※このお話には刀剣の破壊や破損、戦闘、悲痛などの表現が飛び交っております。
そのような表現、お話が苦手な方は閲覧せずにブラウザバックする事をお勧めいたします※








それは、いつもと何ら変わらないとある1日の筈だった。

一時的に現世に帰る用事が出来て、大きなビニール袋一杯に現世のスーパーで買ってきた短刀達の大好きなお菓子を両手に持ちながら私は自身の本丸へ向けてログインを開始する。皆良い子でお留守番していただろうか。遠征組はもう帰ってきている頃だろうから、久々に顔が見れるな。
そんないつもと同じく心を躍らせながらログイン先の大きな鳥居、私の本丸の入口をいつものをように潜る。だが、薄っすらといつもよりも本丸へ続く杉並木の並ぶ石段を上がる度に何かひんやりとしたものを感じた。具体性は無いが、何かの思い過ごしかと思ってその時は何とも思わずにそのまま石段を駆け上がる。

本丸の姿が見えて、ようやくフと何かが可笑しいような気がした。

庭にも玄関先にも内番の刀たちは愚かいつも賑やかに遊んでいる短刀の姿も見えない。いつにも増して静か過ぎる。本丸を囲う森も、いつものように自然の鳥や小さな獣たちの気配すら無い。
拭いきれない違和感を感じながら玄関先に立つ。何でもない何でもない。きっとみんなお昼寝でもしてるんだ。私が帰ってきたことを知れば短刀達がいつもみたいに出迎えてくれる。きっと光忠がお帰りって笑ってくれる。皆がお帰りなさいって言ってくれる。いつもの光景が脳裏を過ぎった。


「ただい、ま…」


ガラガラガラガラ…古びた引き戸の音を響かせ玄関の扉を開く。スンナリと開いた先に広がっていたのは、いつもの光景では無い。


「…な、なに…これ…」


ガサリ。お菓子の詰まったビニール袋が玄関先に落ちる。ガクガクと足が震え出し、予想だにしない目の前の光景に声もまともに出なかった。

その光景を一言で言えば…紅、か。

玄関先の柱や壁に刻まれた刀傷。まだ新しい。そして幾つもの紅い点と線のように舞った跡。誰かが怪我をして帰ってきたという状況でも光景では無い。これは、明らかに何かがこの本丸の中で起こっている。そう思うと同時に自然と体が動いた。土足のまま本丸の中に上がり廊下を駆ける。


「(みんな…みんな何処だ…!!!?)」


食事処にも居ない。厨にもいない。兎に角奥に向かって駆ける。視界の隅に転がっている見覚えのある柄と折れた刃先を見なかった事にして、ひたすらに駆ける。まさか、そんな馬鹿な。
似てる刀が転がっているだけだ。きっとそうだ。敵か何かが乗り込んできたと考えて良い。あれは敵の刀だきっとそうだ。だって、だって私の本丸の皆は強いんだから。だから、あんな、あんな、薬研や乱、蜂須賀に鶯丸が折れて転がってる訳ない。


「(何で…何で…何で…!!)」


何で、本丸の皆に似た刀が折れて廊下や部屋に転がってるんだ。何で部屋が紅いんだ。誰でも良い。誰でも良い。返事をして。悪い夢だと言って。鶴丸の、いつもの笑えない悪戯だと言って。私の負け。滅茶苦茶驚いたから、だから、皆―…。

本丸のかなり奥…私の部屋に近づくにつれ、肌で感じるほどに濃い瘴気に自分が近づいている事に気づく。何か、何かが居る。そこに、皆もきっと。そう信じて視界に飛び込んでくる紅とその色の傍に折られた状態で転がっている見覚えのある刀達を見なかったフリを続ける。
しかし違うと脳裏では分かっている筈なのに、本能で「あ、あれは蛍丸の刀身だ」とか「あ、光忠の柄」とか「獅子王の鍔、今剣の鞘だ」とか瞬時に思いついてしまう。だって、ずっと長い事一緒にやってきた大事な家族だから。

スパン。

自身の部屋の前に立ち、瘴気がかなり濃いと分かっていながらも何かに縋るように私はその襖を思い切り開いた。刹那、見覚えのある綺麗な目と目があった。けれどその眼はいつも私を見つめる優しい目じゃない。驚いたような、哀しいようなその見開いた眼を私に向けたまま、彼は小さな声で言った。


