「…何だい"それは"」

「………」

『こらスティーブ。"それ"とか言わない』


ぐったりとライブラ事務所のソファの上で伸びているレオナルドを見るなり、彼―スティーブンは無表情のままコーヒーの入ったマグカップを片手にそう言い捨てる。その声に私はスッと人差し指を口元に当てて静かにと合図を送りレオを気遣う。まったくこの男と来たら…ぐったりと伸びきっているレオにそっと優しくタオルケットを掛けてくれているギルベルトさんとは大違いである。


『行くところが無くなったんだってさ』

「本当に40秒で支度させられる思わなかったとかなんとか」


何でも、レオナルドの借りていたアパートが区画くじに当たり、高級ホテルに建て替えられるとのこと。すなわち、強制退去を今朝突如として大家に言いつけられ、支度を40秒でさせられた挙句に追い出されてきたのだ。余程疲れたのだろう。事務所にたどり着いた途端、紅茶を飲んでいた私とギルベルトさんの目の前でいきなりバタリとソファに倒れ込みながらそう報告してくれた。嗚呼…前から思ってはいたけれどなんて運の無いヤツなんだ、レオナルド・ウォッチ。


「この街で宿無しは命取りだな。"活動資金"をもっとくれてやった方が良いんじゃないか?彼…妹の仕送りも大変なんだろう?」

「受け取らないのです。基本額以上は"特別扱いは嫌だ"と仰いまして」

「…ふうん…」


確かに、此処(ヘルサレムズ・ロット)に来たからには自分の家が無いというのは危険極まりない。レオナルドも此処に来たときは随分と家探しには困っただろうに、また一からやり直しとは。本当に運が無いなコイツ。


「律儀なやつだな」

『ホント。どっかの誰かさんとは大違い』


ズズズ…とコーヒーを啜るスティーブン。そうそう、レオはこんなにも運が無い癖に、欲が無いというかお人よしというか…恐らくこの街には決して似合わない、一番性質が悪いタイプだ。今まで良く生き残って来たものだと改めて思うほどに、このレオナルドという生き物はこの街には似合わない。

バン

未だ微動だにしないレオナルドを横目に、彼とは真逆の性格であるヤツの顔が脳裏に浮かんだその時、半ば乱暴に事務所のドアが開かれ、私もスティーブンもギルベルトさんもそちらに静かに視線を向けた。


『あ、噂をすれば』


ツカツカと何も言わずに此方に向かってくる彼ことザップに嫌味を含んで声を上げたが、彼はその言葉の意味も聞かずに平然とソファにドカリと腰を下ろした。そう、レオナルドの寝ているソファに、だ。
ふごぉ?!!とかなんかくぐもったレオナルドの声がザップの下から聞こえてきたけれど、ソファに腰かけた本人もスティーブンもギルベルトさんもこれと言って、その事に関するツッコミを入れる事は無かった。勿論、私も。…まぁ、それに突っ込みを入れるよりも気になった事があったから、と理由を付けて置こう。


「おいおい、酷い血だな」

「俺のじゃねぇっすよ。ヤク中のチンピラに絡まれたんす」

『絡まれただけで流血騒ぎかい』

「オメーに言われたくねえよ」


ハハ。言えてる。なんて軽く笑って受け流す。私も正直、面倒なヤツに絡まれれば彼と同じ事をしないとは限らない。寧ろ手を出す方が速いかもしれない。まぁ、その話は今は置いておこう。
ソファに腰を下ろしたザップの容姿は一見すると大怪我を負ったように見えるが相手の全て返り血だという。ギルベルトさんが察してザップに濡れたタオルを手渡し、彼が自身の顔を拭くと大方その赤黒い色が落ちていく。彼の説明通り返り血なのだ。しかし、どうしてそんなにも大量の返り血を…。


「洒落にならない勢いで突っかかってくるから頸動脈なで斬りにしてやったんだけど…ありゃあ死んでないな」


…成程。頸動脈をなで斬りすればそれだけの返り血を浴びるのは合点がいく。しかし問題はそのあとである。ザップに頸動脈を斬られて死んでいないなんて―、


『それ人間?』

「手ごたえと断面の構造は」


思わず問いかける。斬られて平気なやつは居ないだろうが、況してや彼が斬ったのは頸動脈。致命傷、確実に死ねる箇所を斬られて生きているなんて人間として可笑しい。人間では無く、この街独特の神様とか異形人とかならまだ納得できたかもしれないが…斬った時の手ごたえと断面の構造は少なくとも人間ということは…嗚呼、変な薬の匂いがしてきた。


「ヘルサレムズ・ロットにはあっち側用こっち側用その両方用、強弱2千からの麻薬が溢れてるからねえ」

「薬って…首切られても死なない人間を作るのが薬物の仕事とでも?」

『…んな馬鹿な』


またコーヒーを啜りながらスティーブンが呑気に話す。確かにこの街には色んな種類の"お薬"が強力な物から微弱なものまで様々な効果の薬がより取り見取りだ。ルートも幾つあるかなんて分からないし、どこに製造工場がおかしくない。そういう街なのだ。此処は。でも、そんな人間の身体そのものを改造するほど強力な薬が―…


