熱い。体中が熱い。
苦しい。息が苦しい。
痛い。胸の奥が痛い。
ふわりふわりと浮上しているのか降下しているのかただただ漂っているだけなのかは分からない。ただ、感覚として苦しみやら痛みやらはやけに主張してくる。おまけにぼんやりと視界として見えてきた目の前に広がる数字の羅列に体全体が拒否反応を示している。ああ、消える。このままでは消される。何故だかそう直感した。
誰か、誰かいないのか。私のこの痛みを苦しみを取り払ってくれる人は。此処から助け出してくれる人は。
もがく。もがく。もがく。どうして生きようともがくのかと問われれば分からないけれど、生憎ここにはそんな問いかけしてくる輩は居ない。そうだ、いつだって私以外、誰も。誰も―。
「フォウ」
その声に一気に感覚が持っていかれる。何も感じない。ただただハッとして、元々どうなっていたのか分からない顔をその声の方へと向ける。
「フォウ、フォウ!」
あれ?デジャブ?のような気がしなくもない。白い毛玉が私を不思議そうに見つめたままそこに存在している。またお前か。自然とそう脳内で吐き捨てたあたり、やはりこのシチュエーションはデジャブ以外の他に何もない。
なら、やるべきことは一つ。そう思うとほぼ同時にクルリと踵を返すようにして歩き出すその毛玉。まるで私の考えを読んでいるようなその態度に驚かされるが、やはり私の選択はあながち間違っていないらしい。地面についている感覚も、前に進んでいる感覚もないままもがくようにして毛玉の後を追っていけば、徐々に眩い光が一点…見えた。ああ、あれは出口だ。
今度は確かに浮上する感覚と共に意識を取り戻す。擦れる布の感覚を背に、淡い眩さに何度も瞬きを繰り返しながら自分の置かれている状況を把握する。
「………」
白い空間だった。ピントが合った視界に飛び込んできたのは白いシンプルな天井。そして自分はベッドに横たわっているんだという柔らかい感覚を背に、静かに息を吐く。と、
「おう、起きたか」
「…ッ?!!」
その声に無意識に視線が動く。とたん、心臓が飛び出そうになる。微かな痛みに悲鳴を上げた体を無理やり飛び起こさせて思わずベッドの上で後ずさり気付けば手を翳していた。
「あ、アンサz―んぐっ!!」
「おおっと」
記憶の片隅にあったその言葉を紡ごうとした途端、口を大きな手で意図も簡単に塞がれる。紡がれることのなくなった最後の一言が変な声へと変わり、視界に飛び込んできた青に徐々に覚醒してきた脳裏で状況を理解する。スッと近づいてきたその自分の口を大きな片手でいとも簡単に塞いでいる綺麗に整った男の真紅の瞳がスッと細められた。
「へぇ、ルーン魔術が使えるマスターか。はは、優秀優秀。けど、向ける相手が違ぇわな」
気付けば、攻撃を向けるために翳していた手も彼の空いているもう一方の大きな片手に捕まっていた。しっかりと、しかし痛みがないぐらいに優しく私の手首を掴まえた彼は困ったように笑いながらも私をしっかりと見つめて優しく声をかけてくる。
「まぁ落着け、な?俺だ。俺が分かるか?ん?なぁ、マスター」
忘れる訳が無い。自分の前に突如現れ、私を殺そうとしていた輩から私を守ってくれて、華麗な槍捌きに、その敵陣に颯爽と乗り込んでいく頼もしい背中…そして、私の事をマスターと呼んだこの男の事を忘れる訳が無い。いや、寧ろ自分が覚えている気を失う前の出来事が、彼は夢だったのではないかと思っていた事もあって少し驚いただけだ。突如声をかけられてとっさに身を守ろうと体が動いてしまった。彼だと鼻から理解していればこんな攻撃を向けるなど、そんなことする訳が無い。
上がっていた息が徐々に落ち着くのを感じる。その優しさを含んだ声色と彼の表情に落ち着いて行く自分を感じながら、言葉を発せない代わりにコクコクと小さく頷けば彼はまた優しく「いい子だな」なんてまるで子供に言うように笑って静かに私を捕えていた手を離す。
「………」
「あー…図分と魘されてたみてぇだが…」
「貴方は、何?」
「あ?」