「ある…じ……」


パリン。


「…か、しゅ…?…ッ!加州!!!」


聞きたくない音と共にゴトリと畳に落ちる折れた刀。嗚呼、私は彼を知っている。加州清光だ。私の、初期刀―…。慌てて部屋の中に飛び込み、折れた彼の傍に膝を着く。どうしよう。どうしよう。どうしよう。手入れ部屋に…否、間に合わない今すぐに応急処置を―…。
オロオロと成す術を無くし、畳に膝を着いたまま固まっている私の前に立つ、大きな影が掛かっているのにしばらくして気付いた。畳の上に転がった彼から恐る恐る視線を上げれば、そこに居たのは見覚えのあるシルエット。だが、ウチの本丸には居ない筈の存在がそこに立っていた。
此方を見つめたまま、立っているその大きな影は私を見るなり少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに目をスッと細めうっとりと愛おしいものを見るように…しかし、それよりも確実に薄気味悪い表情でニタリと笑ってその手を此方に向けた。


「おぉ、そこにおったか。探したぞ」


その声は正しくあの天下五剣の古株の声。それは私の本丸にはまだ顕現しておらず、幾度となく皆に遠征やら鍛刀やらで顕現してくれることを願っていた。…だが、違う。"気"が違う。そもそも見た目も姿形は私の知っているそれだが、全体的に―…"黒い"。時間逆行軍とも検非違使とも違う。その瘴気の正体がコイツである事に気づくまでそう時間は掛からなかった。


「ッ…」


ジリジリと近づいてくるソレに体の震えが止まらない。膝を着いたままの態勢から上手く立ち上がる事もままならず、尻餅をついたままズルズルと後ずさりする何とも間抜けな状態で逃げるしかなかった。
伸びてくる手が徐々にその距離を詰める。もう、何が何だか分からなかった。視界が涙でいっぱいになる。歪む視界に、遂には部屋の隅にまで追いやられて逃げ場を失う。そこでようやく脳が理解した。嗚呼、嗚呼、皆、皆コイツに―…。今まで通路に転がっていたのは見間違いなどでは無かったのだ。皆コイツに―…。


「キエエアッ!!」


キン、金属と金属の擦れあう音。バッと視界から遠退く黒い影。ガシリと腹回りに回されたその逞しい腕が私を乱暴に抱えたまま走り出す。


「ったく、なんつー時に帰って来てんだ。お前は」

「ま、正国?!」


私を抱えたまま走り出したその黒い影が苦しそうに言い捨てた。彼こそ私の近侍であり、第一部隊隊長の"同田貫正国"。将にその刀である。しかしいつもとはかなり違う。遠征や出撃に行って重傷を負って帰ってきた事はあったが、今までにこんなにも傷ついた彼を見た事があっただろうか。否、無い。気を抜いてしまえば今にも折れそう、そんな気がした。不意に目の前で加州が折れた光景が、廊下や部屋に転がっていた刀達の姿を思い出して体の震えが止まらなくなる。


「ま、まさ、」

「札!!」

「…え、」

「得意だろうが!札貼れって言ってんだよ!!」

「ッ…!!」


その声に体を奮い起こす。未だに震えの止まらない手をどうにか動かし、懐に忍ばせて置いた札をあちこちに飛ばすと、飛んで行った札が柱や壁、襖に貼りついた。札をあちこちに放る私を抱えたまま正国は隣の部屋へと続く襖を開けて一気に駆けこむ。
隣の部屋へ、部屋へ、通路へ。兎に角外に出なければと入り組んだ本丸の中をぐるぐると駆け回りながら奴から逃げ続ける。真っ直ぐに玄関に回れば先回りされかねない。それをかれも考えてくれているようだった。それにアイツを一緒に外に出す訳には行かない。あれは本来、此処に居てはいけないモノだ。

逃げていると同時に、正国のようにまだ人の形を保っている者が残っているのではないかと無意識の内に探していた。しかし、どの部屋を漁っても目に映るのは紅の跡と刀だったモノばかり。
日も落ち始め、電気を点けていない部屋は既に暗闇に包まれている。最早他に誰も居ないのか、そう思いながら次の部屋に移り、また襖に向け札を投げつけるとピタリと札が襖に貼りついてスススス…ピタンと閉じていく。そう簡単に解けるものでは無いから少しでも奴の足止めになるだろう。


