心臓が、甘く疼いている。
頬は未だほんのり赤らんでいて、手の平まで熱い気がする。
そして、あろうことか。
潤んだ残滓のある下半身には、恥ずかしくも下着が張り付いていて――
あたしは、鏡に映った自分の顔を見つめながら、はぁ、とため息をついたのだった。
昨日、警察が突然訪ねて来た時は、何事かと息を呑んだ。
身元も不明、自称記憶喪失であるバクラ――その名前すらあたしがつけた仮名だけど――の存在が、警察に知られたのかと肝を冷やした。
けれど、現実はもっと無情で、突拍子もなくて、残酷だった。
「はぁ…………」
例の『結婚詐欺男』に関しては、もはや何も思いだしたくない。
そいつのせいで、あたしは昨夜、ベッドの中で柄にもなくしくしくと涙する羽目になったのだから。
問題は、声を殺して泣いていた無様なあたしを、慰めてくれた存在があったことだ。
――バクラ。
あたしの家に居候を続ける、身元不明の男。
彼は、昨日の昼間からずっと――いや、もっとだいぶ前から――あたしのことをギラギラとした目で見てた。
その目はよく知っている。
性的欲求不満を覚える、雄の渇望。
もし、例の『警察によるお宅ドッキリ訪問! あの人は実は詐欺師だった!?』
事件がなければ、あたしはフツーにスムーズにバクラを受け入れたし、バクラだってそれで欲を満たせて二人はHAPPY END……だったはずなのだ。
けれども、警察による要らぬ情報提供は、あたしを大層不機嫌にした。
例えるなら、ようやくカサブタで覆われたばかりの傷口から、そのカサブタを勢いよく剥がされた気分だ。
あたしの心の傷口からは、どくどくと血が流れ出した。
それは、あたしにとっても不本意なものだったが――
でも、あたしはその流れ出る血を、自分では止められなかったのだ。
あたしはせっかく懐いてきてくれているバクラに応えず、そして。
性欲を持て余したバクラは、背中の毛を逆立てた獣のようなあたしの不機嫌の、犠牲となった。
しかしバクラには、そんな自暴自棄になったあたしを、強引に組み敷く選択肢だってあったのだ。
というか、あたしはそれを覚悟していた。
少なくとも、あたしが今まで付き合ってきたろくでもない男たちなら、あの状況であたしの服を脱がせてたはずだ。
けれどバクラは、かなり葛藤をしたらしい気配はあったものの――
ついぞ、それをしなかった。
バクラがあたしにくれたのは、身勝手な男のいかがわしい欲望なんかではなく、優しく頭を撫でる手と――
さすがに暑苦しくて一晩中はキツかった、抱きつきという名の抱擁だ。
朝、目を覚ましたあたしの肌はうっすらと汗で湿っていた。
そして、隣で寝ていたバクラの肌も。
(バクラは既に目を覚ましていたらしく、あたしの起床を見届けると無言でTVの部屋に行ってしまったが)
質量と温度を持った、生きた人間特有の『ヒト』の匂い。
バクラの、匂い。
あたしはそれが不快どころか、好ましく思えて仕方なかった。
彼の体温に包まれて眠るのは心地が良かった――たとえそれが、最悪な寝入りばなだったとしても。
ここまでグダグダと回想したが、端的に言えば、あたしは『元彼』にまつわる出来事を頭の隅に追いやりすっかり機嫌を直していた。
……そして、身体を火照らせ熱を持て余していた。
ぶっちゃけて言えば、欲求不満なのはバクラだけでは無かったということなのだ!
けれど、も…………
昨夜、バクラの『お誘い』をガンスルーしてしまったあたしは、いまさら手の平を返して彼に媚びるのは何となく抵抗があった。
気まずいと言い換えてもいい。
『昨日は機嫌が悪かったからその気じゃなかったけど、あんたが励ましてくれたから元気出た、だからやっぱりしよ』
…………
無理無理!
