて」

 私は言った。せいいっぱいの希望だ。私の時代は既に終わりを告げた。新しい統率者が現れれば、民主はそれを英雄と呼ぶ。古い英雄は忘れ去られ、それが繰り返される。

「この戦争は長くなる。お前を置いてはいけない」
「死にかけた私なんかのために、この国を見捨てないで」
「クウェージアは大切だ。でもそれ以上に、俺はお前が大切だ」

 彼のそんな言葉に私は首を横に振った。

「違う」
「違わない!」
「私のことはもう忘れてくれ、そして幸せな家庭を築け。君の幸せを潰して生きるのは嫌なんだ。私がいなければ、もっと違ういい道があった。私のせいで、君はどんどん不幸になる」
「エメザレがいれば俺は不幸なんかじゃないよ。どうしてそんな寂しいことを言うんだ」
「こんな顔とこんな体なんかじゃ、あっても何の役に立たない。何もできない。こんな私といて、何が幸せなの?」

せめて。せめて、顔だけでも元に戻ってくれたら。こんな醜い私を、エスラールは一体どんな気持ちで、いつも抱きしめているのだろう。

「俺が愛してるのは顔と体じゃない」
「違う。君はそれも含めて私を愛していたはずだ。顔と体という私を愛する二つの理由を失った今、君の愛は完全じゃない」
「昔はそんなことを言う奴じゃなかった」

 エスラールのそんな言葉が胸に突き刺さって、私はやっと我に返った。
 そして同時に悲しくなった。私は心の持ちようまで変わってしまったのだろうか。
 だとしたら、彼は一体私の何を愛しているというのだろう。私が思うにそれはおそらく、過去の残像だろう。
 彼は、かつて輝いていた私を愛しているのだ。今の私ではなく。

「そうだね。私らしくない」

 私は一生懸命に笑った。少しでも前の笑顔に似るように。少しでも昔に戻りたくて。
でも実際は、硬くなり不自然に再生した皮膚が、わずかにつりあがっただけだろう。
 どんなに醜い顔で私は笑っているのだろう。

「それよりも、エスラール。どんな本を買ってきてくれたの?」
「やっと機嫌を直してくれたか」

 彼は嬉しそうに言うと鞄の中から古臭い本を取り出した。
 表紙は焦げ茶色ですすけた金で装丁が施されている、分厚い本だった。
 そこには意外な文字が刻まれていた。

「シクアスの本だね」
「確か、昔シクアス語を訳すのが好きだって言ってたよな」
「好きというか、敵の言葉だったから使えるといろいろ便利だったんだ。でも君にはそう言ったかもしれないね」

 彼が少しがっかりしたような表情をしたので、あわてて私は彼を気遣った。

「それより、お腹がすいたよ」

 また嘘をついた。食欲など皆無なのに。
 エスラールの暗い顔は嫌いだ。

「ああ、そうだよな。ごめん。何か作ってくるよ。何が食べた
い?」
「なんでもいいよ。あんまり手間のかからないものでいいからね」

 そう言うと、エスラールは大きくため息をついて立ち上がった。

「いつも、そればっかり! たまにはなんか、リクエストでもしてくれないとやる気がでない」

 少年のように頬を膨らますエスラールの顔が、無性に可笑しくて私は笑った。

「じゃあ、卵焼きね。甘口で」
「おう! 任せろ」

 はりきって部屋を出て行く彼の背中を見送って、閉まるドアの音で私は現実に引き戻される。
 ここは墓場なのだと。もっと苦しめと。一生、床を這いずっていろと。
 いらない言葉たちが私を襲ってくる。期待を裏切られた民衆の叫び声。罵る声。皆、私を恨んでいる、いやな言葉たち。

 だから、私はそれを振り切るために、さっきの本を開いた。本は別世界の入り口だ。私はいつだって本の中では自由に手を動かせるから。
 本からは古い香りがする。かび臭くて湿った臭いだけれど、どこか心地よい。柔らかな皮の表紙をめくってみれば、中はひどく汚れていて、書かれている文字がどうにか読めるくらいの状態だった。かなり注意して紙をめくらなければ、簡単に本自体がばらばらになってしまいそうだ。
 私はその本を注意深く膝の上にのせ、どうにか自由の利く右手を駆使して読み始めた。



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