8



夢の中であたしは、『バクラ』を見つける。

白く長い髪をなびかせて、胸元に大きなリングを掲げる彼。

彼はあたしに向かって、不敵に、けど少しだけ寂しそうに嗤うと、くるりと踵を返してしまう。
そして、そのまま歩き出してしまうのだ。

――あたしを置いて。

「ぁ……、まって」

彼に置いて行かれてしまうと『分かっている』あたしは、必死で彼に追いすがる――
その、孤独な黒い背中に。

「まって、行かないで、バクラ、ねぇ、」

あたしは走る。焦る気持ちで、彼の背中を追いかける。

けれど、あたしがどれだけ全力で走っても、決して彼には追いつけないのだ。

あたしのことなど構わないと言うように、一度も振り返らずに夜闇の中を進み続けるバクラ。

あたしとバクラの距離が、だんだんと、徐々に広がって……

「やだ、置いてかないでよバクラ、
あたしも……っ、あたしも連れて行って……!」

叫んだ声は永遠に届くことは無く、そのまま闇の中に消えてしまう――


「バクラ……、行かないで……っ」

――――、

叫んだ声は、明確に『音』となったらしい。

わななく唇と耳に残った音の残滓は、あたしが確かに『それ』を口に出してしまった証拠だった。

瞼が重い。頭がガンガンする。きっと熱のせいだ。
けれど、喉の奥がチリチリしているのは、一体どういうわけなんだろう?

胸を掻きむしるような、切ない想い――

不意に。

瞼の稜線をやんわりとなぞられる感覚があって、あたしは慌てて重い瞼を上げた。

「ぁ…………」

今の感触には既視感がある。
どこだっけ……あれは、たしか…………

「生きてるか?
……部屋の温度はどうすりゃいい」

――バクラ。
褐色の肌と紫がかった眼をした、今あたしの傍に居る『バクラ』だ。

「ぁ…………、ぅん……。
暑いはずなのに、寒気が止まらなくて……
布団なんかかぶりたくないのに、布団ないと無理で……
クーラー、とりあえずこのままで……」

「無理にでも水分は補給しときな。
飲み物買ってきてやったからよ。熱中症になるぜ」

「うん……」

「飲んだらまた寝とけよ。
くだらねぇ夢なんか忘れちまえ」

…………何もかもが朦朧としている。

どうやらあたしは、うわ言を漏らしながら眠っていた間に涙をこぼしていたらしい。

それは、飲み物を飲もうと怠い体を起こした時に、視界が不自然に潤んでいることで気が付いた。

そしてハッとした時にはもう、彼は寝室には居なかったのだ。

――あたしは翌日、仕事を休んだ。


職場に病欠の連絡を済ませたあたしは、熱が少しだけ下がっていたこともあり、病院はすぐそこにあるから大丈夫と言って一人で病院に行った。

それから夕方になってまた熱が上がってきて、寝込んだあたしがおずおずと『お願い』をすれば、彼は異を唱えることもなくお願いを聞いてくれた。

飲み物を注いで持ってきて欲しいとか、冷凍食品でいいからうどんを温めて欲しいとか。
額を冷やすシートを貼って欲しいとか、少しだけ傍に居て欲しいとか、頭撫でて欲しいとか……

「これで満足か?」

やれやれというように告げられた一言には、この欲張り女が、というニュアンスが言外に含まれていて……

それでも、居候先のぬしを労るような素振りを見せるバクラが――たとえそれが、自らの保身からくる打算だとしても――あたしはとても、嬉しかったのだった。



数日後。

病院で予期せぬ出費をしてしまったあたしは、体が回復した一方で、いよいよ本格的に金欠に頭を悩ませていた。

一応貯金はもう少しだけある。
……が、今はそれがどんどん減っていってる状態なのだ。

理由は簡単。単純に、収入より支出の方が多いから。
このままだと、貯金が底をつくのも時間の問題だ。

しかも、かと言って節約しようと食事を疎かにしすぎれば、先日のように体を壊すのがオチだし……

もちろん居候であるバクラの食事も、今は多少経済制裁の影響を受けている。

とはいえあたしが自分で決めたルールとして、彼には最低限優先的に食料を回すと決めているので……
彼は食卓に上がった食事の貧しさに不満そうな顔はすれど、あたしの皿の中身がさらに侘しいことを知っているために、大きな不平不満を口にすることはなかったりする。

いつもの雰囲気に反したそんなバクラの忍耐強さがあたしは正直意外だったし、好印象を持つと同時に申し訳なさも抱いていた。

申し訳なさ――罪悪感と言ってもいい。
本来ならば、『居候させてあげてるだけでも感謝してよ』とすら言ってもいい状況なのに、何故あたしは罪悪感を感じているのか。
それは複雑なようでいて、でもきっと単純だ。

ひとつ、そもそも彼を自分の家に連れ込んだのは他でもないあたしなんだから、責任を取らなきゃという気持ち。

そしてもうひとつは――
ただ単に、好きになってしまった人にひもじい思いをさせたくないという一心である。

ほら、また『お馬鹿な女のお約束』の出番だって思ってくれてもいい。
感じなくていい責任を感じて、身元不明記憶喪失なんていう好きになったらダメな人を勝手に好きになって――

それで、なんやかんやで若い男女にありがちな仲になろうとして――
不摂生から夏風邪をひいたあたしは、完全に快復するまでに数日を要し、その間バクラはあたしを気遣ってか触れてくることもなく。

そしてようやく快復したあたしの方も「もう完全に治ったから何してもイイよ」なんてことは何となく恥ずかしくて言えなくて、結局あたしとバクラは一線を超えないまま同じ屋根の下で生活を共にし続けているのだから!



「はぁ…………」

クーラーの手放せない季節。
お金がないのと暑すぎるのとでどこにも出かける気になれなくて、あたしは何となく寝室の片付けをしていた。

凍らせてから折るだけで手軽に食べられる棒アイスを齧っていたバクラが、リビングの方から声を掛けてくる。

「なぁ。金目のモノとか何かねぇのかよ」

ん?? なんだって???

