ふわりと吹き込んでくる柔らかい風を感じ、落としていた視線を上げて窓の外を見る。良い天気だ。再び吹き込む風が毛先を弄びながら病室の中に心地いい空気を運んでくる。
不意に視線を感じて空気の入れ替えの為に、と開け放たれている病室の出入り口に視線を動かすとそそくさとその場から立ち去るような足音。誰かいたのか、見られていたのか結果的によくわからなかったが首を傾げながらもまた視線を外に戻す。

目を覚ましてから数日、碌に動けなかった体もどうにか動くようになって飲食も軽めのものなら自分で摂れるようになった。とにかく日常生活が送れるようにという指摘から簡単なリハビリも始め、穏やかな日常が過ぎていく―…あの日が嘘みたいだ。私の犯した罪も、逃げ出したことも、失ったものも全てが無かったことになってしまいそうだ。そんなことないのに。
落とした視線の先。ベッドに座る自分の体の上に投げ出したままの左の掌に巻かれた包帯の隅から覗く傷痕を愛おしいものを撫でるように優しく指先でなぞる。そのまま目を閉じれば今までの出来事が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。楽しかった記憶も痛みも悲しみも憎しみも。でも、すべて過去のもの。いくら変えたいと望んでも変えようのない現実に今日もまた脱力するしかないのだ。
息を吐き、脳裏にあの子の事を思い浮かべながら感傷に浸っていると、不意にコンコンと少し控えめのノックの音がして意識を現実に引き戻す。


「調子はどうですか?」

「…お陰さまで」


開け放たれたままのドア部分をノックしたこの人、神宮寺寂雷はにっこりと微笑んだまま室内に入ってくる。ゆっくりとドアを閉め、こちらに歩み寄りベッドの近くに置かれていた簡易的な椅子に腰を下ろした。


「痛みますか?」

「いえ、」


そっと差し出された大きな掌に抗うことなく自分の左手を乗せる。ふわりと包まれた私の手に巻かれた包帯は先生の細くて綺麗な指によってこれまた綺麗に解かれていく。その様をぼんやりと眺めながら小さく深呼吸した。
先生、と呼ばれるこの人は勿論医者だ。しかし世間では神様とまで呼ばれるほどの名医で、あのラップバトルでは"麻天狼"というこのシンジュクディビジョン代表チームのリーダーでもある。つまりは凄い人だ。
どうしてそんな凄い人のところに私が運び込まれたかと言えば、あの夜―…中王区から逃げ出したあの日に偶然にもその場に居合わせたとある男によって運び込まれたのだという。


「痕、残ってしまいましたね」

「良いんです」

「え?」

「この痛みだけは…忘れたくないですから」


解かれた包帯の下に残る、痛々しい傷の痕。あの時ガラスの破片を突き立てた記憶と痛みが蘇る。飛ばしかけていた意識を保とうとしたとっさの行動だが、あの時の自分自身はやっぱり可笑しかったんだと我ながらに思う。
呟いた先で言葉を飲み込む先生は、何も…そう何一つ聞かなかった。私の事を何一つ聞き出そうとはしなかった。普通なら気になって…というより知るべき立場でありながら先生は私が目覚めてからというもの意識が回復するのを待って一から此処に運び込まれた理由を全部丁寧に説明してくれたし、何も聞かずに私を匿ってくれたり、治療にも力を注いでくれた。とても優しい人。


「また、伺いますね」


いや、きっと先生も知りたいはずだ。それでも事情を無理に聞き出そうとしないのは先生が本当に優しい人であり、あの碧棺左馬刻との関係性から彼に信頼を置いているからなのか。
微かな吐息と共に綺麗に巻き直された包帯に添えられた大きな手と熱が離れていく。神様と呼ばれる先生が忙しくないわけないのに幾度となくこの部屋に通ってくれていることに、自分の事を見捨てずにいることに感謝しかない。このままではいけない。そう、先生が顔を見せる度に思ってはいるがどうにも口が動かないのだ。でも、今日は、もう、いい加減に、踏み出さない、と。


「私は…もう生きている意味、無いんです」


私のベッドから離れかけた先生の動きがゆっくりと停止した。俯いたままぼそりと空気に溶けたその言葉に先生の視線がこちらに向いたのを感じる。時間があるならば、聞いて欲しい。いや、今日こそは貴方に聞いてもらわねばならない、とさえ思った。
動きを止めた先生はこれまたゆっくりとベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。どうやら時間はあるらしい。ようやく話す気になった私の意図を読み取ったのか、先生はこちらを見つめたまま静かに吐息した。


