9



しん、と静まり返った家の中。

あたしは玄関の鍵とチェーンをきっちりとかけ、重苦しい足取りでリビングへ戻ってきた。

「…………」

バクラが無言でソファーに腰を下ろす。
その表情は、あたしの位置からではよく見えなかった。

あたしは口を開こうとして、けれど何と言えばいいか分からずに、一言だけ告げる。

「ごめん…………」

夕飯を前にして、テーブルに置かれていたはずの取り皿とコップ。

バクラが元彼を殴った衝撃で、それらは全て床に散乱し、モノによっては無残に割れていた。

――安物だけどペアで買った、お気に入りのコップとお皿だったのに。

目の奥がじんと痛み、唇を噛む。
あたしは部屋の隅から箒とちりとりを持って来ると、大きな破片を手で拾ってから残りを無言で掃きとった。

バクラはずっと黙したまま、何も語らない。

「……掃除機かけないと駄目かな。
ラグに破片、刺さっちゃてるし」

蚊の鳴くような声で呟いてから、掃除機を取りにキッチンへと立ち去るあたし。

それから、バクラが買ってきてくれたもののゴタゴタのせいでそのまま床に置かれていた買い物袋の存在に気付き、先にそちらを冷蔵庫にしまうことにした。

溶けかけたアイスの箱。
もしあたしが、相手を確認せず不用心に鍵を開けることをしなければ、このアイスも溶けることがなかったし、お気に入りの食器たちも割れることがなかったはずだ。

――涙がこみ上がる。

ううん、鍵を開けなかったとしても。
いつぞやの警察のごとく、換気扇と明かりで在宅がバレている以上、元彼はガチャガチャドンドンと玄関のドアの前で喚いただろう。

そんなところに、買い物袋を下げたバクラが帰って来たら――
どのみち同じだ。

どちらにしたって、きっとバクラの手を煩わせる。

「っ……、ひっく」

涙が止まらない。

元彼に殴られた頬は未だじんじんと痛む。
まさぐられた胸と脚には未だにヤツの手の感触が残ってる気がして、顔を伏せたあたしは髪をぐしゃりとかきあげた。

無様、滑稽、惨め、哀れ。

人を見る目が無いどころか、自分の身一つ守れずに、一番巻き込みたくない人を巻き込んでしまった。

それも、お手手繋いでの『カップルのフリ』なんかじゃない。

暴力、だ。
彼はあたしを守ろうとして、躊躇なく暴力を振るった。

あたしが止めなければ、もしかしたら本当にバクラはあの男を突き落としていたかもしれない。

整った双眸に宿った、ひどくドス黒い獰猛さで。
慈悲など一ミリも与えないというような目で見下して、『敵』と認識した男を、易々と。

「ごめん……、ごめんね…………」

冷蔵庫の扉に縋りつくように額を預けながら、あたしは咽び泣く。

ごめんねではなくありがとうと難なく言えたなら、あたしはきっとこんな人生を送っていないのだろう。

『バクラありがとう、悪い男を追い払ってくれてありがとう』――

先程男の前でブラフかまして見せたような浮ついた女になって、助けてくれてありがとー、アタシ強い男のヒト好きー、かっこい〜……

罪悪感などなく、馬鹿になりきって、しなを作ってそう屈託なく言えたなら、あたしという人間はきっとこんなところでめそめそと泣いたりはしない。

無力で、なのに生意気で、賢くもなく、でも馬鹿にもなりきれなくて、あらゆるモノを拗らせに拗らせたあたし。

本当に、腹が立つ!
他の誰でもなく、自分自身に!!


「…………、」

背後に気配を感じ、あたしは慌てて涙を拭く。

「ご飯、もうちょっと待って」

紡いだ言葉は明らかに震えていて、振り返る勇気などとてもじゃないが出なかった。

「ごめんね……、巻き込んじゃってごめんね」

口をついて出るのは、単純な謝罪の文句ばかり。

罪悪感と自己嫌悪が、寄せては返すさざ波のように繰り返し襲いかかる。

「殴られたところ見せてみろ」

背後に立ったバクラが、抑揚のない声で述べる。

あたしはすかさず「大丈夫だから、」と返すと、彼に顔を見られないように手で遮った。

「見せろ」
「いい、大丈夫」

「見せろっつってんだよ」
「いいって、いいってば……!!!」

声を張り上げた瞬間、またどっと涙が溢れ出す。

壁に面した冷蔵庫とバクラに挟まれて、逃げ場が無かった。

あたしはそのまま、しくしくと泣き出してしまう。


「……クズな男に引っかかって、見る目のない馬鹿な女だと思ってんでしょ」

「ああ」

「こんなことで手を煩わせやがって、めんどくせぇって思うでしょ」

「……ああ」

「こんな家、金さえあればすぐにでも出て行きたいって、こんな面倒な女嫌だって、思っ……!」

「ナマエ」

ハッキリと紡がれた声には、言い知れぬ熱がこもっていた。

それは怒りか、同情か、はたまたそれ以外か。

彼はあたしの肩を掴み、強引に振り向かせた。

「っ、く…………、」

抑えきれない激情が、腹の底で破裂する。
胸がずたずたに引き裂かれて、今にもバラバラになってしまいそうだった。

――そして、あたしは。


**********


「っ、ああっ……、ああああぁぁっ……!!!」

決壊。

目の前の女が、とうとう大声を上げて泣き出した。

男に縋りつくわけでもなく、けれど完全に男の手を振り払うわけでもなく。

「な、んで……、なんであたしは……!!!
っ、もうやだ…………、バクラに迷惑かけたくなかったのに……っ!!」

泣きじゃくるナマエの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「こんなところ見せたくなかった……!!
あんなの、見せたくなかった……!!
っ、バクラにだけは、知られたく、なかったのに……っ!!
なのにあたし、バクラにめいわく、かけ……っっ
あああぁぁぁん……!!!!」

まるで幼児のように、烈しく泣き叫ぶナマエ。

「ひどいよ、こんなの……っ
どうして、どうして……っ!!
なんで、っあたしばっかり……っ、なんで…………!!」

それは誰に問い掛けるわけでもない、虚しい空言だった。

「幸せになりたかっただけなのに、なんでぇ……っ
もうやだよ…………、あたし、こんなのやだよ…………っ!
っ、あたし、やだっ、もう……!!!
ぁああああぁっ………!!!!」