「此処までくりゃぁ少しは休めんだろ」

「ん……」


上がり切っている息の合間を縫って声を上げる正国がようやく私を床に下ろし、解放する。しかし体の震えが止まらずに上手く立てない。それを察してくれたのか何も言わずに腕を貸してくれている正国に甘えてしまう。重症以上と分かっているが今は正国に掴まっていないと、可笑しくなりそうだ。誰かが、傍に居ないと。


「…ぁ…?そこにいんのは審神者か…?」


間の抜けた声が薄暗い部屋の奥から飛んできて、正国がとっさに私を庇うように刀を構えながら声の方へと慌てて振り返る。と、ぼんやり薄暗い部屋の奥で壁に背を預けている1つの人影が見える。


「…ッ御手杵!」


その姿を見た途端、とっさに体が動いた。正国の腕から離れ、慌てて壁に寄り掛かったまま息も絶え絶えになりつつある御手杵に駆け寄る。此方もボロボロで正国と同じく重症以上。もう自身である槍本体を握る力も無いのか、槍本体が畳の上に転がり、腕も力無く投げ出された状態のまま。そして何より脇腹ににじみ出ている赤い染みの広がり具合が恐ろしいほどひどかった。


「無事、だったか…」

「お前もな」

「…!!……正国…眼…」

「あぁ?大したことねぇよ」


力無く笑う二振り。否、明らかに大したことがある。先ほどまで担がれていた為に気づかなかったが、膝を立てて腰を下ろす正国の片目が一筋の刀傷によって塞がれていた。未だに出血が止まっていないようで彼の瞼から零れた紅が畳に染みを作っている。そっと彼の瞼に手を触れ気を送る。が、いつものように上手く流れ込んで行かない。同じく傍らに腰を下ろしている御手杵の手にそっと触れて気を送るがこちらも上手く流れて行かない。ほぼ私の送っている気は彼らの中に取り込まれる事無く、無残にも空気中に溶けていると見て間違いないだろう。
やはり彼らはその見た目通り、今すぐに手入れ部屋に駆けこまなければならないほどの重傷を負っていると見て間違いない。急いで此処から脱出しなければ。


「何が…あった…?……否…何だよ、アレ…」

「…さぁ、な…でも、刀じゃねぇってのは確かだな」

「突然、襲い掛かって来やがった」


私一人で二振りをこのまま連れて逃げるには無理がある。取り敢えず一度本体に身体を戻して運ばねば―…そう思いながら震える指先で懐にしまって置いた札に術式を書きこみながら問うと、2人もさっぱりだとばかりに視線を逸らして険しい顔をしていた。
あの禍々しい瘴気は何だ。今までに怨霊やら妖怪やらといった部類は現世での職業柄よく関わったりはしたが、明らかにアレは別物だ。近くに居るだけで一般人であれば失神か、かなり気分を害するほどの濃い瘴気。アレが刀の訳が―…ない。
とにかくお前らが生きていてくれて良かったと思いつつすっかり力が抜けてしまい、その場に座り込んだまま札を貼ろうと手を伸ばした―、その時だった。


「ふーむ。これが俗に言う鬼事、というものか?我(おれ)は鬼事をしたことがないから分からんが…」

「「「ッ…?!!」」」


不意に聞こえた、思ったよりもかなり近い声。いつの間にこんなに距離を縮められていたのか、トン、トンッと畳を踏む足音が近づくにつれ、ようやく治まりかけていた鼓動が再び激しく脈打つのを感じる。それは傍に居た2振りも同じのようだった。
先ほどまでの少し弱弱しく声を上げている姿から一変、正国はサッと身を起こし刀を構え、御手杵は片膝を着いたまま私を庇うように片手で私を後方にひっぱって庇うと、そのままジーっとその刀を正国が見つめている襖の向こうを見つめている。と、いきなりバチバチバチッ!!と目の前の襖に電流が走ったのが見えた。