「どうして?」


とても優しい声だった。高鳴り始めていた心臓が自然と落ち着いていく。そこから堰を切ったかのように口が動く。上手く言葉に纏められているか分からないけど、今までの私の周りで起きた出来事…全てを話した。今までどんな生活をして生きてきたのか。そして問題の起きたあの日の事、大好きだった弟の事、私が行っていた研究の事…そう、すべてを。
不思議と涙は出なかった。記憶を引っ張り出して、その時の痛みも苦しみも全て思い返していたのは間違いないのに不思議と涙は出なかった。どこか遠い次元の話をしているように、ゆっくりとではあるが言葉を詰まらせることなく今までの出来事を話す私の姿は今思えば異様でしかなかっただろう。
それでも先生は一つ一つ噛み締めるように、真剣に全てを聞いてくれた。聞き入れてくれた。辛かったね、苦しかったね、と何度も何度も私の背中を撫でてくれた。病院内でも私の事は公にされていなかったり、一般病棟とは少し離れた個室の病室のお陰で今のところ中王区の詮索もない。すべて先生のお陰だ。でも、


「私には、生きる糧も、意味も、何も残ってない」


これ以上、こんな私に厚意はいらない。今すぐにでも消えてしまいたい衝動に駆られている女を生かしておいて何になる。先生の優しさに救われている自分が許せなくて、失ったものの大きさに対して自分が生きているこの瞬間全てが憎くて憎くて。この苦しみから開放して。そう願わずにいられない。
幾らリハビリしたって、幾ら体の傷が治ったって私には意味がない。あの子は帰ってこないし、私の罪は消えやしない。今すぐに逃げ出してしまいたい。病院を退院したって行く場所はない。私が息をしていける場所なんてどこにもないのだ。


「そんなこと、言わないでください」


それでも先生は行き場を失った私の感情を離してはくれない。フワフワと覚束ない足取りでどちらが天か地かも分からないほどに自分の存在すら曖昧になってしまった私の手を手放してくれなかった。


「貴方は弟さんの分まで生きないと」

「幸佑の分、まで…?」

「そうですね…弟さんの代わりと言ってはなんですが貴方は弟さんの分まで生きて、楽しんで、色々な世界を見なければ」

「幸佑の代わり…」


先生の言葉を復唱する。それだけで少しばかり胸が軽くなった気がするが、根本的な解決策は未だに見いだせない。今はただ先生の優しさだけが私を生かしている。ただ、それだけ。色んな患者を診てきたであろう先生はきっとカウンセリングのプロだ。私の秘密を知っても尚、感情を表に出さずに飲み込んでくれる先生のお陰でどうにかこの世界に留まっているような感覚。いつ、解けても可笑しくないぐらいの、頼りない、糸。


「まだまだ時間はたっぷりあります。焦らず、ゆっくり、貴方の道を見つけて進んでいけば良いと私は思いますよ」

「……ありがとう、ございます」


小さく頷き、話を聞いてくれた事含め感謝を述べると先生は優しく微笑んだ。チラリと腕時計を確認して立ち上がる。忙しいのに引き留めてしまった事に申し訳なくて口を開こうとすると先生は何かを悟ったかのように片手でそれを制した。


「どうか、焦らずに」

「はい…少し、色々、考えてみます」


では、と短く残して先生は病室を後にする。先生なら口外しないだろうし、これからも匿ってくれるだろう。しかし、改めてこのままではいけないという意識も固くなったのも事実だ。独りになった病室で一つ息を吐く。いい加減、誰かに迷惑をかけるのは限界だ。いや、今更何をしても迷惑かけてしまうのだろうけど。これ以上は。
考えるとはいうものの、何も浮かばない。喪失感と罪悪感が大半を占めているこの体が動くための糧なんて、この世のどこにあるというのだろうか。いっそ、あの時、一緒に―…。なんて思いが脳裏を過ぎってとっさに顔を覆う。


「姉ちゃん」


記憶は声から消えていく、って聞いたことがある。でも私の脳裏にはしっかりとあの子の声が染みついている。笑った顔も、困った顔も、怒った顔も。


「    」


何もかも置き去りにされた感覚。一寸先は暗闇。歩くべき道が何一つ見つからない。優しさが苦しい。誰かを信用するのは疲れた。一体、私には何か残っているというのか。
顔を覆った手の指の隙間から見えたベッドの傍らに置かれた簡易的なテーブルの上に転がっている少し曲がって拉げた1つのマイク。此処に運び込まれてからずっと私が肌身離さず持っていたというソレは先生が処分せずに大切に保管してくれていたもの。気づけばそのマイクをそっと手にもって抱きしめて泣いていた。






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