桜の木の下には恋心が埋まっている(2)Phantom in the darkness


 最近、私は失言が多い。

 ──『……妹ちゃん。無知は美徳ッスけど、免罪符にはならないッスよ?』

 わんころに窘められた言葉が、頭の中に響く。

 ──『……誰にでも、言い当てられたくない怪物の名前があるんだよ』

 これは、私がコナンに言った言葉。その言葉が今、私に突き刺さっている。


 * * *



「……おはよう、ヒナ」
「おはよ、ヒロ。もうすぐ朝ごはんできるよ」
「ん……顔、洗ってくる」

 わざわざキッチンまでやって来た寝ぼけ眼のヒロが、私のこめかみにひとつ口づけを落としてから洗面所に向かう。……よし、今日も一日がんばろ。お味噌汁の味見をしながら、私は今日の予定を脳裏に浮かべた。


 *


 ヒロを仕事に送り出してから、一通りの家事を済ませたあと、リビングのソファーに座り足りない頭を働かせる。

 ……私がこの世界に転生してから早二十五年。その殆どを一緒に過ごした共犯者の兄が、一気に他人になってしまったような。それは仕方のない事、と割り切るには、私は兄に依存し過ぎた。

(……大丈夫、ちゃんとミヤは生きてるんだから、大丈夫……)

 クッションを抱えて目を閉じ、自分に言い聞かせる。私はもうひとりじゃない。ヒロも居るし、タナトスたちも居る。だから大丈夫。私は、私にできることをしなければ。

 よし、と心の中で気合いを入れて──目を開けた、はずだ。

(えっ……? 真っ暗? まだ昼前なのに……?)

 真っ暗な視界に一瞬混乱すると同時に、自分の口が勝手に動く。

『しっかりしろ! 禁書の攻撃を受けている事くらい解らないのか!』

 ヒュプノスが叫んだ。その言葉に、反射的に身体が動く。勝手知ったる我が家の掃き出し窓を手探りで開けて、指を弾いて姿を消してから、もう一度指を弾き自分に掛かる重力を操作して、ベランダから空中に身を投げる。そのまま真上に飛び上がり、しばらく経ったところで一気に視界が白んだ。突然の眩しさに思わず顔を顰めつつ、そっと眼下を眺めて……言葉を失った。

 喩えるなら、漆黒の闇で出来た大きなシャボン玉。その表面は油を混ぜたように虹色に流動しながら鈍く光を照り返している。先程まで居たマンションを易々と飲み込むほどの巨大な球体が、街のど真ん中に浮いている。何だこれは。これも禁書の能力? 何でヒュプノスはわかったんだろう。……いや、今はそれどころじゃない。この禁書の使用者を探さないと。宙に浮いたまま指を弾いて、自分の禁書を取り出す。その中から探索用の紙飛行機を掴みその球体へと投擲して──その表面に紙飛行機が触れた瞬間、パッと紙吹雪のように紙飛行機が細切れになった。

(えっ!? まさかこれ……『葬送』!?)

 思い至った事態に思考が止まり掛ける。

 そんな、まさか、どうすれば。

 そんな私の隙を見計ったかのように、球体から伸びた漆黒が私の両脚を絡め取り、再びその胎内へと誘った。



 ・・・‥‥………………………………‥‥・・・



 パタン、と禁書の六十九巻『暗黒』を閉じる。中に閉じ込めたあの子は、もう暫くは目覚めないだろう。この子の住むマンションの地下駐車場の片隅で、『暗黒』を脇に抱えて指を弾き、『警告』を取り出してから傍に倒れる『暗黒』の元持ち主の左手の甲に烙印を入れる。それから『警告』をしまって、今度は『葬送』でわたしの痕跡を総て葬る。相変わらず面倒な作業だ。二冊の禁書を鞄に入れながら、わたしはその場を後にした。



 ・・・‥‥………………………………‥‥・・・



 そこは、真っ暗な世界だった。

 私の禁書の中とは正反対の、闇の中に七色の光が淡く煌めく、夜空みたいな不思議な空間。

(……えーっと……どこだここ……?)

 とりあえず首を傾げながら指を弾いてみるけれど、手の中には何も現れない。茫然と自分の手のひらを眺めていると、突然目の前から声がした。

「……何を探しているんだい?」

 それは、とても馴染みのある声で。

「……ダン、タリアン……?」
「御名答。はじめまして、ヒナ」
「えっ……? どういうこと……?」

 混乱する私に、“ダンタリアン”は禁書を持つ手とは反対側の手を口元に当て、くつりと嗤って見せた。それは……紛う事なく“ダンタリアン”で。どうしていいのかわからず、ただ目の前に立つ“彼”と対峙する。そんな私をじっと見た“彼”は、ふむ、とシアトリカルな所作で首を傾げた。

「一応言っておくけれど、キミに危害を加えるつもりは毛頭無いよ。そうして欲しいのならば話は別だけれど」
「えっ……いや、お断りします」
「そうかい。ところで……今キミがこうして此処に至るまでの状況を、正しく説明できるかい」
「えぇ……? えっ、と。家に居たら、真っ暗になって……ヒュプノスが禁書の攻撃だって教えてくれて……外に逃げて……捕まって……気付いたら、ここに居た……?」

 私の言葉に、“ダンタリアン”が僅かに双眸を細める。

「……なるほど。“ヒュプノス”、か」
「えっと……?」
「いや、気にしないでくれたまえよ。こちらの話だ。さて……僕の身勝手でキミを拐かした訳だけれど、このまま帰すのは忍び無い。と言う事で、何か手土産でも差し上げよう。ご希望はあるかい?」
「希望……? 食べ物とか……?」
「月夜じゃあるまいし、もう少し色気のある物を乞うて欲しいものだね?」

 何だと。色気のある……? えぇ? 何だろ、思い付かない。希望……望み……願い……? うーん、一番最初に思い付くのは、やっぱり。

「えっと……ミヤの、記憶を……戻せるって人……『ニケ』さんが何処に居るのか、教えて欲しい……かな」
「……へぇ。ニケを? さて……どうしたものか」

 一瞬だけ、“ダンタリアン”の視線に敵意が灯る。でもそれは瞬時に引っ込められて、思案顔の“彼”は禁書の装丁に指先を滑らせた。

「……残念だけれど、その願いは叶えられない。その代わり、これを差し上げよう」

 パチン、と“ダンタリアン”が指を弾くと、私の目の前に透明な液体の入った小瓶が現れる。

「これは……?」
「……『ムネモシュネの川の水』を希釈したものだよ。貴重な品だから無駄にしないように」

 目の前の小瓶を手に取ってみる。ムネモシュネってなんだろう。この中身を兄に飲ませればいいんだろうか。首を傾げる私を、“ダンタリアン”がじっと見ている。

「……間接的とはいえ、あの男を助ける羽目になるのは癪だが致し方あるまい。さて……今此処で起きた事は忘れて貰うけれど、悪く思わないでくれたまえよ」
「えっ?」
「……では、ご機嫌よう」

 恭しく腰を折った“ダンタリアン”が指を弾くと同時に、私の意識は塗り潰された。


 * * *


「ん……あれ……居眠りしてたのか……」

 リビングのソファーから、あくびをしつつ立ち上がる。何だか妙な夢を見ていた気がする。時計を見上げると、時刻はお昼を過ぎていた。

「ありゃ……もうこんな時間か。って、あれ? 何だろ、この瓶」

 テーブルの上の小瓶に首を傾げる。こんな瓶、うちにあったっけ? 瓶の側面に貼られたラベルには、『Mnemosyne』の文字。なんで読むんだろ……ムネモシュネ? 中には透明の液体が入っている。

「うーん……? あとでタナトスに調べて貰おう」

 とりあえず腹ごしらえだ。そう思いながら、私はお昼ご飯の準備に取り掛かった。


 *



「ムネモシュネ……まさかあの川の水だとでも言わないだろうな」
「ムネモシュネ、って何?」

 秘密基地のリビングで、タナトスが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、先日家に現れた謎の小瓶を手渡すと、ラベルを見たタナトスは途端に眉根を寄せた。

「ムネモシュネは記憶を司る女神だ。その名を冠した川の水を飲むと真理を会得する事が出来るという神話がある」
「へぇ……すごい」
「私が“視た”ところ、飲用可能な清潔な水だが……とりあえずの問題としては、何故これがヒナの前に現れたのか、だな」

 指先で小瓶をつついたタナトスが、赤と青の双眸で私をじっと見つめた。

「……うたた寝をして起きたら、テーブルの上に置いてあった、か……私の過去視でも見えないとなると、矢張り『葬送』関連だと推測するしか無い」
「えっ……って事は、私がどこに住んでるか知ってるって事だよね?」
「だろうな。さて……誰の仕業か」

 腕を組んだタナトスが、そっと息を吐いた時、私の携帯端末が着信を告げた。ヒロからだ、どうしたんだろう? 行儀が悪いけど、今日は秘密基地にタナトスしか居ないのでその場で電話に出る。

「もしもし、ヒロ? どうしたの?」
『ヒナ、今何処に居る?』
「えっ……と、タナトスのところ」
『そうか……』
「何かあったの?」
『……三日前、俺たちの住んでるマンションの地下駐車場で倒れてた男が救急搬送されてたんだが……その男の手の甲に、『六十九・暗黒』と読める火傷の様な痕があったと報告があって……』
「えっ!?」

 三日前って……この小瓶が現れた日だ。驚いていると、タナトスが「貸してくれ」と手を差し出した。ヒロに断ってからタナトスに携帯端末を手渡すと、スピーカーモードにしたタナトスが口を開く。

「その様子だと、その男の行動履歴の調査は終わって居るんだな?」
『ああ。だが妙な事に誰かと一緒に居た形跡と言うか、確実に居たはずの相手の痕跡が一切出て来なかった』
「成る程、映像にも人の記憶にも残って居なかったと」
『そうだ。それで……ヒナはしばらくセーフハウスの方に泊まっていた方がいいんじゃないかと思って』
「いや、あまり意味は無いだろう。相手はヒナの個人情報どころか我々の仔細を把握している可能性が高い」
『なっ……タナトスたちの事も?』
「あぁ、だから暫くヒナには我々の護衛を付けるが構わないな?」
『勿論だ。すまないが、宜しく頼むよ』
「了解した」

 ……通話を終えたあと、口元に手を当て思案顔をしたタナトスがゆっくりと口を開く。

「……会の元メンバーだとすると、行動として誰が該当するかを考えていたんだが……」
「うへぇ……やっぱり元メンバーかも知れないの? こわっ」
「……もし“彼女”だとすると、深追いは絶対にしてはならない」
「彼女って?」
「……『エレ』……正確には『セイレーン』だな」

 あぁ……兄と因縁があるっていう……『セイレーン』って言うのか。何だっけ、歌で船を沈めちゃうんだったか。まえにわんころがタナトスくらい万能って言ってたし……だとしたら、私に勝ち目は無いと思う。

「あのさ……その『エレ』って人と、ミヤに何かあったの?」
「……それは、本人から聞くといい。なぁ、ミヤ?」
「えっ」

 タナトスの視線を追うと、私の背後にいつの間にか兄と月夜が居た。うへぇ、今の話聞かれてたのかな。

「あー……えっと、おかえり……」
「……ただいま」

 平坦な声でそう答えると、兄は手を洗いに洗面所へ向かった。うむ……気まずい。

「……何だ? それ」

 テーブルの上の小瓶を見た月夜が、怪訝な顔をする。タナトスが説明すると、それを手に取った月夜が僅かに顔を顰める。

「ムネモシュネ……毒味はしたのか?」
「いや、まだだ」

 小瓶のフタを開けた月夜が、手の甲に一滴中身を垂らして舐めた。それを見たタナトスが、「美味いか?」と悪戯っぽく訊いた。

「……無味無臭。飲用可能に滅菌処理してあるただの水。効果は……わかんねぇな」
「成る程、飲ませてみるか」
「えぇ……大丈夫なの?」

 差出人不明のプレゼントくらい怪しいけど……戻ってきた兄が、私たちを見て首を傾げる。

「何やってんの」
「オイ、これ飲んでみろ。ぐびっと、一気に」
「怪しすぎんだろ……何これ。ムネモシュネ?」
「まぁそう言わず。ほら、ミヤ。漢気を見せろ」
「嫌すぎるんだけど……こんな怪しいモン、どっから持ってきたんだ?」
「オレが毒味したから安全だ。いいからとっとと飲め」

 ぐい、と月夜に小瓶を押し付けられた兄が物凄く嫌そうな顔をする。受け取った瓶を掲げてラベルを確認したあと、私たちの顔を順番に見て……諦めたようにため息をついたあと、瓶の中身を一気に飲み干した。

「……どうだ?」
「いや……特に。常温の水だなぁとしか」
「そう都合よくはいかねぇか……ってオイ、大丈夫か」
「っ、何か急に……眠気、が……」

 そう言って意識を失い頽れた兄の身体を、月夜が片腕で抱き留める。相変わらず力強いな……じゃなくて! 

「えっ、ちょっと!? 大丈夫なの!?」
「まぁ、こうなるよな」
「寝てるだけだ、心配すんな」
「えぇ……?」

 月夜が些か乱暴に兄を運び、ソファーに寝かせた。背の高い兄の脚が盛大にはみ出てるけどまぁいいや。お腹に一応ブランケットを掛けてから、訳知り顔の二人に視線を向ける。

「これで、エレの仕業だと確定した訳だ」
「えっ……何で?」
「月夜には効果が無く、ミヤには効果が出た」
「……それで?」
「だからだ」
「いや、理由を教えて欲しいんだけど……」

 何ていうか、タナトスはたまに言葉が足りない。頭の足りない私にもちゃんとわかるように説明して欲しい。

「……今ミヤが見ている夢……走馬灯くらいの速さで忘れている分の人生を追体験している」
「えっ。こわっ」
「月夜が水だと断言したそれは、正しく水なんだろう。そしてただの水に、そんな効果を付与出来る人物を、私はひとりしか思いつかない」
「……もしかして……エレ、さん?」
「そうだ。エレの異能である『アンサー』は、そう言う都合の良いものなんだよ」
「わぉ……とってもチートだな?」
「あぁ。自己解釈定着、と本人は呼んでいたが……そのせいで自分の首を絞める羽目になったのは流石にどうかとは思うがな」

 リビングテーブルに戻って座りながら、タナトスがため息をこぼす。

「兎に角、そうと決まれば話は単純だ。エレが『葬送』を含めた禁書を所持しているのならば、それは正しく使われるだろう。我々が気に病む必要は無い」
「って事は、深追い厳禁だな。追い詰めるとロクな事になんねぇだろ、アイツ」
「そうだな。窮鼠猫を噛む……エレに本気で噛まれたら、一溜まりも無い。私ですら危ういからな」
「えっ、うそ……タナトスでも?」
「……例えば、エレが『相手の能力を総て奪い去る』と云う攻撃をした場合、その通りになる。私とて例外ではない」
「うへぇ……もうそんなのただの神レベルじゃん」
「まぁその分、制約も多い様だったが。仔細は本人しか知らない。という事で、エレの事については一切の探索を禁ずる。わかったな、ヒナ?」
「……うん、わかった」



 ・・・‥‥………………………………‥‥・・・



 研二くんと一緒に夕飯を食べていると、仏頂面の月夜がやって来た。と言うことは、わたしがあの子に渡した物を使ったんだろう。平然を装って、月夜に声を掛ける。

「……何か用、月夜?」
「えっ!? うっわ!! びっくりしたー!!」

 驚く研二くんを無視して、月夜がわたしを鋭く睨んだ。

「……何のつもりだ?」
「これ以上嗅ぎ回らないように先手を打った。あの男の事が解決すればニケを探す事もないし、あの子の行動をわたしが把握していると知れば、タナトスたちは深追いしないだろうし、禁書の件も探らないでしょう」
「……相変わらず、抜け目ねぇな」
「月夜が褒めるなんて珍しい。でもそう言ってくれるって事は、タナトスたちはわたしが仕掛けたってちゃんと解ってくれたんだ? よかった」

 戯けて見せると、月夜は心底呆れたように大きなため息をこぼした。事の成り行きを見守っていた研二くんが、不安げにわたしと月夜の顔を交互に見て、躊躇いがちに口を開く。

「えっと……何かあったの?」
「……コイツが会に脅しを掛けたんだよ。結果は見事思惑通り。ったく、めんどくせぇ……オイ、腹減った」
「はいはい、座って待ってなよ」

 月夜の話を聞いた研二くんが、ポカンとしたあと慌ててわたしの方を見る。

「えっ……あのトンデモな奴らが集まってる会を脅した!? クチナシちゃんが、ひとりで!?」

 キッチンへ向かいながらひとつ頷いて見せると、研二くんは「ほわぁ……」とよくわからない声を漏らした。

「……すごいねぇ。あんなにかわいいのに」
「お前、一回アイツの本性見た方がいいぞ」
【余計な事を言うんじゃない、月夜】

 わたしの本性か……まぁ、中々素直にお見せ出来ない程度には荒れてるからね。それを思い出したのか、月夜が苦虫を噛んだような顔をしたのを見ながら、わたしはこれからどうしようかと考えを巡らせた。


 ・・・‥‥………………………………‥‥・・・



 タナトスの見立てだと、兄はもう二、三日は目を覚さないらしい。目が覚めるまでする事は無いから家に帰るようにとの事で、わんころに兄を任せて私とタナトスはヒロと住むマンションへ戻った。兄の目が覚めるまで、タナトスが私の護衛をしてくれるらしい。頼もしい事この上ない。

「……転居祝いでも持って来れば良かったな、気が利かずにすまない」
「いや、そんな気使わなくていいよ。寧ろ私が護衛報酬渡さないといけないんじゃない?」
「護衛の事に関しては気にするな。私がしたくてしている事だからな」

 タナトスと並んで夕飯を作りながらそんな会話をする。うむ……エプロン姿のタナトスもいいな。そんでもって凄い手際がいい。料理上手なのは知ってたけど、動きに一切無駄がない。あっという間に普段の三倍ほどの品数の夕飯が出来上がる。うわぁ……絶対食べきれないな。明日の分までありそう。とりあえず盛り付けまで完璧とか、タナトスすげぇな。感心していると、ナイスなタイミングで玄関から人の気配がした。

「ただいま、ヒナ……と、タナトス」

 リビングに顔を出したヒロが、タナトスを見て少し驚いた顔をした。たぶん、月夜が護衛につくと思ってたんだな。そのあとからやって来た降谷さんが、タナトスを見て露骨に眉根を寄せる。

「うわ、タナトス……」
「随分とご挨拶だな」
「まあまあ。とりあえず手洗ってこよう、な? しっかし、すごいご馳走だ」
「タナトスが手伝ってくれたんだよ」
「えっ……料理出来たのか?」
「何だ、喧嘩なら高額で買うが?」
「そんなつもりじゃ……」

 どうした降谷さん。とりあえずヒロが手を洗いに連れて行くと、タナトスが肩を竦めた。

「私をどう扱うべきか測り兼ねて居る様だ。まぁ、平たく言えば私の事が苦手らしい」
「そうなんだ。意外……」

 何となくだけど……降谷さんは割とタナトスと気が合いそうだけどな? そんな事を考えつつリビングテーブルに配膳をしていると、ヒロたちが戻ってきた。それぞれ席に着き、奇妙な面子で夕飯を摂る。うわ、タナトスが作った煮物うんまっ! 私も同じ材料と手順で作ってるのになんでこんなに味が染み染みなんだろ? うむ……あとで教えてもらおう。

「ヒナ、ミヤビと連絡が取れないんだが……何かあったのか?」
「え? あっ、えっと……」
「ミヤは再起動中だ。二、三日は連絡がつかない」
「再起動……?」

 ヒロと降谷さんが箸を止めて怪訝な顔をする。ですよねー。ってか、再起動って……言い得て妙だな。

「急用ならば私が対応するが?」
「いや……遠慮しておく」
「なんだ、連れないな……○○会系の武器取引ならばタレコミ通り来週末に行われる様だから、ミヤに探って貰うまでもないだろう」
「ン゛ッ、なんで、それを……!!」

 お味噌汁でむせ掛けた降谷さんが若干涙目でタナトスを上目遣いに睨んだ。それをまっすぐ見たタナトスが、涼しい顔で答える。

「私は他人の思考が読める。知らなかったのか?」
「「なっ……!?」」

 あーあ。教えていいの? 見事に固まった二人がタナトスを見た。うむ……公安的には大問題だよなぁ……でも今のタナトスの双眸は射干玉色。私と一緒の時は“サトリ”をしない約束なので、つまり、思考は読んでない。からかって遊んでるんだろう、たぶん。

「ヒナは、知ってたんだな?」
「あー……うん。黙っててごめんなさい。でも、タナトスはその事を悪い様には使わないから大丈夫だよ」
「おや、私を買い被り過ぎではないか、ヒナ?」
「……私、タナトスのことミヤくらい信じてるよ?」

 隣に座るタナトスをじっと見つめると、タナトスも綺麗な射干玉色の双眸で私を見つめ返したあと──ふわりと笑った。

「そうか……ではヒナの信頼を裏切らない様にしなければ」
「あ、うん……オネガイシマス」

 そのあまりの破壊力にドギマギして居ると、タナトスの向かいに座っていた降谷さんがそっぽを向いていて、その耳が真っ赤な事に気が付いた。えっ……まじか。私の視線に気付いたヒロも隣に座る降谷さんを見て、ちょっとびっくりしたようだ。真正面から被弾した降谷さんは、取り繕うように咳払いをしてから食事を再開した。当のタナトスは、とっくにいつものポーカーフェイスで食事を続けている。絶対に今のレアスチルだったな。タナトスはもちろん、降谷さんも。


 *


 どうやら、今日は降谷さんも泊まって行くらしい。やっぱり禁書絡みの人物がこのマンションで見付かったから心配掛けたんだよなぁ。食後のお茶を飲みながら、ヒロと降谷さんは黙々と持って帰って来た仕事をしている。お疲れ様過ぎる。私とタナトスはソファーの方に座ってお茶を飲んでいるのだけど、私がぼんやりとヒロの横顔を眺めていると、タナトスがマグカップをテーブルに置きながら私に声を掛ける。

「ヒナは何かする事があるか?」
「ん? いや、ないけど?」
「そうか。では私も少し仕事を片付けても?」
「あぁ、うん。私に構わず、どうぞ」
「すまないな、すぐに終わらせる」

 そう言うと、タナトスはひとつ指を弾く。するとテーブルの上に定規やコンパスなんかと筆記用具、そして何やら建物の製図が引かれた紙が現れた。その紙に、タナトスは手慣れた様子で線を引いたり、数字を書き足していく。なんの建物だろ? 不思議に思って見ていると、タナトスが説明してくれる。

「……島の牧場側に空き地があるだろう、そこに建設する保育と教育施設の製図だ」
「あぁ、言ってたね。タナトスが設計するの?」
「獣人の特性を理解して、尚且つ建築基準法に則って設計するとなると外注は難しいからな。心配せずとも、私の案を基にプロの審査が入るから大丈夫だよ」
「へぇ……タナトスは何でも出来るね。すごい」

 私が感心していると、いつの間にか製図を覗き込んでいた二人もここぞとばかりに質問を浴びせる。

「……島には今、義務教育が必要な子供は何人くらい居るんだ?」
「身体的年齢で言うと今のところ二十弱か。その下は三十強、二十歳未満が十三だな。報告した通り獣人の外見と実年齢は比例しない。無論、学力も様々だ。だからこの国の大学の様なカリキュラムを組んだ方が効率が良い」
「なるほどなあ……そう言えば、ジンとラムは元気にしてるのか?」
「この前私が島に行った時は、二人とも先生役で頑張ってたよ。頭のいい子だともう何カ国語も覚えてたし、よくわからん計算も暗算でやってた」
「娯楽が少ない分を勉学で補って居るんだ、昔の日本の様だ」
「和算文化か……末恐ろしいな」

 江戸時代だっけ、算数が庶民の娯楽だったんだよな? うへぇ……すげぇな。私は是非とも遠慮したい。まぁ確かに娯楽は少ないよな。

「でもさ、確かテレビゲームとかあるはずなんだけど……やってる子居なかったね?」
「どこかの阿呆二人がプログラミング技術の大盤振る舞いした所為で、ノアのお友達が量産され掛けたんだよ」
「それってもしかしなくてもプロメテウスとグラトニー……」
「なっ……!? 英才教育にも程があるだろう!」
「そういう子は知識欲が旺盛なだけだからな、だから今は高度専門学術分野に分散させている」
「それはそれでどうなんだ……」

 降谷さんとヒロが、揃ってこめかみの辺りを押さえた。


 * * *


 そう言えば。ヒロと同居しているこのマンションの間取りは4LDKで、一部屋を共同の寝室に、二部屋をそれぞれの仕事部屋に、もう一部屋は書斎兼資料置き場と化している。家賃光熱生活費は折半。ヒロが普段家に居ないからと全額負担を申し出たけど、一緒に住むんだから滞在時間とかそんなの関係ねぇ! と押し切った。未だに私の本職を知る人は少ないけど、これでもそこそこ稼いでいる絵本作家なのである。推しのためにダイレクト課金したい。何なら全額負担でも構わない。レート倍率上げてもいいよ? だがそれを言わなかった私を誰か褒めてくれ。今日も三次元の推し活が捗っている。

 まぁ、それは置いといて。さすがにタナトスと共用の寝室で一緒に寝るわけにもいかないので、私の仕事部屋に布団を敷いて寝ることにした。やべぇ、こんな美少女(便宜上同い年)が隣に寝てくれるなんて、これ何のドッキリ? それとも毎日呼吸してる事へのご褒美? だとしたら毎日息吸ってて偉いぞ私。志保を保護した時にも思ったけど、おやすみからおはようまでこんな美少女が隣に居たら、何か料金発生しない? するよね? なるほど、貢がねば。

「……そういえば、タナトスが寝てるとこ見たことない」
「そうか? ……まぁ、そうかもな。私は極端なショートスリーパーだから」
「短時間睡眠……ミヤもだな。私には無理だ」
「体質的な問題も有るからな、一概に推奨出来るものではないが」
「……あの、さ。一番はじめの世界の時、タナトスって……どんな生活してた?」

 私の言葉に、タナトスは天井を見上げたまま話し始める。

「…………私の出生は割と複雑だから省くが……生後間もなく養子になった。その家の隣には同い年の双子の兄妹が居て、妹は身体が弱く、ずっと病院暮らしだった」
「……うん」
「私が五歳の時、ミヤの目の前で銀狐に神隠しされた」
「えっ」
「だから、ヒナが銀狐の神域に連れて行かれた時、ミヤは相当焦った筈だ」
「なるほど、トラウマだったのか……」
「まぁ、現実の時間で二年後に無理矢理戻って来たが。それから学校に上がって……狐憑きだのバケモノだのと、散々いじめに遭ったな。中学の時に転校して、天パとロン毛の友人が出来た」
「……それって……そうか。“前は”同い年だったんだね」
「十四の時、軍の諜報課の部隊に所属するようとある筋から要請が来た」
「いきなり出て来たけど……それがその時の黄昏の会?」
「あぁ。中学を卒業してから四年間、様々な訓練を受けた。ちなみに私の講師も月夜だ」
「そうなんだ。月夜教えるの上手いもんね」
「それから、大学二年で中途入学した時に猫目とタレ目の友人が出来た」
「わぉ……」
「大学卒業後、警察学校に入学した」
「うっそ……マジか」
「察庁の公安に配属されて……その頃は色々あったな。個人的に黒の組織に潜入したり、私の異能が公安にバレたり」
「波乱万丈過ぎる……いや、人の事言えないんだけどさ」
「そしかい後は、ミヤをマトリから引き抜いて刑事課に潜入したり、連邦捜査局と合同捜査で揉めたり」
「……待って? ミヤってマトリだったの?」
「あぁ。今でも麻薬関係に敏感だろう?」
「なるほど……だからか。それにしてもタナトスが刑事課に居たら米花町の犯罪率めっちゃ減りそう」
「そんなに変わりは無かったがな。会の調整で警察は辞めざるを得なかったが……忙しいなりに充実していた。その後については黙秘する」
「そっか……話してくれてありがとう、タナトス」

 お礼を言うと、私の方に寝返りを打ったタナトスが眦を緩める。

「……今のは、正史と分岐した数ある多重世界の内のひとつの歴史だ。エヴェレットの多世界解釈とも云えるか。どれも正しく、どれも違う。だからヒナは、この世界で胸を張って生きていいんだ」
「うん……」
「さて、もう寝た方がいい。おやすみ、ヒナ」
「うん、おやすみ、タナトス」


 * * *


 ……何事もなく三日が経ち、兄の目が覚めたとタナトスから連絡があった。

「うぅ……なんか緊張する」
「何でだよ。とりあえず早く行って一発ぶん殴るぞ」

 護衛をしてくれていた月夜と一緒に秘密基地へ向かう。このひと月、他人行儀の兄とはあまり会話がなかったので、前はどんな風に接してたのか思い出す。うむ……なんか知らんがやっぱり緊張する。月夜の後を追ってリビングに入ると、タナトスとわんころと一緒にお茶を飲む兄が居た。

「よぉ、面倒掛けて悪かっ……あっぶな!」
「うるせぇ、避けんな。黙って殴られろ!」

 顔面目掛けて放たれた月夜の正拳突きを身を捻って紙一重で躱した兄が、すかさず月夜の口にテーブルの上にあったチョコチップマフィンを突っ込むと、途端に月夜は大人しくなる。相変わらずチョロ……いや、何でもない。

「いきなり殴るのやめてくんねぇ? そりゃー迷惑掛けたのは悪かったと思うけどさぁ」
「そう悪びれもせずに言っても説得力が皆無だがな」
「もうちょいしおらしくして欲しいッスよねぇ〜、色々大変だったんスから」
「へーへー、すいませんねぇ」