あたしはそんなふうに素直に言える性格じゃないし!
それに、もし今度はあっちが『その気じゃなくて』断られたら、恥ずかしいなんてもんじゃ済まない……!
(はぁ……)
あたしは、寝起きでぐしゃぐしゃになった髪を掻き上げながら大きなため息をついたのだった。
「……おはよう」
「ああ」
「朝ごはん食べる?
あたし仕事だから時間ないし、昨日のカレーの残りだけど」
「ンー」
曖昧な返事をしたバクラが、ソファーからゆっくりと腰を上げ、キッチンへ向かうあたしについてくる。
「……昨日ごめんね」
あたしは、カレーの入った鍋を火にかけながら一言口にした。
さすがにこのくらいは、言っておかないと悪いと思ったから。
ごめんねという単語に込められた複数の意味。
賢いバクラはそれらを瞬時に察したのか、あたしの背後で「別に」とだけ応えた。
あーもう、今が酔っ払い中だったら良かったのに!
そしたらあたしは、くるりと振り向いて、
「昨日は余計な邪魔が入っちゃったもんね〜
でも今夜こそ大丈夫だよ! うひひ、バクラのエッチぃ〜、あ、そりゃああたしか! アハハ!」
なんてコミカルに言ってのける位のことは出来たのに。
しかし、今が朝で、寝起き特有のテンションの低さとだるさ、それに出勤前ゆえ酒を飲めないという事情があるのだからもうどうしようもないのだ。
「じゃーね〜
行ってきまーす」
暑さのせいかいまいち食欲もなく……朝からカレーを食べる気にもなれなくて、あたしはアイスだけを適当にかじると、バクラに手を振って家を出ることにする。
が、ふとあることを思い出したあたしは、開けかけた玄関のドアを閉め振り向いた。
あたしを見送るように、玄関までやってきたバクラ。
そんな彼に愛おしさを覚えつつ、バッグをゴソゴソと漁ったあたしはとあるモノを取り出した。
「……これ、合鍵。
出掛けるならこれで鍵閉めて。
言うまでもないけど、無くさないでね」
こちらの思惑を察したバクラが無言で手を差し出し、あたしは彼の掌に合鍵を置いた。
受け取った合鍵をじっと見つめるバクラ。
鍵だけでは持ち歩きに心もとないと思い取り付けておいた小さなマスコットは、実はあたしの持っている鍵のと同じシリーズだったりする。
妹が本格的にやっているとあるカードゲームの、コミカルなモンスター。
名前は、ええと何だっけ……
マシュマロ……、マシュマロン? だか、そんな名前だったはず。
まぁ、あたしもだいぶ夢見がちだと思うけど、その、とりあえず許して欲しい。
「……あんたのこと信じてるからとかそういう意味じゃなくて。
ただ、何となく……鍵開けっぱにされるの嫌だし、だからと言って長時間出掛けられないってのも可哀想だし」
あたしは例のごとく、グダグダと『可愛くないこと』を述べた。
バクラは自分の手の中にある鍵を見つめ、そこに付いているキャラクターが気に入らなかったのか少しだけ眉をひそめている。
合鍵を渡すってことは、ここがあなたの帰る家だよって意味だとか。
黙っていなくならないで、長時間出掛けてもいいから必ず帰って来てだとか。
欲求不満ならあたしに触れなよ、昨日みたいな『邪魔』はもう無し、だとか。
そんなこと、あたしは一つだって口に出すことは出来ない。
あたしはバクラに惹かれている。
かつて愛してしまった人とよく似ていて、同じ名前をつけてしまったこのヒトに、きっと恋をしている。
けれど、この不安定で生ぬるい生活には、いつかきっと終わりが来る。
それは、彼が記憶を取り戻した時……いや。
あるいは、もっと――――
だから。
あたしはバッグをギュッと握りしめると、小さくかぶりを振った。
