かつて世の人どもに呪いの王と恐れられ、その名に相応しく気の赴くまま暴虐の限りを尽くした鬼神がいた。彼は人も、妖も、自然も、運命すらも己の腕一つで捩じ伏せ、淘汰する力を備えていたが、それゆえに気付くことができなかった。唯一、ただ唯一、彼には手に入れることの出来ぬものがあったことに。
 鬼神・両面宿儺がその事実に気付くのに要した時間は、なんと数百余年だったのである。







「貴様の戯れに付き合おう」

 青く冴えた月の光が差し込む御簾の中へ、宿儺は呆れと苛立ちを滲ませた声をかけた。

「そのお声。またいらしたのですね」
「お前の望む通り三夜通うことにした」
「酔狂な御方」

 声の主がくすくす鈴を転がすように笑うので、途端にもどかしくなった宿儺は四つあるうちの腕の一つを使って乱雑に御簾を押し上げた。

 初めてこの屋敷へ来た時、すなわち昨晩も、宿儺はこうして女の閨に上がった。近頃人どもの噂によく名の上がる姫御前だ。攫って蹂躙するのはもちろんとして、そののちに飼うのか嬲るのかは女次第である。彼は若く美しい女が好きだ。甘え媚びてくるのなら悦が乗るうちは愛でてやるし、そっけなくあしらわれるようであれば多少の我儘も戯れと思って許してやる。そのどちらも、王の気分次第では大いに命を奪われる一因となるのが難儀なところだ。
 しかし御簾を上げた宿儺が目にしたのは、人ではなかった。否、人であった。母の胎から産まれ出でて今日まで歳月を経た人で間違いなかった。しかし呪いである宿儺すら、女を人でないと錯覚したのだ。

 絹のような黒髪は月の光で青みを帯び、天にかかる星の川と同等の艶を放つ。白磁のごとく滑らかな白い肌には傷ひとつなく、紅など乗せずとも薄く色づいた唇に、黒真珠を淡雪でとかしたような物憂げな眼差しが、ーーそう由々しきはこの瞳である。
 魂の色をそっくり宿したこの燃える瞳を合わせ、そこには壮絶な美しさがあった。

「うつくしいかた」

 女は無作法に姿を晒されたことを怒りもせず、異形の宿儺を見て怯えもせず、澄んだ瞳でそう言った。ほう、声も良いか、たまらぬな。宿儺は知らぬうちにひとつ唸り、そのあとで女の言葉の奇妙さに首をひねった。

「美しいと言ったか、今」
「はい。わたくし、そう申しました」

 淀みなく歌うような声音だ。
 それでも女の目が宿儺から外されることはない。

「御簾を掻き上げ、青き宵を背負って現れた貴方様は、まるで物語から飛び出してきたようでございます。たいへん美しゅうございました」

 漏らされたのは間違いなく恍惚の溜息であったが、宿儺からしてみれば、異形の影を落とす自分の前で月光を浴びるその女こそが、この世ならざる存在と思い違うほどに美しかったのに。
 それでも気分が良いのは間違いなく、宿儺は両の口角を釣り上げた。
 
「異なことを申すな。貴様は己の真価を知っておるのだな」
「はあ、わたくしの真価でございますか」
「そうだ。お前は塵(ごみ)の中では上等だ。ためしに俺が娶ってやろうか」

 戯れに告げると、女はしばし考えたふうに小さな沈黙を生み、のちに微笑んだ。斯様なことは到底無理なのだと、叶わぬ夢を儚むような微笑みだった。

「貴方様にできることならば」
「俺に出来ぬことなど」

 女の瞬きするうちに距離を詰め、そのほっそりとした頸を掴む。まだ力は込めていない。一度込めれば、棒切れのように容易く女の頸が折れてしまうのは知れていたからだ。

「出来ぬことなどあるものか。阻む者は殺し、痛振り、肉塊と成り果てるまで蹂躙すれば良いのだから」

 ふふ、と姫御前は軽やかに微笑んだ。
 白魚のような腕が伸び、怯えることなく宿儺の首に添えられる。宿儺は人如きが勝手に己の身体に触れることを是としない。不遜であるからだ。しかしどういうわけか、宿儺は女の頸をへし折ることも、胴を断つこともしなかった。それどころか女の指先が己に触れる瞬間、僅かばかりの緊張さえ覚えたというのだから、可笑しな話だ。

「阻むものは、人ではございませぬ」
「……では何だ」

 寿命か、時の運か、世の理か。宿儺の尋ねるもの一つ一つにいいえと首を振り、女は言った。

「わたくしの浅ましき欲にございます」
「……欲だと。貴様如きの欲に、一体俺の何が阻まれる」

 宿儺はそろそろ女との問答に飽いてきた。
 所詮此奴も色鮮やかな反物や上等な屋敷を欲しがる貴族の女に過ぎぬかと思えば、もう一言二言交わしたら殺してしまおうと片腕を上げる。しかし女が次に放ったのは、宿儺の想像もしない言葉だった。


「この国が欲しゅうございました」


 それはほとんど、世迷言だ。熱に浮かされても酒に溺れても、そうそう思いつきもしない。

「女如きが、国など手に入れて何になる」
「なんにも。ただ、欲しかったのでございます。ですからせっかく帝の寵愛を賜り、奥にしていただくお話さえもいただきましたのに、いざお会いしてみれば彼の方はあまりに矮小で醜く、小賢しく愚かで、まるで国の持ち主とは思えぬのでございます」