「ほぉ、これはまた面白い術じゃな」


馬鹿な。札の電流を受けて傷一つ負って居ないなんて。初歩的なモノとは言え私の家系に伝わる術式の刻まれた札の技を受けて立っていられるなど…。その電流で殺せやしないにしても、大概の刀や霊的なものは一時的に身動きできなくなるか気絶するはずなのに…そんな様子も無く、依然と普通の調子で飛んでくるその声にゾワリと全身に鳥肌が立つのを感じた。そしてスパンッ!とこれまた見事な音と共にバラバラになった襖と札。嗚呼、そんな、そんな馬鹿な…。


「見つけたぞ、主」


バラバラと無残に散らばる襖と札の向こうでニタリとこれまた薄気味悪い笑顔で笑うソレの姿。その声色はいかにも楽しそうで、高揚しているようにも思えた。ソレとは裏腹、此方は鳥肌と震えが止まらない。何だ、コイツは。本当に、こんなモノが何故この本丸に―…。


「オメエの主じゃねえだろうがッ!!」

「正国!!」

「これはこれは。まだ生きておったか」


ギンッ。鈍い金属の擦れあう音。気付けば、傍に居た筈の正国が目の前の黒いソレと鍔迫り合いをしていた。今にも折れそうなほど傷ついている彼を見ればそれが如何に無謀な行為か、分からない訳がない。


「さっさと行け!」

「でも…!」

「…良いから…行けッ!!」

「何処に行こうというのだ?」


御手杵の傍らに座り込む私は、すっかり怯えきっていた。キインキインと刃と刃がぶつかる音。別に戦場を知らなかった訳じゃないし、目の前で自身の刀剣男士が傷ついたり戦っている姿を見るのは初めてじゃない。その点に関しては怖く等無かったはずなのに、その未知の強敵に怯えてしまっていた。
ギュウッと御手杵の袖を掴みながらその光景を涙ながらに見つめるしか出来なかった。どうにか体を動かそうと思うのだが、動かない。するとギリギリと目の前に迫る黒いソレを抑え込もうとする正国の言葉に対し、とてつもなく冷たい声がピシャリとその会話を切り捨てた。


「主はこれから我とこの本丸に住まうのだ。永久に……そして、この本丸に我と主以外は要らぬ」


冷めきった、眼だった。その眼に正国も御手杵も映ってなどいない。ゾワリと背筋を駆け上がるその感覚に本当に涙が弾け飛ぶ。そして、ソイツはグイッと一気に力を込めて正国を押しのけるとその一瞬の隙を突かれふら付く正国に向け、大きく刃を振り翳したのが見えた。


「さっさと去ね」

「なっ?!」

「止め―――ッ!!!」


動かない体が、これほど憎いとは。どうにか伸ばした手も届かない。薄っすらと妖艶な笑みを浮かべ、刃を振り下ろしたヤツの顔の前で微かに此方を振り返った彼の姿が見えた。「逃げろ」そう今にも言おうとしている表情だった。そんな気がした。けれど、それは声になる前に―…。


ザシュッ!!―――…バリン。


鮮血の花びらが舞う中、彼が目の前に倒れ込んだ瞬間。本来の姿に戻った彼が…綺麗なほどに中心部分から真っ二つに折られた彼が、変わり果てた姿で畳の上に転がった。瞬間、刃の破片がピッと自身の頬を小さく斬った。でも、そんなの気にも止まらなかった。目の前の光景が信じられなくて、震えが、止まらない。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ…。


「いや…いやだ、そんな、何で…何で…!!!」

「嗚呼、そう泣いてくれるな主。我以外の刀など、もう要らぬのだから」


畳に転がる彼などまるで興味無さそうに優しい声色で囁くように言うヤツが一歩、近づいてくる。その足先が微かに視界に入った瞬間顔を上げる、とヤツと目がバッチリとあった。私はどんな顔でヤツを見上げていたのかは分からない。
が、確実に此方がヤツを見る目には怒りや憎しみや悲しみが籠っていた筈だ。なのに、憂いを帯びた視線が此方をジッと見つめている。それすら、恐ろしくて動けない。でも、ヤツはゆっくりとその距離を詰めてくる。瞬間、フとしっかりと掴んでいた筈の袖の感覚が消えた。


「ぅ、おおおおおおお!!!」


ドスッ。鈍い音が響く。私とヤツの視線上に飛び込んできたのは緑の大きな背中。他の誰でも無い、御手杵だ。今まで壁にもたれかかったままで動く事すら辛い筈の彼が残っている力を振り絞って傍に転がしていた自身の槍を拾って構えるや否や、一気に間合いを詰めるとヤツの脇腹付近にその剣先を突き立てたのだ。


「御手…!!」

「ほほぅ…その傷でまだ動くか…。やれ、槍とは面倒な…」


ジワリ。ヤツの腹部に滲みだす黒い染み。それを見てやはり普通のモノでは無いことが分かる。しかしこれで動きを止めるだろう―…と思いきや、刺された当の本人はケロッとした表情のまま自身の腹部を刺している御手杵の槍を見ている。


「…逃げろ!」

「御手杵!!」

「逃げろ…っ!!」


それを見て、御手杵の顔色が更に青ざめていくのが分かる。彼も分かったのだ。自分達が相手にしているのは普段から向き合っている敵とは全くの別物。未知の世界のモノだ、と。そしてそんな存在に自分が到底敵う訳がないということも。

ドッ、再び鈍い音。なんと自分の腹部を刺している御手杵の本体を掴んだまま、黒いソレは槍には間合いで勝てる筈ない事を分かっていて、思い切り腕を伸ばして自身の持つ刃を御手杵の胸部の中心辺りに向け放ったのだ。


「ぐッ!!」

「まぁ、槍とて手負いの槍ならすぐ済むか」

「御手杵…!!」

「構うな行け!!」


そんな刺さり方をするのかと思うぐらい、胸部に見事に刺さった太刀。思わず、よろめく御手杵にそれを見て一気に脇腹の槍を抜こうと手を掛けるソレ。しかし御手杵はふら付く自身の体を支え、踏ん張るとヤツを睨み付ける。ヤツの腹部から槍が離れた瞬間、御手杵は一気に斬り伏せられるだろう。
…私が逃げ切るまで、どうにか抑え込むつもりだ。そう、分かってはいるのに体が言う事を聞いてくれない。否、聞きたくない。彼をおいてなんていけない。皆を置いてなんていけない。もしかしたらヤツの強さとその正体不明という存在の恐ろしさに半ば、諦めていたのかもしれない。逃げるという選択肢がポッカリと私の頭から抜け落ちた。ハハ。薄情なやつ。正国も言っていたし、きっとみんなも「主、逃げて」と言っていたであろうに逃げずに呆然とその光景をただ見つめている私。何も、もう何も、出来ない。そう思った。

が。


「…?」


不意に聞こえるカタカタという音。その音にハッと目を見開いて視線を向ける。視界の隅に飛び込んできた彼が微かに震えている。御手杵とヤツの競り合いのせいでも、小さな地震が起きている訳でも無い。だが、確かに震えている。それも不自然なぐらい、小刻みに。


「(まさ―…、)」


そこまで言葉が思いついて、気が付けば一気に畳の床を蹴って飛び出していた。自分でも信じられないぐらいの速さで畳を駆けるとそのまま床に転がった彼の柄を手に取り、構える。そして、その手に取った彼に残っている霊力全てを一気に注ぎ込む。下手をすれば、死ぬかもしれない。でも、そんな事考えている暇なんて無かった。


「ッ!!ああああああああああああああッ!!!!」

「何…?!」


スパン。真っ直ぐに、そして正確に、その太刀筋は綺麗にヤツの喉元を一閃に斬り捨てた。驚くヤツの声を最後に、人型となっていたそれが静かにヴゥヴンと少しデータ化したような音と共に闇に溶けるようにして消えていく。他の刀剣たちのように元の刀の姿…否、実態が無いのだろうか。そこには何も残らず、何事も無かったかのようにその存在も気も一瞬にして消え去った。


「ハッ、ハッ…ハッ……ッ!御手杵!!」


姿が消え、気配も無くなったそれを眺めながら上がった息を整える間もなく、その場に半ば倒れ込むようにして座り込む御手杵に慌てて駆け寄る。彼の胸部に刺さっていた刀もすかり跡形も無く消えている。が、彼の傷は本物だ。


「御手杵!御手杵!!」

「逃げろ、って、言った…のに」

「今…今、手入れするから、」

「…馬鹿だな…アンタ」


フウッと息を吐きすっかり動けなくなっている御手杵に潤む視界の中、必死にしがみついて生きてて良かったと繰り返す。まるで存在が無かったかのように消えたヤツがもしかしてこれは夢なのかと思ったが、御手杵の傷もあちこちに転がっている刀剣の皆の本体も、皆、本物…これは間違いなく現実だという事を思い知らされる。兎に角御手杵を手入れ部屋に―…