時間がない。そろそろ家を出なければ。
「じゃあね〜〜」
彼にハグでもしたい衝動に駆られたが、強引に抑えこむ。
あたしはどうやら、だいぶ重症で欲求不満らしい。
バクラがあたしを見送るように少しだけ手を上げた。
外に出る瞬間それを目にしたあたしの口元は、自然と緩んだのだった――
「やばい……お金がない……」
仕事帰り、ATMでお金を下ろしたあたしは、明細票を見つめながら戦慄していた。
バクラが居候をはじめてから優に一ヶ月は経っている。
はじめは初夏だった季節も、いまや夏真っ盛り。
以前……、本当に前の。
高校を卒業して就職して、妹を養ってた時のあたしだったらまた違ったんだろうけど。
けれど紆余曲折あってあたしはいろいろあって(言いたくないのだ察して)、いまや明日をも知れない不安定な身。
そんな中、目減りしていく貯金を見つめながら『よく食べる無一文の居候』を抱えて、今までやってこれただけでも褒めて欲しいと思う。
なら――
そんなに言うなら。
身元も不明、記憶も無いといういかにも怪しいあの居候を、今すぐ追い出してしまえばいいではないか――
わかってる。頭ではわかってる。
けれど、そうしない理由はたった二つに集約できる。
一つは、『あたしはそれをしたくないから』。
もう一つは、『あたしにはそれができないから』だ。
馬鹿だと思うだろう。阿呆だと思うだろう。
散々男関係で苦労してきたオツムの足りない女は、まーたどこぞの
けれど、周りから見たらどんなに汚い沼だって、あたしにとっては極楽の温泉なのだ。
暖かくて。癒されて。いつまでもそこに居たいと思えるような――……
「はぁ……」
あたしは、あの『謎めいた居候』バクラが好きだ。
――バクラ。
かつて好きだった人と同じ名前を『つけた』彼。
あたしは過去に、『バクラ』を失った。永遠に。
本当は失いたくなかったけど、諸々あって、去っていく孤独な背中を見送ることしか出来なかった。
そして、幾年を経た、今。
あの時の『バクラ』とよく似た人に、あたしは恋をしている。
かつての彼の面影を重ね、昔を思い出しながら一喜一憂している。
けれど、きっとそれだけじゃない。
なんとなく……、上手く言えないけど。
あたしは今の『居候』バクラも好きだ。
かつてのバクラとは別個の存在として。
何処でついたかわからない、頬に刻まれた大きな傷。
無造作に切られた、少し硬質な白銀の髪。
あたしをじっと見つめる、紫がかった双眼。
ふとした時に幼さを覗かせる表情に、引き締まった体躯。
人種の違う褐色の肌は、熱っぽくあたしに迫ってきて――
「あーもうやめやめ!!」
彼のことを考えているうちに火照ってきた体が恥ずかしくなって、あたしは大きくかぶりを振った。
――とりあえず。
今、バクラに出て行かれたらあたしは明確に『嫌だ』。
あたしは迷いなく、バクラを失ったら嫌だと思っている。
たとえそのせいで自分がひもじい思いをしようとも、彼が満たされてればそれでいい。
そもそも、暑さのせいであたしはあんまり食欲ないし。
……そんな風に考えたあたしは、じっとりと額に滲んだ汗を拭い、帰路についたのだった。
帰宅したあたしを「おう」とだけ言って出迎える、『居候』バクラ。
彼が今日も変わらずあたしを出迎えてくれることに、あたしは心から安堵と嬉しさを覚えている。
金欠なのもあり、彼には今最低限のお小遣いしか渡していない。
記憶を戻す手掛かりを探して昼間多少出歩いているというバクラは、それ以外はあたしの持っている漫画を読んだり、買ってあげた中古のTVゲームをしたりして過ごしているらしい。
それでも、あたしが帰って来れば適当なところでゲームを切り上げるし、キッチンから「おかず出来たから持ってってー」と声をかければ無言で従ってくれるから、彼なりにあたしを不快にさせないように気を使っている部分はあるらしかった。
「…………、」
もぐもぐと夕食を食べ進める中、バクラがあたしにチラチラと視線を寄越す。
理由は恐らく簡単だ。
彼に比べて、あたしの箸がほとんど進んでないからだ。
大皿に盛られたそうめん。
麺をたっぷり茹でたあたしは、食卓の真ん中にそれを置き、さらに特売で買った豚肉を冷しゃぶサラダにして出してあげた。
「好きなだけ食べていいよ〜
あたしあんま食欲ないかも」
何か言いたそうにしているバクラの先回りをするように、あたしは告げた。
今言ったことは嘘ではない。
昨日の『カツカレー』だって、あたしは多くをバクラにあげて、自分は少ししか頂いてなかったりする。
もっと言えば、職場で取った昼食だって。
なんとなくがっつりしたものを食べる気になれなかったあたしは、小さなサラダパックを一つ食べきるのが精一杯だったのだ。
「なんか甘くて冷たいものしか食べたくないっていうか……
暑くてさ〜……なんかテンション上がんないんだよね」
訝しむように目を細めた彼に視線を向ければ、視界に映るのは今あたしの前でそうめんと豚肉を頬張っているバクラその人で。
見つめてしまえば、昨晩の熱がまた体の奥から染み出てきてしまう気がして、あたしは慌てて視線を逸らしたのだった。
食事を終え、空になった食器類をキッチンへと下げたあたしは、これなら食べられるとスイカをいくつか切って食後に出すことにした。
さて、ではスイカを食べようと、自分の定位置で腰を下ろそうとしたあたしは――
何と、なく。
なんとなく、言葉にできない寂しさに襲われて。
「…………、」
誰に了解を得ることもなく、無言でストンとバクラの真隣に腰を下ろしたのだった。
「……」
彼がどんな顔をして、いきなり隣に座ってきたあたしを見ているのかはわからない。
けれどあたしは、今バクラに触れたくてたまらなかった――
ううん、触れてどうこうよりも、ただ傍に居たかった。
昨日の続き、なんて言うつもりはない。(恥ずかしいし)
けれど、人が……いや彼が、恋しくてたまらないのだ。
シャクシャクとスイカにかぶりついている彼は、邪魔だ離れろとウザがるだろうか。
それとも、ようやく目的が果たせると、あたしを押し倒してくるだろうか。
――頬が熱い。
指先まで火照っている気がする自分に戸惑いつつ、あたしはそっと横に居るバクラの服の裾を掴んでみた。
こんな……、まるで初めて彼氏が出来た学生みたいな、中途半端な誘い方……
ばっ、と伸びてきた腕が、力強くあたしを捕らえる。
思わず息を呑んで身を任せれば、どうやら彼はあたしの身体を横から腕で抱き寄せ、その状態で止まったらしいということがわかった。
「……っ、」
スイカを一つ平らげた彼は、片腕であたしを抱き寄せ、もう片方の手でコップを掴んで飲み物を呷っていた。
「…………、」
嚥下に合わせて動く彼の喉を間近でボーッと見ていたあたしは、直後にハッと我に返り、身じろぎをする。
肩ごと抱き寄せられ――安定する場所を探したのか、あたしの脇を潜って胴をなぞり、腰辺りを抱くようにして止まった褐色の手。
密着した部分から服越しに伝わってくる体温は、クーラーが利いているにも関わらずあたしの肌から汗を誘発する。
「はぁ……」
もたれかかるように体を預ければ、彼はこのくらい問題ないと言うように、素直にあたしを胸で受け止めてくれた。
心地良い。熱い。満たされる。好き。
いろんな感情が一緒くたになって襲い掛かり、あたしは呼吸さえままならなくなる。
