■ 殺人鬼の愛しき歌声

 それは微かな旋律だった。
 目を開くと、窓辺に女が佇んでいる。薄いカーテンの向こうから差し込む月の淡い光を浴びて、その白い肢体は透き通るかのようだ。

「…何をしてる、※※※」

 声を掛ければピタリと旋律は止んだ。代わりに耳に痛い程の静寂が訪れる。
 その中でぽたり、と水滴が地面を叩く音が響いた。不規則な音の連なり。ぽたり、…ぽた、ぽたり。
 女の両の腕はだらりと下げられている。その片方、右の手には鈍く光る白刃があった。刀身の半分は赤黒い液体に濡れている。切っ先から垂れた滴が磨き抜かれた床を汚していた。

「……人はね、とても簡単に死ぬのよ、サー」

 囁くような声音で紡がれた言葉は、無感動な調子で空気を揺らして立ち消える。感情の乗ったそれというよりも、単に事実を提示しただけといった雰囲気だった。
 それから今しがたの己の発言をまるで覚えてもいないかのように、女は続ける。

「今日は月が綺麗」

 女の瞳孔は開ききっていた。
 普段のそれではなく、数瞬前の彼女とすら異なる面差し。白魚のような手がゆるりと持ち上げられ己の頬を辿った。歪に指の通り道が描かれ、また手は所在なげに下げられる。

「クロコダイル…私、もう我慢出来ない」

 ぽつりと告げられた言葉。呼応するように女の手から刃物が落ちた。
 脱ぎ落とされた衣服の下に隠されていた体はやはり白い。所々付着した赤い液体とは別に、太股を伝うものがある。それは遠目にも、柔肌の上で淫靡な輝きを見せていた。

「抱いて、何も考えられなくなるくらい」

 ベッドに乗り上げた女の唇が懇願するように喘いだ。
 抱き寄せると、そう寒くもないというのに女の体は冷えきっていた。ふる、と肩が震える。怖い、と女は呟く。

「私が私でいられなくなる、どんどん食べられていくの、あんなの私じゃないもう誰も殺したくないもう嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」

 声は最早譫言にも近かった。



 クロコダイルが出会った頃、女は殺人鬼であった。訳もなく人を殺しては違う土地へ行きまた人を殺す、そんな生き方をしている女だった。
 その頃は彼を“サー”と呼ぶ方が主人格で、“クロコダイル”と呼ぶ方は副人格だった。女は常に血の匂いを体に纏い付かせ、哀しげな声で歌っていた。彼女は一見殺人鬼などには見えず、だからこそどこまでも純粋に殺人鬼だった。
 だがそのうちに、彼女の人格はくるりと入れ替わった。主人格が副人格に。副人格が主人格に。殺人鬼は眠りに就いた。浅い、微睡みのような眠りに。そして時折目覚めては、前と同じように人を殺すのだ。
 目覚めの頻度が高くなってきているのは、つまりそろそろまた人格が交代する時期なのだろう。そういう時の女は酷く不安定で、必ずと言っていい程にクロコダイルを強く求めた。
 丁度今この時のように。



「、※※※」

 こちら側の女の意識は数日もすれば眠りに就き、暫くは出てこなくなるだろう。殺人鬼の方はこうして擦り寄ってくることはないから、この柔肌を堪能出来るのも今のうちだ。
 クロコダイル、クロコダイルとそれ以外の言葉を忘れてしまったかのように女の口から漏らされる喘ぎ。その声はあの、細い歌声と全く同質だった。本人なのだから当たり前だが、こちらは歌など歌わない。旋律を紡ぐのはいつでも、あの謂れなき殺人鬼の方だ。
 悼むような、哀しむような、独特の調べ。

「何も考えるな、何も考えずにさっさと眠っちまえ」

 恐れ泣いて怯えても、必ず人格はどこかで入れ替わる。それならばせめて、明瞭な意識のない方が幸せだろう。
 腕の中の嬌声が物憂い歌声に変わることが、少しだけ惜しくもあり、そして楽しみでもあった。







生きる為の赦し/生きる故の殺し

14.11.28


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