スッと離れていく熱に固まったまま彼を見つめていると、彼は少し困ったように表情を崩して首の後ろを掻くような仕草をした。どう話を切り出していいのか分からなくなってしまったのだろう。だから、素直に私は思ったことを口にした。
「サー、ヴァント?に、聖杯戦争?…一体何?」
「あ?何言って」
「知らない…。私、そんなの知らない」
「………」
此処で目覚める前の気を失う前の記憶。脳裏を過ぎる幾つもの黒い影と彼との会話。飛び交う言葉に、激しさを増す戦闘。サーヴァントという存在がそもそも何なのか。ベッドの脇に腰をおろし、こちらを驚いたような表情で見つめてくる目の前の彼は一体何なのか。"人ではない"と言う核心があるだけでこんなにも不信感が募るものだろうか。
もしかして彼も私の命を狙っているのかもしれない。なんて、さっきまでの彼の印象を丸々180度引っくり返すような考えまで浮かんでくる。思わず引き寄せた自分の膝を抱えるようにして少しでも彼から距離を取ろうとする私を見て、彼は複雑そうな表情をした。
「私、マスターなんかじゃ―…」
声が震えた。あからさまに彼に対して恐怖と不信感を抱いていることが丸わかりな態度だった。傍から見れば彼を傷つけたかもしれない。自分でも分かっていたのだ。さっきまで良い方に考えていた筈なのに、急に自分の理解が追いつかない彼の存在を改めて目の当たりにして恐怖しているなんて、なんて都合のいいヤツなんだと。
「…嬢ちゃんには見せた方が早えか」
急に距離を取り始める私に最初こそ、何言ってるんだというような視線を向けていた彼だが、どうやら本当に私が何も知らない事を理解してくれたのか小さく1つだけ吐息を漏らしスッとこちらに手を伸ばしてくる。何をするんだと思って彼を見つめたまま固まっていると、何やらブツブツと聞きなれない言葉のようなものを呟く。すると目の前の空中に何か小さな文字が並び、次の瞬間消えた。そして、
「見えるか?」
「…何、これ……」
消えた文字と入れ替わるように視界に映り込んできたのは、糸だ。私の胸元と彼の心臓辺りに伸びている淡く紅い色を放つ糸が2人を繋ぐように伸びている。慌てて自分の肌蹴たシャツの胸元から糸の出所を目視する。
人間の視界には限界があるが、そこには身に覚えのないマークが肌にしっかりと刻まれその紋章のような刺青のようなところから彼の心臓辺りに向かってその紅い糸が伸びているのだ。なんだこれは。いつの間にこんな刺青を―…そう言えば胸元が焼けるように痛いときがあったけれど、ちょうど痛みを感じるところと同じ位置に…いや、こんなの覚えが…。
「まぁ、簡単に言っちまえば、マスターとそのマスターに仕えるサーヴァントである証だわ」
少し気の抜けた声に顔を上げれば、ギシリと軋む音と共にグッと顔が近づく。そして私の手を取ってその紅い糸の先、心臓付近に触れさせた彼はその綺麗な紅い瞳で真っ直ぐに私を射抜く。
「嬢ちゃんが死ねば俺も死ぬ」
その声に、嘘も偽りも無い。直感でそう思った。だから私を守ってくれたのかもしれない。自分が死ぬのを回避するために。
「恐らく嬢ちゃんにとっては予期せぬ展開、望まぬ関係かもしれねえが…まぁそういう事だ」
そんな関係を持つなんて、自分の命でも精一杯なのに他人の命を握るなんて状況が人生に置いて起こるなんて予想出来やしない。増してや彼の言う通り望みもしないだろう。彼の胸から微かに小さく聞こえる気がする鼓動の振動に"死"を身近に感じてしまう。サーヴァントと言えど生きているのだ。人ではないにしろ、目の前に存在して生きているのだ。その生き物の命を握っている。ギロチンの紐を握っているようなもんじゃないか。手を滑らせたら終わりじゃないか。そんな関係、私には荷が重すぎる。
「そうは言ってもどうやら今回の聖杯戦争は今までのモンと違うみてぇだし、俺も詳しくこの世界のルールをまだ理解しちゃいない。お互い、未知の世界に来ちまったようなもんだ。そう固まんなよ」
