「ゆりかごから足がはみ出してるよ、きみ」
 アパート三階のベランダで、子供用の小さな丸いビニールプールに浸かっている僕を見て彼女は言った。浅いプールに腰だけ入って、足も手もだらりと放り出されている様子は、確かに彼女の目に滑稽に映っていることだろう。
「暑がりな赤ん坊に子守唄でも歌ってくれないかな」
 僕はプールの縁に引っ掛けた足をブラブラさせながら言った。彼女はミネラルウォーターのペットボトルをテーブルの上に置き、僕の本棚に手を伸ばした。
「よくそんなもの、この家にあったもんだね」
 やがて古びた一冊のハードカバーを手に、彼女がベランダに来て、僕のプールを指差し言った。
「涼しい?」
「ないよりマシかなってくらい」
 つまりあまり涼しくないのだ。それでも水に浸っているという事実だけで、精神的には大分涼しい思いをしている。
「子守唄は歌えないから、本でも読んであげるね」
 彼女は携えていたその小さな本のページをめくった。


 ぼくはその一夏を森の中で暮らした。当時美術学校に通っていたぼくがアトリエとして使えるように、叔父が別荘を貸してくれたのだ。
 森へ来て数日たった頃、レジーという名の女の子に出会った。近くのホテルに家族で泊まっている旅行者らしい。



 その一節を読み上げるとき、彼女のリップグロスはつやつやと太陽に照り輝き、そこからてろてろとクラゲが出てきた。それはみずみずしくうごめきながら、あたりを漂い始めた。


 ある日、ぼくとレジーは森の奥深くへ入っていった。森の奥には沼があると聞いていたので、ぼくたちはそこを目指していった。
 たしかに沼はあったが、それは枯れていた。水のないただの穴だった。
 沼の中には、水の代わりに音がうずまいていた。目には見えなかったが、顔を近付けてみると、たくさんの音が混じり合って、ゴオオ……と鳴っているのがわかった。
 そのとき一羽の鳥が水のない沼の表面に降り立った。小さな鳥は音の渦に触れた途端、スッと魂を抜かれたように、沼の底にパタリと落ちた。死んでしまったのかと思い沼を覗き込むと、鳥は沼の底を平然と歩いていた。ただ、羽をばたつかせるだけで、もう上がってくることはなかった。音の渦に巻かれた小鳥は、飛べなくなったのだ。
 ぼくは沼に手を突っ込み、音をすくいとった。目に見えない音のかけらはしばらくぼくの手の中で暴れていたが、やがて蒸発したようにその感触はなくなった。
 ぼくの隣でまじまじと沼を見つめていたレジーが、突然沼に飛び込んだ。ぼくは、あの鳥のようにレジーにも何か異変があったらどうしよう、とあわてて覗き込んだが、レジーは悠々と沼の底を歩いているだけだった。
 ぼくもレジーにつづいて沼に降り立った。沼の底は音が満ちているから相当うるさいだろうと思ったのだが、反対に音がこもった感じで、無音に近いんじゃないかとさえ思える状態だった。

「その後、ぼくとレジーは、沼がかすかなざわめきで隠してくれるのをいいことに、沼の底で交わった。ぼくの初めてのセックスだった。」
 彼女はぱたんと本を閉じた。あたりを漂っていたクラゲはいつしか空に昇り、ぱちんとはじけて消えた。僕の浸かっている子供用ビニールプールは、ベランダに注ぐ強い日差しに、すっかり温水プールになってしまっている。
「その話、僕は知ってるような気がするなあ」
 僕が指摘すると、彼女はしれっとした態度で言った。
「そうよ、きみの本棚にあったんだから」
「それは……僕の昔の日記だ」
「そう」
 彼女は動じず、さらにこんなことを聞いてくる。
「さて、この日記で一番言いたかったことは何でしょう」
「……不思議な沼の思い出」
「違うわよ。自分の書いた日記なのに、わからないの?」
「わかるよ、もちろんさ。もちろん、レジーとの行為のことだろう。ただ、質問がナンセンスだって、思っただけさ」
 彼女は、ふうん、と鼻を鳴らした。
「それでは、沼に落ちた鳥は飛ぶ能力を失いましたが、きみはこの日記の出来事の後、何を失ったでしょう」
 僕が黙っていると、彼女は僕をプールから追い出し、その生温い水のたっぷり入ったプールを持ち上げた。そしてそのビニールプールに入っていたたっぷりの水を、ベランダの外に投げ捨てた。ばしゃあっ、と盛大な音がした。階下を覗き込むと、ちょうど下を通りかかっていた通行人がびっしょりと水に濡れて立ちつくしていた。



※HARCOの「プール」という曲を参考にしたところがあります。







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