コップを置いたバクラが、二つ目のスイカに手をつけた。
「……ン」
すい、と口元に差し出されたもの。
その正体を確かめてから彼を見上げれば、紫がかった二つの眼があたしをじっと見下ろしていた。
バクラがスイカを手にし、まるで食べるかとばかりにあたしの口へと近づけている。
重なる視線。
あたしは、口元にあるスイカに一瞬だけ目を遣って位置を確かめると、再び彼を見上げながら、しゃく、と一口かじりついた。
しゃく、しゃくと咀嚼している間もバクラから目を離さずに、視線を交わらせたまま、無言で。
甘い……そして、つめたい。
あたしはスイカを持ったまま静止する彼の手に自分の手を重ね、支えるようにしてもう一度スイカに口をつけた。
しゃく。
齧った瞬間、じゅわ、と果汁が溢れて手を伝い、慌ててスイカを皿へ戻す。
「やば、こぼれた」
スイカの果汁で濡れた自分の手。
再び彼へと視線を戻したあたしは、さすがにわざとらしいとは思えども、彼を見つめたまま自分の手をペロリと舐めるのだった。
けど直後に恥ずかしくなって、視線を逸らす。
同時にバクラがククと薄く笑った。
「照れる」
一言だけ発したあたしは、けれど発言とは裏腹に、気づけば彼の手を取っていた。
あたしと同じく、スイカから滴り落ちた果汁で濡れている男の手。
それをほとんど本能的に、ぬるりと舐め上げたあたしは……
彼を見つめながら、いたずらっぽく笑ってみた。
一瞬だけ、静止したような間。
それから――
体温が迫って来て、半ば強引に唇を塞がれた。
「ん、……ふ、」
ああ、やっぱり好きだ。
バクラが好きだ。バクラとキスをするのが好きだ。
ほんのりと甘い彼の唇。
舌を差し込まれ、ごく自然に応えれば呼吸が溶け合う。
別に、襲われたかったわけじゃない。
いや、そうなっても別によかったのだけど。
あたしは彼の温もりが欲しくてたまらなかったのだ。
バクラのことが好きだという前提がまずあって、その上で、ただ何となく……
寂しくて。心細くて。体が、重くて……
バクラに寄り添いたかったのだ、あたしは――
すぐ傍にあったソファーに体を投げ出され、覆い被さってくる熱がとても心地良い。
胸をまさぐられ、身体の芯に恍惚という名の電流が走り、おもわずあははと歓喜の笑みを漏らしてしまったあたし――
「好き……」
一応のケジメとして、身体を重ねる前には言っておこうと、簡素な告白を舌に乗せた。
はぁ、はぁとすでに息が上がっている自分に、興奮しすぎでしょwと脳内で冷静に突っ込みを入れつつ、熱くてたまらない自分の体が何だか変な感じだった。
頭がクラクラする……ねぇ待って、あたし、どれだけ発情してるの?
初っ端から興奮しきりの女に引いてやしないかとバクラの顔を見上げれば、案の定――
彼は少しだけ訝しむような、変な顔をしてあたしを見下ろしていた。
褐色の手が無言であたしの服をたくし上げ、胸を直接空気に晒す。
欲望丸出しで膨らみを揉みしだかれ、また呼吸を荒げてヘラヘラと笑ってしまうあたし。
待って、まって、もっと色気のある反応をしたいのに……!!
首筋に落とされる唇。
白銀の髪がさわさわと肌に触れ、あたしは彼がとても愛おしくなって頭を抱え込むように撫でさすった。
「ナマエ……」
くぐもった声が耳元で発せられ、ぞわぞわと甘い期待感が全身を駆け巡る。
ああもう、さっきから自分の呼吸音がうるさいなぁ……
それに、すごく、すっごく暑い……!!!
「ん、待って、クーラー強くしたい……!」
バクラの頭が動いたタイミングを見計らって、あたしは体を起こそうと腕に力を込めた。
だが。
(あれ……?)
体が思うように持ち上がらなかった。
何か知らないけどすっごく怠い……
バクラがやれやれというように体ごとあたしから距離を取る。
あ、待って、行かないで……、
触れてないと、寂しくてたまらないから……!
涙が込み上がる。
もう何だかわけがわからない。
あたし、変だ――絶対ヘンだ!
「バクラぁ……」
情けない声を絞り出し、彼に行かないでと縋る。
何だかとても泣きたい。体も感情もぐちゃくちゃだ。
どうしちゃったんだろう、あたし……
震える手を伸ばす。
彼はすぐにその手を取ってくれた。ほっと安堵する。
しかし、直後にバクラから発せられたのは、予想外すぎる言葉だった。
「オマエ、熱あんだろ」
「あ〜〜、やだ〜〜、職場に連絡するのめんどい……
明日の朝になったら熱下がってたりしないかな? ハァ……ハァ」
「ごめんね、バクラ、ごめんね……?
あたし、咳とかくしゃみも出てないし、別に我慢できるから、イイよ……?
べつに、ハァ、ヤるくらい平気だから、あはは、ヤるとか言っちゃった、ハァ」
「夏風邪? かなぁ? はぁ、待って、めちゃくちゃ頭痛くなってきた……!」
「ごめんバクラ、もう無理かも……っ
今は、『するの』、むり……
ごめん……、本当にごめん……、はぁ、はぁっ」
「やだ……、ヤレないからってどっか行っちゃやだ……
行かないで……、どこにも行かないでよ……っ」
「っ、……、まって、あたし、何言った……?
っ、はぁ、はぁっ、あー頭痛い〜」
「ね……、うつったら困るから、離れてたほうがいいよ……
でも、傍にいてほしい……っ、あはぁ、あたし、頭おかしくなったかも、あは、はぁっ、ははは……」
「――もう黙って寝てろ」
ぐだぐだとまくし立てるあたしを黙らせた彼の声は、どこか呆れているようだった。
必要なものがあったら言え、とあたしに告げたバクラ。
彼は多少なりともこの状況に危機感を覚えているに違いない。
理由は簡単、今、予期せぬ発熱で寝込んでしまったあたしがこのまま変なことになったら、バクラは寝床を失うからだ。
お金ならあたしの財布からいくらか抜き取ればいい。
――が、それだけだ。
彼はあたしの口座からATMでお金を引き出す事はできないだろうし、携帯端末を勝手に弄ったところでネットバンキング系のアカウントにアクセスするにはあたししか知らないパスワードが要る。
身分証明が一切なく、僅かな現金しか手元に無い今のバクラが外に放り出されたら、早晩彼は路頭に迷う。
それこそ、失った記憶とやらを思い出さない限り。
警察の目から隠れるようにして、ホームレスみたいに成り果てる彼……
そんな光景を想像したら、あたしはただでさえ痛い頭がもっと痛くなるような気がした。
「ねぇバクラ……
あたしがもし、死んじゃったら……そしたら」
「寝言ほざいてんじゃねえ……!
朝になっても熱が下がってなかったら、病院とやらに連れて行ってやる。
勝手に死なれちゃ困るんだよ……
お前には、オレ様の記憶が戻るまでつきあってもらうんだからな」
「……ッ、」
バクラがベッドに伏すあたしを見下ろしながら言い放った一言は、至極自分勝手でいて、けれどあたしにとっては嬉しい言葉だった。
「バクラ……」
「余計なこと考えんな。今は寝てろ」
膝を折った彼が、あたしを宥めるように頭を撫でた。
その手は、少しだけひんやりしていて、とても心地よくて――
「好き…………、好きでたまんない……
あたし、バクラのことだいぶ好きになっちゃった……」
はぁはぁと高熱に喘ぎながら紡いだ言葉さえ、ごく自然に告白となってしまう有様なのだった――
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