夏と悲哀と思い出と4



バクラの家。

呼び鈴を鳴らしたが反応がない。

そっとドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。


「……」

意を決して、そっとドアを開き中を覗きこむ。

玄関に人影はなかった。

しかし外とは違う、涼しい風がスゥと流れてきて、室内は冷房が効いている――つまり人がいる――のだという事が感じられた。

「ば……くら……」

弱々しく呼びかけてみるが反応がない。

ざわつく心のまま、小さく「おじゃまします……」と呟いて中へ入る。
玄関には獏良君の靴が置いてあった。

恐らくバクラは、中にいるのだろう。


家主の了承をえないまま家にあがることに抵抗があったが、メールに書かれていた事に忠実に従う為、私は靴を脱いで上がり込んだ。

玄関にまで流れてくるエアコンの涼しい風が心地良い。


――家の中はシンと静まりかえっていた。

開け放たれたリビングをちらりと覗いたが、エアコンの涼しい風が流れてくるだけで人影はない。

だとすると、寝室か。

寝室に、バクラと二人きり……いつもなら、何をされるかは決まっていた。

だが今日は――恐らくバクラは怒っているだろう。

強引だが私にとっては甘美に思えるいつもの展開など、望むべくはないだろう。

というか、下手すると開幕いきなり闇に葬られるかもしれない――

しかし、そうなるにしても、せめて一言は何か言ってからじゃないと自分の気がすまない。

勇気を出さないと……



そっと寝室のドアを開ける。

窓から外を眺め、立ち尽くすバクラの後ろ姿が見えた。

禍禍しい気配に不釣り合いなボーダー模様のシャツが目に入り、思わず目頭に熱いものがこみあがって来る。

そうっと部屋の中に身体を滑りこませ、目をこすり、深呼吸を一つ。意を決して口を開く。


「バクラ…………
今日は、ごめんなさい……」


沈黙。

バクラは黙ったまま、こちらを向こうともしない。


私も黙ったまま、バクラの背中を眺めながらその場に立ち尽くす。

続けて何と言おうか頭を巡らせる。
でも一人の時と違って、考えが全然まとまらない。

何か、言わなければ。

心臓の鼓動がやけにうるさい。寝室も冷房が効いているが、額から吹き出す嫌な汗が止まらず、頬を伝っていった。

重苦しい空気の中、抑えてもこみあがって来てしまう涙と額の汗を拭ってもう一度、バクラに聞こえるように「ごめんなさい」と呟いた。


シャラン……

千年リングの微かな音が鼓膜を震わせると同時に――バクラがゆっくりと振り返る。

「バクラ……」

窓から差し込む夕日が逆光となって、バクラの表情がよく見えないため目を細めた。

「黙れ」

冷ややかな声。


キン――

バクラの胸元でリングが妖しく光ったと思ったら、私の四肢はすべて固められて動けなくなっていた。

「ッッ……!! ば、くら」

「黙れ……!」

「っっ話を、し……」

「うるせえ!!!」


キン――

「っああっ!!」

もう一度リングが光ったと思ったら、機械的な力で背後のドアに身体を叩きつけられていた。

バクラの生身の手によって抑えつけられている時とは全く違う――
全く抵抗する余地が生まれない、千年リングによる得体の知れない力。

今まで散々バクラに弄ばれてはきたが、リングの力をこんなにも一方的な形で使われたのは初めてだった。

何をされても我慢する、とは決めてはいたが、得体の知れない恐怖が私の心を瞬時に塗り潰していく。

ドアに磔になった私のもとへ、リングを光らせたバクラがゆっくりと近付いてくる。


「桃香……
てめえを……どうやってお仕置きしてやろうか考えてたんだよ……」

「……」

「人形にしてやろうかとも思ったが……
それじゃてめえの怯える姿が見られねーからつまんねェ……
やっぱり痛みを感じる生身を痛めつけてやらねえとな……」

囁くようなバクラの声は、状況に不釣り合いなほど優しく、不覚にも心が溶けだしてしまいそうになる。

しかし、次の瞬間、視界に割り込んだ鈍い光を放つモノ――
バクラの手に握られたナイフを見て、私は絶句した。

「ヒャハハハハ!!

いいねその表情……ゾクゾクするぜ!!
恐怖に怯えながら命乞いでもしてみやがれ……!」

ナイフの切っ先が頬に押し当てられる。

もとより身体は動かないが、突き付けられたナイフの存在感に、私は更に硬直してしまう。

バクラとちゃんと話そうなどと思った決意も内容も呆気なく霧散する。

唇はわななくだけで役に立ちそうもなかった。

この力の前では、私は圧倒的に無力だった。


視界の端で、ナイフがゆっくりとスライドしていく――と同時に、灼け付く感触が頬から全身を貫いていく。

「っっっは……!!!」

肉を切られた痛みに、声にならない声が喉の奥から空気と一緒に吐き出される。

「ぃ……たい……!!」

弱々しい声を絞り出してみると、生暖かい感触が頬から漏れ出したのが感じられた。

自分では見えないが、血が零れるほど深く切られたのだということに気付き、戦慄する。

次いで、バクラの身体が揺らいだと思ったら――血が顎から零れ落ちる前に、生暖かい舌が頬をぬるりと舐めあげた。

「ッ……!」

痛みとは違う感覚がゾワリと背筋を走り抜けていく。

視線が絡む。

私の血を舐めたバクラ――その燃える瞳の奥にある感情を読みとろうとしたが、うまくいかなかった。


「……てめえは」

苦しそうに吐き出される声。

「すぐそうやって」

至近距離で、バクラの瞳が揺れ動く。

身体は動かず、恐怖が相変わらず心を支配していたが、この瞳から目を逸らす事は出来なかった。


「許さねぇ」

「――!?」

強く服を引っ張られる感覚。

次の瞬間、布を引き裂くような音がしたと思ったら、私の服はバクラのナイフによって切り裂かれていた。


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