 はあ、と姫御前は心底失望したようにため息を吐いた。宿儺に命を握られているというのにとうとう両腕を投げ出し、総身から力を抜いて斜め上に目線を投げる。

「しかし欲しいものは欲しいので、まあよいかと思いましたところ、先程この書にて“国とは人の興りなり”という一文を見つけてしまったではないですか。国とは手にできるものではなかったのでございます。いよいよ、わたくしが奥に入る理由がなくなりまして、どうしたものかと思案に暮れていたところ、貴方様が」
「くふはっ」
 宿儺はとうとう噴き出した。一度決壊してしまえばあとはもう波が引くまで笑い尽くすのみだ。可笑しな女だ。可笑しな女だ。だが、愉快である。欲深で美しく、快活としたいい女だと、宿儺は女への理解をすとんと胃の腑に落とした。

「しかし愚かであったな。お前は帝などに媚びずこの俺に媚びるべきだった」

 女は目を丸めて童のような顔をした。

「あやかし様は、そのようなお力をお持ちですか」
「言ったはずだ。俺に出来ぬことはない。お前の言うあさましき欲とやらも叶えてやろう」

 あくまで俺の興が尽きぬうちは、だが。と内心で付け足しケヒッと宿儺は笑みを深めた。

「左様でございますか」
 女はあっさり言う。
「では、三日お通いなさいませ」
「何だと」
 宿儺の機嫌は地に落ちた。
 たかが人間の女如きがこの俺に「通え」とは。
「わたくしも、帝の奥に収まるよりは、貴方様に娶られとうございます」
 きっとそのあとには「そちらのほうが楽しそうだから」とでも続くのだろうが、宿儺の怒りは女のその一言であっさり打ち消された。妙なものだと宿儺本人でさえ眉間に深い溝を刻む。

「では今拐さらわれろ。間怠っこしいことは好かぬ」
「今は嫌でございます」
「貴様」
 もういっそ殺してやろうと眦を釣り上げた宿儺だが、女の瞳に数多散らばる星屑の輝きを認めるなり、それは別の何かに転じた。

「わたくしのもとへ、三夜通う貴方様が見とうございます」

 ああ、俺はたった今この女の次なる興になったのか。
 そう理解すると不遜さや不快さに嚇怒するより早くどっと呆れと疲労が襲い、宿儺は、聞く人が聞けば驚きに目玉を取り落とすほど意外なことに、一切何もせずに、女の閨を後にした。

 宿儺が住処とする山奥の御殿に戻り、「疲れた」と側近である裏梅に告げ早々と閨にこもった翌日のこと。妙に昂る気を鎮めるため村を一つ焼き、己に取り掛かかる術師の討伐隊を一掃し、それでも落ち着かぬ腹の内をどうにかするために血まみれのまま女の御殿に立ち返り、宿儺は言った。

 貴様の戯れに付き合う。
 ―――そうして、その晩にむざと殺してやろう。

 呪いの王たるこの両面宿儺を誰も勝手には出来ぬのだと、改めて人どもに思い知らせる良い機会だ。特にこの、月の姫の如き横暴を言ってのける小娘にこそ分からせてやらねば。それまではさぞ良い気になっておれば良い。
 そう思い及んで来たというのに、かの姫の態度はまるでつれない。腹の内に高揚や陶酔を隠しているのであればすぐに分かるが、そうではない。此奴は何を膨れている。

「帝が」

 女がぽつりと口を開いた。
「帝が、今夜も褥を訪れました」
「……何だと」
 今夜も、と言ったか。では昨晩も来たというのか。宿儺がここへ訪れる少し前に、そういえば夜道をひっそり進む牛舎の影を見た気がする。

「帝にはわたくしの他にも寵愛を向ける姫君がいらっしゃるので、昨夜来たのも戯れかと存じておりましたのに……」
「では、その男が明日も来れば貴様はめでたくソレの妻となるというわけか」

 人に通えと言っておいて、何とも腹立たしい話だ。
 そこで宿儺は初めて、女が膨れているのではなく、宿儺に対して面目なく思っている様子であることに気付いた。

「お許しくださいませ、あやかし様。これは単に、帝のお気持ちを測り違えたわたくしの責任でございます。ですから」
「諦めよ、とでも申すか」
 そんなつまらぬことを言ったら今度こそ殺すと決めたのに、その女は何度も、何度も、何度も宿儺の禍々しき牙をすり抜ける。

「いいえ。あやかし様」
 女は言う。
 花綻ぶような美しい笑顔で。

「どうにかしてくださいまし」

 その華麗で潔いまでの丸投げを受け、宿儺は飛んだ。そうして都が一望できる高さに留まり、指を複雑な形に編むと、内裏に向けて魑魅魍魎たる呪を飛ばす。
 その晩より十日間、帝とその側近たちは謎の病に床に伏せ、帝の三夜通いは当然途切れる形となった。

「あと一夜というところで諦めるなど、やはり根性なしでございましたね。それとも、あやかし様、何かなさいました?」
「どうにかせよと言ったのは貴様だろう」
「まあ、ふふ、悪いかた」
「それより、あと一夜だぞ」
「ええ。あと一夜です」

 あと一夜で、お前は俺のものだ。
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