「それが、まんざら馬鹿げても居ないんだよ」


スティーブンの言葉に私もザップも動きを止めた。つい先ほど本部から回って来た資料だ、とスティーブンは何処からか文字と写真がびっちりと並んだ紙の束を取り出すとそれを私たちの目の前に差し出した。


『エンジェルスケイル?』

「超高度術式合成"麻薬"。…麻薬というより一時的な人体改造だな」


その資料の中に紛れ込む危険な名前のソレ。シュタインが呟くようにその名を読み上げれば愛らしい名前にも聞こえなくもないが…その実、中身は恐ろしいものだ。


「粘膜経由か静脈注射によって最初に体組織が再構成される。人間ではぶっ壊れてしまう快楽を受けきれるように器から工事しようって訳だな」

『…なるほど?それほどの薬なら普通の麻薬のような知覚の鋭敏化だけじゃなく、筋力や回復力も爆発的に高まる。結果、一時的なスーパーマン…否、狂戦士(バーサーカー)の出来上がりって訳だ』


器が駄目なら器ごと―…なんて発想だ、ぶっとんでる。普通の人間が知っているようなお薬の範囲を超えている。それを一度でも体内に入れた日にはもう、それは人では無くなる。人間(あちら)でも異界(こちら)でも無い、只の化け物に成り果てる。嗚呼、嫌だ嫌だ。そんな最期なんて。


「…ヤバいっすね。金の匂いがプンプンすらあ」

「するね。実際グラム数万ゼーロで取引されてるって話だよ」

「それは"ここ"での話でしょ?"人界"の価格はその2〜3倍は下らないんじゃないすかね?」

『レル・デミソスとバンライ・ミナミガタの二重門超えて?』

「確率は低いね。異界と人界、ここまでの奇跡的均衡を守っているのはあの2人の偏執狂のお陰だ」


そもそもそんなヤバい薬が街のチンピラにまで出回っている事自体が問題だ。これだけでも効果がある薬なら、金もかなり動くだろう。況してやこっちのブツなら人間界での取引は、かなりのものになる事は目に見えている。こんな化け物を作り出す薬を欲しがる狂人があちこちに居るというのも問題だが…。
しかし、そんな薬が出回っていればこの世界の均衡を保っている偏執狂達が黙ってなどいない筈だ。金でも権威でも使命感でも無く、ただ純粋に万象万物を目にし記憶したいという欲求を持ち、それが保証される立場に加えてお互いのライバル心で緊張感を維持し補強しあっているあの2人。あれ以上に強固な関門システムは存在しないだろう。


「だが、ヘルサレムズ・ロットに限らず―、」

『「「 世界は何でも起こる 」」』

『でしょ』

「だな」

「っすね」


幾ら強固な関門システムが有ろうとも、この世界では何が起こるかなんて誰も分からない。明日の事は愚か今日だってどうなるか定かでは無い世界だ。その関門を越える何かがあったとしても何ら不思議はない。
スティーブンとザップと顔を見合わせながら、シュタインは静かにギルベルトさんが淹れてくれた紅茶を啜る。と、不意にピクリと身体が反応する。空気が微かに動くこの感じ―、嗚呼、彼女だ。そう思った瞬間、テーブルの上に乗っていたザップの片方の手の甲が微かに凹んだのを見てクスリと笑った。


『お帰り、チェイン』

「あ?…あ、あだだだだだだ!!!」

「ただいま、シュタイン」


何言ってんだお前。とザップが口を開き掛けたその時、綺麗な黒い靴が彼の手の甲を思い切り踏みつけ、朝から外に出ていたらしいチェインがニコリと笑いながら姿を現した。


『何か掴んできたのかい?』

「ええ、これを観てもらおうと思って」


おりろバカ手が手が手が…!!と突然手を踏まれたザップが声を上げる横で平然とシュタインとチェインが会話を続ける。彼なんてまるで居ないかのように。紅茶をテーブルに置き、ニコリと笑ったまま問いかけると、チェインはスッと何処からか一つのディスクを取り出して見せた。


「何だねそれは?」

「先ほど諜報部が入手した映像です。ホヤホヤです」

「お゛おおお゛おおお゛お゛ッ?!」

『ザップ煩い』


スティーブンがまたコーヒーを啜りながら問いかけると、チェインは慣れた様子でぐりんっとザップの手の甲の上で足を反転させ、傍にあった再生用の機械にディスクを入れる。また悲鳴を上げるザップにシュタインは静かに吐き捨てる。
ヒョイっとチェインがザップの手から飛び降り、ディスクの再生が始まる。天井から吊り下げられたタイプのテレビモニターに徐々にその諜報部が入手したての映像が映し出された。


「≪…大統領…!!大統領…ご無事で!?≫」


それは将に色で言えば、真っ赤な映像。モニターを見る限り、赤、赤、赤。真っ赤な絨毯を思わせるほどにその映像内で床に倒れている人だったであろう者。その中で唯一動いていた2つの影。1つは大統領と呼ばれた普通の人間と、もう一つは胸部の殆んどが穴が開いた状態のままでこちら(カメラ)を振り返る、異形と成した元人間だったであろうモノ。
この短い映像を見ただけでも明らかに後者が暴れ回ったのであろう事が伺える。そして、狙われていたのが人界(アチラ)の大統領だということも。最終的に、胸をごっそりと持って行かれたその異形のモノが床に崩れ落ち、大統領と呼ばれた男の元に駆け寄る何人もの人が映って映像は終わった。