彼の発言に疑問を覚えたあたしは、ベッドに広げた衣服を整理する手を止めて彼の元へ顔を出した。

「なーに?」

「こういうヤツだよ。
現金じゃなくても、売れるモンがあるなら金になんだろ」

バクラが指でクイと指し示したのはTV画面だった。
そこには、家庭の不用品をその手のショップやフリマアプリで売って家計の足しにする特集が映し出されていた。

あー、と答えたあたしは、そういや以前フリマアプリをやったことがあるけど変な取引相手に当たってムカついたのと面倒くさいのでやめちゃったなぁ、ということを思い出す。

それに、もうひとつの手段である貴金属やブランド品買取ショップは、そんな売れるような大層なモノなんて何も――

「あ〜!」

そこまで考えて、ふとあることを思い出したあたしは、ダダダと寝室へ駆け戻った。

あたしのろくでもない男性遍歴。
けれど、そのどれもが徹頭徹尾クソだったわけではない。

今更、単なる強がりにしか見えないだろうけど。
でもそれなりに、『良い時』だってあったわけで――


「あった〜!」

クローゼットの奥をガサゴソと引っ掻き回したあたしは、お目当てのブツを引っ張り出して思わず笑顔を浮かべた。

「いつかどうにかしよう、と思ってそのままになっちゃってた」

呟いたあたしの様子を察知したのか、バクラが音もなく寝室にやってくる。

あたしは手にした『眠っていたお宝たち』を彼に見せつけるようにズイと前に突き出すと、一連の行動について説明を述べた。

「元カレに貰ったプレゼント。
気まずかったり趣味が合わなかったりムカついたりで奥にしまいこんでたけど、売ったらちょっとはお金になるかも」

それからあたしは、先程のTV番組を見てもうひとつ閃いたことを彼に伝えることにする。

「あとさ。
服とか食器とかもう読まない本とか色々――
あたしの携帯端末使っていいからさ、ネットやフリマアプリとかで売ってくんない?」

バクラは、あたしの提案を聞いてちょっとだけポカンとしていた。

時間なら無限にあるもんね、と言いそうになってそれを飲み込んだあたしは、やっぱりどうしようもなく彼に惚れているのだった。



「ちょっと見てよ〜、まぁ元々そんなに期待してなかったからいいんだけど、でもけっこう思ったよりは高くない??」

一息で喋ったあたしは、数枚のお札を扇のように広げてヒラヒラさせながら得意げに笑っていた。

そんなあたしを見たバクラが、いつものようにクククと不敵な笑みで応えてくれる。

今や現金となってあたしの手の中にある、元カレのプレゼントたち。
あたしはそこから一枚お札を抜き出すと、テーブルの上に置いた。

「……というわけで、お小遣いあげる。
言っとくけど、変なお店に行ったら秒で無くなるからね、それ。

そっちはどう?
バクラって物事覚えるのめっちゃ早いよね、操作方法すぐ覚えちゃったし。
日本語も普通に読み書き出来るみたいだしね」

あたしが貸した携帯端末を弄っているバクラが、チラリと目線を寄越してお札をポケットにしまいこむ。

「貴重な金をありがとよ。
……ン、問題ないぜ。
もう少しコイツを使える時間が増えりゃ効率が良いんだけどな」

「それは、次の給料日になって、かつバクラがお金を稼げるって分かってからね。
バクラ用の新しい端末買ったって、それを活用出来なきゃキツイだけだし。毎月の支払いとか」

「わーってるよ。
ま……、今はオマエがこいつを使ってない空き時間でチマチマとやってやるよ。
期待して待ってな」

そう豪語しながらあたしの服を広げて販売用の写真を撮っているバクラは、頼もしさと似合わなさが同居しているような気がした。

思わず笑ってしまえば、すかさずムッとした彼に端末のカメラを向けられる。

「ワタシが使用者です、ってアホ面添付しとくか」

「ちょ、やめて」

手でカメラを制しながら笑うあたしにつられたのか、バクラも心底面白そうにクククと笑った。

その顔はやっぱりどこか、あどけない気がして――

あたしはまたフフフと笑うと、こんな日々が永遠に続けばいいのにな……なんて、甘いことをつい考えてしまうのだった――――




未だ夏は真っ盛りだ。

あたしは相変わらず細々と、でもどこか幸せな生活を送っていた。

バクラ。

あたしがそう『名付けた』、記憶喪失の居候。
あたしはバクラが大好きだ。

「そういえば……なんだかんだで、あれ以来なにもしてないよね……」

呟くと同時に、脳裏に浮かんだ光景。

彼と初めて唇を重ねて、流れで変なことになりそうになって、邪魔が入って……
あたしが機嫌を損ねて、気を取り直してまたいい雰囲気になって、今度こそいざ! ってなったらあたしが熱を出しちゃって……

「うひひひ!」

誰もいないのをいいことに、あたしは自宅のキッチンで野菜を切りながら一人怪しい笑みを浮かべていた。

あれから何日経っただろう。
何となく気まずくて、かつ彼があたしの端末を使って『小遣い稼ぎ』に勤しんでることもありタイミングが掴めないのもあって、あたしたちの関係には未だ変化がない。

一度だけ勇気を出して、端末をいじる彼の傍にスススと擦り寄ったことがあるが、バクラはあたしのことなど意に介さずに、
「何だと……!? 値下げしてやったのにやっぱり高いから買わないだと……!?
ケッ、ふざけんじゃねえ……!」
とか何とか吐き捨てて、こめかみをピクピクさせていただけだった。

