「おい、三夜目だぞ」

 御簾を蹴り開けるなり宿儺は言った。
 情緒もへったくれもない物言いであるが、案の定、その変わった姫御前は文句一つ言わない。それどころか宿儺のほうを振り向きもせずに一心不乱に何かを書き連ねている。
 宿儺はそれが気に入らず、土を踏み抜いた裸足のまま褥に上がり込み、女の髪を襟首を引き倒した。
 呆気なく後ろに転がった女の顔は、宿儺を見るなり驚きに染まった。

「あやかし、様……?あれ、いつおいでに」
 珍しく間の抜けた顔だ。
「何を言ってる、貴様」
 
 まるで寝て起きたら夜が訪れていたとでもいいたげな様子だが、女は明らかに起きていた。まさかそれほどまでに物書きに熱中していたとでもいうのか。
 宿儺が几帳の上にある紙を覗き見れば、そこにはびっしりと文字が連なっていた。

「何だ、これは」
「物語でございます」
 女は白魚の指先で恥じらうように口元を隠した。
「紫の方が書かれた物語が宮で大流行しておりまして、読んでみましたらこれがまた面白く……でも気に食わない展開がいくつかございましたので私流に改ざんしておりました」
「おおよそ善人のすることではないな」
「ええ、ええ、されども後の世に残るのは面白きものでございます」

 そう言い置いて、女はやっと俺に向き直った。女が黙るとその場はあっという間に沈黙によって満たされた。

「三夜目でございますね」

 宿儺はそこで初めて、女が震えた吐息を漏らすのを聞いた。ようやく気付く。女が今日に限って物語など綴りはじめたのは、この晩のことから気を逸らすためであったのだと。

「結果、熱中しすぎて俺の来訪にも気付かぬとは間抜けな話だ」
「……恥ずかしゅうございます」

 唇を軽く噛んで赤らむ姿が物珍しく、図星かと察すると共に気分が良くなった。するすると腰を上げた女が俺の目の前に立つ。
 宿儺は女の顎を片手で掴み、上を向かせる。品定めするかのごとく顔、首、喉、身体と視線を這わせるが、どの部位をむしっても美しく血に染まりそうだ。

「震えておるな」

 女の震えを指先にひしひしと感じ、宿儺はようやくいつもの余裕を取り戻すことができた。そうだ。こうでなければいけない。弱く無様な人間は、等しく呪いの王の前に平伏し、心の臓を怯えに囀らせねばならない。

「震えも、いたします」
「そうかそうか。よい、存分に畏れろ。俺が許そう」
「……え?」
 小鳥のように丸まった眼差しが宿儺を捉えたので、宿儺は怪訝そうにまた言った。
「今から存分に嬲られて殺されるのだ。さぞ恐ろしかろう」
「……わたくし、殺されるのですか」
「察したから怯えたのではなかったのか」
「いいえ、そのう……わたくし、その、」

 みるみるうちに女の顔が赤く染まり、目にはじんわり涙の膜さえ張っている。
「勘違い、を」
 女の目からはとうとう涙の粒が溢れた。
 恥ずかしい、恥ずかしいと言うように、いく粒も睫毛を乗り越えた。まるで真珠の粒のごとく清廉な輝きを放つそれから宿儺は目が離せなくなる。

「ふと思ったのです、今朝。ふと。貴方様が、三夜通ってくださったなら……今宵、また、貴方様が来てくださったなら、わたくし……」
「何だ。何を思った」

 はらはら、手に流れ落ちる涙を見て、いつしか宿儺は呆然とする心地でいた。普段であれば早く話せと愚図な口を引き裂いてもおかしくないほどの時間を、宿儺は待った。
 女が赤らんだ顔を俯かせ、答える。

「貴方様から、愛していただけるのかと」

 それはあまりに分不相応な願いであった。しかし、愛を乞う女の身姿というものは、特に目の前の女に関しては、この上なく愉快で宿儺の胸中をえも言われぬほど優越感で満たしたのだ。それはもう、このまま殺さず捨て置いても良いとすら思えるほどに。
「ケヒッ、ケヒヒヒ!!!!」
 泣く女とは対象に声を上げて笑う宿儺。

「人の分際でこの俺の愛を望むか!なるほど、如何にも分を弁えぬ大望よ」
「……どうかお許しを」
「よいよい。今は気分が良い!だが、俺は呪いぞ。呪いとは人の裡に巣食う闇より生まれいづるもの。貴様を愛することなど」
「できぬのですか」

 それは落胆と、失意の念に紛れた呟きだった。

「できぬことはないと申されましたのに……それとも、わたくしが、貴方様に愛されるに値しない女なのでしょうか」

 それは否と答えの知れている問いかけであった。
 宿儺は美しい女を好んだし、女はとびきり美しかった。仮に、もし仮にこの呪いの王が人を愛することがあるのなら、それは他の誰でもない、この女に注がれるべきであった。
 いつの間にか宿儺の顔から笑みは消え失せていた。

「俺は愛など知らぬ」
「わたくしも知りませぬ」

 女の目に、もう涙の粒はない。からりとしたよい笑顔が浮かんでいるのは、宿儺と話すうちに心の備えが出来たために他ならない。

「知らぬから、知りとうございました。できるなら、わたしも貴方様を愛してみたいと……されども、それも叶わぬならば諦めましょう」
「……貴様は、強欲というわりに存外諦めがよい」
 女は戯れのように笑った。
「欲しいものはいくらでもございます。またほかを探すことといたします」
「死ぬのにか」
「では、来世で」

 宿儺の右手が女の頸へ再度添えられた。手折る前にふと、また気紛れが首をもたげる。そういえば女の名を聞いていなかった。

「名は」
「十六夜」
「……十六夜。貴様に似合わぬしとやかな名よ」

 そう言って、宿儺は呆気なく女の頸を手折った。
 予想よりも遥かにたやすく女は事切れたが、宿儺の当初の予定とは大きく異なり、その身体は四肢ももがれず血反吐や吐瀉にまみれることもなく、ただ美しいまま、月夜の晩に晒された。


 宿儺が女を殺し、事もなげに己の寝所に戻ったあとから少しずつ、時をかけて、その毒は鬼神の身体を巡った。

 あれの鈴を鳴らすような声音はもっと耳障りのよいものだったと、我が身にまとわりつく妾宅の女を殺し尽くし、

 あれの琴や、舞のほうが出来が良かったと、二夜目に戯れで見せられたその姿を懐古しては芸者を殺し、

 あれのほうが、あの女はもっと、と幾渡世、幾年月が経ったあとでもあまりに思い出されてならないので、数百年経ったころ、ようやく宿儺は認めたのである。

 俺は十六夜に執着していた。
 あれはいい女であった。
 たとえ愛すことなど出来なくとも、傍に置いておけばよかったものを。勿体無いことをした。
 嗚呼、殺さねばよかったなぁ、と。

 それは呪いの王らしからぬ、潔いまでの、後悔だった。時すでに遅し。まさにこの通りである。





 時流れて、現代。
 受肉した宿儺は、受肉体から取り出した心臓を片手に、愕然とした面持ちで目の前の女を見ていた。硬直する伏黒のななめ後ろで、両手にたい焼きを持ち、口いっぱいにそれを頬張っている女を。

「………あら、そのお声。あやかし様でございますね?お久しゅうございます、十六夜ですよ。貴方が殺した十六夜でございます。え?なぜいるのかって……言いましたでしょう?まさに今、欲しいものを手にしまくっているところでございます。――今世でね」
 
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