「…"外"じゃねえか、これ」

「その通りよクソモンキー」

「クソモンキーとか一個一個入れるな、丁寧か」

『しかしまた早速だね。ジジイ共の面目丸潰れも良いトコ』

「いや、これはむしろ穴を開けた連中が凄い。相当な厄ネタだ。とっとと塞がないと取り返しのつかない事になるぞ」


あの偏執狂どもを差し置いて、此処まで浸食させるとは。最早薬を出回らせている連中の方が一枚上手だということだ。なら、その元を断たない限り薬は出回り続ける。警察が動くのなんて待ってられない。況してや、もう上の大統領まで危険が及んでいる所まできているのだ。いつ大統領交代の事態に陥っても可笑しくない事態にまでなっている。下手をすれば、世界がひっくり返るような事態にまで発展しかねない。これは時間の問題だ。


「取り敢えずチェインは暴力団関係者を」

「はい」

「ザップはその血を分析班に回し、プッシャー周りを洗ってくれ」

「ウース」

「シュタインはバック周辺から」

『…はいよ』


バック、というのはバックストリートの事。所謂、裏道とか裏路地とか…まぁそんな感じの通りの事を私たちはそう呼んでいる。結構な情報屋やら色々な専門家が居るその場所なら何らかの情報も手に入るかもしれないが……嗚呼、やっぱり私も出なきゃダメか。なんて思いつつもスティーブンの言葉に従う。何たって私もライブラの一員だ。世界の危機に動かない訳には行かない。


「それでいいかい?クラウス―――」


スティーブンが事務所の奥にあるデスクを振り返る。そう、ずっと前から1人静かにパソコンと睨めっこしているクラウスが、この空間には存在していた。声も発しない、反応も無い彼は最早気配を消していたと言っても可笑しくは無いが、一応リーダーに確認をと思ったスティーブが振り返ったその時、その場の誰もが言葉を失う。

ゴゴゴゴ…とまるで戦闘中の彼のように何とも言えない気迫を纏い、パソコンの画面を睨みつけている彼から重々しい空気が飛んでくる。体がミシミシと本当に微かではあるが軋む音がする。一体、何をしているのだろうと誰もが息を飲む中、クラウスの目は輝いていた。


「…見事だ…ヤマカワさん…!!投了です…!!」

『(…あ、またあのゲームやってる)』


ヤマカワさん?誰?と首を傾げる周りに対し、シュタインは素直に納得した。パソコンからゲーム終了の音楽が流れ始め、周りも彼がパソコンでゲームをしていた事に気づいた様子で拍子抜けしていた。あんな気迫で画面を睨みつけていれば誰だってゲームだとは思わないだろう。ええっと、確か、プロスフェアーとか言ってたっけな。それなりに世界的にも有名なゲームらしくネット上で対戦が出来るのだよと先日クラウスが嬉しそうに話していたのを聞いた気がする。

クイクイ


「ん?」


誰もが拍子抜けしていたそんな時、ザップの袖を何かが引っ張った。先日の事件で仲良くなった音速猿のソニック(レオナルド命名)だ。言葉を話す訳でも無いソニックが、ジーッとザップを見つめている。その大きな瞳はうるうるとうるおい、今にも泣き出しそうな勢いである。が、ザップはソニックが何を伝えようとしているのか理解できず首を傾げているだけなので、シュタインは溜め息交じりに彼に教えてあげた。


『そろそろ"退いて"あげたら?ザップ』

「…あぁっ!!そうか!!しまった…!!」


やれやれとシュタインが腰かけていた椅子から立ち上がると同時に、ザップもようやく腰を上げた。皆ずっと忘れていたであろうが、ザップの尻の下敷きになっていたレオナルドの事をソニックは訴えていたのだ。
最初こそ抵抗していたレオナルドだったが、かなりの時間が経ってしまった為かまるで死んだようにぐったりとソファに伸びている。慌てるザップを余所に「随時連絡を取るように。解散!」と指示を送るスティーブンに「それでは後程」と静かに消えるチェイン。未だ余韻に浸っているクラウスを横目に「お気をつけていってらっしゃいませ」と微笑みながら用意してくれたギルベルトさんから、シュタインも上着を受け取って動き出す。


「お!!やベーこれ息してねえぞおい」

『あーあ』

「おい!ツギハギ女!なんとかならねえか?!!」

『しーらない、っと』


さっさとザップも自分の仕事しなよ、なんて言い捨てて事務所を後にする。後ろでレオナルドがまるで動かない事に柄に無く慌てふためいているザップの声と共に、「……全く何と素晴らしい一局だったことか…!!」「夢中か!!つか余韻か!!」とクラウスに突っ込みを入れるザップの声が響くのを聞きながら外へと向かった。





×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -