「ママって、子供の頃どんなだったの?」
 たどたどしい口調で息子の健治が尋ねる。子供の質問はいつも唐突で驚かされるばかりだ。「俺もききたいなー」と、口調のわりにテレビの方を向いてたりして、ききたそうな態度をしていない夫も言う。私は笑って、うーん、とか、えーと、などと言ってごまかしながら少し話す。恥ずかしいのではなくて、ただうまく思い出せないのだ。昔は何か楽しかった気もするし、何もなかったような気もする。もの忘れの類かと思いハラハラするが、それとも、長い間振り返らないでいると、過去のことは忘れてしまうのだろうか。まるで風が、歩んできた足跡を消していくように。


 最近ぼうっとしてしまう。
 今日も買い物の帰り、少し休もうと思ってベンチに腰かけると、つい寝てしまい、起きた時には買った冷凍食品が解けていた。
 いやだな、疲れてるのかな。落胆して家に帰る途中、近所の奥様方の井戸端会議が耳に入った。
「最近幽霊がここら辺に出るって子供がうるさいのよ」
「走ってる女の子でしょ?」
「どこかの家の娘(こ)を見間違えたんじゃないの?」
 私はよく聞こうとそこへ近付いていった。しばらく立っていても誰も私に気付かない。やっと一人が気付いて、皆が私を見て驚いた。「あらごめんなさい、気付かなかったワ」
 別に無視されているわけではなく、本当に近頃私は影が薄いのだ。この前も夜中台所に立って何か飲んでいたら、起きてトイレに向かう夫にひどく驚かれた。気配がないらしい。
 また居眠りしてしまい、目覚めると夕方だった。このごろすぐ眠ってしまうのはやはり、知らず知らず疲れているからだろうか。変な夢も見た。今住んでいるこの町を走り回っている夢だ。実際には、歩き回ることはあっても走ったことはない。ただそれだけの夢だったけれど、妙にリアルで困った。今も夢の続きのような残像がある。
 私はふらふらとした頭で、夕食を作るために立ち上がった。その時ふと背後から声をかけられた。「ママ」健治がいつの間にか小学校から帰ってきていた。私が寝ている間に遊びに行っていたらしく、服が少し汚れている。
「ぼく、さっきママを見たんだよ」
 私は何のことかわからず、聞き返した。
「外で遊んでたらね、ママが走ってったの、楽しそうに!」
「でもママ、ずっとここで寝てたわよ」
 きっと近所で噂されている幽霊話に影響されたのだろう。それにしても走っていたのが女の子ではなく私だというのが奇妙だが。
「違う人じゃないの?」
「違わないもん。ぜったいママだって、ミっちゃんもヨシくんも見たんだよ」
 健治はむくれて言った。それから「でもね、大きいママじゃなくて、小さいママだった」と付け加えて、別の部屋へ駆け去ってしまった。走ってる夢、走ってる私……まさかね、と私は釈然としない気分になってしまった。


 夏の暑さでいつもに増してぼーっとしながら、買い物からの帰り道を歩いていた。道の向こうに逃げ水が現れる。早く帰りたいのに、こんな時に限って例の眠気が襲ってくるのは最低だ。私は息を切らして家までの道を急いだ。この気候では、誰も外に出ていない。
 ふと風が吹いた。私の後ろを通り過ぎた、とても涼しい風だった。私は一瞬解放感を味わった。思わず風の過ぎた方向を見遣ると、小さな女の子が走っていた。噂の幽霊!私は大人気(おとなげ)なくわくわくしながら、暑さも忘れて女の子の後を追った。
 幽霊には見えない。はっきりと実体化している。真っ昼間に出るというのもおかしい。このお騒がせ者がどこの子なのか、私は興味を持った。しかし走るのが速い。重い袋を下げた私はすぐに体力が尽きてしまう。
 女の子からどんどん引き離されて見失い、私はやっと立ち止まって息をついた。一体私は何をしているのだろう。馬鹿なことをしてないで、早く帰らなきゃと思った。随分回り道をしてしまった。ついでに健治の通う小学校に寄ってみた。授業中らしく、校舎は静まりかえっている。校庭にも誰もいない。私は健治のいるだろう教室を見上げた。額から滴(た)れた汗が目に入り、私は再び校庭を見た。さっきまでいなかった女の子が、校庭の真ん中に立っていた。ぼんやりとした顔が、にいっと笑った。やっと会えた、と思った瞬間、その子は私の方へ物凄いスピードで走ってきた。ぶつかる!と思い避けようとしたが、夏の暑さでのろまな体はとっさに動かない。しかし、目を開けると女の子はいない。女の子は私の体に当たらなかった。確かに真っ直ぐ走ってきた筈なのに、と後ろを振り返っても、女の子はもう見えなくなっていた。
 その日から何だか物事がはっきり見えるようになった気がする。ぼうっとすることもなくなった。あの女の子は私を通り抜けたのではなく、私に溶け込んだのだと、ひそかに私は思っている。彼女はもともと私の一部だったのだ。この前古いアルバムを開いて、彼女を見つけた。彼女は私とそっくりな顔で笑っていた。写真の中には、彼女の起こした風と同じ空気が流れていた。






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