そりゃあ、ちょっと寂しいけど……
でも、暇そうにしてない彼を見るのは、それはそれで新鮮な部分もあって、あたしは割と好きだったりする。

「ふふふ」

誰もいないキッチンで、あたしは半ばウキウキしながら微笑み続ける。

今バクラは、足りないものを買いに一人出かけている。
その間あたしは、夕飯の支度をしているってわけ。

日の長い真夏、それでも夜闇がすっかり空を覆い尽くした頃。

換気扇を回しながら鼻歌を歌っていたあたしは、玄関から聞こえるガチャガチャという音を聞いて、反射的にドアへと駆け寄った。

バクラが帰ってきた!
疑う余地もなくそう考えたあたしは、秒で玄関の鍵を開けてあげる。

開かれるドア。

「おかえ……」


――――――ッ、


「よぉ。久しぶりだなぁ」

あたしの思考は、そこで断ち切られたのだった。




「ちょ……、なんで……!?
なんでアンタがここに来んの!?」

「連絡してもおめーが無視するからだろ」

「な……!!! だってアンタがしつこいからじゃん!!
もうとっくに別れてんのにさ!
あたしはヨリを戻す気なんか絶対無いから!」

「だーかーらー、浮気したことは謝ったじゃん。
ごめんて。本当にごめん。
あー涼し〜、夜でも外暑すぎてキッツイわw」

「ちょ、なん、ふざけんな!
勝手に入るなよ!!!」

最悪最悪最悪。

またあたしの『くだらない過去』が、容赦なくあたしを殴りつけてくる。
そうして、あたしの心に土足で踏み入って、ドカドカと荒らし回るんだ。

「おっ、部屋少しキレイになってんじゃーん、お片付け出来るようになったんだ?」

「ねーやめて、入んないで、帰ってよ!!」

怒りと不快感で、胸がチリチリと焼ける。
そこにひっそりと恐怖が張り付いているのは、あたしがコイツに殴られたことがあるからだろうか?

「夕飯作ってたの? 何?
お前ホント料理下手だよなw」

「っ、アンタには関係ない!!
ていうか本当に帰ってよー、勝手に人んち上がんなよ!」

あたしの抗議も虚しく、『そいつ』はズカズカと居間の方へ踏み込んでいく。

まるで、かつて何度も訪れたことがあるのだから、ここは自分の家だと言わんばかりに。

「ふーん」

名前さえもう思い出したくない奴が、ソファーにどかりと腰を落とす。

「っ、勝手に座んな、バカ、帰れよ!!」

ぎゃんぎゃん騒ぐあたしの罵声なんて、きっとこいつには効果がない。
コイツは前からとことん自己中で、ふてぶてしいんだから。

そしてあたしは、そんなヤツの欠点を、はじめは『カッコイイ』とか思ってた大馬鹿者なのだ!!


