女は―――千年振りに見た十六夜は、小僧どもと同じ服装に身を包み、あの頃と何一つ変わらぬ姿かたちでそこにいた。

「あやかし様?」

 何の言葉も発さず、ただ自分を見下ろす宿儺に対し、十六夜は「こんなこともあるものだなぁ」とまだどこか夢見心地でいた。クラスメイトや先生や補助官たちから両面宿儺の器がどうのという情報は入っていたが、よもや両面宿儺があのあやかし様であるとは思いもしなかった。二対の目も、この禍々しい呪力も、三夜聞いただけのお声も、何をとっても、彼なのだ。
(どうして何も仰らないのだろう)
(わたくしのことなど、もう忘れてしまったのだろうか)
 そう思って見上げ続けていれば、色のごっそり抜け落ちた、何を考えているのかまったく分からない表情で彼は言った。

「………髪を、」
「髪?」
 高い位置でくくった黒髪を一房指で巻き取ってみてみる。昔よりはずいぶん短いが、あの頃は誰もが長すぎるのだ。
「あ」
 そういえば親の遺伝のせいか、当時よりも髪質はやわらかく、くるりとほどよくクセがつくようになった。でもそれだけだ。それ以外は千年前と一つも変わらぬ十六夜だ。

「この髪はですね、今世の母譲りのくせっ毛でございまして」
「小夜さん、こっち!!」
「あっ」

 急に視界が変わる。私を担いで運んでいるのは一つ後輩の伏黒君だった。

「アンタ、何でこんなとこにいるんだよ!しかもあいつの前で能天気に」
「ああっ、伏黒君のせいで一つ今落ちました!戻ってください!」
「しゃべんなもう!今がどんな状況か………ッッ」

 伏黒が何かを察知し飛び退いた瞬間、先程まで彼らがいた場所がごっそり抉り取られた。「きゃっ」「くっ」凄まじい風圧で二人は背後に弾き飛ばされる。

「小夜さん、逃げ、」
「動くな。」
 粉塵の中から放たれた声に、伏黒も、十六夜も、従う他なかった。

「貴様も……貴様も……小指一本とて、動かすことを禁ずる」

 伏黒はそれを見て瞠目した。
 虎杖の心臓が戻っている。
 宿儺によって引き摺り出され、伏黒がその身を犠牲にしてでも取り返すと決めていた心臓が、既に虎杖の中に戻っている。
 ――あいつは何がしたい。
 伏黒は分からなかった。
 どうして宿儺は、小夜さんの前から一歩も動かないんだ。



「何をしている」

 長い長い沈黙の末、宿儺が十六夜に放ったのはそんな言葉だった。

「……なに、ともうされますと」
「術師になったのか」
 ああ、そういうことか、と十六夜は理解した。理解していなければ、たいやきを食べています、と答えるところだった。
「いいえ、わたくしまだ、裳着(もぎ/成人式)を済ませておりませんので」
「ではこれからなる気か」
「進路のことは、まだ考え中でございます」
 では止めろ、と言いかけた宿儺は寸でのところで言葉をのんだ。我に返ったというのが正しい。
 
(俺は、一体何をしている)

 千年ぶりに相まみえた、己が殺した女にまず聞くのはそんなことか。
 間違いなく、ここにいるのは十六夜だ。
 これが生まれ変わりなのか、時でも跨いだのか、はたまた黄泉から還ったか――そんなことは、どうでもいい。そんなことは、如何様にも成り得る。今すべきことは、
「あやかし様」
 十六夜の声が、あの晩のように震えた。

「また、わたくしを殺されますか」
「殺さぬ」

 伏黒は息をのんだ。呪いの王にあるまじき即断に我が耳を疑った。
 捨て置くでも見逃すでもなく、殺さぬと断じた。宿儺にとって十六夜を殺すことが、一体どれほどの禁忌にあたるのかもはや赤子でも理解できることと相成った。彼の唯一の後悔≠ニはそれほどのものだったのだ。