狭苦しい台所に、哀れな女の慟哭が響き渡る。

喉の奥から声を絞り出し、泣き続ける女。
ままならない己自身を抱え、一人で足掻き続ける女の、狂おしいまでの咆哮。

きっと、誰も彼女を助けない。
きっと誰も、彼女の本質に寄り添うことは出来ない。

まるで、居ても居なくても同じ――
世界から見捨てられたような。

その手には何も無い。
欲しいモノは何一つとして残らなかった、哀しい女。

「っく、っく、ううっ、ひっく……
うわぁぁぁん、ああぁぁぁん……!!!」

――それは号泣だった。
持たざる者の慟哭だった。

忘れてしまえば楽になれる思い出だけを、いつまでも後生大事に抱え続けた女の、どん詰まりの末路だった。

そして、そんな女を見つめていたバクラは、

――――ッ、


「……泣くな」

思わず吐き出す。
半ば無意識だった。

何故か胸がジリジリと締め付けられて、収まらない。
まるで心の中の、深い部分を抉られるような――
意味の分からない、動揺だった。

同情などするタチではない。
記憶がなくともそれだけは確かだ、と彼は思う。

自分を慕ってくれる女が過去にどんな艱難辛苦を味わったとて、辛かったな、可哀想だなと慰めの言葉を掛けてやる気には微塵もならない。

だがバクラは、ナマエという女が今、こらえにこらえてとうとう号泣してしまった『今』を、どうしても黙殺することが出来なかった。

それが何処から来ている感情なのかは分からない。
けれど、何故か『分かる』。
またあの感覚だった。

ぽっかりと胸に空いた穴にザラザラと流れ込む、まるで砂のような、乾いた共感のような、空疎な懐かしさ、のような――

否。

今のナマエを見て感じたものは、もっと生々しくて、バクラ自身に深く食い込む爪痕だった。

顔を歪ませて、みっともなく泣き続ける女を見てバクラの中に流れこんできたのは、砂なんかよりももっと熱くて、重くて、粘つくような灼熱のマグマだったのだ。

バクラという男は、いつか何処かで、この光景を見たことがあるとでも言うのだろうか!

「泣くなっつってんだよ……、」

舌に乗せた台詞は何故か震えていて、もはや懇願にすら似ていた。

今すぐこの女を黙らせなくては。

だって。
そうしなければ、そうしなければ……!

この燻るような、行き場のない感情は、一体どうすれば、――!!