俺もイマイチ状況を理解してねえ。なんて他人事みたいに呟きながらそっと私の手を解放する。静かに空気に溶けるようにして消えていった紅い糸を呆然と眺めながら再び離れた熱に彷徨う手を静かに下ろすと、不意にこちらを見て不敵に笑った。
「それとも今すぐ俺を殺すか?」
「え?」
「簡単だ。"命令"すりゃあいい。マスターがそれを望むならサーヴァントは大人しく消える。ああ、安心しな。マスターは無事だ。死にゃあしない」
ぞっとした。なんでそんな簡単に言えるのだろう。握っているギロチンの紐をいつだって離してくれて構わないなんて。自分が邪魔ならいっそ消えろと命令してくれなんて。そんな、自分の事なのにどうして、そんな簡単に投げ出すのか。
「まぁ、命令は3回使えるみてぇだし、よく考えて使うこった」
そう笑いながら視線を逸らした彼の横顔を見つめる。…違う。この人はきっと消えたくなんかない。戦場を駆けて行くあの背を見ればわかる。彼は生きたい筈だ。じゃなきゃ、私を生かしておくなんてことしない。マスターだろうがなんだろうが、気に入らなければ放っておいてくれればよかったんだ。今すぐ消えてもいいなんてきっと嘘だ。本心はきっとそうじゃない。
もしそうなら、なんで私が死にそうな時に現れたのだ。あのまま私が死んでいれば、彼は呼び出されることも無かったし、マスターとサーヴァントなんて関係を結ぶことなんてなかったはずだ。
「…貴方はそれでいいと?」
「ん?」
「こんな小娘の命令ひとつで殺されて、納得するの?」
力といい、槍捌きといい、きっとそれなりに戦場の経験がある存在なのだろう。そんな戦場を生きてきた彼が戦いではなく、こんな小娘一人のたった1つの命令で死ぬなんて変な話だ。そしてその命令した側は無傷で生きているなんて。私は彼じゃないから彼の気持ちなんてわかるはずないけど、きっと、同じ立場なら、そんなの嫌だ。
「ハハ、そんな事言われたのは初めてだな」
自分でも驚くぐらい落ち着いたトーンで彼に問うと、彼は少し驚いたように何度か瞬きをしながらこちらを振り返った。そして面白いとばかりに小さく笑った。
「…納得も何も、俺達はそういう形で出来てる。理不尽な事も、納得いかない事も全部マスター次第だ。生きるも死ぬもマスターのさじ加減よ。俺達はマスターが死なないように力を振るうだけ。…ただそれだけだ」
何処か遠くを見つめる彼の横顔にどことなく哀愁感が漂う。きっと彼は人間が生きるよりも長く、そして色々な人間を見てきたのだろう。そんな戦場を幾つも駆けてきたのだろう。力が及ばずに何度もマスターを失ったり、自分だけ消されたりと色々な経験をしてきているのかもしれない。まだ、彼を私は知らないから憶測でしか考えられないけれど。
私から再び視線を逸らし哀しげに眼を細めた彼の顔を私は呆然と見つめていた。脳裏が微かに痛みを訴えている。記憶をたどろうとしている脳にノイズが掛かっていく。やはり、私は彼を知って―…。
「おっといけねえ。嬢ちゃんが起きたら呼んでくれって言われてんだった」
唐突に思い出したようにバッと彼がベッドの脇から立ち上がって意識を呼び戻す。誰にそんな事を言われたのかと首をかしげると同時にスッと彼がこちらを見た。
「あとよ」
「?」
グイッと一気に距離を詰めてきた彼がスッと私の胸元に手を伸ばしてくる。何事かと思うとシャツが微かに動き、自分の肌と今まで触れていなかったシャツが擦れ合う感覚がして固まる。
「幾らサーヴァントだからって男の前でそんな胸元おっぴろげて呆けてんのはマズいぜ、嬢ちゃん」
広げたままだった胸元のボタンを丁寧に一個一個止め直している彼。すぐ間近に迫る青とその指先に冷静さを保っていた脳が一気に爆発し、顔に熱が籠っていく。そして気が付くと。
「ッ―!!!」
「んなあああッ?!!!!」
やり場のない恥ずかしさに思わずパアアアン!と何とも華麗な音と共に彼の整った顔の頬に向けてビンタをお見舞いして痛みと驚きで声を上げる彼の身体が揺らいだのと、シュンと静かな音を立てて部屋の出入り口らしき扉が開いたのはほぼ同時の事だった。