 そこへ、ほっと場にそぐわぬ微笑みが落ちた。よかった、 と。

「さればわたくし、まだ少し生きていたい」
「……生にしがみつくか、哀れな」
「はい。だって、いくらでも、いくらでも出てくるのでございます」

 あのころよりずっと。
 手に入れたきものや、叶えたきことが。

 宿儺は十六夜の言葉の続きをそう捉え、苦い顔をしたが、口元には微かな笑みも浮かんでいた。
「あいかわらず欲深きことよ」
「恐れ入りまする」
 二人の間に流れる得も言われぬ空気を、伏黒だけが少し離れた位置から見つめていた。

「………何なんだ、一体」





 その後、宿儺に肉体の主導権を奪われていた虎杖が戻り、十六夜は高専に連行された。
 彼女が宿儺と言葉を交わしていた数分間がなければ一体どれほどの被害が周囲に、そして伏黒と、虎杖の身に降りかかっていたことか。

「何かよくわかんねーけど、お姉さんのおかげで俺の心臓無事戻ったっぽい。あんがとな!」
「すいません、小夜さん。俺、傍にいたのに、宿儺相手に何も」
「いいんですよ、伏黒くん。虎杖君も元気になってよかった……。ところで、ここは一体」
「お疲れサマンサー!」

 そこはかつて虎杖が拘束されていた部屋とはまた違う、高専の片隅にある空き部屋だった。
 軽い調子で姿を見せた長身の男が、十六夜はおやと首を傾げる。

「五条先生、海外へ行かれているものと」
「あー、途中だったけど帰ってきちゃった。僕の大切な教え子たちの命の危機だっていうじゃない!いやー、焦った焦った」
 焦ったと言いつつ、まるでそう見えないのはいつものことだ。

「で、小夜ちゃんさ」
 ここからが本題。とでも言うように、やや声のトーンが変わる。

「君、宿儺としゃべったの?」
「はい。お話いたしました」
「何で?」
「何で……お声をかけられたので?」

 あの、と口を挟んだのは伏黒だ。十六夜の回答が要領を得ないのはいつものことだ。

「小夜さんは宿儺と面識があるようでした。あいつがハッキリ殺さないと言ったのを俺は聞いたんで」
「殺さない、か……異常だな」
「てかおねーさん、宿儺のこと知ってるの?」
「知っているというか……」
「殺した」
 虎杖の問いかけにえたのは別の声だった。

「これは、俺が千年も前に頸を手折り殺した女よ」

 場の空気が一気に重々しく変わる。
 虎杖の頬からおぞましい哄笑が上がった。

「まさか今世で相見えようとは思わなんだが、面白いことになった。此奴は俺が興を欠くまで生かす。先の世では、些か性急すぎた」

 これが宿儺の出した結論だった。
 千年前、もっと愉しめるものを、なぜか逸る心地で殺してしまった。あれはいけない。この世ではもっと己の身の傍に置き、よく愛で、心身ともにとっくと堪能し、余すことなく遊び尽くしてやらねば。そうした後で殺したならば、もうあのような後悔に身を焼かれることもないだろう。それより前に俺の興味を削ぐような真似をしたならその時はその時。つまらぬ女に成り下がったと、いっそ諦めもつく。
 ケヒッ、ケヒ、と宿儺は愉快そうに嗤った。

「十六夜よ、ひと時でも永らえたければ良く媚びよ。俺の飽きは早い」

 ぱちん。と間抜けな音がして、宿儺の口が塞がれる。十六夜の手のひらによって。
 図らずも近距離で十六夜に手を添えられることとなった虎杖は小さく息を呑んだが、すぐに十六夜の身を案じた。

「ごめんな!!!コイツ勝手に喋んの。しかもなんかスゲー横柄な……」
「いいのです、虎杖くん。少し呆れただけで、わたくしは、怖くもなんともありませんから」

 揺れる炎のように穏やかに笑んだ十六夜に、虎杖はまた返す言葉をなくした。

「………ねえねえ、小夜ちゃん。今の話要約すると、つまり千年前君と宿儺は知り合って、君は宿儺に殺された。で、君にはその記憶がある……ってこういうこと?」
「はい。でも、五条先生にはお話しいたしましたよね」
「あー、うんうん。言ってたね。平安時代は呪いが横行してたとか当時はお姫様だったとか。確かに言ってた。まったく信じてなかったけど」
「まぁ、ひどい」
「いやだってそんなん信じられるわけないじゃん!ね!?恵もそう思うでしょ?!」
「俺はまずその話知りませんけど。……まあ、話し方ちょっと古いなくらいには」
「これでも今の世の話し方は学んだのです」