 うむ……いつもの、兄だな。

「……ミヤ」

 私は満面の笑みを浮かべて兄に駆け寄って──その横っ面を思いっきり平手で叩いた。

 バチーン! と景気の良い音がリビングに響く。

「…………ばか」

 ぼろり、と目から水がこぼれる。

「やっぱオレも殴る」
「オレも殴りたいッス」
「そうだな、私もだ」
「待て待て待て待て! ちょっと、ヒナ!? 何も泣く事ないだろ!?」
「ミヤの馬鹿……阿呆、間抜け、スケコマシ……」

 ずびずびと鼻をすすりながら言うと、タナトスが箱ティッシュを差し出してくれる。勢いよく鼻をかんでから、困り顔の兄を見る。

「二度目は無いからな……」

 渾身の低い声で唸ると、「わかってるって」と兄はいつもみたいに苦笑を浮かべた。


 *


 一応兄は、ちっちゃくなった時からの記憶がちゃんとあるらしい。

「そう言えば、なんで遊園地で爆処のお二人に愛想振りまいてたの?」
「あー……ハギワラくんが死にそうな顔してたから? 面白そうだなーって」
「嫌過ぎる五歳児ッスねぇ……」
「三つ子の魂百までとはよく言ったものだな」

 みんなで昼食を摂りながら、そんな話をする。月夜は安定の無言で黙々とナポリタンを食べている。

「……で、ヒナの処にエレが来たんだな?」
「恐らくはな。推測の域を出ないが一切の痕跡を残さずに行動出来るとなれば、エレくらいなものだろう」
「まぁなぁ……だとしたら、あの粉々にされた紙飛行機の使役者であるヒナの能力探りに来たんだろ。で、その対価にムネモシュネの水を置いてった。無駄に律儀だからな、アイツ」

 あれ……? と、記憶が戻った兄の態度に内心首を傾げる。あんなにエレさんの話題になると辛そうにしてたのに、どういう心境の変化なんだろ。今なら聞ける気がする。うん、聞こう。

「あのさ、ミヤとエレさんって、なんかあったの?」
「あー……まぁ、あったけど……」
「オイコラ、テメェにはちゃんと話す義務があんぞ」
「ハァ……しょうがねぇか……」

 そう言って、兄はエレさんとの事を話し出した。

「まぁ、知っての通り最初の記憶の頃、俺とエレは付き合ってた」
「結婚を前提に、が抜けているぞ」
「えっ。ミヤが、結婚を前提に女性とお付き合い……!? 絶対無理だ……あぁ、無理だったのか」
「お前ら俺の傷に塩塗り込むのやめろよ。とにかく、付き合ってる最中もまぁ……余所見したりするわけだ」
「ありえないッスよねぇ〜。ミヤビの旦那、昔は今の三十倍は女遊び激しかったッスよ!」
「今の三十倍……!? 脳味噌海綿体かよ」
「うるせぇ。若気の至りってヤツだよ。えーと、それでまぁ、怒ったエレが『今度浮気したら二度と口きかない』って言って……ただの口約束だと思ってハイハイって流したんだよ」
「うへぇ……最低オブ最低ミヤだな」
「……で、その約束ってのが、実は『咒式契約』っつって……相当な効力のある呪いだったんだよな。エレも知らずに発動してたらしくて、『どの程度の浮気』なのか、『誰と口をきかない』のか、曖昧だったせいで……エレはヒトと口をきけなくなった」
「は……? ミヤの浮気のせいで、エレさんお喋り出来なくなったの? まじで?」
「ヒトとはな。オレや駄犬とは話せたが……でもヒトして生きてたエレにとっちゃ不便な事に変わりはねぇ。だから、会から温情措置として禁書の九十五巻『言語』が支給された」
「へぇ……どんな禁書なの?」
「エレは思考を文字として表示させて使って居たが、本来は全ての言語を操るものだ」
「なるほど……でも、不便な事には変わり無いよね? 禁書使って会話なんて、身内としか出来ないだろうし」

 うわー……うちの兄マジクソ野郎じゃん。冷たい視線を送ると、兄は深々とため息を吐いた。

「……まさか浮気の基準がキス程度だとは思わないだろ」
「それでもミヤがサイテーなのは覆せないぞ」
「……しかもその約束してから半日と経たずに反故にしたしな」
「うわ……サイテーとしか言葉が出てこない」

 もし私がヒロにそんなことされたら……いや、ヒロは絶対そんな事しないから想像出来ない。でもエレさんの心情を考えると、絶対逢いたくないと思うのはわかる。何ていうか、うちの兄が本当に申し訳ありませんでした! と焼き土下座しても許してもらえないくらいには酷い話だ。

「それで、エレさんは黄昏の会から居なくなったの?」
「うーん、居なくなったと言うか、円満に退会したと言うか……その時のボスとどんな取引したのか、誰も知らないんスよ」
「ある日突然『エレは会から去った』って言われてみろよ、タナトス並の万能型が抜けた後の過酷さと言ったら……とりあえずミヤビは死んで詫びろと毎回思ってたな」
「そんな事思ってたの? ひど……」
「どう考えても酷いのはミヤビだろう」
「……そうだな」

