ふと外に目をやれば、辺りは既にどっぷりと闇にのまれていた。物音一つしない。最近は1日が過ぎるのがあまりにも早くて、少し参っている。
政に関する書物は大方終わっただろうか。


「hey、家康。ようやく終わったかよ?」
「…独眼竜か」


そういえばわざわざ奥州から来ていたのだった。積み重なる書物を片すのに手をとられてすっかり忘れていた。
着流し姿の独眼竜の手には酒。
瞳で来いと言われてしまえば、特に断る理由もないので大人しく部屋を後にした。




満月。
いっそ妖しいまでに淡く輝くそれを肴にちびりと酒を口に含む。
所謂月見酒というやつだ。白銀の色をしたそれを見て、ちらりと脳内に浮かぶ男を慌ててふり消す。――彼はもういない。


「月、今日が見頃だとよ」
「ん?」
「小十郎が言ってた」


独眼竜もまた、月を見上げながら酒を喉に流し込む。
そうか、と呟けば何が気に入らないのか眉を寄せて暫しの沈黙。
やがて諦めたようにアンタは馬鹿だ、なんて。失礼だなあ、独眼竜。


最近は本当に忙しくて、ゆっくり月を見上げる時間すらなかった。こうしてまじまじと月を見つめるのは何時ぶりだろうか。ましてや月見酒など、秀吉公を討ってからはただの一度も――


(あ、)

ちらり、残像は琥珀色。




「何考えてやがる、将軍様が」
「…将軍、か」
「嘘は言ってねぇ」
「そうだな。…月のことを、考えていたんだ」
「手に入らなかったお月さんか?」
「………」


手に入らなかった。
月を掴めるほど、ワシの掌は大きくなかった。
それこそ、日の本全土の絆を両手いっぱい溢れるくらいに持っていたんだ、到底、月なんか届かない。解っていたことだ。



「アンタがどれだけ大事に思っても、欲しても、愛しても、それでも手に入らなかった月か?」
「…ワシは闇をも照らす陽となりたかった」
「…なっただろ」
「月は…闇の中でこそ輝くものだった。強すぎる陽の輝きは、月すらも消してしまうんだ」


ちびり。
決して弱くはない酒を舐める。
少し辛めの味が、下の上ではじけ、染み渡る。



関ヶ原での戦を終えて、初めに感じたものは空虚だった。
自分の目前に倒れるこの美しい男は、二度と目を開かないのだという絶望。自分の理想とする世界に、この男はいない。
三成は、いない。


好きだった、なんて戯れ言。
言葉にしてしまえば想いが溢れ出してしまうから、胸のずっと奥深くで、静かに消そうと隠していた。それなのに。


(ワシも決意が足りない)


想っていいわけがない。
たった一人の命と、日の本全土の揺るがぬ絆、どちらが大切かなんて誰でもわかる。解りたくないなんて我が儘にしか過ぎない。
ああ、だけど、だけど。



「アンタァ、crazyだ」
「冷たいことを言うなよ」
「将軍になったはいいが、一番欲しいもんを失った」
「手に入れたさ」
「crazyじゃねぇな、poorだ。欲しいもんも欲しいと言えねぇ」


欲しい、さ。


「…みつなり」



ふと出してしまった名前は思った以上に響いた。独眼竜の隻眼がゆらりとワシを見つめ、射抜く。
もう、駄目だ。もう。



「欲しかった、大切だった、愛していた、あの瞳に見つめられるだけで死にそうだった。出来ることなら戦わずにさらってしまいたかった。処刑の前だって三成が言えば二人で逃げるつもりだった。ワシはそれを望んで……っ、」



頬を伝ったのは何なのか。
酒に酔った頭では到底解らなくて。



「…それでも言えなかった」



三成をあそこまでしたのは、ワシだったから。
彼はワシを許さなかった。



「…ha!アンタの判断は間違っちゃいなかった。この世界は平和だろうよ」


平和。幸せなことだ。
幸せ、なこと。


――三成がいないのに?



「ワシは、三成を…」
「それでも間違っちゃいない」


かん、と響いた音を向けば、独眼竜の持つ酒瓶は空だろう。
伏し目がちなその一つの瞳には何が映っているのだろうか。



「殺してやらなきゃ狂っちまう。生かすのは地獄だ。アンタァ、石田の幸せを望んでた。」
「……」
「自分の幸せを押し潰してな」



だからアンタはpoorなんだ、という独眼竜の呟きには苦笑するしかなかった。



「本当に権現にでもなる気かよ。だが、それもアンタが決めた道だろう。間違っても迷っちゃならねぇはずだ」
「そうだなあ…」




権現になんか。
ワシは人で在りたい。

そんなことを言っても今更だ。
喉まででかけた言葉を口の中で圧し殺した。
空では変わらずに月が輝いていた。




いつだって僕につきまとうのは君への恋慕



(月に伸ばした手はいつまでも届かないのだ。)







title by 夜途