 ほろほろと疲労を滲ませた声音で十六夜は言った。

「全てを思い出したのは中学も半ばの頃。それまでいた友人たちは皆離れてゆきました」
「度を超えた中二病だと思われたんだな」
「ウケる。まあ友達が急に雅になったら誰でも逃げるよね」
「その頃からこの世ならざるものの姿が視えるようになりまして、あれよあれよという間にこの業界へ」

 聞けば聞くほど十六夜の話は現実離れしていたが、今は宿儺という証人がいる。信じざるを得ない。
 五条は頭を抱えた。

「ん〜〜〜〜〜、どうしよっかなー、これ。マジで厄介。試しに聞くけど君を使って宿儺のことってどうこうできそう?」
「むりでしょう」
「だよね〜〜。じゃ、とりあえず様子見で」
「「いやダメだろ!」」
 一年生二人の声が揃った。

「危険です」
「え、じゃあ恵は、小夜が宿儺と結託して何かするとか思ってんの??」
「それはないです。この人アホですし」
「伏黒くん?」
「でも宿儺がなんらかの方法で先輩に接触する可能性はあります。もし人質にでも取られたら俺たちは手が出せない」
「俺もそう思う。なんかこの人、スッゲー宿儺に警戒心低いし。ちっと心配」
「虎杖くん??」

 一年生二人の自分への認識があんまりにもひどい。いったいいつ自分は頼れる先輩のレッテルを剥がされてしまったのだろうか。

「んじゃこうしよう。小夜はこれから悠仁との接触一切禁止。どこか行く時は逐一僕に報告。道中は伊地知の車で」

 カチャ、と締め切った部屋の扉が開いた。現れたのはパンダの巨体。
「あ、いたいた!おーい、小夜いたぞー、お前ら」
 彼に続いてわらわら現れたのは二年生の面々である。

「何だよお前こんな辛気臭ぇ部屋で。てか悟じゃん。何でいんだ?」
「マキちゃん、探させてしまいましたか。ごめんなさい」
「いーけど。近接付き合えって言ったろ」
「そうでした!じゃあ行きましょうか」
「シャケ、シャケ」
「もちろんケーキの約束も忘れていませんよ」
「なー小夜」
「はいはい。カルパスならとっておきのを見つけましたから」
「分かってんな〜!」
「あえっ、ちょっと…!?」

 連れ立って出て行こうとする十六夜の背中に声をかけた悠仁は、振り返った彼女を見て息を止める。
 それは秋の深い夜、静かに天を統べる、まさしく十六夜のごとく清廉とした微笑みだった。

「……五条先生。もう誰にも、わたくしは縛られない。好きな場所へゆき、心踊るまま、天翔ける鳥のように暮らすのです。ですから、あやかし様――――いいえ、両面宿儺様」

 十六夜が悠仁を通して宿儺に告げたのは、この時が最初で、最後だった。

「わたくしをどうこうしたければ、まずは三夜お通いなさいませ」

 十六夜が後ろにつけた言葉が「できるものならな」であることは、もはや誰の耳にも明らかで、悠仁は裡に巣食う呪いの王のあまりの静けさにいっそ怯えた。
 一方の五条は、軽やかに退室した少女の姿に肩を震わせて笑う。

「五条さん。あの人が断るって知ってて言いましたね」
「アッハハハッ!いやー笑った笑った!マジ痛快!」
「笑いごとじゃねーよ」

(それにしても参ったねぇ。)
 五条は未だくつくつと笑いを溢す。
 これまで呪力も体術も人並みな(少し変わった)教え子、程度の認識だった彼女のイメージは一転した。

「あの子、いい子じゃなくて、いい女だわ」

 さらりと口にされた惜しみなき賛辞に、教え子二人はしっかり辟易し、呪いの王は決断した。――力を取り戻した暁にはまずは此奴を消す、と。

 
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