伸ばした腕が、夢中で女を捕らえた。
女がビクリとして体を震わせる。

暴力の洗礼を受けて萎縮してしまったらしい女は、バクラの思惑をすぐには理解出来ずに固まっていた。

顎を押さえ、噛み付くように唇を塞ぐ。
彼女の喉からくぐもった声が漏れ、そのまま歯列を割って舌をねじ込めば、息を呑むような気配があった。

「っ、ぅんっ……!」

戸惑いと抗議。
泣きじゃくったせいで呼吸が苦しいのだろう、バクラは一瞬だけ唇を離してやり、彼女が息を吸ったのを確かめてから、もう一度唇を重ねた。

体を包み込むように抱きしめ、角度を変えてナマエを夢中で貪る。

――頭の奥がチリチリと燻り、服越しに密着した下半身がじんじんと熱を持った。

止まらない衝動。
もはや何もかもがどうでも良かった。

バクラはただ、腕の中に居るナマエという女が欲しくてたまらなかった。



「ん、ぁ、……だ、ゃだ、」

冷蔵庫にナマエを押し付けるようにして胸をまさぐれば、はっきりとした抵抗の色があった。

首筋に唇を寄せれば、ふわりと香る彼女の匂い。
夢中で肌を吸い上げれば、ナマエはバクラを引き剥がそうと手に力を込めてきた。

だが止まらない。
ここで、拒否する彼女の意を無視して事を強行すれば、彼女との関係に決定的な亀裂が生じてしまう――

頭では分かっている。
しかしそんなものは最早、今のバクラにとって何の枷にもならない。

己にまつわる記憶を一切合切失ってしまったバクラという男に在る、『確かなモノ』。

頭の中を滅茶苦茶に塗り潰す、暴力的な渇望。
それが単なる性的衝動だけではないことは、何となく自分でも分かっている。

ナマエという女だったから。
バクラと名付けられた男の前で、無防備にわんわんと泣いて見せたのが、ナマエという女だったから――

「……やだ、ここじゃ、ゃだ、」

息を乱す女の唇から、切れ切れに漏れた声。

興奮した男に襲われ、胸元をさらけ出された女の意思表示は、バクラにとって救いとも言えた。

抵抗の理由を弱々しく述べた女は、バクラが反射的にその身体を抱き上げてやれば、案外素直に体重を預けてきた。

ぐす、ひっく、と未だ啜り泣きつつも、それ以上バクラを拒まないナマエ。
その細腕がバクラの首筋に縋るように絡みつき、彼は一言も発さずにキッチンを後にする。


ナマエの重みを抱きかかえながら、バクラは人知れず願う。

バクラを受け入れることにしたらしい今のナマエの従順さが、クズな昔の男に取って代わった新たな男に対する諦めから来るものではあって欲しくないと。

自分の上を通りすぎる男の顔が変わっただけ――
そんな風に、捨て鉢になっているわけではありませんようにと。

それはみっともない感傷で、バクラという男の意地だった。

けれど彼は、ついぞそれを確かめる余裕などなくて――
彼女の肢体を、寝室のベッドに放り投げたのだった。


**********


何もかもがもう滅茶苦茶だ。

あたしを殴り、痛みと怒りを与え、恐怖させた張本人――
平素だったら何日も引きずってしまいそうなそんなクズのことを、あたしはもうよく思い出せない。

ううん、思い返す余裕などないと言った方がいい。
今のあたしにあるのは、どんな有象無象もたちまち忘却の彼方へ消え去ってしまいそうな、鮮烈な存在だけ――

バクラ。
あたしがそう名付けた、記憶喪失の男。

彼の指が、未だ涙で潤んだあたしの眼をそっと拭う。
その感触はある記憶を呼び覚まし、あたしは思わずハッと息を呑んだ。

あたしはこの感覚を知っている。
バクラを拾った最初の晩、それから先日の、体調不良で寝込んだ時。

微睡みの中、確かにあたしの瞼の稜線をなぞったはずの、この感触は――

気付いてしまえば、再びこみ上がってくる涙。

バクラに組み敷かれたあたしはそれから、ただ切ない吐息を漏らすのだった。


薄暗い寝室。

廊下から漏れる明かりだけが頼りの中、うっすらと浮かび上がる彼の輪郭。

「ん、……んぅ、あ……っ」

素肌を撫でさすられる感覚。
触れられた部分も、彼の体温も、何もかもが熱くて溶けそうだった。

「っ、は……ッ」

胸の膨らみを強めに握られ、先端に歯を立てられる。
決して優しいとは言えないその刺激に、けれど反射的に体の奥から湧き上がったのは、期待と快感だった。

――待って、乱暴にしないで、おねがい……っ、

口にしようとした言葉は、わずかな不安からくる予防線でしかない。
度を超えた痛みや、身勝手で一方的な交接を押し進められたらどうしようという不安。

今までそんな、『思い出したくない』経験をしたことは何度もある。

けれども。
あたしは結局、その言葉を飲み込んだ。

「ん、あ……っ、はっ、ん」

何故なら。
あたしは嫌じゃないからだ。

他の女と遊ぶことも出来ずに欲望を溜めこんで、あたしに何度も焦らされて、それでも暴力であたしを屈服させなかった彼に――
今ここで、もう限界だと言わんばかりの彼に、性急に手酷く抱かれようとも。

多分あたしは嫌じゃない。怖くもない。
だってその証拠に、あたしはこんなに――

「あッ……! や、ぁ……、んっ、ん……っ」

ショートパンツを引き剥がされ、下半身に潜った褐色の手。

位置を確認するようになぞられた部分は、とっくに悦んで潤っていた。

「ん、んぅ……っ」

痺れるような電流が背筋を這い登り、甘い快感に変わる。
ぐりぐりと一番敏感な芽を指先で押し潰されれば、もはや淫らな喘ぎしか漏らすことは出来なかった。

――やばい。どうしようもなく好きだ。
あたしはこのバクラが大好きだ。

素直じゃなくて生意気なあたしが、そんなくだらない意地や我を全部置き去りにしてもいいと思えるほどの。
それほどの、熱。

あたしがあたしじゃなくなってもいい。
どれほど、『らしく』なくたっていい。
だから、やめないで。

もっと触って。もっと抱き締めて。
あなたに溺れさせてほしい。
何もかも、わからなくなるほど――

それは、かつて感じた、鮮やかな激情で……!


「んっ、ふ、んん……っ」

物欲しそうに舌を覗かせれば、たちまち塞がれる唇。
皮膚より熱い温度が絡み合い、頭の中で秘めやかな水音が生まれた。

触れた肌からは互いに汗が滲んで張り付き、けれどそれが不快どころか心地良いのは、相手が彼だからだ。

バクラ……

そういえばあたしは、冷蔵庫の前で彼に泣いて見せてから、まだ一度もその名を呼んでいない。

「す、き…………っ、あぁッ……!」

キスの合間に囁いたのは、彼の名前ではなく愛の言葉だった。
それに応えたのか、下肢に沈みこんだ彼の指があたしの中を押し広げるように蠢く。

その感覚は甘美で、期待に満ちていて、あたしの中の飢えた渇望をこの上なく刺激する呼び水だった。

「ん、ふ……っ、んんっ、」

呼吸ごと彼に飲み込まれ、重なり合った唇から唾液が流れこんでくる。
考えるより先にそれをコクリと飲み下し、彼の舌先を吸い上げてから名残り惜しむように唇を離せば、ふ、とバクラが薄く嗤った。

紫がかった眼に浮かぶのは、雄の欲望。
その奥には、言い知れぬ獰猛さが潜んでいた。

「…………ッ、」

ゾクゾクする。
バクラに探られている下半身が反射的に収縮し、彼の指を締め付けた。

身体の奥からとめどなく蜜が溢れ、焦れるような飢餓感だけが増幅していく。

「はぁっ……、ん、あぁ……っ」

――あたしは、この感覚を確かに知っている。
これは、明確な既視感だ。

だって。これは。この、溺れるような灼熱の温度は――


「ぁ…………、ッああっ……!!!」

ぐぶりと押し入ってきた熱。

あたしの領域を犯す異物は、自分の意思とは関係なく奥へと沈み、性急に行き止まりを突いた。

「ん、ぁう、は……ッッ」

ぐっと内蔵を押し上げられる様な圧迫感に、自然と口から漏れる呼気。

「ぁ……、っ……!」

力加減と角度を探るように、彼自身があたしの中をぬるく往復していく。
それだけで頭の芯がびりびりと痺れ、あたしはある種の危機感を覚えて戦慄した。

「まっ、て……、だめ、」

今更何を言ってるのかと思うだろう。
事実、彼もそう思ったはずだ。

バクラはあたしの弱々しい制止を無視し、準備は全て整ったとばかりに自身で思いきりあたしを突き上げた。

「あぁッッ……!!!」

恍惚感が炸裂し、意識が明滅する。

だめ。だめ、だめ……!!
あたしは今、明確な危機感を感じている!

「はっ、んんっ、まって、あっ……!!」

けど、どこも拒んでなどいないあたしの身体は、ぐずぐずに溶け切って、ぎちぎちと彼を咥えこみながら悦んでいる。

脳髄が快楽で麻痺し、されるがままになった身体は杭を穿たれるたびにゆさゆさと揺れた。

自分の全てが、彼に溶けてしまうような感覚。
自分が全て、彼で塗りつぶされてしまう感覚。

それはこの上なく甘美で、法悦で、圧倒的な恍惚だった。

既視感。既視感しかない。
あたしはかつて一人に対してだけ、この陶酔感を感じたことがある。

「バ、…………っ」

『彼』の名を口にしそうになって口を噤む。

だめ、だめだ……!
その名を口にしてはだめだ。

記憶の中の『彼』が、鮮やかな色を持ってあたしの脳裏に蘇る。
それはきっと、この最上級の悦楽と――
それだけじゃない、明確に『似ている』からだ。

男というものは、皆同じようでいて意外と個人の癖や好みが違う。
女の身体に触れる手つき、行為、順番、力具合等々……
そういうものは、男それぞれ微妙に違っていて、それゆえに触れられている女は、『他の男と比べる』なんていう失礼なことも出来るのだ。

けれども。
あたしは今、あたしを抱いているこのバクラに、ある人物を重ねている。

それは、雰囲気や顔立ちや口調や多分声もが似ているという理由だけではない。

異性に触れる、男としての彼の一面。
あたしと身体を重ねる、一切合切。
それが、どうしようもなく酷似している気がするのだ。

それは、思い出を良い方向に美化する歪曲や、そうであって欲しいという勝手な期待感から来るものでは無かった。
むしろ、そうであった方が今のあたしにとっては良かったのかもしれない。