「……おまえさ、なんか可愛くなったな」

ソファーに座っていたヤツが、立ったままのあたしを舐め回すように凝視する。

その視線が、胸に行ったあと季節柄ゆえ晒しまくっていたショートパンツから伸びる素足を泳いでるのに気付いて、あたしは嫌悪感を覚えた。

男がソファーから立ち上がる。

「悪かったって。
もう絶対にしないから。だからやり直そうって」

穏やかな声で、諭すように言葉を紡ぐ。
微笑む顔は、まるでそうすればあたしが絆されると確信しているような――

「っ、バカにしてんじゃねーよ!!!」

遠慮なく伸ばされた手を、あたしは勢いよく振り払う。

とっくに腕の中から抜け出て行った女を、未だに自分の所有物だと勘違いしている男の傲慢。

「ふざけんな!!!
ここから出てけ!!!
てめーの居場所なんかもう何処にもねーんだよ!!!」

怒鳴った瞬間。

振りかぶった男の拳が飛んで来て、あたしの頬に炸裂した。

ゴッッ、という鈍い音が脳内で反響する。

声も出なかった。

衝撃で放られた体が、勢いよく壁に叩きつけられる。
ドン、と部屋全体に振動が響き渡り、次いで、ずるずると四肢が床に沈んでいく。


「ぁ、…………っ、」


脳がぐらぐらと揺れ、痛みが沸き起こる。
同時に噴き上がった恐怖が、あらゆる思考を押し潰した。

殴られた頬を思わず、震える手で押さえる。
剥き出しの暴力に晒されたあたしは、ただその場にうずくまることしか出来なかった。

「やっぱ変わんねーわ、おまえ」

呆れたような一言が降ってきた直後、今度は頭に重圧が掛かる。
頬を押さえてへたり込むあたしの頭を、奴は容赦なく足蹴にしたのだ。

幸いこれは、さほど強い力ではない。
が、無視できるほど弱くもない。

「ぐ、ぅ……、」

「可愛くなったのは見た目だけか。バカ女」

男の足が、まるで煙草の吸殻でも揉み消すように、あたしの頭をぐりぐりと踏みにじる。

胴へ蹴りを叩き込まれないだけマシだと思ってしまう自分が、どうしようもなく卑屈で、惨めで、情けなくて嫌だった。

「ゃ、めて……」

息が乱れ、涙が滲んでくる。

――こんな男と、付き合ってたことがあったなんて。

あたしという生き物は、なんてバカなんだろう。
あたしという人間は、どうしようもなく救いがないほど愚かだ。


「なー、あの時は本当悪かったって。
許してくれよー」

しゃがんであたしの顔を覗きこんだ元彼が、事もなげにそんなことを言い始めた。

サンドバッグでも試すような軽さであたしを殴った手が、今度は足蹴にされて乱れたあたしの髪を優しく撫でている。

まるで、殴ってごめんね、髪の毛ぐしゃぐしゃにしてごめんねとでも言うように。
ごめんねという態度を取れば、自分のした事が全て許されてると思っているのだ。
コイツは前から何も変わっていない。

「本当許して。ごめんね。ごめん。
許してくれたらもう絶対、ナマエを泣かせるようなことしねーから。神に誓う」

この上なく軽薄な、『絶対』。
神なんて信じていない癖に勝手に誓って、またどうせすぐ誓いを破る。

ここであたしがもし、いいや許さないと言ったらどうなるのだろうか?

――ううん、許しても許さなくても同じことだ。

ヤツはヘラヘラとあたしのむき出しの脚を撫でさすってきた。
身勝手な欲望を孕んだ手つき。
この後に起こることなんて、きっと一つしかない。

「悪かったよ、許してくれたら本当もうめちゃくちゃ優しくするから。だからさぁ、」

男が、ニヤニヤしながらあたしの胸元をまさぐり始めた。

もう、死にたい。

――そう思った、時だった。


揺らいだ影が、部屋にしゃがみこむあたしと元彼の上に覆いかぶさった。

直後、衝撃。

ガッッという鈍い打撃音は、次いでガシャガシャン!! という散らかった音に変わった。

人間大の質量が下から突き上げるように吹っ飛ばされて、テーブルにあった食器類を薙ぎ払う。

反射で四肢を震わせた肉体は、僅かに呻き声を上げてから床の上にずり落ちた。

「っ、ぁ……」

あたしはその人影を見上げたが、けれど現れた『彼』はあたしを見ていなかった。

紫がかったその眼には、今まで見たことのない凶暴な色が宿っていた。




「ああぁぁ、やめて、すいませんすいませんすいません、ああぁぁぁぁ!!!!!」

共用廊下に響き渡る元彼の絶叫。

つい先程あたしを暴力で黙らせて得意気になっていた男は、今さらに強い暴力に抑えつけられて瀕死になっていた。

「すいません、すいません……!!
つい調子に乗っちゃって……もう二度とここには来ません、女にも近づきません、だから……!」

「黙れ」

玄関ドアのすぐ外にある、共用廊下の手すり。

そこに首根っこを掴まれた状態で押し付けられた男は、足が浮きそうになり、乗り出した上半身が今にも手すりの外側に落ちそうになっていた。

ここは2階だ。そして下はコンクリート。
万全の状態で足から飛び降りたって無事で済むかわからないのに、無理矢理叩き落とされたら……
一体人間がどうなるかなど、火を見るより明らかだった。

「ごめんなさい……ごべんなざいぃぃぃ」

あたしの前でいつも余裕ぶっていて、機嫌が悪ければ半笑いであたしを殴って来るような粗暴な元彼は、もうどこにも居なかった。

ここに居るのは、圧倒的強者である一人の男と、その強者に生殺与奪を握られているもう一人の男だけだ。

前者は、買い物を終えて家に帰って来たところ見知らぬ男にボコられている女を見つけて反射的に男を殴り倒し――
そのまま勢いで男の首根っこを掴んで外へと引きずって、廊下の手すりから力ずくで男を階下へと落とそうとしている、白髪褐色肌の異国人で。