 そっと瞠目した兄は、精一杯明るく振る舞っているように見えた。

「……エレさんって、どんな人だったの?」
「エレちゃんは黒髪碧眼の美人さんだったッス! 優しいし、かわいいし、大人しくて料理上手で……とにかく、妹ちゃんみたいなヒト……いや、厳密にいうとヒトじゃないんスけど、とにかくいい子だったッスよぉ〜」
「えっ……? エレさん、人間じゃないの?」
「……ヒュプノス、先祖返りって知ってるか」
「えっ? えっと……ご先祖様が……例えば外人さんとかで、隔世遺伝で眼とかの色がご両親と違ったりする、とかって言う……?」
「そうだ。エレの系譜は鳥乙女……即ち『セイレーン』の異形として生を受けた。花飾の羽根を持つ、魔力を帯びた歌声で聴く者を魅了する、美しき海の魔女」
「海の、魔女……」

 もしかしたら、“私”の義姉になったのかも知れない女性。あのミヤ……と言うか、このミヤが結婚を前提にお付き合いする程のヒト。

「……エレは、その異能の特異さから会の中でも孤立し易かった。更に言えば、ヒトの擬態を解いた姿……絢爛な草花で彩られた両翼を持つ、絵画の様な異形は取り分け強欲なヒトの標的になった。私が知る限りでも、幾度と売買対象になった事か……君にはその苦労がわかるだろう、ヒナ?」
「……あぁ、うん。不本意だけど、わかるよ。なんで自分が、って……また迷惑掛けちゃうのかな、って……」
「まぁ、そうなったらそんな画策した関係者全員ひとりで血祭りに上げるようなヤツだったけどな」
「は!? え、待って? こっわ!?」
「エレちゃんの性格は……タナトスとミヤビの旦那を足して、ロキを掛けた感じッスね!」
「はぁっ!? こっわ!!!」

 冷静沈着+確信犯×愉快犯とか……それただのテロじゃん? いや、たぶん違うんだろうけど、私の脳内で成立した式に戦慄していると、「どんな数式だよ……」と兄が感嘆した。


 ・・・‥‥………………………………‥‥・・・


「……っ、くしゅ!」
「ありゃ、クチナシちゃん? まさか風邪引いた?」
【いや、大丈夫……きっと誰かが噂してるんじゃないかな】
「えぇ? クチナシちゃんの噂って……もしかして、あの会?」
【……そうかもね。だとしても、最早わたしの預かり知らぬこと……ううん、ごめんね研二くん。その……巻き込んでしまって】
「……あのさ。オレはそう思ってないから、謝らないで?」
【……ありがとう、かな。こんな時は……】
「そだねぇ……でも、どんな事でもお礼言われると嬉しいよね! ねぇねぇ、クチナシちゃん。それより……今度の連休、どこ行きたい? オレも珍しく連休取れたから、クチナシちゃんの行きたいところ、連れてってあげたいな」

 ……たくさんの旅行雑誌をテーブルに広げながら、向かいに座るクチナシちゃんに問う。広げられた記事にうろうろと視線を彷徨わせるクチナシちゃんの表情は相変わらずのポーカーフェイス。テーブルの端に置かれた……禁書、だったっけ? クチナシちゃんの言葉が浮かび上がる本。それとクチナシちゃん本体の顔を交互に見ながら、彼女の返答を待つ。

 最近わかった事だけど、クチナシちゃんは男女の関係……というか、“そういう”雰囲気に持って行こうとするのを極端に嫌がる。
 例えば、健やかな寝顔を覗き込んだとき。
 例えば、意図せず触れた指先を認識したとき。

 そのあらゆるシュチュエーションを、尽くかわされたとなると、これはまぁ……恋愛恐怖症の類じゃないかと思うのは必然なわけで。
 そう思ってからは、わざと“そういう”空気を醸し出したりして……そしてわかったのは、クチナシちゃんは、異性では無く“恋愛感情”に対してとても恐怖心を持ってるってこと。
 前に月夜が言ってた『裏切られた記憶』が、今もクチナシちゃんを占めてるんだよなぁ。
 それを払拭せんと、この連休をもぎ取ったオレを誰か褒めて……くれないか。米花町の犯罪率は異常な数値をキープしている。

【……あの、研二くん】
「ん? どしたの」
【その……わたしだと、決められないから……研二くんお任せコースとか、ない……かな?】

 上目遣いにそう問われれば、漢たるもの、答はひとつしかない訳で。

「いいの? ……オレの、お任せで……?」

 必死に下心を隠しながら問うと、それを知らないクチナシちゃんは花が綻んだみたいに破顔する。

【もちろん。研二くんとなら、どこに行っても楽しいよ】

 ……こういうの、殺文句って……いや、やめとこ。

「じゃあさ、この……は、どう?」

 そう提案したオレに、クチナシちゃんは【研二くんが、行きたいのなら】と、水色の双眸を緩ませながら答えた。





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