「いやぁ、これは驚いた」


息が、止まった。はっはっは、という笑い声が後ろから聞こえてくる。御手杵に縋りついた手がギュウっと彼の上着を握りしめる。治まりかけていた恐怖が競り上がってくるのが分かった。振り返るのが、怖い。けど、人間の性なのか、とっさに振り返ってしまう。


「まさか折れた刀で切られるとは。さぞかし思い入れのある刀といった所か?」

「……嘘…」


先ほどまで消えていた存在も気も、今目の前にある。何故だ。今さっき、確かに、ヤツの首を―…。床に置いたままの折れてしまった彼を視界に入れる暇もない。最早霊力を込めて彼をもう一度振るったとして、勝てる気がしない。札も効かない、斬っても死なない相手に、どうしろというのか。


「…化け…もの…!」

「ホホ、これはこれは…酷い事を言うなぁ、主よ」

「私はお前の主なんかじゃ―…!」


口調と動きは優雅そのものだが、やはりその存在は恐怖でしかない。ジリジリと距離を縮めてくるソレに視線を向けたまま既に動く事すらままならない御手杵の頭を抱きしめる。もう動くだけでもかなりの負担の筈なのに戦おうとして上体を起こしかけている御手杵を守らなければ、と脳裏のどこかで思っていた。もう、誰も失いたくない。それだけだったのかもしれない。涙が弾ける。怖い。しかしフとヤツの動きが止まる。何かと思ってジッとヤツを見つめると不意にヤツの赤黒い瞳が微かに揺らいだように見えた。


「何を言うておる。約束したではないか」

「…お前こそ、何を言って―…」


少し哀しそうな表情に見えた、そんな気がした。微かに伸びて来たその指先が自分に触れようと近づいてくる。が、不思議と震えは止まっていて、意識が遠くに飛んで行ってしまったように頭が真っ白になった。このまま自分は死ぬのだろうか…。否、死ぬんだろうなと思ったのは随分と遅かった。が、


「そこまでにございます!!」


ヒュンっとヤツと私を裂くように目の前を横切った見覚えのある毛玉。その存在に少し驚いたのか「おっと」とヤツが少し後ずさった。


「主様には指一本触れさせませぬ!!」

「こ、こんのすけ…」


フーッとまるで威嚇する猫のように毛を逆立てて私の前に立つこんのすけを呆然と眺めていると、フワリと優しい風の吹く感覚とチリンという綺麗な鈴の音が聞こえる。


「それ以上コイツに手ぇ出そうってんなら俺らが相手になんぞコラぁ」


と、こんのすけの横に並びその羽織を靡かせながら立つ背に私は息をするのを忘れてしまっていた。それを合図とばかりにスッと御手杵を抱える私を守るように横から幾つもの綺麗な刀身がヤツに剣先を向けて並ぶのが見えた。


「しゅ、兄……みん、な…」


「もう大丈夫だよ」と優しく声をかけてくれる者も居れば、「何アレ…」とやはり彼らも知らないその黒い存在にあからさまな声色を零す者も居る。嗚呼、こんのすけが助けを呼びに行ってくれていたんだ、とかなりの急展開の光景を眺めながら呆然とそう思った。


「……新手、か。うーむ…どうやら少々分が悪いようだな」


私を囲う刀剣男士に、札と数珠を持った本気の兄貴の姿を見て少し困ったように呟きながらもその表情を崩す事は無い。寧ろこの光景に仕方がないかと笑ってた。流石に立て続けの戦闘は無理なのか、はたまた一度斬られた身では相手できないと思ったのか…かなりの戦闘を予想していたこちらとしては、思っていたよりもすんなりと身を引いたように感じた。


「またあとでな、主」


スウッと再び闇に溶けて消えていくソレは最後に微笑みながら私の方を真っ直ぐに見てヒラヒラと手を振って消えて行った。「待て!」という兄貴とか他の刀剣たちの声がしたけれど、それ以上の事はハッキリとは覚えていない。ギュウっと意識が朦朧としている御手杵を腕に抱えたままフッと暗くなる視界。「サツキちゃん!!」と慌てふためく声を聞いてそこで私の意識は途切れた。





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