私はかつて祖母と曾祖母と暮らしていた。母は物心がついた時にはもういなかった。
 家は屋根ばかりが大きな古い家で、天井を見上げると剥き出しの梁が張り巡らされており、その先は黒い闇が口を開けている。時々その闇から蛇が降ってきて泣きたいほどびっくりするが、蛇は家の守り神だから殺してはいけないと言われているので、憎たらしくても恐ろしくて手出しもできない。
 そういうわけでもちろん、屋根が大きくても小洒落た屋根裏などはない。それでも外国の雑誌に出てくるような少女趣味の素敵な部屋に憧れていた私は、元は養蚕部屋だった、土間にしつらえられた中二階の小部屋を、その時できる精一杯の工夫で綺麗に飾り立て、自分の居場所としていた。
 私のテリトリーはその部屋だったが、曾祖母の陣地はもっぱら掘り炬燵の定位置だった。家を切り盛りしているのは祖母だったが、家の主は曾祖母だったのだ。
 曾祖母は日がな一日動かず、掘り炬燵に陣取ってお茶を飲んでいたが、自分が動かずとも他人を動かすことには長けていた。座りながら祖母や私、客人にさえも指示を飛ばすのが常だった。
 私の居場所は長らくあのごちゃごちゃと飾られた小部屋だったが、ある春のこと、私はもう一つ居心地の良い場所を見つけて入り浸るようになった。椿の木の根元だ。
 家の前には無駄なほど広い庭があり、私はその広さを好んでいたが、名前も分からない雑多な植物が生え放題になっているところは気に入らなかった。部屋をお洒落な外国風に改造していた当時の私は、バラやハーブで埋め尽くされた、イギリスの庭が欲しかったのだ。
 その大きな庭に、これまた大きな椿の木があった。死んだ曾祖父が大事にしていたものらしい。いつもは様々な植物に埋もれているけれど、春先になると赤くて丸いぼんぼりのような花をいくつも咲かせ、その存在を主張する。
 椿の花は素敵なものの一つだ。美味しそうな果実のようだし、何カラットもある宝石のようだし、本で見たロゼットとかいうリボンでできた勲章のようだ。
 椿の木の根元にできた空間は、どんくさい私がいつものように曾祖母にどやされ、泣いて庭へ駆け込んだ時に初めて見つけたものだ。下を向いていたら、葉の多く茂った椿の木の根元に、人が寄り掛かってできたような空間が丸く口を開けていた。ここに座り込んでくださいとばかりに、土もえぐれている。こんなものがいつ出来たのか、きっと以前からあったのに、気付かなかっただけなのだろう。
 私はとっさにそこへ飛び込んだ。そこは膝を抱えた私にぴったりの大きさだった。まるで私のためにしつらえられた小部屋のようでとても落ち着き、涙もいつしか引っ込んでしまった。すぐにこの湿った腐葉土の匂いが立ちこめる場所は、私のお気に入りになった。
 それからというもの、私は自分で作り上げた中二階の小部屋より、椿の木の根元にしゃがみこんでいる時間の方が長くなった。そこはもう覚えていない母の胎内のように狭く、まだ見ぬ棺の中のように暗かった。私は小さな灯りのような椿の花に囲まれ、小さな闇を一人占めした。
 実は、椿の木に近付いてはならないと祖母からは言われていた。しかし、してはならないと言われると余計にしたくなるもので、その背徳感も、私が椿の木に通うのを手伝っていた。
 椿の木に近寄るなと言われた理由を、私はすぐに知ることになった。椿のそばには時々、見知らぬ青年がたたずんでいることがあるのだった。ここら辺りの人間ではない、見とれるほど綺麗な目鼻立ちで、いつも黒っぽい着物を着ていた。話しかけても心ここにあらずといった感じで、たまに反応をくれても、喋ることができないのか、声をあげたりはしなかった。
 祖母にそのことを話すと、その人は椿の精なのだと言われた。ずいぶん昔から椿の木のそばに現れるのだという。昔から変わらず、年をとらない着物姿の青年のままで。嘘でしょう、と私は疑ったが、祖母はそういう冗談を言うような人ではなかった。そして祖母は再び、椿の木に近付かないようにと私に念押しした。
 それでも私はこっそりと椿の木に通った。根元に収まりながら椿の精に、嬉しかったことやあるいは愚痴など何でも、一方的に話しかけつづけた。椿の精は相変わらず黙っていたが、時々うなずいたり微笑んだりするので、私の話を聞いてくれていることは分かった。
 椿の青年はいくら見ても見飽きないほど美しかった。椿の花のつややかな美しさそのもので、私はそのことによって、たしかに彼は椿の精なのだと納得することができた。
 ある日私はいつものように椿の根元に座っていた。すぐそばには椿の精もいた。ざくざくと湿った土を踏む音がしたかと思うと、草の陰から曾祖母がぬっと姿を現した。私は逃げる暇もなく、暗がりに小さく体を丸めて隠れるのがやっとだった。
 曾祖母が庭に来るのは珍しい。どうやら掃いた木の葉を焚きに来たようだ。大量の葉をばさりと無造作に土の上に放り投げると、曾祖母は「おや」と声を上げた。たった一言なのに、体を縮み上がらせるようなよく通る大声。目ざとい曾祖母のことだ、きっと私がここに隠れているのを見つけてしまったに違いない、と私は覚悟した。
 しかし曾祖母は私のことなど眼中になかった。
「陰気な顔して立ちおって。化けて出るなら木切っちまうぞ!」
 曾祖母が見つけたのは椿の精だった。以前から椿の精をいまいましく思っていたような激しい口調だった。
 椿の精は怒鳴られてしゅんとうなだれていた。長身の着物姿が、水に濡れた時のように一回りも二回りも縮んで見えた。
 曾祖母は機嫌を損ね、木の葉も焚かずに立ち去ってしまった。私は椿の精を心配して様子をうかがっていたが、椿の精の姿はだんだんと薄くなっていった。最後に残った美しい横顔も、やがてはかなく消えてしまった。血のように赤い椿の花が、誰もいなくなった庭にぼたぼたと音を立てて落ちた。
 それきり椿の精は現れなくなってしまった。そのせいだけではないけれど、私もいつしか椿の木に通わなくなってしまった。曾祖母の葬儀で久しぶりに帰省した際に庭を覗いたが、椿の木の根元にもうそんな空間は無くなっていた。あんな空間があったこと自体、幻だったのではと思えてくる。
 しかし椿の木は椿の精が出ずとも、ますます大きく育ったようで、今年も真っ赤なつややかな花を、鬼火のようにいくつもその身に宿していた。






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