もう一人の男は、元彼女の前でイキってみたものの女の新しい男に見咎められ、抵抗する間もなく殴り倒されたあと無様に命乞いをする羽目になった雑魚だ。

「……死ぬか?」

異国人――バクラが、一言だけそう口にする。

さすがにまずいと思ったあたしは、足をバタバタとさせ騒ぐ男に「黙れよ」と吐き捨ててから、バクラのすぐ傍で囁いた。

「ねぇ、ここで殺したらさすがにマズいって……!
コイツあたしの元彼で連絡先も知ってるし、警察が調べたらすぐに足がついちゃう……!」

賢いバクラのことだ、あたしの言葉を瞬時に『理解』したのだろう。
彼は少しだけ手の力を緩め、元彼が少しだけホッとしたように息を吐いた。

けれどやっぱりまだムカつきが収まっていなかったあたしは、すかさず二の句を紡ぐ。

「……殺すなら、どっか人目のつかないとこじゃないと。
仲間みんなを呼んで協力してもらおうよ。
死体の処理って、何かと面倒らしいし」

声を潜めて囁いた瞬間、元彼が絶望したような表情を浮かべ、ぐす、と鼻をすすり始めた。

(こいつ、泣いてやんのw)

あたしは腹の底から思いっきり嗤ってやった。
もちろんこの構図が、滑稽でしかないことなんて分かっている。

前の男よりさらに強い男の庇護下に入った女が、虎の威を借りて嘲笑う構図――
けれど、あたしはコイツにいろいろと苦しめられたんだ、このくらいは大目に見てよ、クソッタレ!

あたしの『二の句』を、ブラフだと当然バクラは分かっているのだろう。
だが彼はわざと考え込むような素振りを見せ、男を押さえつけた手から力を抜くことはしなかった。

『仲間を呼んでから始末した方が安全だが、でも今殺意が我慢出来ない』とでも言うように。

哀れな男は、必然的に何をかもを捨ててでも、生き残りの道を探すしかなくなる。

「許してください……ぐすっ
ナマエさんに手を上げて、申し訳、ありませんでした……っ
慰謝料払います……っ、今、手持ち、数万しかないんですけど……、
ぐすっ、後で、ちゃんと持って来るんで……、
今はこれで、どうか許してくれませんか……、ひっく、」

――うわぁ。

あたしは、恥も外聞も捨てて必死に命乞いをする元彼を嘲笑う一方で、自分がこんな男と一時でも付き合っていたのだという事実に再び心を打ちのめされていた。

コイツが無様なサマを晒せば晒すほど、あたしの心は重く沈んでいく。

もう、嫌だ……!!


しばし押し黙っていたバクラが、意を決したというようにフゥと息を吐く。

彼は腕に力を込めると、無言で男を手すりの内側へ引き戻してやった。

地に足が着いた瞬間、男がずるずるとその場へへたり込む。

ぐす、と鼻をすすりながら息を切らした無様な元彼の姿を見て、あたしは少しだけ溜飲が下がった気がした。

「有り金で許してやるよ。
それを置いてとっとと失せな」

簡潔に、けれど威圧的に吐き捨てる。

それは、今この事態を一番丸く収める落とし所だった。
男が破れかぶれに口にしただけの、所持金のみならず高額の慰謝料まで奪うような真似をすれば、身元が知られている以上あたしが窮地に追い込まれる危険性もある――
バクラはきっとそう考えたのだろう。

『手持ちを寄越せばそれで終わりにしてやるから、二度と面は見せるな』

……つまりはそういうことだ。

バクラに殴られた顔を腫らした男が、項垂れながら数枚の高額紙幣と、幾らかチャージされているのであろうICカードを差し出した。

それを受け取ったバクラは、男の肩にポンと手を置いて密やかに告げる。

「二度目はないぜ」

――威圧は、それで十分だった。


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