路地裏で偶然出会った気の合う男は、昔一番好きだった男によく似ていて――
何となくアッチの方も似ている気がする。気のせいかな? まあいいや。
身体の相性良くてサイコー。良かった良かった、めでたしめでたし。
さぁ、このサイコーな時間を楽しもう。

……そんなふうに、あっけらかんと自分のいいように解釈して、後腐れなくただの快楽に溺れることが出来たら、あたしはどんなに楽だろう。

けれども。

あたしは今、ぐっと堪えている。
淫らな息を吐きながら、彼に身を任せ、それでもたった一語だけは、口にすまいと――


「っ、あっ、や、んぁぅ、あっ、あ……っ!」

律動が激しくなり、あたしの思考はぐちゃぐちゃに乱れ、もはやまともにモノを考えることすら出来なくなっていく。

彼が何者だとか、何処から来たのかとか。
本当はあたしをどう思っていて、これからどうなりたいのかとか。
そんなもの、もはやどうでもいい。

彼はいつか、あたしを置いて、また・・居なくなってしまうのだろうか……!

「や、だ……」

行かないで。
あたしを置いて行かないで。

あたしに生の実感を、生きる意味をくれる『彼』。

あたしの人生に燦然と降臨し、抜けない楔を打ち込み、あたしに沢山の喜びをくれたあの人と、この彼は――

だめ、駄目だ……!
その名を呼んでは駄目。

だってあの人とこの人は別人じゃないか。
――そんなの頭では痛いほど分かってる。

けれども今あたしが、ただ仮でつけただけのその名を、呼んでしまったら……!!

いいや、もしかしたら、全てが遅すぎたのかもしれない。

「……ナマエ」

――耳元で囁かれた名前に、あたしは堕ちた。

たとえるなら、あと一歩踏み出せば落ちてしまうと分かっている崖の縁に立っていたところを、トンと軽く背中を押されたようなものだ。

あたしの我欲を留めていた、最後の理性が崩壊する。

たとえ、この先に待つのが地獄でしかなかったとしても――


「バクラ…………」


口にしてしまった。
あたしはとうとう、その名を呼んでしまった。

その瞬間、ずっと『仮』でしかなかった名前が、意味を持って立ち上り、生まれ変わる。

「ナマエ」

彼が『あの声』であたしを呼ぶ。

もう遅い。
あたしはこの人に名前を与えてしまった。

あたしがこの人を、『バクラ』にしてしまったのだ。

どんな男と付き合っても決してこじ開けられなかった心の扉を開け、絶対に埋まらなかった心の穴を満たす、『バクラ』。

これはただの代替存在などではない。
代償行為なんて、そんなに簡単な話じゃない。

あの彼とこの彼――
あたしは二人を重ね合わせるには飽き足らず、融合させてしまったのだ。
まるでどこかのカードゲームのように。

どっちがどっちかなんて、もはや分からない。

『バクラ』があたしの人生を支配する存在なら、『バクラと名のつく全てが』、あたしの全てだったのだ!


「バクラ……、バクラ、バクラぁ……っ
――好き、好きだよ、すき……!
バクラ、ん、バクラ、あっ、好き……っ!」

ただのバカな女のように、愛の言葉をポロポロと吐き出し続けるあたし。

しかし勘のいい彼は、きっとずっと前から、その名前が持つ意味に気付いていたのだろう。
あたしがバクラと名付けた彼は、あたしの身体に欲望をぶつけながら、探るような低い声で問いかけてきた。

「そのバクラってのは、誰だ……?」

恍惚の中で、あたしは答える。
この狂乱が治まったら、彼に全てを話そうと心に決めて。

「あなただよ……っ
あたしを抱いてる、バクラ……
大好き……あなたが、大好き……」

あたしの目に映る、紫がかった双眼。
あたしに熱っぽく触れる、褐色の肌。
あたしを力強く突き上げ、揺さぶる灼熱。

あたしは、バクラが大好きだ。


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