暗く湿ったトンネルだ。
 産道の比喩ではない。海岸沿いの古い国道にあるトンネル。そこを通る。トンネルの中を歩くのは好きではない。音が響きすぎるのだ。大きなトラックなどが通り過ぎる時などは、強風のような音が頭の中にわんわんと反響する。それでも、あの場所へ行くにはこのトンネルを渡らなければならない。
 やがて懐かしい光が見えてきて、潮風と波音が流れ込んでくる。トンネルを抜けると、下り坂の途中に小さく殺風景な建物がある。そこが私のお気に入りの場所だ。
 看板も何も掲げていないそこは、町の人たちからは水族館と呼ばれていた。水族館と言っても、ただ大きな水槽に海の魚を適当に入れて泳がせてあるだけの所だ。それも、きらびやかな熱帯魚などではない、黒っぽい地味な食用の魚たちだ。魚の説明も何も無い。
 誰がその水族館を管理しているのかは知らない。たいていその建物には人がいなくて、私はいつもその空間を一人占めすることができた。
 大きな水槽に張り付き、かわいくない顔の魚と見つめ合う。下顎の突き出た名前も知らない魚が、ぎょろりとこちらへ目を向けたかと思うと、またすぐに目を逸らして通り過ぎていく。
 数年前には私の他にも水族館に通ってきている人がいた。浦くんのお母さんだ。
 浦くんのお母さんは海女で、よく自分で獲ったサザエなどを行商していた。海女さんの売るサザエは店で売っているものより美味しかったのでよく売れた。
 浦くんのお母さんは行商の合間にこの建物にやって来ては、私の隣で黙って水槽を覗き込んでいた。浦くんのお母さんは決して愛想が悪いわけではない。しかし喋ることができないのか、ただ無口なだけなのか、いつも声を出さずに会釈した。
 そんな彼女を私は、人魚なのだと勝手に思っていた。陸に上がって、唖になってしまった人魚。きっと海女として海に潜っている間だけは、声を出すことができるのだ。
 彼女の容姿が、さらに私の妄想を加速させる餌になっていた。田舎に不釣り合いな洗練された顔立ち。はかなげな目元。すらりとしたしなやかな体。地を這うより、海を生きるのに適していると思えてしまう。
 しかし数年前から、この水族館には私一人きりになってしまった。浦くんのお母さんが海で行方不明になってしまったのだ。海女の仕事をしている最中にいなくなったのは明らかなのに、なぜだか、他所の男と駆け落ちしたのだという噂も流れた。
 一人になった水槽の前で、私は物語を作った。彼女は人魚だったから、海に還っていったのだと。水に溶け、泡と消えたのだと。
 扇風機がぬるい空気を掻き立て、室内に磯臭さが満ちる。蛸が水槽から勝手にぬるりと這い出た。
 開け放しの入り口から日焼けした肌が覗いた。浦くんだった。浦くんは私に目で挨拶し、扇風機の前にある椅子に腰かけて涼をとった。汗のにおいか海のにおいか分からないが、潮の香りがした。
「潜ってきたの?」
 私が聞くと、浦くんは「ん」と短く答えた。「父さんの船で」
 浦くんもお母さんに似ていて無口だ。容姿も目が大きくて女の子みたいだけれど、よく海に潜るせいか体は引き締まっており、肌も露出した部分は日に焼けている。浦くんはお母さんの跡を継ぐように素潜りを続けている。
 浦くんが筋張った手で湿った前髪を掻き上げた。
「水掻き、あるんだね」
「え?」
「手に、水掻き」
 私は浦くんの指を凝視して言った。浦くんも自分の指の股を見て「ああ」とため息をついた。いつも泳いでいるから、発達したのだろうか。
「おれ、水の中で生まれたんだ」
 ぽつりと浦くんが呟いた。「母さんは海の中でおれを産んだんだ」
 私は水の中に産み落とされる赤子を想像した。スローモーションで沈む小さな体。たゆたう体液、上昇する泡。生まれてはじめての呼吸は海。
 はたしてそれが事実なのかは分からなかったが、浦くんは至極まじめな様子で自分の水掻きを見つめていた。
「人魚みたいだね、水掻き」
「人魚? 河童じゃなくて?」
「うん、人魚」
「人魚って水掻きあるのかな」
 そういえば人魚に水掻き……無いかもしれない。でもこの寂しい灰色の海を潜る人魚の手には、水掻きがあるような気がする。
「ねえ、浦くんのお母さんって、人魚だったのかな」
 私が何気無く言った言葉に、浦くんは顔をしかめた。
「変なこと言うなよ」
「ごめん」
 謝ると、浦くんはどうでもいいというふうに首を横に振った。
 少し濁った水槽の中で、魚が暑そうに口をぱくぱくさせている。
「母さんは人魚じゃないけど、まだ海に潜ってる。潜りつづけてるんだと思う」
 浦くんは淡々とした、しかし決断的な口調で呟いた。
「浦くんも潜りつづけて、お母さんのこと探してるの?」
「それだけじゃないけど」
 浦くんは水掻きのある手を半ズボンのポケットに突っ込み、何かをジャラジャラと鳴らした。私が首を傾げると、取り出して私の手のひらにのせてくれた。サザエの蓋だった。
 サザエの蓋は右巻きに渦を巻いていた。表面を撫でると、細かな突起が指先を刺激する。
「このサザエの蓋、もらってもいい?」
 私が言うと、浦くんは怪訝そうにしたが、うなずいた。目の端で水槽から這い出た蛸がでろりと垂れるのが見えた。
 私はサザエの蓋を見つめた。渦の間に幾つもの波が立っている。その真ん中で、水掻きのある海女さんが手を振り、渦の中へと潜っていった。






[*prev] [next#]



back


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -